mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

老朽化している日本国憲法に手を付けるか

2020-05-01 14:08:57 | 日記

 今日(5/1 )は私の弟ケンジの誕生日。73歳になった。ケンジのケンの字に「憲」をつかっているのは、誕生の二日後に憲法の発布があったからだ(と思ってきた)。親は、それなりに「新憲法」に関心を寄せていたように、勝手に解釈してきた。憲法もまもなく発布後73年になる。
 振り返ってみれば私の親たちが「新憲法」のことをどう考えていたか、聞いたことがない。押し付けられて不快と思っていた様子はない。当時の新聞に掲載されたであろう「新憲法」の条文に目を通したかどうかも、わからない。それまでの「明治憲法」と大きく違うことはラジオのニュースや新聞の見出しなどで知っていたであろう。それをどう受け止めていたか、戦争のことも親父は口にしなかったし、子ども私も聞いちゃならないことと、憚る気配があった。いま思うと、もっと率直に話を聞けばよかったと思わないでもないが、でも子どもの頃は、私自身がそのような関心を傾けていたわけではない。
 
 だが一つ言えることは、「新憲法」を私たちは、戦争をした大人たちの反省の声のように受け止めていた。敗戦後の「反省」であったから、大転換は当然のことであった。しかも今考えると、アメリカでさえ人種差別を抱えて現実のものになっていなかった「基本的人権」や「民主主義」「平和主義」である。GHQ草案を策定した民政局の若手たちは、世界に類をみない理想的な憲法を作ろうという熱意に燃えて作製に当たったと、のちに担当者が語っているのを聞いたことがある。これはアメリカでも実現していないことを達成しようとした意気込みであった。つまり近代欧米の民主主義過程を通観したときに見ることのできる「理念」が詰め込まれていたと言える。
 
「押しつけ憲法」を主張する人たちは、手続き論や国家主権の状態を取り上げて、GHQの横暴と考えて批判している。GHQのわずか25人の民生局員が一週間で作成したとも言っている。だがその「新憲法」が、日本国のどのような径庭を背景に誕生したかについて、戦争に至った責任を総括して問題にしていない。私らニホンコクはなにも悪いことをしていないのに、GHQに憲法を押し付けられたと言い立てているだけである。ヨーロッパに学んで明治以降の近代化を推進してきたことを考えると、その学び方に置いて、民主政治の「理念」についてどうであったかも組み込んで評価しなければなるまい。そうだとすると、新憲法制定の「素案」が、まことにお粗末であったことについても、自己批判的に総括しなければならなかったのではないかと、いまでも私は、そう思う。
「新憲法」を戦中生まれ・戦後育ちの私たちは、これからの新時代の「理念的指標」と考えてきた。それを根拠に(道しるべと)して「現実」の国内政治や国際関係の変えていかねばならないと、小中学生の頃には考えていたから、これを大人たちの「反省」の結果だと受け止めていたのであった。そしてその内容は、押し付けられたにしては、よくできた「理念」の集大成であった。
 
 だが73年経ってみて今、「日本国憲法」に崇高な「理想」や「理念」を感じるよりは、ボロボロになって佇立している満身創痍の塑像のような感触を抱く。憲法の前文もそう、第九条もそう、教育の保障もそう、労働権もそう、健康で文化的な最低限の生活保障もそう。みな、空文句ばかり。とっくに現実は、それらの条文を虚仮にして、勝手に走り始めている。そもそも憲法が、国家権力を縛るものという立憲政治の理念さえ片隅に追いやられて、見る影もない。文字通り、人が棲まない廃屋のような状態にあると言える。
「憲法」なんてなくてもやっていけるじゃないかと、言わんばかりの宰相を戴いて、平穏無事に暮らしている日々である。だから、いまさら憲法を改訂しようというその宰相には、何か意図があってのことか? と訝しむくらいしか、インパクトがないのである。
 それでも「憲法」の改訂を自らの手でやりたいというほど、私たち国民は「憲法」を必要としている日常を送っているか。いまや「憲法」は(国民生活の)理念的な指標を提示していない。そもそも国の政治に期待する根拠としての力を、もはや持っていないかのようである。何を期待して「憲法」をいじる必要があるのか。もう静かに、老朽化した姿のままに、眠らせておいてやれと、言ってもいいくらいじゃないか。そう暴論を吐きたくなるほど、立法も行政もまして司法も長年かけて集積してきた尊大な「権威」と「権力」の保持だけを考えて、エリートたちの自己保存装置に成り下がっている。
 もし期待があるとすると、むしろ、地方自治にわずかながらの糸口があるように感じる。中央政府は、国家という装置は世襲的政治家諸氏の特権身分専有装置に成り下がっている。国家と社会が分かれてしまった現在、私たちは再び、中央政府に側につかない地方政府を再生するようにして、自前の暮らしができるように社会設計をするほかないのかもしれない。
 
 弟には、憲法みたいにへこたれるなよと、励ましの声でもかけようか。