mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

批評と感想、文学と読み物

2017-02-19 09:40:16 | 日記
 
 今月の「ささらほうさら」の問題提起者はKtさん、テーマは「小説とイデオロギー」。加藤典洋が『永遠の0』を批判しているのに噛みついた。出典は加藤典洋『世界をわからないものに育てること』(岩波書店、2016年)。私はこれを読んでいません。Ktさんは、加藤の文章を引用した後で、こういっています。
 
① 《加藤は、『永遠の0』は、「なかなかに心を動かす、意外に強力な作品と、そう受け止める方がよいのではないかと感じた」と、多くの読者、観客の存在を認めざるを得ないような物言いをしているが、上記のように認めていないのが本心である。》
 
 引用された加藤の文を股引きしておきましょう。
 
② 《自分の右翼的なイデオロギーを入れれば人を動かすことが出来ない。入れずに、彼は感動的などちらかといえばむしろ反戦につながる物語を書いたのである。/今まではある作品を読んで「感動」したとしても、また通り一遍に「反戦的」だと読めると受け止められたとしても、もうそのことは、その作品が反戦的で、心を動かす作品であることの証明にはなりません。なぜなら、人を感動させるために「反戦小説」仕立ての方が都合がよいとなったら「イデオロギー」抜きで、というか、(自分のものでない)「イデオロギー」までを(作品用に仮構して)読者を「感動させる」ための道具とする新しい種類の作家たちが現れてきているからです。》
 
 ①の末尾で「上記の」と書かれているのが②の文です。①でいう(加藤典洋の)「本心」は、「なかなかに心を動かす、意外に強力な作品……と感じた」ことではない(それは嘘だ)と言っているのでしょう。だがそうか? ②に表現された加藤の受け止め方は二層になっています。ひとつの層は「感動的である」こと。もうひとつの層は、そう(感動させようと)操作する意図のもとに借り物のイデオロギーを「道具とする」創作法について。その二層の間に、かつてイデオロギー的に読まれて「反戦的」であることが「感動を誘った」時代もあったかもしれないが、それはもはや無効だよとみている時代感が挟まっていると読めます。つまり加藤も、イデオロギー(操作)的な読み取り方で感動を誘おうというのは手が古いと言っているのではないか。言葉を換えていうと、前者の層は「感想」です。後者の層は「批評」への入口を示している、と。つまり感想と批評は違うぞと、文芸評論家・加藤の面目を施そうというところなのではないと、私は読み取りました。
 
 では、《(自分のものでない)「イデオロギー」までを(作品用に仮構して)読者を「感動させる」ための道具とする新しい種類の作家たち》というのは、何を言おうとしているのでしょうか。読んでもいないのに口を挟むのは不遜ですが、(たぶん)『永遠の0』の作者・百田尚樹が日ごろ保守派のイデオローグのように振る舞っていながら、「感動的な物語」として反戦的な小説を書き上げたことに憤りを感じたのではないでしょうか。Ktさんが言うように「作品をイデオロギーで判断する」というよりも、先の戦争への反省もなく「反戦」を語る語り口に一言文句を言わないではいられなかった、そんな加藤典洋の気分があったように思いました。
 
 私は文芸批評を業とするものではありませんから、物語りとしてつくりだされたものが文学世界にどう位置づいているかに言い及ぶつもりもなければ、そこに触れる蓄えもありません。ただひとりの読者として作品と向き合うばかりなのですが、Ktさんの向き合い方とちょっと違うのは、百田の作品を受け止めるときも、それに「感動」したとすれば、なぜ、どこに自分は「感動」したのだろうと解析する方へ視線が向かいます。Ktさんは、加藤典洋の読み取り方を非難しているのですが、ではKtさん自身が百田尚樹の作品のどこになぜ「感動」したかは、まったくと言っていいほど触れていませんでした。
 
 もちろんそう言った読み方がいけないなどとお説教をしているのではありません。読み物として「面白かった」と思えば、それはそれで、作家としては冥利に尽きるでしょうし、読者としてもそういう時間をもつことができて、癒される心もちになることもできます。娯楽としての、慰安としての読書というのもアリですから、私と違うなあと思っただけです。
 
