mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ダイヤモンド晴れの鳴虫山

2017-06-21 15:10:01 | 日記
 
 いま(6/21)弱い雨が落ちている。TVの「予報」は「大雨、40mm/h」と警戒を呼び掛ける。じつは今日、山の会の「日和見山歩・鳴虫山」の予定であった。「当てにならない週間予報」は先週、「曇り、降水確率40%、降水量0mm」であった。CLのonさんと「実施はする。しばらく様子をみよう」と話していた。ところがその後「曇り一時雨、降水確率は変わらないが、降水量15時1mm」と悪くなる。onさんは「下山ルートが雨に濡れると滑りやすく危険」とみて、20日(火)実施でどうかと相談があった。皆さんに問い合わせて、了解をとったのは前々日の日曜日。月曜日のTVでは、「火曜日はダイヤモンドの晴。あとは梅雨空がつづく。洗濯などはお見逃しなく」と今日以降の大雨に注意を呼び掛け始めていた。
 
 昨日(6/20)、降り立った東武日光駅は陽ざしが強い。標高は540m。リュックを背負った人たちもたくさん下車し、バスに乗り換えている。奥日光や霧降高原へ行くのであろう。鳴虫山は駅から歩いて登山口へ向かう。8時35分。東照宮などへ向かう広い通りを渡るとすぐに、西への小道に入る。大谷川(だいやがわ)の支流、志度淵川にぶつかるとその左岸に沿って北上する。水量は少ない。クリの木に花が咲いているのであろうか、緑がいろいろなグラデーションをまじえて右岸に伸び上がる山体を覆う。マタタビの葉が半ば白くなって、葉の下に花が咲いていることを示している。ホオジロの声が聞こえる。キセキレイが横切って飛ぶ。屋根の上にも腹の白い小鳥がいるが、逆光で見分けられない。正面に大真名子山が三角に尖った山頂をみせている。突き当たるところで橋を渡り「鳴虫山登山口→」と書かれた看板を過ぎるところで、上着を一枚脱いで体温調節をする。樹林の中に入る。風は涼しい。ヒノキの林だが、林床には中低木の広葉樹が広がっている。(たぶん)ヒノキ林の手入れが良くなされて、数十年が経つのであろう。陽ざしが差し込み、コアジサイが楚々とした白い花をつけて斜面を覆う。
 
 CL(チーフ・リーダー)のonさんはゆっくりと先導する。「まだ風邪が抜けないんです」と言っていたotさんが二番手について、ペースを調節している。最後尾の私の前にkwmさんが歩いている。先週の小楢山のあと奥秩父の甲武信岳と国師岳を二日かけて歩き、一昨日帰って来たばかり。一日間をおいて今日の山に参加した。8日間のうち4日入山している。60歳代の半ばというのは、まだまだそうした山歩きが鍛錬になる年齢なのかもしれない。70歳代半ばになると、トレーニングにならない。疲れは溜まって、沈殿する。26分ほど歩いたところで給水タイムをとる。神ノ主山までの半ばとみているのだろう。
 
 「タツナミソウがある」と前方で声がする。なるほど、大波が押し寄せて崩れかける瞬間のような形に咲いた青紫色の花が二輪、丸く縁どられた緑の葉に乗っている。カメラを構えていたら、「こちらの方が花が多いよ」と頭の上から聞こえてくる。気づくと花というのは、向こうから飛び込んでくるようだ。一度だけホトトギスが鳴く声を耳にした。いつしかヒノキ林はなくなり、中低木の広葉樹がつづき、陽ざしが強くなる。ハルゼミが鳴きはじめ、夏に入ったことを告げているようだ。
 
 木の根が浅く広がっている。地面の下に岩でもあるのだろうか。根を深く張れないために広がって面にしがみついているのかもしれない。ところどころに古びた大木が、力尽きてどおお~っと倒れたようになっている。大きくなりすぎてじぶんを支えられなくなったのであろう。根がゆがみしゃくって地面を這う。雨に濡れてでもしたら、滑って歩きにくいだろうと思う。おやっ、ホトトギスの声が聞こえたように思った。
 
 樹林の隙間から青空が見える。神ノ主山(こうのすやま)の山頂842mだ。9時36分、登山口が8時53分。45分足らずで歩いている。地図のコースタイムは55分だから、ちょっと早いくらいか。古いがしっかりした標識がある。振り返ると、木々のあいだから女峰山が美しい。男体山は木の葉に隠されている。
 
 上りは、相変わらず急であるが、otさんもきっちり先頭について行っている。mrさんの声もよく聞こえるから、まだ疲れは出ていない。この人も強くなった。小楢山の先頭を歩いた人が後ろを振り返らずペースが速かったと、辛口批評をして今日のリーダーをほめている。この人のおしゃべりが、山行の活力源になっていることが多い。沈黙して登りはじめると、疲れが出始めた証拠だ。足元の木の根はますますひどく剥き出しになり、その上を歩くことが多くなった。msさんはそこを外した踏み跡を見つけて、登っている。
 
