mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

岩稜とお花畑の薬師岳と早池峰山(1)

2017-07-27 17:13:43 | 日記
 
 花の百名山「薬師岳と早池峰山」に行ってきた。宮城や福島地方に大雨洪水警報が出ていたのに、週間予報では「降水確率80%」であった25日の岩手・早池峰方面は「曇り晴、降水確率10%」とよくなった。前線が下に下がってそれまで大雨であった岩手秋田地方が好天に変わった。
 
 新花巻駅に下車しレンタカー2台に分乗して、一路「早池峰神社」へ。そこから5kmほど先の登山口に向かう。naviに頼りっぱなしだから、どちらへ向かって走っているのかもわからない。青々とした水田が広がる。やがて山間の道になり、早池峰ダムの脇を通って民家もまばらに点在する集落をへて、細い一本道に入り込む。ところどころに待避所を設えた登山口への道は、土日には一般者の通行が禁じられ、集落手前でシャトルバス乗り換える。だが平日とあって河原の坊駐車場まで乗り入れる。10時半前に着く。ビジターセンターがあり、トイレがある。ほんの数台の車しか止まっていない。標高は1050m。
 
 ここから早池峰山へ直登するルートは、昨年の大雨でルートが壊れ、通れない。いかにも厳しく禁じているかを表すようにテープを張り巡らし、「通行止のお知らせ」と大書してある。だからこの河原の坊から小田越1246mまで広い舗装路を歩く。車は峠を越えて抜けているが、小田越の峠に車は置けない。昨日の雨の降り様を示すように空気はじっとり湿っている。空の雲もうっすらと全面を覆うようにかかり、ときどき雲が切れて早池峰山の山頂稜線部が垣間見える。ダケカンバやブナなどの樹高が、はじめ高くやがて上るにつれて低くなっている。わずか標高差200mほどを登るだけでこれだけの違いがある。積雪が厳しいということなのだろうか。
 
 小田越には40分ほどで着く。ちょっと早すぎるかなと思うが、皆さんの元気にはほとんど影響がない。一人ベンチで休んでいる人がいるだけ。大きな建物があるがそちらにも人影は見えない。薬師岳の方へ踏み込む。11時25分。この薬師岳は「花の百名山」として早池峰山と並んでとりあげられている。小田越を挟んで早池峰山と双璧をなすように立つというから、まず今日は薬師岳の山頂から明日の目標山を眺めてみようと考えたわけだ。早池峰山と違う岩質をもっていて、小田越から往復3時間くらいの行程。両側はびっしりと広葉樹がかぶさるように生えている。その間を縫うように木道が走る。すれ違えるくらいの広さがあるところをみると、土日にはそれなりに人が来るのかもしれない。
 
 やがて上りになるが、急峻というほどではない。「大きな岩の登りがある」とコース説明を読んで心配そうな声も聞こえるが、まだまだそんな心配をする必要はない。500mおきくらいだろうか、ところどころにドラム缶をつるし、それを叩く棒も吊り下げてある。熊除けなのだろう。がんがんと先頭の方が叩く。あとからまたがんがんと鳴る。これで、前後の離れ具合もわかる。皆さんのおしゃべりの声が途切れない。樹林の合間からときどき、向かいの早池峰山の山頂部の雲が切れて姿をみせるが、すぐにまた雲間に隠れる。「←小田越0.7km、薬師岳山頂0.8km→」と標識がある。少し広くなった辺りに腰を掛けて、お昼にする。食べていると上から二人連れが降りてきた。早池峰山と薬師岳の両方を登って今下山しているところだそうだ。地元の人なのだろう。薬師岳をひとめぐりするルートがあったのを、私たちと逆に回っているのだろうか。そう聞くと、いや、向こうの道は荒れて通らないように通行禁止になっている。このルートを往復した方がよいと、忠告してくれる。彼らが通る道を開けたついでに、出かける用意がすすむ。「えっ? もう行くんですか。まだ十五分しか経っていないですよ」と声が上がる。「イヤ急ぎませんよ」というが、起ちあがったついでで、皆さん行く態勢になってしまう。
 