 じつはこの『永遠の0』を読んだことすら私は、忘れていました。図書館からカミサンが借りてきているのを見てチェックしてみたら、《2010/10/9完結しないが、思いをはせるパプアニューギニアの戦場》と題して、このブログで感想を記していました。そして、《……手軽に読み始めた。……今回やっとそれ(先の戦争を見る我が視点)を手に入れたという気がしている。》として、戦争という災厄から逃げ回ることしかできない庶民の視点に立つことをしてなかった自分を切りとっています。つまり私は、(いつでもそうですが)自分の輪郭を描き出すために 本を読んでいるんだなあと、思い知ったわけです。そういう読み方をするときに、作品の善し悪しという評価よりも、じぶんが面白いと感じ、へえ~と思い、こういうセンスは自分はもっていなかったなあとか、自分はそうは思わないなと思ったとき、それは何故なのか、どうして自分はそう感じたり思ったりするのだろうか、と我が身を振り返ることが「私の輪郭を描きとる」ことなのです。ですから、作品の出来具合や評価はどうでもよくて、そこで取り上げられているモンダイが私の感性や思索に突き刺さってくるかどうか。それだけが関心の対象ともいえます。つまり、加藤典洋が、「作家のイデオロギーと作品」ということをテーマとして百田の作品を読み取っているのだとしたら、それはそれで加藤の読み取り方であって、それが私の輪郭をかすらないのであれば、放っておけばいいことになります。
 
 ということは、Ktさんが「作品をイデオロギーで判断するつまらなさ」と加藤典洋に腹を立てたのだとしたら、どうしてKtさんは加藤に腹を立てたのだろう、百田尚樹のイデオロギーにはまったく同感しないKtさんがどうして、加藤同様に『永遠の0』に「感動」を覚えながら、そのことの解析にさらに踏み込もうとしないのか。それが不思議でした。Ktさん自身の作品評価を取り出して、それの何処に「イデオロギー的な評価」が必要なのかと居直れば、十分加藤の論述と拮抗できたのではないかと、加藤の文章を読んでもいないのに思ったのです。
 
 Ktさんはいわゆる団塊の世代。直に戦争を知っているわけではありません。あの頃はほんのちょっとした歳の違いが見てとっている世界の違いになりました。だから私とは大いに「戦争」の受け取り様が違うと思います。その辺の言葉を交わすことができれば、面白かったかなあと改めて思うのでした。

「機械」というアルゴリズム

2017-02-17 10:22:59 | 日記
 
 今週月曜日に奥日光の雪山へ下見に行って「途中敗退」したと記しました。もっていた「私の(山歩きの)コーラン」であるスマホの画面が真っ白になり、地図が表示されなくなったのでした。
 
 家へ帰ってみると「現在地」を表示すると地図が出てきました。では、と、「日光湯元」を検索すると、「データがありません」と表示が出て、それ以上動きません。他はどうかと思って「えきから時刻表」を動かしてみると、「機内モードを解除してください」とでてきました。おや、いつそんなモードになったのだろうと「機内モード」をチェックすると、ちゃんと「機内モードOFF」になっています。もう一度やってみると「WIFI接続していません」との表示。でも「WIFI・ON」です。どうしていいかわからず、スマホ購入のお店にもっていきました。
 
 若い販売員に事情を話すと、「(山中で地図が消えては)それは困ったでしょう。調べてみます」といって手に取り、何やらやっています。どうやったらいいかを見ておかなければと思って、彼の手元をのぞき込みました。「機内モード」をチェックしています。それをいったんONにし、ついでOFFにして、「どれでもいいのですが……」と言いながらどこかのアプリにアクセスして「はい、読みこめています」とスマホを私に返してくれた。よくわからず、とりあえず「地図」にアクセスして「日光湯元」を検索すると、なんと、ちゃ~んと表示されるではありませんか。
 
「どうして、画面が真っ白になったんでしょう」
 と問うと、
「機械ですから……」
 と恬淡と応える。
 
 この答えに、一瞬私は感心してしまいました。私などは(たぶんに世代的な要素が大きくかかわっていると思いますが)機械というのは経年劣化するとは思っていっますが、(まだ3ヶ月にもならない)機械が突然機能しなくなることは〈なにがしかの原因に基づくもの、それを解明しなければならない〉と考えます。つまり原因を突き止めようとするのですが、それをさておいて「機械とはそういうものだ」と、機械の属性だとみているものの見方(の大きなギャップ)に感心したのでした。時代の推移を感じとったと言いましょうか。
 