 「山」と彫り込んだ石柱がところどころにおかれている。その石柱の反対側に「一〇八」とか「九八」とか「八六」と彫り込まれている。なんだろう。里程標かな。「浮舟山」と一つには山名が添えられ、またひとつの脇の木には「陽明山1080m」とやはり山名があった。三角点とは違う標識だ。その石柱の上に石が積んでケルンのようになっているところもあった。その石の間に十円玉が置かれている。お賽銭のつもりだろうか。
 
 10時59分、鳴虫山1103mに着いた。おおむねコースタイムだ。東側に女峰山や赤薙山、それにつらなって北へ小真名子山、大真名子山、男体山と日光連山が明るい陽ざしを受けて、木々の間に立ちあがる。「さすが男体山だ、大きい」と覗き込んできたkwrさんが言う。木を横たえたベンチもある。すでに二人の登山者が、お昼をとっている。早いが私たちも、ここでお昼にする。30分もゆっくりした。この間に、山の会の会計を引き受けてきたkhさんが頸椎を傷め山歩きができなくなったと「会計係交代」の提案が出され、kwrさんが引き受けてくれることになった。
 
 11時半、下山開始。地図には「急な下り」と記されたところが三カ所もあるというので、これがその一、これは「長い下り」と一つひとつ口にしながら下って行ったが、四カ所ほどの急な下りを過ぎても、まだ「本命」の「独標の先」の下りに行き着かない。標高差で約600mほどを3km余の間に下ることになる。平均斜度20%というところか。ロープを張ってあったりするから、危険とは思われないが、高度感にmrさんが悲鳴を上げ、山道に悪態をついている。これが彼女の「恐怖緩和対策」だから、皆さん笑いながらからかっている。広葉樹林の林の中を降るから、強い陽ざしが苦にならない。風も涼しく感じられる。木の根が縦横に張り出して、それを踏みながら下るところは、雨でなくてよかったと思う。ほぼ1時間で独標に着く。「コースタイムで歩くって、ちょっとひどいじゃない? 後半なのよ、今は」とmrさんがリーダーに背を向けて声をあげる。「ちゃんとonさんに向かって言いなさいよ」と脇からチャチが入る。
 
 急斜面を降り、ホトトギスの声を何度も聴きながら日光宇都宮道路の下をくぐる。13時半、憾満ヶ淵に出る。いいペースだ。ここは、大谷川の本流から引き込まれた東電の発電所への引き込み水路が再び大谷川の本流と出逢う地点にある。何でも男体山の溶岩が固まってできた地形らしく、流れが狭くくねり、落ちる水が渦を巻いてほとばしる。長良の向かいは流れの向かいは東大植物園。うっそうと茂る木々が山深くに入り込んでいるように思わせるが、その向こうはいろはざかへむかう大通り。植物園の南側は田母沢の御用邸。戦中、子どものころの今上天皇が一次疎開をしていた。その裏側の並び地蔵は、静かな木陰の道に沿って、大きいの、小さいのが何十体も並んでいる。首のとれたもの、半分欠けたものもある。どれも、真っ赤な頭巾と涎掛けをかけてひっそりと佇んでいる。不動明王の大石像をつくったのがはじまりと説明書きがあるが、それほど大きな石像は見当たらない。でもちょっと異質な雰囲気があって、観るに値すると思った。
 
 過ぎて振り返ってみると「慈雲寺」の扁額が掛けてある。真言宗のお寺なのだ。だが、太子堂はあったが、本堂らしきものはどこにもなかったなあ。山門を抜けると公園になっていて、その出口にはトイレも整備されている。ここで今日の山道は終わる。13時43分。お昼をふくめて5時間10分。otさんも、ときどき足をいたわりながら、無事に歩き通した。
 
 東照宮前から東武日光駅までバスで運んでもらって、特急を利用して帰還した。まだ5時半であった。

皮膚感覚を通して声の感情を理解している――規範はどう築かれるか(5)

2017-06-19 10:14:30 | 日記
 
 金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)を読みすすめる。前回までにMRI画像の解析を通じて《「政治的と相関する脳構造」の特徴》を見極め、脳科学の「観察」から「政治的傾向」をとらえることができると、いくつかの留保をつけて英米の「実験」を紹介した。「留保」というのは、(1)遺伝的に受け継がれていると分かるのは「政治的傾向にかかわる気質」の三、四割。(2)それも情勢によって変わる。(3)年を追って変化する。つまり、脳科学で決めつけられるわけではないと、いわばその後の「学習」と「状況」によって変容することを忘れるなと指摘しているわけである。
 