 その先に梯子があり、大きな岩を乗っ越す。岩の間をくぐるようにしながら身を持ちあげる。「あっ、ヒカリゴケがある」という声に脚を止め、岩の間をのぞき込む。さらにその先が森林限界というか、ハイマツやシャクナゲ、ナナカマドやカエデの低木になり、岩のある斜面を右へ左へ屈曲しながら登る。ハイマツのあいだからにょきっと起ちあがる稜線上の大岩にたどり着く。「←薬師岳0.3km」とある。東の方に山頂らしきピークが見える。しかしそれも、雲がかかり、くっきりとみえるわけではない。13時15分山頂に着く。小田越から1時間50分、お昼をのぞくとほぼコースタイムで歩いている。山頂先の分岐にはぐるりと回って小田越山荘へ降るルートもあるが、「通行禁止」の表示が掛けられている。向こうにも大岩が積み重なり、それが雲の中にあって、そこに立つといかにも高山の岩稜に身を置いている気配が湧きたつ。じゃあそちらに行くから写真を撮ってと何人かが行く。雲に入り姿が見えなくなったりしながら、何枚かを冥途の土産にと、撮ってもらう。20分余をここで過ごし、下山にかかる。
 
 やはり下りは身体の疲れがラクだ。梯子を過ぎるまではと私が先頭を歩いたが、難なく、最高齢者もついて降りてくる。ワイワイ言いながら梯子を降り、すでに花の終わったオサバグサの、シダのような葉の群落をあれこれ立ち止まっては評定している。15時、小田越降り立ち、さらに25分舗装路を歩いて河原の坊の駐車場に着いた。当初の行程表に予定した通りのペースであった。
 
 今日の宿、ホテル・ベルンドルフへ向かう。風呂をつかう。大きな湯舟に熱い湯がたっぷりと注いでいる。しかし、火曜日はこのホテルのレストランの休日。「近所に居酒屋とかラーメン屋があるから」と言われていたが、歩いていくには居酒屋は遠い。なんとも田舎なのだ。近くのラーメン屋は親切に応対してくれたが、ラーメンしか出せない、という。kwrさんの発案で、ご近所のコンビニに買い出しに行って、持ち帰って談話室で宴会にしようと決まる。車を一台だし、msさんokdさんkwrさんとかける。さすがにmsさんは食品売り場の経験が長かったせいでか、手際よくさかさかと篭に放り込む。ビールや地元産のワインも仕入れたが、お腹が減っているときに行ったものだから、こんなに食べられるかというほど買い込んでしまった。
 
 持ち帰って「まるでキャンプみたい」という声を耳にしながら、ビールで乾杯する。食べながら飲みながら、「今年度後半の山行計画」を話し合う。「そもそも何のための日和見山歩だったのか」とkwmさんに問い詰められる。要するに、「簡単に行ける山」なのか「自分たちで計画する山なのか」と。stさんが「この人たちと行く山がいいんだから」と熱を込めて言う。いろいろと口を挟んで、修正する。山歩講の白馬岳も、行程を一部変更して、二日目の雪渓歩きを楽にしようと変更提案が出る。こうして、山の話をしているときが、一番うれしい。これで私が山を引退しても「山歩講」はつづくと思った。
 
 2時間半近くも「宴会」をやって、部屋に戻った。私はすぐに寝付いたから知らなかったが、9時半ころに地震があったそうだ。翌日そういわれて、あらためて3・11のことを思い出した。七周忌だ花巻は内陸部だからそうでもなかったのだろうが、岩手県全体では大変なことであった。(つづく)

混沌に持ち込めってこと? 第27回seminar報告(1)

2017-07-24 17:23:06 | 日記
 
 アロマテラピーが今回Seminarのお題。何でもテラピーと言えば「癒す効果」と考えるが、それが疲れをとり、ストレスを解消し、安眠に効果をもたらし、認知症の進行を防ぐとなると、ただ単に「癒す」というだけでなく、「健康にいい」と受け止めた。だからお題を「健康と香り」と大きく打ったのだが、どうも「アロマテラピー」というのは、ちょっそそこからずれるようにみえる。
 