「またこうなったとき、どうすればいいの?」
 と尋ねると彼は、
「いったん機内モードをONにして10秒経ってからOFFにする。それでも回復しないときは、電源ボタンを長押ししてOFFにし、やはり10秒経ってから電源を入れると、つながります」
 と丁寧に教えてくれました。「それでもつながらない時は面倒でもまたこちらにもってきてください」と付け加えることを忘れませんでしたが。要領を心得ているというか、年寄りの扱いに慣れているというか。
 
 歩きながら考えてみると、感心することではないかもしれないとも思いました。「機械」が、何が原因で故障するかなどは、もはや、誰にもわからない時代なのかもしれません。あるいは、原因をチェックできるのは、ほんとうにごく少数の専門家だけで、ふつうの「取り扱い専門家」は「故障」を機械の属性としてまるごと受け入れ、原因究明をするよりも修復する手順だけを覚えているのかもしれない。そういう手順、アルゴリズムは中学2年生くらいまでに身につくものだと村上龍がいつか話していましたね。若い販売員は、単に機械のアルゴリズムだけではなく、そういう機械に囲まれて暮らす社会の「取り扱い」のアルゴリズムも身に備えているのかもしれません。
 
 要するに、我が身が時代から取り残され、一つひとつの出来事に取り残された自分を見出すという仕儀に相成っているのだと、痛感した次第。

第24回aAg Seminar ご報告 (4)我が人生を振り返るSeminar

2017-02-15 09:44:39 | 日記
 
 1657年に130万人程度であった江戸の人口は、江戸の終わりごろまでほぼ横ばいであったと言われている。それが、1920年の初の国勢調査が行われた時点(東京)では約370万人、三倍になっている。1930年には540万人、1940年には740万人になっている。10年ごとの国勢調査結果では1.5倍のペースで膨れ上がっている。これは日本の産業の近代化が急速度で進み、東京へ人口が集中していっていることを示している。この人口集中は戦後もつづき、2010年には1300万人、江戸のころの十倍。これを世界的な大都市になったと喜ぶのか、どうしてこんなことになったのかと嘆くのかは、何処からみているかによって違うであろう。
 
 思い出した。日本経済が大はしゃぎしていた1980年代の前半に、小松左京が『首都消滅』という小説を書いていた。筋書きはすっかり忘れたが、首都圏をすっぽりと「雲の壁」が覆って周囲から遮蔽され、あたふたする首都以外の日本を描いていた。記憶を確かめようと図書館から借りようとしたら、まず小説のタイトルが『首都消失』。2016年の11月に城西国際大学出版会。ン? 「SF文学のデジタルアーカイブの手始めに出版した」という趣旨の説明がつけられている。1983年から新聞小説として連載し、1985年に徳間書店から出版している。この小説の設定であたふたしていたのは、日本の産業や行政などの統治機構であった。それを上から描いたのではなく、首都が消失したために一気に産業や金融、交通・通信の中央集権的姿が浮き彫りになる。つまり一極集中のもたらす「困難」を描き出して、その後の首都機能の移転・分散論議の切っ掛けになったのであった。
 
 経済が好調であったから、アクセスに東京から30分という限定を設けて「首都圏」の各地へ東京にある行政機能を分散する構想が提起された。たとえば当時国鉄の大宮操車場の跡地につくられた「さいたま新都心」には、鉄道の駅が新設され首都高速道路の延伸し、関東圏の支分局が移設され、2000年に街を開いた。その後バブルがはじけ、失われた十年、二十年が長引くにつれて首都機能の移転・分散論議は蒸発してしまい、絶対的人口減少を目の当たりにしながら、いま再び、東京への人口回帰が始まっている。これをヨシとみるかアシとみるか。そこに視点を据えるかによるが、私などは、人の暮らしのありようという一点で、集中どころか、ほんとうの地方分権を実現しなければならないと思うようになった。今の首都圏一極集中は、体制依存によって成り立つ消費者としての暮らしでしかない。要するに自分の手に触れてモノゴトを左右することの出来る自律的な、独立不羈の「暮らしの現場」こそが、人が生きるうえで欠かせないと考えるからである。
 
