池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)の前半3分の1から受けた刺激の三つ目。
《現実と脳内の往来。そのハブになっているのが島皮質だった》
この現実と脳内の往来を媒介する島皮質の作用によって、人は五感、感性、感覚として受けとった刺激を記憶として保存し、それを物語りにすることによって、セカイを意識する。その、外的刺激を統合して「セカイを感知するセンサー」の役割を果たしているのが、「こころ」だと私は考えてきた。言うまでもなく私のそれは、経験則を言葉にしたものに過ぎない。だが、池谷の脳科学は、ワタシの経験則を裏付ける脳科学専門家の保障のように響く。
ひとつオモシロイことを教えられた。ブラウン運動のこと。私はブラウン運動という言葉を(たぶん)高校の時の物理か化学の授業で教わった。だがそれが、「ロバート・ブラウンというイギリスの植物学者が発見した現象だ」とは知らなかった。
《現実と脳内の往来。そのハブになっているのが島皮質だった》
この現実と脳内の往来を媒介する島皮質の作用によって、人は五感、感性、感覚として受けとった刺激を記憶として保存し、それを物語りにすることによって、セカイを意識する。その、外的刺激を統合して「セカイを感知するセンサー」の役割を果たしているのが、「こころ」だと私は考えてきた。言うまでもなく私のそれは、経験則を言葉にしたものに過ぎない。だが、池谷の脳科学は、ワタシの経験則を裏付ける脳科学専門家の保障のように響く。
ひとつオモシロイことを教えられた。ブラウン運動のこと。私はブラウン運動という言葉を(たぶん)高校の時の物理か化学の授業で教わった。だがそれが、「ロバート・ブラウンというイギリスの植物学者が発見した現象だ」とは知らなかった。
《花粉が破裂する。すると、花粉から微粒子が放出される。……この微粒子を顕微鏡で観察すると、水上をランダムに動き回っている様子が観察できる》
ふ~ん、淵源由来に全く頓着せず、その結果(の敷衍的用語法)だけを知って、ワカッタつもりになって、この言葉をあれこれと用いてきた。いや、お恥ずかしい。
何が恥ずかしいって? いやね、私の関係している月例の老人会の名が、「ささらほうさら」っていうのさ。この秩父地方の方言は「むちゃくちゃ」のこと。まさしく「ブラウン運動」を意味している。というか、そういうつもりで半世紀来の友人の集まりである老人会は「ささらほうさら」になることを好ましく思って受け入れてきた。それ程の、好ましくおもう同義語の淵源由来にまで思い巡らすことがなかった。
ははは。いかにも門前の小僧だわい。
池谷は「場所細胞」にかかわるネズミの実験を「脳の中の記憶の再生はブラウン運動である」と紹介する。実験中のネズミは(それなりの)自意識で動いているはずだから、それをブラウン運動と呼ぶのは? とふつうならおもう。だが、《その(運動した)後の睡眠中の脳内での再生はブラウン運動なんだ》と展開する。記憶の再生は夢の中で行われているってことだ。
池谷は「場所細胞」にかかわるネズミの実験を「脳の中の記憶の再生はブラウン運動である」と紹介する。実験中のネズミは(それなりの)自意識で動いているはずだから、それをブラウン運動と呼ぶのは? とふつうならおもう。だが、《その(運動した)後の睡眠中の脳内での再生はブラウン運動なんだ》と展開する。記憶の再生は夢の中で行われているってことだ。
おおおっ、これはオモシロイ。
ワタシの記憶は、いつも現実の体験に即しているとばかり思っていた。だが池谷は、それはむしろ「仮想空間」である(睡眠中の)脳内の再生活動を通じて「物語の構成」をしているとみている。それは現実をなぞるものではなく、ランダムな(ブラウン運動)によって、ワタシの心中に落ち着き処を探り、文脈や脈絡を仕上げているってわけだ。
脳には「パレイドリア」という性質があると、池谷はいう。「ランダムなものを、素直にランダムだと認めない」性質。というよりも、「(なんでも)物語をつくってしまう/つくらないではいられない」性質といった方が良い。例えば樹木の冬芽を人の顔になぞらえてみてとるとか、ホトトギスの鳴き声を「トッキョキョカキョク」という風に、無意識のうちにというか、自然にそういう性質を癖にしてしまったヒト。それは夢でもある。
ということは、こう言い換えることもできる。モノゴトを敷衍するとか、抽象するとか、象徴的に受け止めるとか、他のデキゴトに擬えるという、思考の跳躍をすることができるのも、このパレイドリアのお陰と言える。
オモシロイのは池谷が、この脳中の(夢の中の)シミュレーションが(ひょっとすると)ヒトのホントウの「意志/意思」と考えていることだ。前回(2)で引用した池谷の言葉を思い出して欲しい。
《僕らは生彩ある現実感からいつでも離脱することが可能だということ。僕は、この自由度こそが、謎を解く鍵だと考えている(なぜなら「生きている」という実感がない生物たちだって、立派に生きているからね)》
これは、「眠ること」が「生きている」証しを手に入れることと、読み替えることができる。えっ、どういうこと? と最初はおもった。彼は、
《動物たちは睡眠を進化させたのではない。その逆で、覚醒を進化させたと考えるのが正解なんだ》
と。つまり、動物は「寝る」ようになったのではない。「起きる」ようになった、と。