 そうして今回のテーマに踏み込む。規範の「原基」ともいえる「モラル・ファウンデーション」の心裡の「信頼」とか「共感」のベースにどのような生理学的なメカニズムが働いているのか、そこを解き明かそうとする脳科学の現在を紹介している。率直に言って、この領域に来ると、「実験」や「研究」がどのような限定を設けて行われているのか、とうてい私には見極めることができない。当然その結果についても、評価することなどできない。そうか、そこまで考究していっているのかと受けとめるしかない。でも、概略を紹介しておこう。
 
 「信頼と共感の脳科学」と金井は呼んでいるが、人の利他行動、社会貢献への振る舞いという「向社会的行動の根柢にある二つの心理的要素」を「信頼と共感」と規定する。そしてそれを測る目安として「信頼を高めるホルモン――オキシトシン」を取り出す。
 
《オキシトシンが血中に増えると、脳に影響を与えて、恋人同士の愛を高め、母と子どもの絆を強める。オキシトシンの受容体は、脳や身体全体に分布しているが、特に脳では情動や報酬と関連した領域で集中して発現している。恐怖や感情を感じる偏桃体、報酬や快感と関わる側坐核に集中的に。もともと女性に特有のホルモン、通常は脳下垂体から分泌されるが、鼻腔から人工的にスプレーで摂取しても、影響を及ぼす》
 
 これは「吸い込むだけで他者を信頼するようになってしま」ったり、「大脳辺縁系と結合して、ストレスや不安を軽減する効果もある。偏桃体の反応が弱まる」という。これに関して金井は、「オキシトシンのダークサイド」を指摘して注意を促している。
 
《「信頼」だけでいいのか(オキシトシンが増えればいいのかというと、そうではあるまい)。オレオレ詐欺もある。オキシトシンの効果は、差別感情を引き起こす。身近なものへの信頼感は、外部への差別感と表裏一体である。/また、(家族愛といった)内集団へのバイアスは遺伝子の生存に有利に働いてきた。しかし度を超すと、外側の人たちを排斥する差別的行動となる。自民族中心主義を引き起こす。》
 
 この「指摘」は金井の人間観を表していて、信ずるに足ると思わせる。「身近なものへの信頼感は、外部への差別感と表裏一体」という視点がないままに、「ヘイトスピーチ」をなじっても表層を撫でるだけになる。「ヘイトスピーチ」を通じて(彼または彼女は)何を満たそうとしているのか。その欠落した「信頼感」の方へ、その欠落を引き起こしている「社会的問題」へ視線を向けない限り、「ヘイトスピーチ」を克服することはできないと言える。
 
 オキシトシンについて金井は「身体的接触でオキシトシンが増幅する」と身体的接触の効用を説いている。欧米と日本との身体接触の違いなども気にかけていて、「以心伝心」とか「空気を読む」といった日本風のコミュニケーションでは埋められない生理的メカニズムに目を向ける。「ひきこもり」や「インターネット・コミュニケーション」では「基本感情が弱くなってしまうかもしれない」と懸念を表明する。他方で、「バーチャルな接触の開発」=「テレノイド」「ハグビー」といった身体接触に近い感覚をつくりだせる研究も大阪大学で行われていると紹介する。
 
 また、もうひとつ。「信頼の遺伝子の10%~20%は遺伝的要素で決まっている」とアメリカとスウェーデンの研究に触れ、「オキシトシンやコレチゾールなどのストレスホルモンの受容体遺伝子の微妙な違い」が現象形態における差異に現れているとみる。
 
 オキシトシンがどうであるかわからない段階で私たちは、すでに経験則的に「生後1年半は母親が、つづく1年半は父親が育てる」と俚諺を手にしている。私はこれを、生後一年半は母親との身体的接触、その後三歳までは父親との社会的接触の導入部と受け止めていた。そして、三歳までに両親に大切に育まれてきた子は思春期になって(反抗期を迎えて)も「(社会的規範を)逸脱しない」と、児童相談所の専門家たちが口にするのを、何度も目撃している。金井は「留保」を含みつつ次のように、この研究を締めくくっている。
 
《(ラットの研究など)これら一連の行動は、遺伝子で決まるのではなく、生まれたばかりのときに接する環境で決まることに注意してほしい。人間でも幼児期の体験により、その人の将来の不安やストレスへの耐性が決まってしまうことは十分に考えられる。他人を信頼して行動するには、自らリスクをとる勇気と、他人の気持ちを感じとる共感力が必要だ。それらの能力や性格を育むために、親が子どもにたっぷり愛情をかけて育てることは、脳の発達という観点からも重要なのである》
 
 と。
 
 「共感」に関する金井の紹介は、もう少し子細を極める。「共感の種類」には、
 
①「感情的側面」……他者が感じていることを自分の感覚として感じる共感性。
②「認知的側面」……相手の立場から物事をみたらどう見えているかを分析して理解すること。これを「視点取得」という。
 