 Seminarの案内は次のように前振りをしている。
 
*****「第27回aAg Seminarご案内」
 
 (前略)今月の講師は長く薬学の開発研究に携わってきたstさん(今も現職でそれに携わっている)。
 考えてみれば、人間の感官の中でも、舌と鼻は一番研究開発が遅れた分野のようです。舌がバカになるとか鼻がバカになるとはよく言いますが、目がバカになるとか耳がバカになるとは言いません。なぜかと言えば、目や耳の感官は、数値化することが早くからなされて、見えないとか聞こえないとか、近視とか難聴と呼ばれて差別化されて取り出されていました。放っておかれた舌や鼻――つまり味や香り、味覚や嗅覚は「うまい/まずい」「匂う/匂わない」という大雑把なくくりで放り出されていたわけです。いまは、「匂い」を数値化できるのでしょうか。
 「消臭」と銘打った薬剤がずいぶん出回っています。そういえば世の中は、ずいぶん清潔になり、汚いものや臭いものを排除してきました。私などは生まれも育ちも雑菌世代、戦後のとんでもない環境のなかで、雑菌まみれになっておい育ってきたのですが、そのせいで、結構病気にも強く、食中毒にも、そう簡単にはならないように思えます。世の中が清く正しく美しくなってきたせいで、「香り」が浮かび上がってきたのでしょうか。
 そこへ現在の研究の最先端のひとつ、「アロマテラピー」を健康に絡めて紹介してくれるというのが、今回のseminarです。以下のようなメールが(Seminar開催の前に)届いています。
 
《アロマと言えば ごく最近と思われますが 日本古来の香 というのもあり 匂いは密接に生活と関係あったのでしょう。/ただ アロマと呼ばれるものと香とでは、はっきりと違いはありますが。/匂い。英語で辞書を引くと、perfume、scent、fragrant、aroma、odour などあり、匂いには結構敏感だったのかと。匂いの感じ方は数値化しにくいと述べられていますが、感覚的にはむしろ敏感であろうかとおもいました。/1キロのバラの精油を作るために5トンのバラの花を要すること、精油を取るための樹木の伐採、成長の遅い木々はこのために消滅の危機にさらされていること。bright side  だけを見ることをせず、未来を見据えて何事も謙虚に向かい合いたいですね。 2017/7/10 mdr》
 
*****
 
 stさんは55枚のプレゼン用のシートを作成して用意していました。だが、プロジェクターの接続回線のアタッチメントが違っていたりして、彼女の用意したパソコンとつなぐことができず、結局それをプリントしたものを使って話をすすめることになりました。でもプロジェクターぬきで十分、意を通じることはできたように思えます。私たちはアナログ世代なんだと、つくづく(そして反省もなしに)安堵しつつ思ったものでした。
 55枚のシートは、大きく分けると四種類。

(1)香りがどう取り出され、何処にどう作用して、どのよう効果を及ぼすか。
(2)香りの種類を七分類し、それぞれが何から取り出され、どのような成分によって構成され、どんなことに用いられているか。
(3)香りの効用が、摂食量に及ぼす影響、体温に及ぼす効果、脳波のα波への影響など、グラフや画像。
(4)香道アロマテラピーの比較として、「お香」の種類、製法(抽出法)、リラクゼーション効果、ストレスホルモンの変化、鉄の還元力の変化などの検査結果。
 
 (2)~(4)はいずれも、どんどん専門領域に入るから、グラフの折れ線具合とか、高低比を感じるくらいしかわからない。専門家というのは、何だかむつかしいことにけんめいで、ほとんど夢の中なのかな。みているシートとシートの関連性にはそれなりの密接な関係性があるとわかるが、なぜそこに限定するのかが「世界」との関係でみてとれない。この専門家が(彼女の世界とどうかかわって)どうしてそこに囚われているのか。そのスタートのところが(私の)腑に落ちていないから、何だか(話から)取り残されたような気がしてくる。せっかく力を入れて話をしてくれているのに、ごめんなさい、だ。
 
 ふと正気に返るようにして、思う。「におい」って、「匂い」と「臭い」と二通りに表記すると思っていた。ところが「匂い/にほひ」は「いい香り」のことだ。「臭い」は「臭い/くさい」となって、いやなにおいのことを言うと、大野晋が「古典基礎語辞典」で解説している。stさんのシートの「香りの種類」が七分類しているのに対して、「くさいにおいはどこに入るの?」と聞いて「いや、いいにおいだけを分類しているのだが」と困ったような顔をして答えていたのは、まったく私のとんちんかんのせいでした。これも、ごめんなさい、だ。
 
