mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

成長も衰退も目に見える

2017-08-17 14:21:24 | 日記
 
 三日間の霧ヶ峰を過ごして帰ってきた。帰って来てみると、さいたまも涼しいではないか。「16日間連続の雨」と、記録二番目を喧伝している。なんだ、こちらも雨だったのかと、連日雨模様の霧ヶ峰の天気を赦す気になった。
 14日の霧ヶ峰は雲がかかる。それでも八島湿原から車山のレーダードームが見える。エゾノカワラナデシコ、ヨツバヒヨドリ、コオニユリなど湿原の花々はお湿りに生き生きとしている。塩尻駅で出逢ったいとこ同士の孫たちは、もうすっかりご機嫌のおしゃべりに興じて、湿原へ繰り出す。9歳から13歳までの孫4人の脚は速い。爺婆は、置いて行かれる。孫たちの父母が付き添うから心配はしないが、去年の秋にはこうではなかったと、成長の速さと衰退の着実さを、対比的に思い浮かべる。ま、それでいいのだ、が……。
 
 ハクサンフウロばかりか、タチフウロやアサマフウロが群居する。点在するマツムシソウの落ち着いた薄青色、オミナエシの黄色、ノリウツギの白、ヤナギランの赤紫、ツリガネニンジンの青い花が草の匂いに満ち満ちた緑の海の中に彩を添える。ホオアカが小さな木立に止まって鳴いている。爺婆は八島湿原の気配に身を浸すようにゆっくりと歩く。男孫たちが爺婆を気遣って待っている。女孫たちはトイレへ行くと言って先へ行ってしまった、と。
 
 ヨツバヒヨドリに大きな蝶が羽を休めている。通りかかった中高年が「大きな蝶がいるよ」と、連れ合いに話しかけている。孫が「アサギマダラだよ」と声をあげる。「へえ、名前を知ってるんだ」と中高年。「そうだよ、渡りをする蝶だよ」と、ここへ来るたびに聞かされた話を披露している。
 
 御射山をめぐって、出発点に戻った。先行していた孫たちは、出発点への登り口を見損なって、もうひと廻りするかのように八島湿原の木道を行ってしまった。どこかで、二回り目だと気づいたのであろう。ひきかえしてきた。身体もしっかりしてきた。13歳孫は170センチを軽く超えている。9歳孫娘も歩くことにかけては遜色がない。孫の親たちは40歳代だから、いまもっとも体力がある時期だ。爺婆だけが、「ついていけない」と思いはじめた。ま、自然の摂理ってものだろう。
 
 二日目の午前中、昨日よりも濃い霧に包まれる。最初から雨着の上下を着用し、鷲ヶ峰を往復してくることにした。孫たちが先行する。ところどころで待っては、また先行する。孫たちは暑いからと半袖になる。そうかなあと、年寄りは雨着を着たまんま。がれ場を上り、草木がかぶさるような道の露払いをして、待っているが、見晴らしはまったくない。鷲ヶ峰の山頂まで、1時間で着いた。去年までは1時間半以上かかっていたと思う。はじめて上ろうとした数年前は、山頂まで行けなかったように思う。目につくコトゴトを口にしながら、孫たちは疲れ知らずになった。婆ちゃんが用意したお菓子を取り出して、登頂祝いをしている。山頂の「眺望表示石」をみて、13歳孫が「槍ヶ岳はどこ?」「富士山どこ?」と探す。あった。「オレ、どっちも登ったんやで」と得意そうだ。「11歳孫が、ボクも行ける?」と父親の顔を見る。13歳孫が「オレも一緒に行ってあげる」と先輩風を吹かしている。
 
 往復2時間半くらいであった。午後から本降りになった。車山へ行くのをやめて、乗馬を楽しんですませた。孫たちは宿に入ってからも、いろいろなゲームを出して遊んでいる。「じいちゃんもやろう」と、ブロックスという新しいゲームを教えてくれる。最大四人が隅からブロックを並べて、全部並び終えるかどうかを競う。なかなか智恵を働かせる仕掛け。ブロックを繋ぐ「かど」の数と、その出方を考えさせる。孫たちはどうやってでも、遊びつくす方法を知っていると言わんばかりだ。
 