 とし、後者は感情移入していない、と両者の分節化をする。そして、さらにこう踏み込んむ。「共感力をはかるテストの四つの指標」を立て、こう分節化する。
 
1、共感的配慮……かわいそうだと思う気持ち
2、視点取得……他人の気持ちになって考えることができる。
3、空想……フィクションの人物に自分を重ねてみる
4、個人的苦悩……他者が苦しい状況にいることに対して自分がそれを経験したら恐ろしいと感じる傾向
 
 1、~4、が「共感度」の度合い(と次元)の差異に現れる段階を示していると思われるが、「2、のみが認知的共感、後の三つは感情的共感」と先の①と②の分類と符節をあわせる。むろん、この「共感に関する脳内機構」が見てとれると、「脳科学の観察」と関連付け「共感力はモラルファウンデーションと共通する部位が反応する」と指摘することも忘れていない。
 
 ちょっと岡目八目的になるが、その部分の要点だけを取り出してメモしておく。
1’、「共感的配慮」……楔前部の大きさと相関 ← 個人の尊厳を守る倫理観H,Fと相関。
2’、「視点取得」……「共感的配慮」と同様に前帯状回と楔前部に相関。(だが被験者への問いが、きちんと仕分けできているかどうかに疑問を提示も)= 心の理論と深い関係。∴ 他者の視点からものを感じたり考えたりすることが得意な人は、習慣的に他人の気持ちを想像できるようになるだろう。そして、そのような習慣を持つことが社会に公平を求める信条へとつながっていくのかもしれない。
3’、「空想」……右の背外側前頭前野と相関。
4’、「個人的苦悩」……脳の中の島皮質前部と体性感覚野と相関。島皮質前部はモラルファンデーションの「義務などへの拘束」と相関。《他人の苦しみから自分の苦しみを心配してしまうのは、不快な刺激などに対する敏感さからくるかもしれない》とみる。
 4’に関連して、概要、こう述べる。
《体性感覚野は身体の皮膚感覚のようなものを司っている。この部位を損傷した患者では、顔の表情が難しくなる。健常者でも、体性感覚野の機能を脳刺激によって一時的に弱らせると、発話を聞いたときに話者が誰であるか聞き分けることができるのに、その人の声色から感情を推測することができなくなる。つまり、自分の皮膚感覚を通して、声の感情というのを理解しているようなのである。また、他人が痛がっているのをみると、直接痛みを自分が感じているわけではないのに、体性感覚野は反応している。》
 面白い。「皮膚感覚を通して声の感情を理解している」というのは、私などの実感に近い。
 そうして「平等や公平性を社会に求めるリベラルな思想と、他者を思いやる共感力が共通の脳の基盤を持っていることを示唆している」と跳躍するのである。(つづく)

「留保」を乗り越え私たちの内面に迫る脳科学――規範はどう築かれるか(4)

2017-06-18 14:01:48 | 日記
 
 (6/15の承前)さらに、金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)を読みすすめる。
 
 まず米国バージニア大の社会心理学者・ジョナサン・ハイトが提唱した、「モラルファンデーション」(根源的な倫理観の要素=倫理観を記述する概念の根幹にある五つの道徳感情)とは、次の項目である。この五項目がMRI画像などの解析を通して「観測」できるという。
 
①傷つけないこと、harm reduction(H)
②公平性、fairness(F)
③内集団への忠誠、in-group(I)
④権威への敬意、authority(A)
⑤神聖さ・純粋さ、purity(P)
 
 この五つの項目を、次の(a)(b)の二項目に「解釈」し、《(a)(b)のどちらに重心をおくか、そのバランスによって、リベラルと保守主義への傾倒がわかれる》とみている。
 
(a) ①と②は、「個人」が価値観の中心に置かれている。「個人の尊厳」
(b) ③④⑤は、社会の秩序に重点。「義務などへの拘束」
 
 この「解釈」の二項目は、「個人vs集団」という重きのおき方の違いとみると、旧来の対立構図と変わらない。そこを金井良太は「政治の脳科学」という「政治心理学」を動員して、次のような「心理的特徴」に置き換え、二つの軸(四つの項目の組み合わせ)にまとめあげた。二つの軸とは、
 
1)伝統文化を維持する立場 vs 社会における変化を推進する立場
2)社会における不平等を容認する立場 vs 社会における不平等を許さない立場
 
 前者の立場を支持する人たちの根柢には、「不確かさへの態度」「恐怖への過敏性」があり、これが強い人は保守的なイデオロギーを魅力的で心地よいものと感じる。逆に、後者の立場を支持する人はリベラルに分類できる、と。もちろん留保を忘れてはいない。《これは生涯固定されるものではない。価値観のバランスが変われば変化する》と。そうして、以下のように「解釈」を加えている。
 