 つまり、「におい」というとき、「いい/わるい」がまず別れるが、それ以上に較べようがない時代が長く続いたといえようか。味もそうだ。「うまい/まずい」がまず別れ、さらにどれほどうまいかが分節化されるのには、ずいぶんと時間がかかったということかもしれない。あるいはこうも言えようか。「におい」にはすぐ慣れる。鼻がバカになると、私たちはいう。味覚もまた、すぐ馴染む。まずいものを食べ続けていると、まずくても「まずい」と思わなくなる。うまいものを食べ続けているとうまいものも「うまい」と思わなくなるのだろうか。私には、これがわからない。食えれば十分、「うまい/まずい」はいうものではないと、誰にそう言われたわけでもないが、そう思って大きくなってきた。これには自信があるから、(私は)貧乏に強いと威張っている。舌がバカになると、これも言う。でも鼻ほど単純ではない。味覚というのは、「あまい/からい/にがい/すっぱい」という四味を基本にしているといわれる。ここの「からい」というのは塩味のことだ。それに「から(辛)い/しぶい」や発酵食品の味や「ねばり/とろみ」といった食感も「あじわい」の末端に並ぶ。となると、においも味わいの一部に含まれる。今回Seminarのお題からいえば、逆も言えるか。つまり、味覚も匂いの端末とどこかで連接している、と。
 
 となると、話しは変わるが、聴覚や視覚は、馴染む、慣れる、即ちバカになるということがないのだろうか。こちらだって、日ごろ見なれているものには違和感を覚えないってことがある。聞きなれていれば、パチンコ屋の騒音だってうるさいと思わなくなる。耳や眼もバカになることがあるに違いないのだが、そうは言わない。ということはたぶん、音や眼でみるものは、複雑に分節化されて表現されてきたにちがいない。つまり分節化というのは、科学的な探究の進展度合いではない。表現することばの数の多寡が分節化の度合いを示している。ことばが多いというのは、バカではないということか。ここまでくると、なるほどと、まず腑に落ちる。
 
 でもそう思ってみると、私たちはずいぶんと自分の感官に疎い。ヒトが目と耳とことばを発声するという意味での口を中心にして人生を渡ってきた。逆に言うと、目や耳が不自由であったり、口が利けなかったりすると、ずいぶんと不自由であったろう。差別も受けるがそれ以上に、人間社会の集団性に、ハンデを背負わされているようなものだ。
 
 まあ、このように分節化の周りを私はウロウロするばかりであったが、Seminarの最後にfjwrくんが「匂いって、それだけを取り出して健康にいいとか悪いとか言えるの?」と疑問を投じたのが、印象的であった。つまり、科学的な探究もそうだが、私たちはものごとを分けに分ける分節化に夢中になって、ついつい私たち(の健康)自身は、それらの総体を全体として受け止めて、身を整えているのではないか。眼も耳も、鼻も舌も、それらの源泉になるもろもろの自然と(人がつくった社会と)いう環境のすべてに囲まれて、生きているのだ。その、最後に総合化していることを忘れて、いったんだけを取り出して全体を考えても、いびつな考えしかでてこない。でもねえ、まずは分節化しないことには、ただの混沌しか感じることができないのだよ。
 
 fjwrくんは「混沌に持ち込め」と言っているのかもしれない。分けに分けてきた「現代」の人間世界を、細かく分節化して(その程度に応じて)人間をコトこまかく分節し、それに適応させるように社会の仕組みを組み立てる「アーキテクチャー」が大流行である。それは結局私たち人間を、タガにはめる作用をしている。いまこそ、よしてくれ、おれたちを分節化するのは、と叫んで混沌を見つめているのかもしれないと、考えるともなく思いながら、夜の十時半をすぎて帰宅したのでありました。

藪の中に持ち込めるか庶民の「常識」

2017-07-22 11:27:21 | 日記
 
 加計学園の獣医師学部の設置をめぐって、決定の2カ月も前に山本担当大臣が「加計の負担分も交えて獣医師会に知らせていた」ことがわかった。山本担当大臣は「獣医師会が自分の思惑で作成したもの、私は知らない」とほっかぶりをしている。
 
 だが私ら庶民の常識で言うと、どうなるか。政治家というのは自分の立場を守るために平気でウソをつく人種とみなしている。だが、獣医師というのが平気でうそをつく人種とみなす根拠は、あまり持っていない。ということは、山本大臣がどう言葉を並べようと、藪の中に持ち込もうとしていると読むのが、庶民感覚というもの。
 
 そういえば、森友問題もそうであった。これはどちらが嘘を言っているかわからないと庶民がみるのは、森友学園の籠池理事長という方が、教育勅語を幼稚園児に覚えさせたり、安倍首相がんばれと叫ばせたりするのを見ると、どうも眉唾物の人物ではないかとみているからだ。この眉唾度は、政治家の平気でうそをつくのと同じ穴の狢にみえるから、百万円寄付というのも、さてどちらがホントかわからないと、文字通り、眉に唾つけて聞いている。だが、森友の小学校の教育方針を礼賛し、副校長として名を貸していた安倍昭恵総理夫人が、ことが明るみに出るとすぐに副校長を辞退し、「なんでこればかり話題にするのかしら」と惚けて見せても、これを庶民は真に受けない。自分の立場を守るために嘘をつく政治家夫人と、受けとめる。庶民の常識からすると、政治家夫人が嘘をつかないという常識も、確立されていない。
 
 加計学園問題の、文科省所蔵文書との整合性でいえば、官僚が勝手に物語を制作して文書に残すというのは、庶民の常識にはない。彼らは、明治以前からそうであるが、ことに明治以降は、文書主義である。過つことなしという頑固な完璧主義は「大東亜戦争」において、国家全体を窮地に追い込んだが、その性癖は戦後も変わったように見えない。だから逆に、官僚たちをエリートとして認めても来た。少々裏工作をして天下りを謀っていても、細かいことにまでは文句をつけないというのが、庶民のエリート処遇法であった。だから文科省の文書が「嘘を書いている」とは思っていない。「憶えていない」とか、「言った覚えはない」という政治家たちの弁明が、明らかに庶民の常識からすると、いつもの手口に聞こえる。まして「怪文書」だとか「文科省のスパイ」みたいに(正規雇用の)官僚を謗るのは、一番悪質な政治家の逃げ口上だ。だから「政府を信用しない」という世論調査に現れる。
 
 そこへもってきて、陸上自衛隊の「日報問題」。陸自の幹部と事務次官が「いついつ何の会議で報告した」と記録を提出すれば、同席していた大臣が「聞いたことがない」と抗弁しても、これはもう、明々白々である。大臣は(陸自の幹部たちに謀られた)という結末に持ち込みたいのかもしれない。だが、そのような、ミステリーのようなことが自衛隊をめぐって起こっているのだとすると、クーデタの心配までしなければならなくなる。そもそも庶民は、質実剛健、文句も言わず身を削って働くものに同情的である。たぶん遺伝子的にも、刷り込まれているのではなかろうか。だから、いくら素人と言っても現職の防衛大臣が「誤魔化している」というのは、許容範囲を明らかに逸脱している。
 
 こうした庶民の「常識」に挑戦する意思をもって安倍政権はいろいろなことに挑んできたのであろうが、こうも、庶民の「常識」に違うコトゴトが露わになってきては、もう政治家としてのタテマエやホンネを使い分けて済ませるわけにはいかない。そこまで来ているという気配を私は感じるのだが、さて、世の中はどう見るのだろうか。 

地理院地図のルートが廃道になる

2017-07-21 09:48:46 | 日記
 
 冬のコースにどうだろうと、古峯神社から地蔵岳を歩いた。この地蔵岳には、すでに二度登っている。いずれも日光の細尾峠から。そのときは、稜線の末端という感じ、高くなっているほどでもない。そもそも山頂という風格がない、と思っていた。ところが古峯神社に近づいて地蔵岳の銘々由来に気づいた。神社の後ろに三角錐の山体を屹立させている。見事に守護神としての姿を見せる。な~るほど。
 
 8時半、車を古峯神社の駐車場に止める。すでに1台置いてある。どこへ行った人だろう。ひょっとすると、神社にお参りしているのかもしれない。あとで気づいたのが、山登り用の広い駐車場は、一段高いところにあった。こちらは100台くらいは止められそうだが、1台もない。陽ざしは強い。
 
