清凉寺(嵯峨阿弥陀堂)の境内にはもうひとつお寺があります。
それは『竜蟠山 嵯峨薬師寺』。
819(弘仁9)年に建立された嵯峨天皇の勅願寺です。
普段は一般公開されていませんが、年に一度、8月24日の地蔵盆には
誰でも入れるそうです。
〈本堂〉
嵯峨薬師寺は清凉寺の西門を入ってすぐ左手、狂言堂の向いです。
〈清凉寺西門〉
嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺(嵯峨御所)の保護を受けていましたが、
明治時代以後は大覚寺・真言宗を離れ、現在は浄土宗知恩院派に
属しています。本尊は「心経秘鍵薬師如来像」。
世に疫病が蔓延し、これを憂慮した嵯峨天皇は、弘法大師空海に
薬師如来像を彫ることを命じ、弘法大師が一刀三礼して刻んだ
薬師如来像と伝えられています。
秘仏であり、勅封仏とされて勅命が無いとご開帳出来ませんでした。
その上、厨子の開閉は大覚寺の手で行われ、嵯峨薬師寺の住職は
開くことも許されなかったと言われています。
現在は地蔵盆の日(8月24日)に、拝観できるようです。
かつては厳重な秘仏が、年に一度とはいえ見られるのはスクープ?
〈日月門〉
嵯峨薬師寺の山門です。本堂と並んで建っている、本堂には入れませんが
こちらは入れるので、ちょっと覗いてみます。
〈三地蔵と庫裏〉
庫裏(くり)の手前に三地蔵尊像がありました。
〈三地蔵尊像〉
このお寺には寺宝としてご本尊の他、「嵯峨天皇像」や「阿弥陀三尊像」
などと「生六道地蔵菩薩像」があるのですが、この石仏はその分身?
右より瑠璃光地蔵菩薩像、生六道地蔵菩薩の分身、夕霧地蔵菩薩像。
貴重な仏像群、本堂を覗くと普段でも写真だけは見られます。
〈生(しょう)の六道・石碑〉
さて、だいたい清凉寺を訪ねたのも、これを見に来たかったからです。
今は石碑だけだけど・・・(^_^ゞ
かつてこの近くに小野篁(おののたかむら)由縁の「福生寺」という
お寺があり「生(しょう)の六道」と称されていました。
明治になりこの嵯峨薬師寺に合併され、廃寺となりました。その際、
いくつかの仏像が移され、生六道地蔵菩薩像もそのひとつです。
あの世とこの世とを自在に行き来できた…などの伝説を持つ小野篁。
平安時代前期の公卿・文人ですが、謎の多い興味深い人物ですね。
その小野篁、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ
出かけて閻魔王の仕事を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺に
ある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常だったそうです。
このため六道珍皇寺は「死の六道」、福正寺は「生の六道」と
呼ばれています。
〈六道珍皇寺・2009.8/9撮影〉
ここには『以前行ったこと』があります。ちょうど六道参りの時期でした。
六道珍皇寺の庭には「冥土通いの井戸」が残されています。さらに
近年、隣接の旧境内で「黄泉がえりの井戸」が発見されたとか。
元祖?福正寺の「黄泉がえりの井戸」はといえば、宅地の開発の際に
7基の井戸が発掘された。ただしこの井戸は間もなく埋め戻され、
宅地となっているそうです。残念ながら井戸の跡は見られません。
昼は朝廷の役職をこなし、夜は閻魔さまの右腕として冥官をこなす
篁さん、あるとき地獄に赴いた際、猛火の中で苦しむ亡者を救い、
その身代わりとなって自ら焼かれている地蔵菩薩のお姿を見ました。
篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、
冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうです。
京都では、8月の13日から始まり16日の五山の送り火に終る