 江戸の町づくりの延長で、山の手の話が出された。

 ひとつ。山の手の奥様方の「ざあます」言葉は、江戸の花街の花魁言葉に由来するのよ、とmdさんが指摘する。そうだよ、花街の女たちはほとんどが田舎の出身であったから、お国訛りに難儀したので、それを隠すために花魁言葉が生まれたとだれかが時代小説の知識を披露する。つまり江戸や東京は、田舎からの出身者が寄り集まって発展してきたものであって、そこに「何かすばらしい権威がある」かのように考えるのは、突き詰めてみれば、政治的権威、経済的権威、文化的権威など、人の性とでもいうような異質なことへの強い興味関心がなせる傾きであって、それは自身を支える(アイデンティティなども含めた)現在から飛翔しようとする衝動がなせるコトである。自身の「現在」とその衝動の吟味をしないで、ただその傾きの延長上に「なにか」があると期待するのは、笑止千万と思う。
 
 もうひとつ。山の手のひとつである世田谷の土地処分については、厳しい条例による規制があると、これもmdさんの指摘。いまの広さの分割を認めないとなっているそうだ。
 
「えっ、ということは相続のときに分割できないってこと?」
「そうです」
「とすると、金持ちしか住めないってことになるよ」
「そうです」
「じゃあ、古い日本の住宅建築を残そうというコンセプトがあるわけ?」
「いえ、そういうコンセプトはありません。建物は高さ規制さえ守れば、てんで勝手に作っても構わないのよ。要するにお金持ちが住むところって環境をまもっているわけ」
 
 古い町並みを残そうという(例えば)西欧の建築規制をみていると、高さばかりか、外観を変えてはいけないなどの細かいところにまで行き届いている。だが金持ちだけが住めるというようなコンセプトは「ゲイティッド・シティ」のような、すべて私有の共同管理地というコミュニティとしては知っているが、そうか日本にもそういうかたちで金持ちたちの「文化」が受け継がれているのか、と思った。金持ちたちだけしか住めないというのがどういう「文化」かよくわからないが、日本的建築というような「文化」に関心があるわけではないというところが、いかにも「情況適応的な」いい加減さにみえて、そうか日本文化ってそういうことだったんだと思える。ゆくかわの流れはたえずしてしかももとの水にあらず、というわけであれば、「護る」べきことなんてないと言っているようなもの、せめて自尊心だけと考えるようになっても不思議ではない。
 
 講師のM.ハマダさんは「未来の江戸・東京を探る」の一つとして「江戸城の天守閣を再建する」と提案する。

「どうして?」「誰が住むの?」と質問が飛ぶ。fmnさんが割って入る。
「天守閣って、誰も住まない。倉庫、戦時に必要な武器や備蓄食料をおいていたところなのよ。松本城でも熊本城でも、天守というのはひとつの象徴。江戸城にも東京の象徴としてあった方がいいわねえ。いまはコレってものが何もないもの。」
 
 講師はさらに「新豊洲市場を中止して、跡地に120階建てのビルを新築し、IR(統合型リゾート)ビルとする」とも提案する。

「120階って、アジア一とか、何か意味があるの?」
「ない。それくらい高いビルってこと。カジノをはじめとするあらゆるギャンブル場とするってこと」
「カジノ法ってのは、ヤクザの利得を排除して国家が占有しようという法律でしょ。そんなことに私らが肩入れすることはないよ」
「競馬があればいいよ」
 
 さらにさらに講師は「武蔵の国の復活」と提唱し、「埼玉県全域、横浜、川崎と合併し新州?をつくる」と提案していたが、これには時間がなくて話が及ばなかった。だが後で考えてみると、小松左京の「首都消失」で「雲の壁」に覆われる範囲は東京を中心とする30km圏。国道16号線の範囲がすっぽりと含まれている。むろん「さいたま新都心」も含まれる。南西は藤沢、西は立川あたりがかろうじて外側になっている。つまりM.ハマダさんの提唱する「新州」がすっぽりと機能停止になったらというSFである。むろんその頃と決定的に違うのは、通信の発達。モバイル機能もそうだし、クラウドもあるから、バックアップを取るなりしていればdataが消失することはなくなる。それだけ機能麻痺は軽減されるかもしれないが、統治的な正当性がどうなるのか、面白い問題ではある。
 
