mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

最悪を想定する分配感覚の共通性――規範はどうかたちづくられるか(9)

2017-07-30 20:14:36 | 日記
 
 6/28の「規範はどうかたちづくられるか(8)」以来、すっかり無沙汰をしてしまいました。じつは金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)のように脳科学と連結させてモラルや理性を論じる本が、今年に入ってから続々と出版されています。それだけ、脳科学のMRIなど、生体チェックが容易にできるようになって、その分野の進展が目覚ましいのだろうと推測しています。とりあえず、亀田達也『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(岩波新書、2017年)を読んで、金井たちのところで紹介していなかったことがらに触れておきます。
 
 この著者は心理学者。文科省が「人文社会系学部の再編」を言っているのに対応して、《……私たちの生きている現代社会の要請に対して実際に「役に立つ」こと、個々の問題に対してマニュアル的な「答え」を与えるのではなく、より原理的なレベルでの「解」を与える可能性を持っていることを少しでも描けたら》と考えて、書いたという本です。心理学や生物進化学、脳科学、哲学などの論議を総合的に紹介しながら、人文社会系の学問がここまで人間のモラルについても解明してきていますよと、説明している。その大部分は、じつは、すでに紹介した金井良太の著書と重なるのだが、その〈第5章 「正義」と「モラル」と私たち〉が面白かったので、紹介しておきます。
 
 この章の出発点に「正義」への二つの疑問が取り上げられて、法哲学者・井上達夫のことばが引用されています。
 
(1)正義は個人を超えるか、いわんや「国境」を超えるか。「国境を越えられない正義」の欺瞞。
(2)正義に名を借りた圧倒的な暴力の存在(への疑問)。「身勝手に国境を超える覇権的正義」。
 
 このうち、(1)を《念頭に置きながら、社会の在り方、なかでも「正しい分配のありかた」を中心に、私たちの正義に対する高い感受性の性質と働きをみていきましょう》と意図を説明しています。
 面白いと思った結論的な部分を鳥瞰しておきます。
 
(ア)功利主義的な分配を差配する「規範的な~べき論」よりも、人々がどう振る舞うことに馴染むかと発想する「実用主義」を採用している。
(イ)分配の規範は文化によって異なる。「平等な分配」ということに人びとは多様な判断を持っているが、強い関心を寄せている。
(ウ)ホモエコノミクスというのは自分の利害のことにだけ関心があって他者の利害に関心を及ぼさないというが、それを「アンフェア」と受け取る感性を持っている。
(エ)市場の倫理と統治の倫理は、対照的な特徴を持つ。両者に共通するのは「生き残りのためのシステムとしてそれぞれ統一的なまとまりをつくっている」。この両者は秩序問題の異なる解き方である。
(オ)社会に存在する規範を、市場の倫理(商人道) と統治の倫理(武士道)とすると、どちらにも属さない社会的寄生者が存在する。商人道と武士道がそれぞれのやり方で社会関係を築けば、それなりに秩序問題は穏やかに解決をみるが、それらがぶつかり合う場面においては、社会的寄生者が主たるありようになっていく。
(カ)格差を嫌う人の脳がある。目に見える他者との利害の差は、ことに心に(良くも悪くも)響く。(キ)ジョン・ロールズのいう「無知のベール」をかぶせなくても、「社会的な分配」と「不確実性への対処」(不慮の事故や不遇に対するリスクを集団として減らす)という課題を前にすれば、「みんな最悪が気になる共通性」が発揮される。「ロールズ[的な思考]は私たちの心の中に、自然かつ頑健な形で存在しているようです」。
 
 上記のようなことを前提にして亀田達也は、最初の疑問(1)に取りかかります。まず「正義は個人を超えるか」は条件付きでクリアされるとみています。そしてその後半部分に取りかかるにあたって「ハーバード大学の哲学者グリーン」を引き合いに出し、《モラルとは生き残りのために「共有地の悲劇」を解く仕組みだと……論じる》。「共有地の悲劇」というのは「共有地に何頭の羊を放すことが妥当か」である。つまりこれは言葉を換えれば、「人びとの間でいかにして平和な暮らしを実現するか」という秩序問題と同一だとみているわけです。
 