 最終日も雨。朝食後チェックアウトするまでの合間に、1時間半ほど静かな湿原を歩いた。半数の孫は部屋でゲームに夢中だ。雨着はいるかどうかという軽い雨。カミサンに教わりながら、花を見て歩く。雨に濡れて花に着いた花はひときわ鮮烈になる。ハバヤマボクチの緑色の、棘のように見える花びら先の露がうつくしい。蜘蛛の糸に露がついて鮮やかな工作のかたちをくっきりと見せる。バックの緑や霧がかかった八島湿原もよかった。シラヤマギクもフシグロセンノウもチダケサシも、なるほど名前の由来がわかるようで、面白い。同行した9歳孫の母親への甘え方も、10歳孫娘と違って母子関係の違いを見せていた。
 
 歩くばかりでなく、食事の仕方にも家族」の違いが現れる。子どもは子どもとの関係で育つが、親との関係で育まれる。それぞれに成長を感じさせ、内面への糸口を見せてくれたようだった。年寄りは内面が成熟していくと思えばいいが、熟しきって、後は爛熟するか腐朽するか、要するに、腐りはじめる。涸れるには、生身が邪魔。腐るのは生きている証。いずれにせよ衰退の兆候がうちにも外にも満ち満ちて、バトンを渡し終わったような気がしていた

別荘のようなところでの静養?

2017-08-13 20:44:28 | 日記
 
 と言って私が「別荘」を持っているわけではない。「別荘のように使える馴染のペンションがある」だけだ。息子の知り合い。南極料理人のご主人がつくってくれるフランス料理に舌鼓を打ち、信州ワインを味わい、近くの八島湿原や車山などを散策して、のんびり過ごす。年に一回は出かける。もう十何年通い続けている。息子一家と合流する。ときに娘の家族が加わる。つまり、我が家の一族が顔を合わせる機会になる。
 
 思えば私たちは、結婚してから何十年もよく、盆と暮れには実家に帰ったものだ。「そりゃあ、親がいたからよ」とカミサンは言う。だが、私らが「規制」していたころの実家は、抜け出してきた「ふるさと」であった。遠くから見ているから、盆と暮れには帰る。実家で親の世話をしている兄弟とその嫁さんたちにはたまらない苦痛であったかもしれないと、はるか昔を振り返って思う。わるかったね。わずかの手土産で姪甥まで連れてやってきて、何日も滞在する。しかも父母は、日ごろ顔を突き合わせている息子や嫁よりも、遠くにありて思う「かんけい」の息子や嫁の方が、なんとなくよく見える。丁重にもてなす。翻って、日頃の愚痴もこぼれて、同居の嫁を悪くいう。いくつもの小説の材料になったように、親の心もちというのは、あまり変わりがない。ほんとうに悪かったね。とっくに親はなくなっているが、想い起すたびに、兄弟や嫁さんに詫びねばならない気分になる。
 
 さてわが身が老親になってみると、やはり遠くにいる子供たちが孫を連れて帰ってきたり、孫が一人で訪ねてきたりするのが、夏休みや冬休みの季節だよりになった。孫たちも、小学生のあいだは爺婆とつきあってくれる。同居している子どもがいるわけではないから、食事や遊びの世話はもっぱら婆であるカミサンの担当になる。むろん私が、何もしないわけではないが、カミサン婆の指示に従って、現場の付き添い担当である。だがこうしてみると、子どもが親を気遣うということがないと、つくづく思う。育て方が悪かったのか、そういうものなのか、断定もできない。私自身がどう振る舞っていたかを思い起こすと、親のことを気遣って立ち居振る舞いをした覚えがないのだ。やはりもう彼岸にいる両親に、わるかったなあと詫びるような気持になる。今さら詫びても取り返しはつかないから、代わりに、わが子にも何も言わない。
 
 そうこうするうちに、別荘のようなところで過ごすことが恒例になった。孫の一番上は、もう大学生になったから、もっぱらそちらの方で懸命である。かろうじて中学生の孫が付き合って顔を出す。あとの三人は小学生だから、親も同伴でホクホクしている。こうして、彼らも遠くに離れて暮らしているいとこ同士が、顔を合わせて一緒に過ごすのも、爺婆の介錯がなくては実現しないから、彼らが足を運んでくる間は、そして、こちらが脚を運んで行ける間は、年中行事にしておこうというわけである。
 
 「静養」と言った。二家族の孫たちが大きくなると、爺婆はいてもいなくても「場」が盛り上がる。つまり「介錯」と言っても、別荘のようなところに足を運ぶ「大義名分」だから、中身は何もない方が、孫たちにはよい。近くにいて、みているだけ。湿原や山もあるが、山歩きというほどは歩かない。せいぜい子ども脚で4時間程度だから、「静養」といったのだ。さて本が読めたり、PCをいじったりできるかどうか。
 