 私たちの時代はそろそろ終わりになっているが、半世紀以上も首都圏に住みながら、あまり江戸や東京を知らないということに、我がことながらちょっと驚いている。いったい何を思って、半世紀以上もこの地に暮らしていたのか、あらためて我が人生を振り返るSeminarであった。

中禅寺湖北岸を独り占めした雪山

2017-02-13 19:35:22 | 日記
 
 明日から天気が崩れるというので、今日、山へ行ってきた。来週、奥日光の雪山案内があるので、その下見を兼ねてひと歩きして来ようと思ったわけ。6時半に家を出て、奥日光竜頭の滝に着いたのが8時40分。5分ほどで雪山用のウェアを来てスノーシューをもって歩きはじめた。
 
 下見のルートは、実は今年の正月にも歩いてみている。ただこのときは雪が少なかった。その後にかなり雪が降ったと聞いてはいたが、降ったら降ったで、アイゼンがいるかどうかが気になる。何しろ中禅寺湖の北岸を1時間半ほど歩く。北側には高山の大きな山体が急な傾斜で湖へ落ちている。木の柵などをつくって落ちないように、いろいろと気配りはしてあるが、踏み固めてあるとは思えない。何しろ、冬は人がほとんど入らないルートなのだ。もうひとつ気になることがあった。北岸ということは、お天気がいいと南からの陽ざしが照り付ける。踏まれた凸凹が凍りつくと、スノーシューでは歩きにくい。むしろ軽アイゼンの方が安全に歩ける。それをもっていく必要があるかどうか。それも見て来ようというわけ。
 
 いや、行ってよかった。ほとんど最初からスノーシューが必要であった。入口の平地の積雪は1メートルくらいか。壺足だと膝くらいまで埋まってしまう。誰も歩いていない斜面を登るのは、ちょっとしたラッセルになる。ラッセル車のラッセル。力仕事だ。除雪というよりも、雪を踏み固めて上へと体を持ちあげる。粉雪だとすぐに崩れて元の位置に戻ってしまうが、さすが中禅寺湖の雪は湿っている。それほどは元に戻らない。登路の雪は夜の冷え込みで凍っている。だがアイゼンがいるほどではない。スノーシューの裏側についている滑り止めのストッパーで十分だ。
 
 けっこう通過の厳しいところもある。木の柵はあるのだが、そこへ向けて斜面に雪が積もっている。だから、柵のはるか上をトラバースする。スノーシューのエッジを立て雪を切りながらすすむ。これがスリリングであると同時に、雪道を歩く面白さなのだ。私が先頭では申しわけない。1時間半で熊窪に着いた。湖は静か、陽ざしもよい。むろん誰にも会わない。
 
 ここから高山からのルートへ合流すべく上りにかかる。北へすすめばいいと、正月の踏査のときに頭に入れている。雪が湿っぽい。スノーシューの裏側にべったりと張り付く。ときどきシューを蹴飛ばして雪を落とす。ストックが1メートル近くも埋まってしまう。それでも順調に、両側から迫る山体の真ん中をすすんでいくと、二俣に別れた小さな分岐に出る。はて? どちらに行ったろうか。追う言えば正月のときにはうっすらとした雪であったから、ルートの推定がついた。ところが今日は、盛り上がるように雪が積もり、沢ですらすっかり雪の下になっている。私は左へ行った方が「峠」へ抜けるルートだと思ったが、ちゃんとチェックしようと「私のコーラン」を出してみる。「私のコーラン」というのはスマホ。地図を読み込んでおいてスタートのときにGPSを作動させると、地図上に現在地点が表示される。これに従えば「道を誤らない」というので、私はコーランと名づけて使うようにしている。ところが、なんとコーランに地図が表示されない。GPSの現在地マークは表示されているが、その下は真っ白。これじゃ何処にいるかわからない。どうしよう。
 
 いや、考えるまでもない。迷ったら引き返せ。これが鉄則。まして雪山に一人だ。紙の地図でも持ってきていれば見当をつけることができるが、コーランがあると思うから(それと正月に歩いたのを身体が憶えているにちがいないとおもうから)もってきていない。こういうときは引き返すしかない。雪もちらついてきた。
 
 そういうわけで熊窪へ戻った。11時半。お昼にするが、やはり中途退出の打撃が気分を暗くしている。あまりおいしくない。湖の波も騒がしくなっている。10分ほどで切り上げて、帰路をとる。栃窪では下ってくるときに大回りをしたように思ったので、ショートカットのルートを探る。たしかに近道ではあったが、最後がものすごい急斜面で、設えられた木の柵を乗り越えなければならない。こりゃムリだなと柵の末端へと足を向ける。それを先導するようにテンの足跡がついている。
 
 コガラやエナガの混群が木の枝を飛び交う。ゴジュウカラが三羽、それぞれ違う気にとりついている。木の下から小さい鳥が飛び出して別の木の上の方へ取り付く。そして下の方へと降りてくる。キバシリかと思うが、しかとは見られない。鋭い口笛のようなピュイーという鳥の鳴き声が聞こえる。アオゲラかウソだろう。ピュイッと短く声を響かせているのはシカだ。おっ、十匹ほどのサルの群れが雪の上に降りて木から木へ渡ろうとしている。くるときの私の足跡の上をシカが歩いた形跡がある。二本の爪跡がきちんとついている。
 
 中禅寺湖北岸を独り占めした雪山歩きであった。
 
 帰宅してからコーランを開けると、何と行き詰ったところの地図が出てくるではないか。どうして表示されなかったのだろう。国土地理院の地図にアクセスして経路をたどってみると、右の沢を辿るのが正解であった。いやはや、記憶のおぼろなこともそうだが、決めつけて左への道を辿らなくてよかった。もしそうしていたら、今ごろ雪の中でビバークってことになっているかもしれない。くわばら、くわばら。

欲望は抑えられないか(2) 我が「かんけい」の然らしむる処

2017-02-12 17:07:34 | 日記
 
 ずいぶん間が空いたが、1/10の「欲望は抑えられないか(1)「制御可能」の体幹を鍛える」の(つづく)を受けて書き記す。
 
 「欲望は抑えられるのか」と論題を立てるとき、「その欲望」を保つ者の内側から立てられているのか、「その欲望」を保つ者の周辺にいて、かかわりをもつ外部から問いが立てられているのかで、応えるスタンスが百八十度違ってくる。まず、どちら側でもない「欲望」そのものからみると、次のようなことが言える。
 
 「欲望」が論題になるとき、たいていそこでイメージされている「欲望」とは自然的欲求に基づいて発生する衝動的自己拡張志向を指している。むろんどんな「欲望」も、なにがしかの自然的欲求に基づいているには違いないが、たとえば「リビドー」が一概に性欲に集約されてイメージするわけにはいかないように、「欲望」は、いわば人間の生存のエネルギーの根源を指す言葉でもある。性欲も食欲も、物欲も権力欲も、危険な冒険志向も安定・安全志向も、競争心も闘争心も、向上心や科学的探究心も遊興の思いも、興味関心の発露も、ことごとくが「欲望」とむすびついている。だから、「欲望は抑えられるか抑えられないか」と問うこと自体がほとんど意味をなさない。人は生きることが正しいのかどうか?  と問うているようなことなのだから。そのものへの問いは、「ものそれ自体」を探り当てようとするように、とりとめがない。「かんけい」的に見るほかない。
 
 「欲望」を保つ者の側から発せられた問いであれば、「抑えられるか」というのは愚問である。「欲望」が感ぜられた時点ですでにそれは「欲望」である。とすると問いは、「欲望は(社会的に)発現を抑えられるか」でなければならない。あなたはどう応えるか。

 「抑えられる」というのを自制心と名づけているが、それは心の習慣(良心ともいう)とそれを育んできた社会規範と向き合っている場や人との「かんけい」によっていかようにも変容する。心理学でいう「欲求への適応」と重ねてみると「合理的解決」と「攻撃・近道反応」のほかに「防衛機制」というのもあると整理されている。なにをもって「合理的解決」と呼ぶかはおかれている社会関係によって種々道はあろうが、近ごろは、最高権力者の某国の大統領さえも「攻撃・近道反応」をとっていて、その国の半ばの人びとの喝采を浴びているから、ヘイトスピーチだって「合理的解決」に入れられるかもしれない。ただ、「防衛機制」と謂われる「抑圧/合理化/同一視/投射/反動形成/逃避/退行」も「自分を守ろうとすること」と考えれば、適応のかたちであって、それがいいか悪いかは一概に言えない。さらにまた「置き換え」と謂われる「代償/昇華/補償」も、社会的な(外的な)抑制を内面化したかたちを表現したものであるから、自制心のひとつの形と言えなくもない。つまり心理学に謂う「適応」の何れにしても、「欲求」の社会的表現形態を言い当てて分類しているのであって、それを「抑えている」かどうかとは少しずれている。まして、「欲求」の足元にある「欲望」は発生の次元が「欲求」とは異なって人それぞれが持つ内面の(社会的に形成された)幻想に依拠しているから、単純な「適応」で消してしまうわけにはいかない。では「欲望」は開放/解放されてきたかというと、そうではない。欲求と同様に、社会的規範によって、あるいは法的規制によって、あるいは経済的・社会的・物理的条件によって欲望は抑えられてきた。充たされない欲求は、たいてい捨て置かれてきた。それは「適応」の何処に属するか。我慢したのである。それは社会的には、鷲田清一の表現を借りれば「制御」されてきたのであった。
 
 それが「制御不能」になっていると鷲田清一が嘆いたのが、今回論議(1/8)の出発点であった(本ブログの掲載は1/9、1/10)。人びとの暮らしのあれやこれやが市場に依存することによって「待ち受け」態様になり、いわば自律性を失っているという(鷲田の)指摘が、高度消費社会を否定するものとして受け取られ、「欲望は抑えられるのか」と(kさんの)反撥を受けたのであった。その裏側には、欲望を開発・開放することを積極的に進めてきた資本制市場経済の体質が想定されている。鷲田が欲望の保持者の側から事態をみていることを見落としてはならない。
 
 すでにみたように、じっさいに「欲望の発露」はつねに開放されてきたわけではない。むしろつねに「制約」を受けてきた。自然的な制約、社会的な制約、関係的な制約、時間的な制約、その他もろもろの条件によって、つねに「抑えられてきた」。「欲望の発生」自体は抑えられていない。もしその根源の「リビドー」に焦点を合わせて世界のすべてを切りとれば、つねに欲望は開放を求めて人類史はかたちづくられてきたともいえる。とすると問題は「欲望は抑えられるか」と問うことではなく、「欲望を開放することはつねに正解か」と問うべきではないか。
 
 いうまでもなく、こんな一般的な問いを受けたら、「つねに正解であるわけがない」と応えるしかない。つまり「制御可能かどうか」と問うているのだろうが、予定調和的にすべたが充たされるというのでもなければ、(どの次元かで)制御しないことには社会が成り立ちゆかない。そのとき鷲田は一人の消費者市民として考えている。つまり、資本制市場経済をどうしたらいいという資格を持っていないから、せめて自分が「制御可能」な立ち位置を見極めようと問題提起したのであった。考えようによっては、「我慢する」ことも含まれる。「欲望」がつくられ操作され、外から与えられていると見極めると(己の裡側から)「その欲望」がコントロールされていくことを感じることができる。つまり己の「欲望」がどうかたちづくられ、どう己の裡側で醸成されて形を成し、外界へ向けて発露されようとしているのかを「世界」に位置づけてみてとることがなされると、途端に自生的根源がおぼろになり、世界のなかでのマッピングの然らしむる「抑制」を受けて、そこそこのところに落ち着きを得る。単なる我慢とも違う。心と体の生活習慣と切り結ぶ「現実のかんけい」の然らしむるところもある。
 
 このうちの「現実のかんけい」を「協働」というかたちでイメージしたのが鷲田であった。そのコミュニティのイメージが卑小かどうかよりも、私たち自身がどう《心と体の生活習慣と切り結ぶ「現実のかんけい」》をかたちづくってきているかをあらためて考察して、自律性を志向しようという彼の提案を、私は一蹴することは出来ない。じぶんが手に触れる「かんけい」のなかで、基本的な「暮らし」をかたちづくっていく。その独立不羈の志の旗をあらためて身の裡にうちたてたいと思う。