 8:25歩きはじめる。駐車場から100mほどのところに、地蔵岳に通じる林道が、国土地理院地図にはある。ところが、入口には「関係者以外立ち入り禁止」の看板と両開きの柵様の扉。車が出入りしていた。私有地なのだろう。そこから300mほど古峰ヶ原峠に向かう車道を登ると「地蔵岳→」の標識があり、車止の向こうに石ころだらけの林道がつづいている。スギと広葉樹の背の高い林が両側に広がり、陽ざしは当たらない。天気予報は「曇り、午後関東北部は雷雨」とあった。たしかに雲は薄く広がっているが、空は明るく、樹林がありがたい。30分ほど歩いたところで林道が終わり、山道になる。標高は900m。いつしか沢に沿って登る道になっている。
 
 あとで気づいたのが、スマホのGPS表示がこの辺りでとまってしまった。これまでも何度かこういうことがあった。どうしたのかわからない。だが地図は表示されるし、別に国土地理院の地図と市販の地図ももっている。どうしてそんなに持っていくのか。じつは行者だけから古峯神社に下山するルートをとろうと考えていたのだが、国土地理院地図に表示されているそのルートが市販の地図「日光」には、古峰ヶ原峠に向かうルートしかない。「コースタイム」も記載されている。でもまあ、GPSとスマホの地図があればそれで十分とは思っていた。そのGPSがとまってしまったから、まいったなあと思いながら、登った。
 
 標高1000mを越えたあたりで沢と別れ、急な斜面の登降になる。古峯神社の標高が680mほど、稜線のハガタテ平が1281mだから標高差は約600m。10:00に着いた。1時間半、いいペースだ。いつしか樹林は広葉樹になり、針葉樹もカラマツが多くなる。涼しいし、静かだ。東へ地蔵岳の道をとる。標高差200m余を30分、山体を右へ左へとまわりながら高度を上げる。水平距離で600mの間に200m高度を上げるから、斜度は33%になる。屹立するように見えた地蔵岳の山体にとりついている実感が湧とく。山頂は、以前同様に穏やかで静かであった。ここでお昼はまだ早い。ハガタテ平に戻る。ここから登った道を降れば1時間半で登山口に着く。だが、稜線を歩いて、行者岳からの下山路を探ってみようと、西へ稜線上をたどる。国土地理院地図には標高しか記載されていないが、市販の地図には唐梨子山、大岩岳と山名が記されている。この地図に「金剛童子」とあったのをぼんやり憶えていたのが、災いした。大岩岳の手前で昼食にする。アップダウンは繰り返しあるが、くたびれるほどではない。大岩岳1310m着12時。ここからのルートは青々とした笹原と明るい広葉樹林に囲まれ、快適な稜線歩きになる。30分で行者岳1328mに着いた。
 
 さてここから、地理院地図のルートへ分け入る。12時半。いかにも「分け入る」というのにふさわしく、踏み跡はない。でも、進めばわかるだろうと入り込んだ。たしかにうっすらとそれらしき履み跡。だが200mもいかないうちにササラに覆われてしまう。GPSが止まっているから、自分で自分の位置を確認するしかない。山体が別れているあたりで、左へのルートをとる。地図上ではここからぐるりと回り込むように降るはずだが、その先が急傾斜面になって、踏み跡らしきものはすっかり消えてしまっている。もう一度分岐のところへ戻って直進してみる。こちらはササが少なく、枯葉が堆積している。らしき履み跡はあちらにもこちらにも見える。だが、こちらも急傾斜になってらしき踏み跡は完璧に消えている。こりゃあ駄目だと判断し、行者岳へ戻ることにする。戻っている途中でトラバースして古峰ヶ原への下山道に踏み込めばいいと思いつく。これが失敗であった。
 
 トラバースして明らかに登山道に出る。既視感がある。ふとこれは戻っているのではないかと脳裏をよぎる。天を見上げるがちょうど13時ころ、頭上に遭って樹林と薄曇りに遮られて定かにわからない。ままよと歩を進める。と、「金剛童子」の標識がある。(地図にあった)という確信が意を強くする。30分進めば(たぶん)古峰ヶ原峠の分岐に出ると思いつつすすむ。そして見事に30分経ったところで、「大岩山」の標識が眼前にあった。「えっ、もどったの?」という溜息が出る。見事に間違えて、30分戻ってしまった。そこから行者岳に引き返す途次のしんどかったこと。左足までが痛みはじめ、こりゃあたいへんだと負荷をかけないようにすると右脚が重くなる。這う這うの体で行者岳に再び戻る。13時50分。
 