《政治的に保守の人は、死への不安、社会の不安定さへの不安、あいまいさへの不寛容、秩序を求める気持ちが強い。それは、他者の感情や潜在的に脅威である可能性に敏感な認知能力、また、不衛生なものへの嫌悪感が強い。それにたいしてリベラルな人は、新しい経験に対してオープン、認知的に複雑な状況を好む、不確かさへの寛容がみられる》と。
 
 こうきれいに整除されてしまうと、「あなたはどこに位置する?」と聞かれて、私は戸惑いを覚える。

 1)に関して言えば、「変化」にわりと適応力があるが、その土台に「伝統文化」が横たわっていることに関心を傾けている。「現状」が良いとは思わないが、私の身体に刻まれた「文化」には懐かしさを覚えて、大切にしたいと思っている。もっとも「変化」への適応力は、年々着実に衰えている。TVやラジオの速度の速い喋りにはついていけないと痛感することが多くなった。スマホがないと暮らせないような街中の賑わいは、そろそろ御免だと思う。

 2)についても、何をもって「平等」といっているかによって、私の選択は変わってくる。私は人々が皆同じ(レベルの)暮らしをするのが当然とは思っていない。金を稼ぐのだって、「欲しい」人はそのような暮らし方をしていいし、そうして手に入れたお金を好き放題に使うことがあっても、非難するつもりはない。だが、贅沢をするわけでもなく、質素に静かに暮らしたいと思っている人が(病気や障碍を抱えたり、不運に見舞われたり、社会情勢によって仕事にありつけず)暮らせなくなることだけはないように、社会的に保障しなければならないと思っている。これは「不平等を許さない立場」なのだろうか、「不平等を容認する立場」なのだろうか。むろんその最低限の暮らしを保障することの財源はどうするのかといったところで、所得の高い人や財産を多く保有する人たちが累進的に負担を提供することも、必要だと思うし、そうすることが「不平等」だとは思わない。
 
 むしろ「解釈」の方が「私の政治的軸」の方が、明快に「私はリベラル」と判定するように思う。これはどういうことか? 「心理的特徴」を「政治的傾き」に置き換えるところに挟まっているパターン化が余りにも型にはまりすぎて、時代的複雑さに対応できていない。
 
 前回の記述につづけて金井良太は(アメリカにおけるタイプ)と断りをつけて「政治的傾向の四つのタイプ」を取り上げ、それが前掲の①~⑤の「観察」とどう関連している記している。
 
(ア)無宗教でリベラルな人……個人の尊厳H,F(高い)>1/2、義務などへの拘束I,A,P(低い)
(イ)保守的な人……義務などへの拘束A,I,P(高い)、個人の尊厳H,F(少し低いが)>P
(ウ)リバータリアン……義務などへの拘束(低い)<個人の尊厳は保守と同等(低い)←(外部から与えられた道徳や規制に反発し、個人の自由を尊重する)
(エ)宗教的左翼……すべてにおいて高い(保守に似ている)がH,Fは断トツに高い。
 
 そうして、「政治的信条と幸福度」についての「アンケート」結果を結び付け、《「社会の不平等をどれだけ正当化できるか」によって幸福と考える度合いが決まる》と「解釈」している。
 
 共和党支持者の幸福と考えている度合……46%
 民主党支持者の幸福と考えている度合……26%
 
 むろん「社会情勢によって変化する」留保は忘れていない。面白いと思ったのは「日本の研究事例なし」としている点だ。
 
 アメリカの大統領選などをみていると強く感じることだが、アメリカ国民は(「隠れトランプ」という現象があったそうではあるが)政治的支持勢力を表明することにためらいがない。つまり彼らは、政治的な違いをもつことは公のことであり、その違いによって差別されたり処遇が異なったりすることはないと(その点では社会を)信頼していると言える。アメリカでは匿名性を嫌うと、(アメリカ取材の長い)あるジャーナリストが話していたことがある。街中でアメリカ人にインタビューを申し入れると、「これは名前を出して報道するのかどうか」と聞いてくる。名前を出さないと答えると、インタビューを断られることが多い。
 
  それに対して日本では、匿名を条件でインタビューに応じてくれる人の方が多い。つまり、社会において個が(互いに)個としての自律的な弁別の垣根をもっておらず、「個」というのが社会的な「かんけい」において(相互依存的に)存在していると感じているからではないだろうか。固有名を明確にして「私」を差別化することは、すなわち「差別」されてしまうと、(政治的立場の旗幟鮮明に対する)社会の処遇に不安を感じているからだと思う。この不安は、逆に、旗幟鮮明にする人に対する「差別」意識を自身がもっていることの表明でもある。だから日本では、じぶんの支持政党を鮮明にしない。それはこうも言える。政治勢力の「党派性」が明快に異なる社会を心裡で想定していない。逆に言うと、「政党支持」という政治的観念/理念でパート(部分)をつくるほど私たちの「かんけい」は、個々一人ひとりの(理念や)観念が互いに確立することだと思っていない。「私」の中に宿った「ある政治観念」も、社会における諸種のやりとりによって(いつしか)かたちづくられたものであり、それを「私」の思いと決めつけることもできない、とでもいうように。私はその感覚を、ある程度根拠のある妥当なことだと思っている。根源的にはユングのいう「社会の集合的無意識」のように、「ことば」も「おもい」も、その根源にさかのぼれば、なぜいつから「じぶん」がそのような選好をもっているのかわからないことが多い。その「じぶん」への不確かさが、底流にある。
 
