mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

くたびれるほど飲んだ

2021-08-14 09:38:36 | 日記

 一昨日(8/12)、奥日光へ行って泊まりでおしゃべりしてきた。私の子どものような歳の現役教師・Hさんの招き。彼の家族と一緒。顔を合わせたのは、コロナ禍に襲われる前年だから2019年の1月以来。言葉を交わしたのは、もっと前。5年ぶりくらいになるか。
 彼は劇団を主宰していたが、コロナ禍で目前にした公演が中止となり、劇団員の練習もできなくなった。その後、もっぱら演劇集団の裏方的な若手育成の仕事を「若手」として担っている。子どもが生まれ、もっぱらそちらの方に力が割かれて、それはそれで人生の一面を拓いたようであった。
 6歳と3歳の子どもは対照的。来年小学生になる長女は、大人に対する態度を身につけている。控えめで静か。内気そうだが、歩くときには先頭をゆく私につかず離れず、しっかりとついてくる。妹の方は、そうはいかない。「はい、ご挨拶は?」と言われても、親の後ろに隠れて盗み見るように私を覗きみる。湯の湖畔で姉は、白い小石を拾っては、黒っぽい石に何かを書き付けて蝋石のようになるかどうかを試している。妹はそれをまねて、姉から奪って手にするが、すぐに飽きて、放り出してしまう。姉妹が関わり合いながらの生長していることが見て取れる。
 宿は、食べきれないほどの料理を提供するのが「おもてなし」のセンスに満ちあふれ、子どもたちにまで多すぎるほどの品数を提供する。子どもたちはその心遣いにお構いなく、ご飯と梅干しとか、牛乳やジュースだけでいいという粗食で済む。そういえば私の子どもたちが、小さい孫と一緒に宿で過ごしたときには、子どもの料理はいらないといって、親のものを少しずつ分け与えて、それで十分であったことを思いだした。
 湯の湖畔で遊ぶ子どもたちを傍らに、久々の邂逅を言祝ぐ。彼の近況と共通の知り合いの消息。すでに12年ほど前に母親を亡くした彼の父親の近況は、私とそう歳が変わらないだけあって、我が身の近未来を聞くようだ。長男である彼が同居するようになって、生活の基本的なことを支え、夕食をともにするようになってから、大分危機的な様相が薄くなったという。その後結婚して、嫁も同居し孫が生まれると、昔日の元気を取り戻して、こうして年に何回か、一人になることも平気になったようだ。私とのわずかな違いは、私は山の暮らしを続けてきたから、食べることなどの暮らしの基本は貧相ながらも自立できる。それだけだなと思いながら、花井を聞いている。
 消息の中に、定年間際で故人となったTさんのことを聞く。2年ほど私と同僚であった。その後、演劇のリーダーを務めて公演の場で観客として顔を合わせ、言葉を交わしたこともある。高校時代に相撲部に属していた彼が、大相撲に関心はあるかと私に聞く。あるよ、毎場所、テレビで観戦しているよというと、今度国技館の砂かぶりで観ませんか、ちょっとしたことで私にもその席が手に入るんですよと、にこやかに話す。いいですね、そういう機会があったら声をかけてくださいと言っていたことを思い浮かべる。
 現役教師であるHの演劇先輩リーダーの病没の話も聞く。H同様に演劇集団を率いていて、いつであったか、Hの劇団の公演に友情出演したこともあったと思い起こす。こうか、50代になると、そろそろそういう訣れを知るようになるなあと、我が来し方を振り返る。
 子どもたちを風呂にも入れ、夕食も済ませてから、私の部屋で彼と飲みながら話す。白ワインを開ける。Hは、お酒が得意ではない。ほんの少し付き合い程度に嗜むという品の良さだが、招いた側ということもあったろう、私に付き合ってしっかり飲んだ。3時間ほどの間であったが、白ワインを一本開け、赤ワインを1/3ほど開けた。さすがに翌日彼は、「飲み過ぎました」と寝ぼけ顔でいうほどで、朝風呂にも行かずに1時間ばかりおしゃべりをした。言うまでもないが私は、朝5時半に起きて風呂へ行き、外はしっかりと降る雨、散歩するもならず、持ってきた本を読んで朝食までを過ごした。彼とのおしゃべりを少し楽しんで、9時半にチェックアウトして、帰還したのであった。Hの家族はもう一泊する。
 午後の後半に、近所の公民館で週一のストレッチがある。それに行こう昼食後のテレビを観ていたが、ソファで寝込んでしまった。鼾をかいていたよ、大分くたびれたようねとカミサンにいわれ、あれ、飲み過ぎたかなと思った。ストレッチから帰ってきたとき郵便が届いて、「重要な連絡」と表題された実務封書が光通信会社から来ていた。そうそう電話もあったとかみさんが言う。だが、それを開けて内容確認をしようという気力がわかない。結局今朝まで放置したまんまであった。
 存外、くたびれていたんだね。飲み過ぎたのかもしれない。いや、久々に、飲み過ぎるほどおしゃべりに興じたというか、くたびれるほど飲んだというか。歳をとると、それらも皆、後ほどにわかる。彼岸に到達してから、それはちょっと過ぎるほどであったなと、謎解きがされるというわけだが、残念ながら当人は棺の上空からそのように言葉を交わす人たちを観て知らされるばかりなのかもしれない。