 そこから30分で古峯神社のへの分岐がある鳥居に着き、標識に沿って神社への登山路をすすむ。並行して走る自動車道がときどき樹林に間にみえる。車道に出て古峰ヶ原峠の標識と古峰ヶ原への案内板が掲出されている地点を過ぎる。また車道を離れて登山道に戻る。そちらは古い石段や木製の階段がところどころにしつらえられ、苔生して滑りやすい。沢もわたる。古い石碑が立ち、その脇に「自然歩道」という標識が置かれている。車道はくねくねと大回りしているから、登山道の方が短いが、歩かれている様子はあまりない。古峯神社まで4.2kmとある。
 こうして15時半ころに駐車場に着いた。7時間の行動時間であった。

供養という自己認識のかたち

2017-07-19 15:52:10 | 日記
 
 「ささらほうさら」7月の話を締めくくりたい。自身の身を置く文化的なギャップに鬱屈を感じていたmsokさんは、『ハチロー伝』を書くことで、わが身の祖型である父親の鬱乎たる思いを晴らしたというのではない。じつはハチロー伝の後半の半分は、歳をとったハチローさんが事業でもそれなりの位置を占め、商工会や町内会でも名士の立場に置かれるようになる。受動的で引っ込み思案のハチローさん自身が変わっていくさまが描かれている。「比翼連理ではないが……」と考えられていた父母の関係も、信仰を介在させた社会的活動が功を奏して、ハチローさんの身の置き所が定まっていく様子が浮かび上がっている。msokさんは、そうして系譜をたどり、養子として十二代目となったハチローさんを中興の祖ではないかと評価する。大団円ではないか。
 
 なのになぜ、msokさんは「ハチローさんの鬱屈を晴らす」と言ったのか。
 
 ハチローさんが入院していたときの「看病」の様子が『ハチロー伝』の冒頭に出てくる。世話をする家族のものが「看病」という病気になると記しているほど、ハチローさんは拘束を嫌って暴れ、時と処を構わず大声を出して演説する。付き添っているものは振り回され閉口していたと克明に記録している。そのことが(たぶん)msokさんの、ハチローさんへの探索の入口になったのではないかと思われる。つまりmsokさんは、時間を遡行してハチローさんの末期の鬱屈が含みもつ「かんけい」をたどる旅に出た(と思われる)。そうすることによって、彼自身が封印してきた父親とのDNA的な継承類比と反発の関係を、まず一族という次元に戻し、さらにたどり返すことのできる350年の歴史関係に位置づけ、そうして再び、ハチローさんが生まれて後に歩いた航跡を日本や世界の現代史とともに視界に収めるという『ハチロー伝』は、じつは、msok自身が「何処から来て何処へ行くのか」という現実世界へのマッピングではないかと、強く感じる。
 
 そうしてふと思いが重なるのは、柳田国男の「先祖の話」。
 
 柳田国男が「家督をまもるというのは(文化を受け継ぎ)子孫後裔にも守護するという念慮」と書き記している。「先祖の話」の中で「愚者をたわけというのは、田を分けることが愚かなことだからなどと、冗談見たような一説もあった」と、百姓が田んぼを分けては生きていけない時代があったことによって「家督」の長子相続が合理性を持っていたこと、分家に田分けを禁じる申し合わせがあったことに触れ、ために親は隠居をする形で別の原野山林に移り住み、そこを開墾して、次男の家督とし次男の分家をインキョと呼ぶ例を示し、三男の分家をサンキョと呼んだ例も示している。そうして、「(わたしは)先祖になる」と柳田と同年齢の年寄りが静かに話したことを取り上げ、自分の代で懸命に働いて「家督」を築き子孫末裔に残そうとする「意思」を、いわば人生の意味のように位置づけている。これはハチローさんを「中興の祖」と呼ぶmsokさんの思いに通じる。もっともmsokさんは「子孫に美田を残さず」という点でハチローさんは立派であったと言っているから、「家督」がここではいわゆる金銭・不動産を意味していない。柳田国男も百姓にとって田という不動産が「家督」の一番大きな評価を得ていたと言いながらも、時代も変わり、商家では暖簾を分け、得意を引き継ぎ、信用を大事にするという「文化としての家督」を受け継ぐと、意味あいの幅を大きく広げている。
 
 でも、なぜ「先祖の話」なのか。じつは柳田国男がこの400字詰め原稿用紙にして300枚くらいの、この一文を書いたのは、昭和20年の4月上旬から5月のあいだ。しかしこれが出版されたのは戦争が終わってからであった。そしてその序文で、柳田は次のように書きつける。
 
《この度の超非常時局によって、国民の生活は底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。曾ては常人が口にすることさえ畏れていた死後の世界、霊魂はあるかないかの疑問、さては生者のこれに対する心の奥の感じと考え方等々、おおよそ国民の意思と愛情とを、縦に百代に亙って繋ぎ合わせていた絲筋のようなものが、突如としてすべての人生の表層に顕れ来ったのを、じっと見守っていった人もこの読者のあいだには多いのである。》
 
 これは「戦死者」をもつ人々のことである。むろん従軍して戦地で命を落としたものもいよう。空襲によって焼かれたものもいよう。あるいは沖縄のように戦場となってわけもわからないうちに死を迎えたものもいたに違いない。その死者に対して次のようにつづける。
 
《……此方の人たちは先祖は祭るべきもの、そうして自分たちの家で祭るのでなければ、何処でも他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々家々に伴うものと思っている……》
 
 つまり、死者は弔われねばならないが、誰が弔ってもいいというものではない。「先祖は必ず各々家々に伴うもの」と「死者の霊」の具体関係性を取り出す。家々についても柳田国男は遡ることに限定的である。聴き取り調査において「先祖の話」を尋ねたとき、源平藤橘に連なる始祖を先祖というのがただひとりだけ(六十何代というのが)いたが、わが家でしか知られていない先祖(古いのは二十何代、たいていは十五世か十八世)というのがいて、後者をここでいう「先祖」と限定している。後者のケースにあたるとして自らの出自にも詳しく触れている。
 
《人を神に崇めた各地の御社と、今では此点が明らかにちがっている》
 
 と言及するのが、何を意味しているか、もうお分かりであろう。つまり国家神道の祭りごととは一線を画して「先祖の霊」を家々の御霊として祭ることを主題にして、なぜそれが主題になるかを次のように語りだす。
 
《今ならば早く立派な人になれとでもいう代わりに、精出して学問をしてご先祖になりなさいと、少しも不吉な感じは無しに、言って聞かせたものである》
 
 ここへ来て、msokさんの『ハチロー伝』に戻ることができる。引っ込み思案のハチローさんの尻を叩いて操縦していた母親のカネコさんが13人兄弟姉妹の長子であったことはすでに記した。じつは戦後msokさんの妹がわずか1歳半でジフテリアに罹って亡くなったことにつづけて、こう記している。
 
《(カネコさんは)これまでもすぐ下の妹を病気で喪ったのを皮切りに、戦争中には何とも酷いことに四人までもの弟たちの戦死に遭っていて、その悲しさの総量は想像するに余りがある。その上今度は自分の稚い娘の死だ。家つづいた弟妹の死によって肉親の死に対する悲しみに或る意味で馴致されていたにも拘らず、自分の腹を痛めた子供の死は凡ゆるものを無に帰せしめ、暫くの間半ば狂乱の状態のままだった。》
 
 この、母親カネコさんの狂乱こそ、msokさんの原点をなしたのではないか。彼が、世の中の弱小のもの、苦難に浸されている者たちのかたわらに身を置いているときに感じる「面白い」という心地よさの感触こそ、じつは彼がハチローさんやカネコさんから受け継いだ「家督」であったのである。
 
 『ハチロー伝』を書くことによってmsokさんは「先祖の供養」をしている。そしてそれをすることによって、彼自身が「先祖」となり、子ども世代に「家督」を受け継ぐ意思を示したのである。大きな墓所だけが遺産であったというハチロー家にふさわしい「家督」ではないか。