 アメリカのほとんどの人たちは、ネイティヴではなく移民である。この大陸に身を置いた瞬間から、「異質なじぶん」を、いやでも応でも自覚せざるを得ない。そこでは、「私は私だ」と旗幟鮮明にすることによってかろうじて、身を立てることができる。「反定立」とでもいおうか、「異質であるじぶん」が「私」であるという自己定立の旗を立てないではいられない。そうしないと、無視され、馬鹿にされ、一人前扱いを受けることができないからだ。
 
 日本では逆に、ほとんどの人たちが(長年の間に同化してきてしまった)ネイティヴである。だから「異質なじぶん」を撰目にすることは、みずからが稀人であり、外部の人であり、受け容れられるに超えなければならない垣根をいくつももっていることを表明するようなことだ。旗幟鮮明ではなく匿名こそが、ネイティヴの証ともいえるから、政党支持についてもはっきりさせないことを好むのである。
 
 さて金井良太は、「イギリスの学生のVNM解析」をまとめて、次のように「政治的と相関する脳構造」の特徴をあげる。
 
1)前部帯状回……リベラルな人ほど、この部位が大きい。
2)偏桃体…………保守的な被験者は大きい。恐怖信号の検知をする。
3)島皮質前部……保守的な被験者大きい。不衛生なものへの嫌悪とつながる部位。
 
 そうして、「解析の精度をあげれば、MRI画像から政治信条が推測できる」と「脳科学」は断定するのである。だが果たしてそれは、いくつの「留保」を跳躍して乗り越えているのか。私などは眉につばつけてみてしまうのだが、科学の「ご託宣」はどこまで私たちの内面に及ぶのであろうか。(つづく)

「洗脳」は自律的に行われる

2017-06-17 09:19:56 | 日記
 
 広瀬友紀『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』(岩波書店、2017年)を読んでいて、三つのことを思い出した。もう40年ちかく前になるか。私の子どものことばづかいのこと。
 
(1)「エレベスト」という。「エベレストだよ」と訂正するが、なかなか治らなかった。
(2)「あ」に濁点をつけた文字「あ”」と書いている。「これ、なんてよむの?」と聞くと、「あ」の発声のかたちで喉の奥から「あ”~っ」と濁った声を出した。
(3)「かべさんがね……」と話す。「かべさんて、だれ?」と尋ねて、私の友人のことだと分かる。「どうして? おかべさんだよ」というと子どもは、「だって、お箸とかお茶碗っていうでしょ」と応えて、面白いことをいうと思った。
 
 広瀬友紀は、ことばを身につけていく子どもの「間違い」の様相を丁寧に拾って、それがじつは、子どもなりに「ことば」の法則性を考えて導き出したものだと説く。

(1)に似たケース。「とうもろこし」を「ともころし」という。母親の名前が「ともこ」だと明かす。言われて思い出す。その頃私はマンションの13階に暮らしていた。「エレベータ」は毎日使っていたのだ。
(2)に関して。濁点(広瀬はテンテンと名づける)のついた「が」「だ」「ざ」はすぐに発声できるが、「ば」がうまく声にならない。それは発生の口のかたちが「ば」だけは「は」と異なるからだという。そうして「ば」から「”」をとって発声させると「ぱ」になる、と。もともと「は・ひ・ふ・へ・ほ」が「ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ」であったことが、子どもの発声の「自然」から浮き彫りになる、と。「”」も法則性に対する「過剰適応」だと。
(3)も、接頭辞「お」の法則性をじぶんなりに見出して「過剰適応」させたケースと言える。
 子どもにことばを大人が教えているというよりも、大人の見様見真似をしながら、なお、子どもは自ら、使われることばの一般性(法則性)を見出して、自分なりに使っている。だから広瀬は「小さい言語学者」だという。その使い方をを間違っているよと教えたからといって、それに耳を傾けて直すわけでもない。でもいつしか、直っているというのが、私たちの言語獲得の過程でみられると、この言語学者は説く。私たちがどのように文化を受け継いでいるかを考えさせて、面白い。
 