 そうして異なる規範(秩序を構成するやり方)を持つ集団の内で、人びとは自然と集団の規範に違反しないように振る舞う感情を身に備えている、つまり、自動モードでやっていける、と。現実には、そううまくは収まらず、怒りや恐れの感情を引き起こす。それを集団は、進化的適応をベースとする自動的な感情の働きが重要だとみているのです。最近の脳科学の成果は、それが脳の感情システムに組み込まれて、強化再生産されているとみています。つまり同じ集団内に限定する限り、「正義は個人を超える」と結論します。「同じ集団内に限定する」というのは、ともに生存している仲間としての共同性の感覚を共有する者同士、と言っていいでしょう。
 
 では、正義は「国境」を超えるか。所属する集団が異なると、規範も異なります。「境界」を越えた一致はありません。グリーンはその壁を超えるのに、《手動モードの働きに希望を見出しています。手動モードというのは、直感的でない、理性的計算による問題解決法です。》
 
 集団間の違いを乗り越える「メタ・モラル」を想定して、功利主義的に考え、《頭を使った「手動モード」を通じて、誰もが「部族(=集団)」の壁を越えて理解できる「共通の基盤(メタモラル)」をつくりだそうというわけです。グリーンのいう「功利主義」にこれ以上踏み込むのはやめますが、グリーンの考え方を次のようにまとめています。
 
《グリーンは、この考え方があくまでも折衷(妥協)であることを認めています。同時に、モラルを異にする「部族」同士の対立が多くの惨状を生み題している今日、共通基盤(メタモラル)を「どこにあるべきか」ではなく、実際に「どこにあるか(ありうるか)」の観点から求める深い実用主義(deep pragmatism)こそが必要であると論じています。》
 
 結論を読むと、なあ~んだと言われかねないほど、平凡な言いぶりに聞こえます。それはつまり、脳科学が検証してきたモラルの現在地点、つまり石橋をたたいて渡ってきた地平ということだからでしょう。でも、そんなものです。直感的には(いくら平凡と言われようとも)すぐにわかることですよね。私はそこに、人類史が積み重ねてきた、身に備わった直感的継承があるからだと考えているのですが、違うでしょうか。

方法的な視線の違い

2017-07-30 10:09:32 | 日記
 
 山折哲雄『これを語りて日本人を戦慄せしめよ――柳田国男が言いたかったこと』(新潮選書、2014年)に、柳田と折口信夫と南方熊楠を対照させて、その三者の方法的な視線の違いを指摘しているところがあった。柳田は「普遍化」を目指し、折口は「始原化」を志向しているのに対して熊楠は「明確な方法的意識があったのだろうか」と疑問を呈し、「彼のどの論文にもみられる狂気のごとき羅列主義」から浮かび上がるのは「カオス還元のイメージ」と掬い上げている。
 
《……柳田は、「一目」という怪異で不可思議な現象を、神に対して捧げる人間の側の「犠牲」という一般的な理論枠組みの中に解かしこんで自然的な現象へと還元しようとしているわけである。要するにかれは、「先住民」とか「犠牲」とか言ったキー・コンセプトを用いて、民俗の不可思議現象をいわば普遍的な枠組みの中に回収して読み解こうとしている……》
 
 対するに折口は、
 
《……眼前に横たわる不可思議な現象をとらえて、それをさらにもう一つの不可思議な現象へと還元する方法であった。……柳田のように合理的に解釈のつく自然的な現象へと還元するのではない。そうではなくて、合理的な解釈を拒むような、もう一つ奥の不可思議な現象へと遡行し、還元していく方法である。》
 
 として、《折口の芸能論と宗教民族論のちょうど接点のところに位置する「翁の発生」》に目を止め、
 
《……「翁」の諸現象についてさまざまな角度からの分析が加えられ……最後になってその議論のほこ先はただ一つの地点へと収斂していく。すなわち「翁」の祖型は「山の神」に由来し、その「山の神」の伝承をさらにたどっていくと最後に「まれびと」の深層世界に行きつくほかはない……》
 