オモシロイ。起きている(活力を回復する)ために寝ると私はふつう考えるが、それを逆転させる。「記憶」という情報の再生は、覚醒中にも起こる。睡眠中の夢は「原意識状態」と呼ばれ、記憶の再生のひとつ。《もしかしたら睡眠覚醒を繰り返すなかで、原意識が覚醒中に引き出されることが、「意識」となっていったのかもしれない》と、両者の関係を位置づける。
うんうん、そうそう、「無意識」というのも、「原意識」がそれと感知されず、覚醒中に引き出されてきていること。そう受けとると、ワタシの感性や感覚として受け止めたことが身の裡に沈んで身の習いになる、それが無意識。そう私が経験的に呼んでいたことの、構造的なメカニズムが、しっかりとしたかたちで浮かび上がる。「自己を対象化する」とか、無意識のワタシの「しこう(嗜好・思考・志向)」の根拠を「意識する」ことが重要と、口を酸っぱくして自分に言い聞かせてきた。それが、生命体史35億年、人類史何百万年の積み重ねた「原意識」を「意識化」することと、単純化して腑に落ちる。
とすると、池谷のいう「僕らは生彩ある現実感からいつでも離脱することが可能だ」という言葉も、ワタシたちは植物に戻ることができるようになると「自由」になると、読み替えることができる。そうだね、なぜかわからないけれども、山へ行き、緑に身を浸し、ときどき自然に溶け込むような感触を味わいたいという「ワタシの願望」は、動物になる前の「植物時代のワタシ」の原意識。そして、それを「ほんとうのこと」とみると、なんだか、いろんなことがほぐれて、するすると腑に落ちてゆくような気がする。
何というか、この感触は、テツガクの地に足をつけたような落ち着きをもたらす。そう感じただけで、ワタシが悦んでいる。
こうして私は、本書の「第二日目」へ歩を進めている。
ワタシの記憶は、いつも現実の体験に即しているとばかり思っていた。だが池谷は、それはむしろ「仮想空間」である(睡眠中の)脳内の再生活動を通じて「物語の構成」をしているとみている。それは現実をなぞるものではなく、ランダムな(ブラウン運動)によって、ワタシの心中に落ち着き処を探り、文脈や脈絡を仕上げているってわけだ。
脳には「パレイドリア」という性質があると、池谷はいう。「ランダムなものを、素直にランダムだと認めない」性質。というよりも、「(なんでも)物語をつくってしまう/つくらないではいられない」性質といった方が良い。例えば樹木の冬芽を人の顔になぞらえてみてとるとか、ホトトギスの鳴き声を「トッキョキョカキョク」という風に、無意識のうちにというか、自然にそういう性質を癖にしてしまったヒト。それは夢でもある。
ということは、こう言い換えることもできる。モノゴトを敷衍するとか、抽象するとか、象徴的に受け止めるとか、他のデキゴトに擬えるという、思考の跳躍をすることができるのも、このパレイドリアのお陰と言える。
オモシロイのは池谷が、この脳中の(夢の中の)シミュレーションが(ひょっとすると)ヒトのホントウの「意志/意思」と考えていることだ。前回(2)で引用した池谷の言葉を思い出して欲しい。
《僕らは生彩ある現実感からいつでも離脱することが可能だということ。僕は、この自由度こそが、謎を解く鍵だと考えている(なぜなら「生きている」という実感がない生物たちだって、立派に生きているからね)》
これは、「眠ること」が「生きている」証しを手に入れることと、読み替えることができる。えっ、どういうこと? と最初はおもった。彼は、
《動物たちは睡眠を進化させたのではない。その逆で、覚醒を進化させたと考えるのが正解なんだ》
と。つまり、動物は「寝る」ようになったのではない。「起きる」ようになった、と。
オモシロイ。起きている(活力を回復する)ために寝ると私はふつう考えるが、それを逆転させる。「記憶」という情報の再生は、覚醒中にも起こる。睡眠中の夢は「原意識状態」と呼ばれ、記憶の再生のひとつ。《もしかしたら睡眠覚醒を繰り返すなかで、原意識が覚醒中に引き出されることが、「意識」となっていったのかもしれない》と、両者の関係を位置づける。
うんうん、そうそう、「無意識」というのも、「原意識」がそれと感知されず、覚醒中に引き出されてきていること。そう受けとると、ワタシの感性や感覚として受け止めたことが身の裡に沈んで身の習いになる、それが無意識。そう私が経験的に呼んでいたことの、構造的なメカニズムが、しっかりとしたかたちで浮かび上がる。「自己を対象化する」とか、無意識のワタシの「しこう(嗜好・思考・志向)」の根拠を「意識する」ことが重要と、口を酸っぱくして自分に言い聞かせてきた。それが、生命体史35億年、人類史何百万年の積み重ねた「原意識」を「意識化」することと、単純化して腑に落ちる。
とすると、池谷のいう「僕らは生彩ある現実感からいつでも離脱することが可能だ」という言葉も、ワタシたちは植物に戻ることができるようになると「自由」になると、読み替えることができる。そうだね、なぜかわからないけれども、山へ行き、緑に身を浸し、ときどき自然に溶け込むような感触を味わいたいという「ワタシの願望」は、動物になる前の「植物時代のワタシ」の原意識。そして、それを「ほんとうのこと」とみると、なんだか、いろんなことがほぐれて、するすると腑に落ちてゆくような気がする。
何というか、この感触は、テツガクの地に足をつけたような落ち着きをもたらす。そう感じただけで、ワタシが悦んでいる。
こうして私は、本書の「第二日目」へ歩を進めている。