 これまで私は、言葉に限らず、所作や儀礼、場のとらえ方や振る舞い方など、伝承される文化の一つひとつが、子どもの成長期を取り巻く人々の「洗脳」によって受け継がれていくといってきた。いうまでもなく、伝えている大人の方も、それを「洗脳」しているとは思ってもいない。「洗脳」ということばを(意図して)強制的に押し付けることと理解している私たちは、まさかそんなことはあるまいと思っている。だがそうではない。私たちの文化の伝承の原型は、好むと好まぬとを問わず、生まれ落ちた「環境」によって、継承されているのだ。子どもがおのずから身につけて大人になっていくと考え、子どもの成長を言祝いできた。だがじつは、遺伝子になって伝えられるものも含めて、「ヒト」として生まれ落ちたときから、すでに自律的に(ことばに関して言えば、たとえば)法則性を探り当て、自分なりに使いこなそうとする「性癖」をもっているのだ。子どもの内発性という側面からみれば、「洗脳」は、大人を真似る → 子ども同士で真似し合う → その「かんけい」のなかで「法則性を探り見つける」という「性癖」によって自律的に行われると言える。
 
 子どもの成長が「ことばにしていないことがどうして伝わるのか」という地点にまで言い及んでいる。「グライスの会話の公理」と呼ばれているらしい。《語用論の入門書で必ず言及されるポール・グライスという哲学者・言語学者は、文字通りの意味でない表現がうまく伝わるためのよりどころとして、人間はある一定の相互了解のもとに、コミュニケーションを行っている》として、次のように要約している。少し長いが、アップ・ツー・デートな意味合いも持つから引用する。
 
《原則として、人間が相手に対して何か言うとき、話し手と聴き手が共有している目的(情報の共有や交換)を達成しようと会話するものである。なので、求められているだけの情報量に意図的に過不足をもたらすことなく(量の公理)、意図的に間違ったことは言わず(質の公理)、話題との関連性からいたずらに逸脱することもなく(関係の公理)、意図的にわかりにくい表現をあえて用いることもない(様態の公理)とお互いに期待してよい。》
 
 この、言葉の使い方に関する「グライスの公理」が6、7歳ころの子どもたちが徐々に習得していくもののようだ。どうしてこれbが、アップ・ツー・デートかは、言わずともお分かりになろう。ほぼ形幕となった今国会の、森友問題や加計学園問題、共謀罪やなどはじめとする審議の様子は、「グライスの公理」さえも習得できていない政府首脳と国会議員と、それを黙々と良しとする多数の議員たちの「ことばのやりとりの府」をみて、うんざりしているだ。マッカーサーが「日本人の精神年齢は12歳」といったのは、それでもまだ甘いといったところか。
 
 こう言うと、今の政府を支持する人たちは、「見方が自虐的」というかもしれない。だが、そうではない。おおよそ(与野党が)「共有する場」を日本の国会はもっていない。政府の権力当局者が自家中毒のようにわが身に閉じこもり、仲間内で良しとすることを勝手に切り回しているだけ。メディアは「野党もだらしない」と両成敗的に非難しているが、そうではあるまい。野党というのは、いつでも、それほどに非力なものだ。逆に言うと、権力を握ったものはまさに「主権者」になる。だから腐敗する。だからチェック機関が必要であり、それが機能するだけの「文化性」を備えていなければ、民主主義というシステムは、有効に機能しないのだ。そういう意味で、国会という機関は、いますでに本当に日本の政治にとって空洞化しているといえる。ではこれまでに「空洞化ではない実質があったことがあるのか」と問われるかもしれない。そうなんだよね。言葉のやりとりをしっかりとしきれない「文化性」があるのだね、日本には。これは伝統的な用語法かもしれないが、タテマエとホンネという対比だけでも身近に感じられるし、嘘も方便という俚諺でも一般化している。
 
 「年年歳歳花あい似たり、歳歳年年人同じからず」。こうして築いてきた「文化」をどこかで編みなおさなければならない。同じからざる人として私も、ちいさい言語学者同様に、「冒険」に乗り出さなければならないのかもしれない。後期高齢者だぞなんて、わが身を脇に置いておけないような気がしてきた。

まず隗より始めよう

2017-06-16 11:07:07 | 日記
 
 文科省の再調査結果の発表を聞いて、笑ってしまった。まるで漫画である。何ヶ月もかけて国会でやりとりしてきたことが、全部白紙に戻る。嘘と誤魔化しとお惚けばかりで、国会審議という場を空費してきたことを考えると、内閣総辞職でもまだ足りないくらい。それくらい馬鹿にした話だ。誰を馬鹿にしたかって? う~ん、主権者・国民、民主政治のシステム、立法府や行政府などの統治機関全体をコケにしている。コケというのは虚仮だ。安倍政府は自らをコケにした。
 