 明日から二泊三日で「静養」に出かけてきます。しばらく、また、このブログ、お休みです。ではでは。

対立軸を前提にすると、それをすり抜けてきたのか、私たちは。

2017-08-12 16:18:14 | 日記
 
亀田達也『モラルの起源』(岩波新書、2017年)に「進化ゲームでみる倫理の衝突」という節で紹介している「実験」があります。
 
《進化ゲームとは、さまざまな行動を「戦略」として定式化したうえで対戦させ、ほかと比べて利益の上がる戦略が次第に集団で増えていくという、生物進化とのアナロジーから集団のダイナミクスを調べようとするアプローチです》
 アメリカのジャーナリスト、ジェイコブズの仕分けた二つの体系「市場の倫理」と「統治の倫理」と同様に、「商人道」と「武士道」を設定。それぞれの規範にしたがってふるまうプレイヤーと誰に対しても非協力に振る舞う「社会的寄生者」の三種類が多数いると考え、
 
「それぞれのプレイヤーはほかのプレイヤーとランダムにペアにされ、相手に協力するか裏切るかを決定するゲームを、いろいろな相手との組み合わせで多数回行います。相手から協力されれば利益を得ることができます。自分が協力するのにはコストがかか(る)」
 
 というゲーム。経済学者の松尾匡教授、生物学者の巌佐庸教授らのグループが行った、ジェイコブズの議論の一部を検証する実験なのですが、その仔細は省きますが、その結論部分で次のようにまとめています。
 
《武士道プレイヤーでも商人道プレイヤーでも、それぞれが大多数を占める集団では、安定して高い協力レベルを維持することができる。言い換えると、商人道、武士道ともに、秩序問題を解き「平和で安定した協力関係」をそれぞれ築くことが可能だという結果です。しかし、両者が入り混じった状態は安定ではありません。……誰も協力市内社会的寄生者が一〇〇%の集団に次第に収束してしまいます。/倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できるのに、二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が崩れてしまう、という結果はとても示唆的です》
 
 この結論部分を見て、私はつい、笑ってしまいました。亀田達也が何を考えながら「示唆的」と言ったのかわかりませんが、私が笑ったのは、安倍首相を想いうかべたからです。安倍首相の頭のなかは、日本会議の主潮流がそうであるように、「武士道」を志向しています。だが彼の身は間違いなく「市場」におかれ、経済政策は「商人道」を模索しているのです。つまり、彼自身の内部で「二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が崩れてしまう」という事態が、発生しているのですね。冒頭の「実験」で措定した「商人道」のあとには(内集団びいきをせず、外部のメンバーとも等しくつきあうことを奨励)と補足があり、「武士道」のあとには(外部と協力することは望ましくない)と補足がありました。この両者を読み比べてみてください。それと、亀田の結論部分のまとめを読むと、今回の、もり、かけの問題が浮き彫りになり、内閣の答弁自体がちぐはぐになって齟齬している様子が明らかにされているようです。
 
 もう一つ、想いうかべたことがあります。中東の「民主化」を武力侵攻の「大義」のひとつに、アメリカもヨーロッパもかかげていたのですが、上記の「実験」の結果を読むと、どちらであっても「倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できるのに」、「民主的でなければならない」というのは、そもそも社会の倫理をひとつにすることを否定することなのでした。「自由」を実現するために「社会的な協力関係=共同性」を壊すことは、はたしてどれほどの正統性というか、妥当性をもつものでしょうか。ジェイコブズの指摘が中東を視界に入れていたのかどうかはわかりませんが、「倫理が一つであれば」というのを結論に導き出すようでは、まだ「脳科学のモラル探索」はリアリティにほど遠いと言わねばなりません。
 
 ですが、こうもみることができます。父子ブッシュやクリントン、オバマの世界戦略は「市場の倫理」で世界を一つにすることであったが、それには、市場原理の導き出している「格差」を克服して、現在、悲惨・不利な状況におかれている人々や国々を、同じステージに乗せなければならない。その困難さに気が遠くなって、とりあえず「自由」だけでも世界的に斉一化しようとした、と。それならば、秩序が破壊され、混沌が生まれたことは、「自由の実現」と言わねばなりません。でもねえ、誰にとっての自由なのか、考えてみたことありますか?
 