盂蘭盆(うらぼん)の前に、7日から10日までの4日間に精霊を迎える
ために六道珍皇寺に参詣する風習があります。これを「六道まいり」
あるいは「お精霊(しょらい)さん迎え」と言うのですが、
五山の送り火を終えても冥土に帰られてないお精霊さんもいるようで
そのため8月24日には最後の送り火が行なわれます。
嵯峨薬師寺で行なわれる地蔵盆はそう言う意味があるようです。
この日、年に一度だけ公開される本堂の小野篁が刻んだという
生六道地蔵菩薩像の前には、「湯葉でこさえられた帆の立っている
七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が
供えられています。
この船に「お精霊さん」を乗せて、彼岸へ送りだすという信仰です。
この時の火が京都最後の送り火となるのだとか。
ちょっと大人の地蔵盆が味わえそうですね、ぜひ来年は・・・(^_^ゞ
さて、怪奇なヒーロー?小野篁に少し触れられた(石碑だけやったけど)
ことだし、また清凉寺に戻ります。
〈秀頼公首塚〉
薬師寺の隣りには「大坂の陣諸供養の碑」とともに豊臣秀頼公の
首塚があります。昭和55年に大阪城・三の丸跡地の発掘現場から
出土した豊臣秀頼の首を、昭和58年、ここに納められたもので、
首に介錯の跡があるそうです。このお寺とは秀頼公が再興に力を
入れていたことの由縁からです。
この先は方丈庭園(有料拝観)かな
〈桂昌院殿遺愛の井戸〉
井戸と言えば・・・と、一瞬思いましたがこちらは五代将軍
徳川綱吉の生母、桂昌院のエピソードがあるのかな?
ま、このお寺の再興を実現したのは桂昌院でしたからね・・・
〈本堂と方丈をつなぐ渡り廊下でしょうか〉
〈放生池(ほうじょうち)と弁天堂〉
中には入らなかったのですが、秋には結構きれいそうなお庭です。
拝観料を払って本堂で「三国伝来の釈迦如来像」をお参りし、
放生池と弁天堂を眺めながら渡り廊下を進むと方丈に行けるようです。
本堂の東後方には、方丈と庫裡そして澄泉閣が並んでいます。
〈渡り廊下の下からちらっと弁天堂を眺める〉
〈阿弥陀堂の前から本堂〉
歴史のエピソードが詰まっていて、見どころもいっぱい。
いつかまた紅葉のシーズンにでも訪れてみたい寺院でした。
2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。
それは『竜蟠山 嵯峨薬師寺』。
819(弘仁9)年に建立された嵯峨天皇の勅願寺です。
普段は一般公開されていませんが、年に一度、8月24日の地蔵盆には
誰でも入れるそうです。
〈本堂〉
嵯峨薬師寺は清凉寺の西門を入ってすぐ左手、狂言堂の向いです。
〈清凉寺西門〉
嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺(嵯峨御所)の保護を受けていましたが、
明治時代以後は大覚寺・真言宗を離れ、現在は浄土宗知恩院派に
属しています。本尊は「心経秘鍵薬師如来像」。
世に疫病が蔓延し、これを憂慮した嵯峨天皇は、弘法大師空海に
薬師如来像を彫ることを命じ、弘法大師が一刀三礼して刻んだ
薬師如来像と伝えられています。
秘仏であり、勅封仏とされて勅命が無いとご開帳出来ませんでした。
その上、厨子の開閉は大覚寺の手で行われ、嵯峨薬師寺の住職は
開くことも許されなかったと言われています。
現在は地蔵盆の日(8月24日)に、拝観できるようです。
かつては厳重な秘仏が、年に一度とはいえ見られるのはスクープ?
〈日月門〉
嵯峨薬師寺の山門です。本堂と並んで建っている、本堂には入れませんが
こちらは入れるので、ちょっと覗いてみます。
〈三地蔵と庫裏〉
庫裏(くり)の手前に三地蔵尊像がありました。
〈三地蔵尊像〉
このお寺には寺宝としてご本尊の他、「嵯峨天皇像」や「阿弥陀三尊像」
などと「生六道地蔵菩薩像」があるのですが、この石仏はその分身?