 5月20日のこのブログで「民意と民度と代議員」という記事を書いた。宮台真司が「民度が低い」と切歯扼腕し、北野武も「選挙権を与える前に試験をした方がいいのではないか」とお道化ていたが、それは考え違いだ。「試験」が必要なのは「代議士、代議員」の方だという趣旨であった。だが、それも不十分だ。これからは、政府の要職に就く人たちに試験をやって、適格性を審査しなければならないと、思う。いまの政府の要職に就く人たちは、「首相」とか「官房長官」という、「官邸の最高レベルの意思」の操り人形だ。彼らが楽屋裏で設えたシナリオ通りに演じている芝居も、おおよそ他人様に見せる類の代物ではない。それが大真面目に日々の新聞のトップニュースを飾り、国際機関とやりとりをして「日本の代表」面をしているのは、いやはやお恥ずかしい。「民度」が問われるってわけだ。
 
 そう言えば、それもあってか、近頃の言説をみていると日本のことを「この国は……」と論じる評論家たちが多くなった。はじめは、日本を国際的な立場から客観的に見てみようという気持ちが込められているのかと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。十把ひとからげに低い「民度」に括られては敵わないという気分が、「この国の……」とわが身を棚上げさせているのだと思うようになった。つまり、いまここで起こっているこの事態にじぶんはイノセントだと、立場を鮮明にしておきたいのだろうね。私なんぞは、まもなく後期高齢者になるから、いまさらしゃしゃり出てお節介をする立場をもたない。せいぜい、世の中のご迷惑にならないように身を潜め、できうればひっそりと静かに消えていきたいと思っているから、罪深かろうと罪が軽かろうと、いまさら言い訳もしないし、否定もしない。安倍のような人物を首相にしてしまった「戦後過程」を全部背負い込んで棺にまでもっていってもいい(というほど、政治過程にかかわったことは毛ほどもない。せいぜい、欠かさず投票行動をしてきたくらいの罪深さだが)。でもこんな政治を目の当たりにすると、「あの国では……」と言いたくなってくるかもしれないね。
 
 だが、「試験をする」って何をチェックするのか。民主制度における「国家権力」のチェック機能を何よりも尊重し、国家権力の各機関が「暴走」しないように厳しく自己審査をし、つねに国民の前に明らかにする資質を持っているかどうか。ドイツの政治家たちの、ナチズムへの「反省」を具体的に積み重ねる過程に、そういう資質を垣間見ることができると、何かの本を読んだときに感じた。ドイツでは、軍務についた兵士は、上官よりも(みずからの)良心に従うことを第一優先にする規定があるという。せめて、そういうことに学ぶセンスを、日本の政治家たちももってほしいね。つまり、先の戦争に対する厳しい反省がなされてきたか、なされないままいまに至ったのかが大きな違いになっている。日本の政治家たちには、その「反省」がない。ただただ(なぜか)昔懐かし強い国家の匂いばかりに、心惹かれているようだ。私たち庶民が求めているのは、強い国家ではない。安心して暮らせる国なのだ。
 
 でもなあ、そういう資質をもっていては「政治」を取り仕切ることはできないかもしれない、と根回しと縁故と裏技を象徴する二枚舌ばかりに気をとられてきた日本の有権者は思うかもしれないね。でも起点は、間違いなくここにある。
 
 考えてみると、「国民主権」ということばに、私たち国民は騙されてきた。しっかりとホッブズが言うように、国家の「主権者」は総理大臣である。私たちは主権を預けてしまった。主権は暴走する。「怪物」だとホッブズも指摘する。だがそれでは、せっかくつくりあげた「国民主権」が損なわれかねない。そこをチェックし、暴走を止め、場合によっては紆余曲折して時間がかかるかもしれないが、行政権力が独り歩きしないようにしたシステムが「三権分立」であった。さらに、ジョン・ロックが主唱した「抵抗権」であった。だがそれもこれも、欧米からの輸入品。私たち日本の国民は自前で体験してきたわけではない。だが、大東亜戦争というとんでもない代価を支払って、(国家権力は暴走することを)身に刻んできた。その後をアメリカ任せできたことが、いまの首相たちの(公にはできない)日米協議のアメリカからの要請通りにコトを運ぶスタンスを生んだのであろう。そのうえ、森友や加計学園をふくめ、内政におけるお友達政治の跋扈を引き起こしている。
 
 そういう地点で考えると、私たち自身の文化的な大革命が必要になろう。お上に頼らない。お上はできるだけ質素にしておく方がよい。私たち自身が、民衆のネットワークを駆使して、じぶんたちのことはじぶんたちで取り仕切る。そういう独立不羈の精神を(かつての百姓がおどおどしながら、かつての商人たちが堂々と、しかし分を心得て仕切っていたように)培う生き方をはじめてみようではないか。
 
 年寄りである私たちに今できることは、交換経済の大波のなかで、少しでも自律する、独立する志をもって社会の再構成をするように、次の世代に語り継ぐ、余生をそのように生きて見せることだと思う。グローバリズムかローカリズムかという二項対立の論議などよりも、お上に頼らない暮らしへ踏み出そう。自然に帰れとは言わないが、孫や子が少しでもそこに近づいた暮らしをできるように、まず隗より始めよう。