 もちろん亀田達也の紹介は、現政権をからかうためではありませんし、世界情勢の口を挟むためでもありません。しかし、この「実験」を元にしてのちに亀田は「格差を嫌うヒトの脳」という節をおいて、こう記しています。
《興味深いことに、人を対象とする脳イメージング実験から、自分と相手のあいだの不平等が改善される(格差が減る)と、腹側線条体(ventral striatum)などの「報酬系」とよばれる脳部位が賦活する(「快」と感じられる)ことがわかっています。しかも、その不平等が自分にとって不利だった場合だけでなく、有利だった場合でも働くことが明らかになっています》
 
 つまり、ある種の「公正さ」の感覚が、私たちの身体部位に埋め込まれている、ということなのです。そしてこう続けます。
 
《このように、良い意味でも悪い意味でも、他者との比較をつい行ってしまうヒトの(そしてヒト以外の霊長類やほかの哺乳類の一部にも共通する)敏感な性質は、「心の社会性」の根幹部分に位置しています。こうした心性は、分配の正義を考えるうえで見逃すことのできない基礎的な事実と言えるでしょう》
 
 高度な消費社会に身を置いて、勝手放題なことを行っている自分に、ときどき嫌気がさすこともあります。ですが、こうして「公正さ」の感覚は身に埋め込まれている「心の社会性」の根幹部分と位置づけられると、単にわが幼少時からの、ご先祖からの伝承というだけでなくて、人類史に連なる感性ということができて、じつはホッとしていたりするのです。
 
 ともあれ、戦後の日本人が二つの対立軸の「商人道」の方にだけ身を寄せ、その結果、高度な消費社会を実現したことは、「武士道」の方をアメリカに預けてしまっていたことは別として、幸いであったと振り返らねばなりません。そうして今、「武士道」の方をどうすんのよと(アメリカと北朝鮮から)詰め寄られています。さて、そろそろ武士道の方に鞍替えするのだとなると、「商人道」の方をどうするのかというよりも、鞍替えするくらいなら「社会的寄生者」に喜んでなろうという気分を、どこかで抑制しなければなりません。そのためには、やはり、「あの戦争を国家として総括する」ことをくぐらなければならないと思うのですが、できるでしょうかね。

「山の日」という非日常に思う

2017-08-11 16:33:05 | 日記
 
 今日は「山の日」。去年から祝日になった。だから私は、お休み。若い人たちの邪魔をしたくない。国の施策に踊らされたくもない。加えてこれ以上、非日常を増やしたくない。海の日もあるから山の日もというのなら、空の日も水の日も設けなくてはならない。つまり、天然自然に思いをはせその恵みに感謝するのなら、というほどの意味で私はそう考える。もちろん山の日を設けた方は、お盆とつなげて皆さんが遊びに出ることを奨励し、少しでも景気浮揚に貢献したいという「ねらい」であろうから、自然への感謝も何もあったものじゃない。幸いにも今日は朝から低い雲がかかり、涼しい。昨日までの暑さがちょっと治まって、家でゴロゴロしているのにちょうど良い。静かな日常が戻って来たみたいだ。
 
 毎日がお祭りというような高度消費社会において、私たちは日常を忘れている。日常というのは、日々一つひとつ丹念にわが身を保つことに必要な営みを執り行うこと。振り返ってみると、ここへ来るまでにずいぶんといろいろなことを、他人に預け、やってもらい、その扶けを借りてこなしてきた。そうしていまや、自分で行えることがほとんどなくなってしまっている。そのことに最初に気づいたのは、定年退職したときだった。さてどう生きようか。そう考えたとき、ある先輩が「結局、得意技で生きるしかない」とサジェストしてくれた。そうか得意技かと我が身を振り返ってみたとき、私が四十年ちかく続けてきた仕事の技(おしゃべり)は、「場」を離れてしまえばほとんど無用の長物であった。おしゃべりが技になるのは「場」が保証していたのだ。つまり私が「得意」としてきた技は、「場」の変換に連れて変換されなくては役に立たなかった。結局おしゃべりは、「ひぐらしパソコンにむかひいて、こころにうかびくるよしなしごとを」つづるブログになり、月一回の「ささらほうさら」とふた月に一回の「aAg seminar」になっている。いずれも老人会といわれてもしかたがない「場」である。
 
 あるいはこうも言えようか。長年仕事と並行して(時には仕事の中で)山歩きをつづけてきた。これも私の得意技と言えば言えた。だが、山仲間はそれぞれに仕事をもって彼らのペースで歩いている。私より高齢の、すでに退職した山仲間から声をかけられて、海外の山へいくことを十年ほど続けた。あるいは依頼されてあるカルチャーセンターの「山案内」を主宰するのも70歳まで続いた。これは自分で「場」を設けたわけではないが、ネットワークが作動して得意技を活かすことができた。だが、そこまで。山仲間は歳をとる。だんだん同行することができなくなる。今度は自前でネットワークを作らねばならなくなった。
 
 幸い、カルチャーセンターに参加していた人たちの希望もあって、「山の会」をつくった。それ以来、私の企画で月に一回、会員それぞれの企画で月に一回、都合、月に二回の山行をつづけてきている。そういう意味では、私の単独行は、他に月二回程度になり、若い人たちを騒がせなくてよいように、週日に歩くようにしている。それが五年も続くと、そのような日常が身についてくる。
 
 考えてみると、いずれも「外交活動」として「かたち」をとることで、「何をしている」という表現におさまる。もしこれが形を成さなければ、企画倒れの商品計画のようになって、宙に舞うであろう。そうか、そういう意味では、私にとってはネットワークが、もののかたちではないが「かたち」なのだ。お百姓さんが作物を育ててご近所に配るように、私はネットワークを育てる、あるいは育てられる。その相互依存関係は、必ずしも(商品交換というかたちに)金銭を介在させて相互(依存)関係を構成するというのではないが、自分の、おしゃべりとか山歩きという「作物」を相互にやり取りしている「かんけい」だということができる。
 
 定年後の、はてどう生きようかと思案していたことが、十五年経ってみると、こんな「かたち」になっている。得意技でやって来たというよりも、こうやって来たことを振り返ると、これが得意技であったとみてとることができる。「日常」って、そのようにわが身の評価を見定める、今の瞬間のことなのかもしれない。「山の日」にそんなことを思う。

スウィングする苦悩

2017-08-10 13:56:27 | 日記
 
 ドロシー・ベイカー『Young Man with a Horn――あるジャズエイジの伝説』(諸岡敏行訳、青土社、2001年)を手に取った。図書館の「新着図書」の棚にあった小説。後で発行年を知って、どうしてこんなに年数を経て? と思ったもの。しかも、初版本だ。原作は1938年に発行されている。
 
 時代は1920年から1930年、禁酒法時代のアメリカ。狂騒の時代とかフォードの大衆車生産が勢いを持った時代でした。ある種の伝統破壊が流行したこともあって、音楽の世界ではルイ・アームストロングなど、黒人の即興の、コールアンドレスポンスとも言われるモダンジャズのはしりが盛んになって、のちにジャズエイジと呼ばれた時代でした。
 この小説の主人公、リック・マーティンは、誕生と引き換えに母を失い、その直後に父親が(生まれたばかりの乳児を従弟妹に預けて)消えてしまうという運命を背負って成長した白人の少年。まだ人種差別的な視線が社会的に厳しいなかで、教会に潜り込んでピアノを独習し、(黒人たちが主流の)ジャズに魅せられて、ピアノを本格的に教わり、この本でHornと称されるトランペットを演奏するようになって、ミューズの神との触れ合いに心を奪われていき、30歳前に人生が終わる青年の物語である。
 
 
 一昨日とりあげた映画『静かなる情熱』の詩人、エミリ・ディキンスンと同じく、芸術的衝動に囚われ、己の内奥の趣くままに己のすべてを投入する姿は感動的である。だが、ディキンスンとは百八十度違う世界とのかかわり方をしている。上流階級の出身どころか下層市民としての家族ももたない。したがって友人たるものが黒人の、バイトの同僚。楽器はもちろん買えないから、人気のないときの教会に密かに入り込んでピアノを弾く。ある切っ掛けから(禁酒法時代の)溜まり場のジャズバンドと出逢って、彼らに才能を見出され、かつ、教わってはじけていくリックの内奥の衝動は、まさにミューズの神にみそめられて囚われていくように見事に描き出されている。たぶん、この諸岡敏行という訳者の腕がいいのであろう。今からいえば90年も前の時代を描いているにもかかわらず、現代のモダンジャズのスウィングが行間に浮かび上がる。まさにリックが、状況と、仲間内と、時代とスウィングするように殻が取り払われ、スウィングそのものがリックだと言えるほどに、彼を満たす。しかも彼は、自分の関わるバンドやそのリーダーとの誠実な関係を崩そうとしない。ことばにはなっていないけれども、リック自身の、自らの生い立ちに対する社会的な寄与の多大さに畏敬の念を持っているがゆえに、いつも控えめに応対する。けっして、意のままにならない「環境」を謗るようなことはしない。
 
 その短命な暗転は、読んでいただくのがいいと思うが、一昨日観た映画の、昔懐かしい「オマージュ」という魂の古くささく比べたら、まさにリックの魂が「永遠」を手に入れてわが身に戻ってきたような錯覚を味わうことができた。面白かった。