 (微光につつまれた謎のキャラクター)「翁」 → (神韻ただよう)「山の神」 → (彼岸の始原)「まれびと」というずらしと同語反復によって、筋道だった因果律や合理的解釈の入り込む余地のない領域へと導くと解説し、《柳田の自然還元の方法に対して、折口における反自然還元の方法と言っていいかもしれない》と結論的に山折哲雄は言っている。
 
 だが、そうだろうか。私には折口のそれが「反自然還元」とは思えない。折口は自らの感性の始原に突き進んでいったと思う。それは「反自然」というより、自らの現存在も感性そのものをも不思議ととらえ、それがどこから来てどこへ向かうのかを極めようとする志向ではなかったか。じつは柳田の「山の人生」にもそれを感じたことがあった。
 
 「山の人生」で柳田は山人の語り継ぐいろいろな話を採録している。そのなかに、奥山に二人の子どもと暮らす一人の男の話があった。今日も何も食べるものを手に入れることができずに帰ってくると子どもが斧を研いでいる。そして倒木を枕に横になり「俺らを殺してくれろ」という。男は斧を振り上げて二人を殺し、その足で警察に出頭して罪を償ったという「事実」をそのままに記していた、と思う。それを読んだときに私が受けた衝撃は、生きる苦しさという社会関係に位置づけた解読よりも、だれにも頼ることなく始原に生きることの厳しさを思ったものであった。それは、不可知なものや闇に対して抱く「畏れ」や「恐怖心」の根源を感得させるものであった。それは宗教的感性の始原に向き合っている瞬間かもしれなかった。当事農林省の官僚であった柳田がなぜ、それを「事実」のままに記しておいたのか。「山人」という異形の生き方を「平地人」と対照させてみること自体が、(柳田のというより、農耕民の子孫であると思っている私の)始原への旅じゃないか。そう感じたのであった。
 
 ただ、柳田は始原に筆をすすめず、かといって現在からの合理的な解釈に落ち着くことも良しとしなかったために、「事実」そのままに捨て置いたのではないかと、私は受け取った。彼の『遠野物語』もそれと同じ構成をとっている。柳田は、自らの感性の深みを垣間見はするものの、その現在から出立することにした。あるいはこうも言えようか。自らの感性の深みとというよりも、平地人の感性に由来所以の深みがあることを知悉したうえで、しかし現存在を肯定しつつ、安易な解釈を遠ざけるために「事実」の採録に徹したのではないか。
 
 折口はしかし、人の現存在を肯定するどころか、自らの突出する感性に翻弄され、自らを「ほかいびと」の類と見定め、自らの存在を「不可思議現象」とみていたがゆえに、どこから来たかを問わずにはいられなかったのであろう。だがそれは、山折によれば(次元を変えた)「同語反復」であった。この表現がなぜだか、私にはよくわかる。始原への旅は「同語反復」になる。先祖も社会環境も、わが身に受け継がれたDNAも立ち居振る舞いも、身体能力も含めた人間諸力も文化も、なによりことばも、ほとんど混沌の海から引き摺りだすようにして、いつしか身に備わっていたからである。闇の中からなんらかの(身勝手な)法則性によって身に備えてきたがゆえに、遡ったからといって裏づけようのない「同語反復」しか待っていない。
 
 それをそれとして見極めていたのかどうかは知らないが、南方熊楠の「カオス還元という方法」は、まさに混沌の海から引き摺りだしはするものの、容易にことばにして固定することなく、その限定された局面における「狂気のごとき羅列主義」に徹して混沌の海に投げ返していたのではないか。つまり、南方熊楠にとっては、万般を体系化し法則化しようとすること自体が限定を忘れた不遜な所業にみえたのだと思う。ひとはそこまで思い上がってはならない、と。
 
 人はどのようにして文化を受け継ぎ、「かんけい」を紡いできたのか。始原にさかのぼることは、混沌から生まれてきたことを感知することであるとともに、もはや「ことば」にしようのないほどの長年の堆積を、身を通して受け継ぎ紡いできたことを、認知することである。人の営みが、自らの感性を起点にして自らを振り返っているかぎり、その始原に目を向け、そこに混沌とともに、その総体を分節化して「解釈」しようとする愚かさを、出立点において知っておくことが何より意味多いのではないか。そんなことを考えさせた。