右より瑠璃光地蔵菩薩像、生六道地蔵菩薩の分身、夕霧地蔵菩薩像。
貴重な仏像群、本堂を覗くと普段でも写真だけは見られます。
〈生(しょう)の六道・石碑〉
さて、だいたい清凉寺を訪ねたのも、これを見に来たかったからです。
今は石碑だけだけど・・・(^_^ゞ
かつてこの近くに小野篁(おののたかむら)由縁の「福生寺」という
お寺があり「生(しょう)の六道」と称されていました。
明治になりこの嵯峨薬師寺に合併され、廃寺となりました。その際、
いくつかの仏像が移され、生六道地蔵菩薩像もそのひとつです。
あの世とこの世とを自在に行き来できた…などの伝説を持つ小野篁。
平安時代前期の公卿・文人ですが、謎の多い興味深い人物ですね。
その小野篁、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ
出かけて閻魔王の仕事を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺に
ある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常だったそうです。
このため六道珍皇寺は「死の六道」、福正寺は「生の六道」と
呼ばれています。
〈六道珍皇寺・2009.8/9撮影〉
ここには『以前行ったこと』があります。ちょうど六道参りの時期でした。
六道珍皇寺の庭には「冥土通いの井戸」が残されています。さらに
近年、隣接の旧境内で「黄泉がえりの井戸」が発見されたとか。
元祖?福正寺の「黄泉がえりの井戸」はといえば、宅地の開発の際に
7基の井戸が発掘された。ただしこの井戸は間もなく埋め戻され、
宅地となっているそうです。残念ながら井戸の跡は見られません。
昼は朝廷の役職をこなし、夜は閻魔さまの右腕として冥官をこなす
篁さん、あるとき地獄に赴いた際、猛火の中で苦しむ亡者を救い、
その身代わりとなって自ら焼かれている地蔵菩薩のお姿を見ました。
篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、
冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうです。
京都では、8月の13日から始まり16日の五山の送り火に終る
盂蘭盆(うらぼん)の前に、7日から10日までの4日間に精霊を迎える
ために六道珍皇寺に参詣する風習があります。これを「六道まいり」
あるいは「お精霊(しょらい)さん迎え」と言うのですが、
五山の送り火を終えても冥土に帰られてないお精霊さんもいるようで
そのため8月24日には最後の送り火が行なわれます。
嵯峨薬師寺で行なわれる地蔵盆はそう言う意味があるようです。
この日、年に一度だけ公開される本堂の小野篁が刻んだという
生六道地蔵菩薩像の前には、「湯葉でこさえられた帆の立っている
七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が
供えられています。
この船に「お精霊さん」を乗せて、彼岸へ送りだすという信仰です。
この時の火が京都最後の送り火となるのだとか。
ちょっと大人の地蔵盆が味わえそうですね、ぜひ来年は・・・(^_^ゞ
さて、怪奇なヒーロー?小野篁に少し触れられた(石碑だけやったけど)
ことだし、また清凉寺に戻ります。
〈秀頼公首塚〉
薬師寺の隣りには「大坂の陣諸供養の碑」とともに豊臣秀頼公の
首塚があります。昭和55年に大阪城・三の丸跡地の発掘現場から
出土した豊臣秀頼の首を、昭和58年、ここに納められたもので、
首に介錯の跡があるそうです。このお寺とは秀頼公が再興に力を
入れていたことの由縁からです。
この先は方丈庭園(有料拝観)かな
〈桂昌院殿遺愛の井戸〉
井戸と言えば・・・と、一瞬思いましたがこちらは五代将軍
徳川綱吉の生母、桂昌院のエピソードがあるのかな?
ま、このお寺の再興を実現したのは桂昌院でしたからね・・・
〈本堂と方丈をつなぐ渡り廊下でしょうか〉
〈放生池(ほうじょうち)と弁天堂〉
中には入らなかったのですが、秋には結構きれいそうなお庭です。
拝観料を払って本堂で「三国伝来の釈迦如来像」をお参りし、
放生池と弁天堂を眺めながら渡り廊下を進むと方丈に行けるようです。
本堂の東後方には、方丈と庫裡そして澄泉閣が並んでいます。
〈渡り廊下の下からちらっと弁天堂を眺める〉
〈阿弥陀堂の前から本堂〉
歴史のエピソードが詰まっていて、見どころもいっぱい。
いつかまた紅葉のシーズンにでも訪れてみたい寺院でした。
2015.7/20、清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて。