何のこっちゃ分からんタイトルですが、今度は正面通り界隈を
うろうろしてみました。
正面通りって? 京都の東西を走る路なんですが・・・
例の「京の通り名おぼえ唄」には出てこない。
丸・竹・夷・二・押・御池、姉・三・六角・蛸・錦、
四・綾・仏・高・松・万・五条、雪駄・ちゃらちゃら・魚の棚、
六条・三哲・通りすぎ、七条、越えれば、八・九条、
十条、東寺でとどめさす。
六条通と七条通の間なんですがね、歌詞にはありません。
「三哲」は現在の塩小路通のことです。
この正面通り、平安京には無かった。豊臣秀吉が造った路ですからね。
今の京都の街は秀吉が再興した街と言っても過言じゃないです。
応仁の乱、戦国時代によって焦土と化し、都の面影は全く無く惨憺たる
有り様だったようで、御所も廃墟のようだったとか。
鎌倉(源氏)・室町(足利氏)のように幕府を開かず、朝廷から地位を
得て天下統一を図った秀吉、大阪城築城とともに京都の街を復興?蹂躙?
都を完全支配するため大改造、復興に乗り出します。
街を守るため城塞化する御土居、御所の修築、聚楽第の創築。
天正の地割りと言われる京都改造を行ないました。新しい路を造り
寺院なども強制移転させ寺町を形成し、職業別に地区を割り当てる
近世城下町的な都市形態にしました。
現在、大和大路から千本通まで途切れ途切れに走る「正面通り」、
豊臣秀吉が京都に残した興味深い足跡のひとつです。
その起点になるのが方広寺(ほうこうじ)と豊国(とよくに)神社。
〈後陽成天皇宸筆による『豊国大明神』の勅額〉オリジナルは唐門に。
〈手水舎・五七の桐紋〉
秀吉は、天正14年(1586)松永弾正(久秀)の焼き討ちにより焼損した
東大寺大仏に代わる大仏を京都に造立することを発願。
文禄4年(1595)、ここに造られた大仏殿は、高さ約49メートル、
南北約88メートル、東西約54メートルという史上最大級の木造建築。
境内も現在の方広寺・豊国神社境内のみならず、京都国立博物館、
妙法院、智積院、三十三間堂まで含む広大なものでした。
盧舎那仏(大仏)も奈良の14mを上回る19m、市内を見守るように
西向きに置かれました。その先に真っ直ぐな道路(後に正面通りと
呼ばれる)を敷き、突き当たりに本願寺(西本願寺)を建てました。
当時の本願寺は大宮通から千本通まであり、その先に今のように
正面通りはありませんでした。
〈豊国神社 唐門・国宝〉
大仏はというと、開眼法要前に京都を襲った大地震によって
完成1年後に崩壊、秀吉もその2年後に亡くなってしまいます。
大仏殿と本願寺(西本願寺)を繋ぐ正面通りは、徳川によって
建てられた真宗本廟(東本願寺)で、寸断されてしまいます。
〈唐門・石灯籠〉
〈唐門・目無しの鶴〉
秀吉はその遺言により東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られ、その麓に
秀吉を神「豊国大明神」として祀る神社が創建されたのが、豊国神社の
始まり。今よりずっと東の位置にありました。
大坂夏の陣で豊臣家滅亡の後は、家康によって神号は廃され社領も没収。
秀吉の正妻、北政所ねねの願いで社殿だけは残されましたが、参道上に
新日吉神宮(いまひえじんぐう)をわざわざ移設、参道を塞いでしまい
社殿は放置され荒廃していったようです。
江戸時代はついに復興されることなく、維新になリ明治天皇が秀吉を
「天下統一を果たしたが、幕府を作らず天皇を尊重した人物」と
再評価、1880年(明治13年)現在の場所に社殿が再建されました。
唐門の左右にある古い石灯篭。これは秀吉に仕えた武将達から
寄進されたもので、創建当初は56基もあり豊臣の威光の大きさを
知らしめましたが、今は8基が現存するのみです。
再建にあたり、南禅寺の塔頭・金地院から移された唐門。西本願寺、
大徳寺の唐門と並び、国宝三唐門に数えられる見事な門ですが
もともと伏見城の城門であったと伝えられています。
欄間の彫刻に左甚五郎作の鶴が三羽ありますが、いずれも目が彫られて
いません。目を彫ると飛び立って行くからだそうで・・・
〈唐門から拝殿、その奥に本殿〉
本殿横には北政所ねねを祀る貞照(さだてる)神社があります。
〈千成ひょうたん絵馬〉秀吉の馬印にちなんで。
〈十二支みくじ〉
十二支の変わりみくじが揃えられるのは、ここだけかな?
私は巳年ですが、今年の干支「申」、秀吉のあだ名「猿」にちなんで
猿の変わりみくじをお持ち帰り♪
みくじの内容には興味が無いのですが、「大吉」でしたよ。(^_^ゞ
さて、隣りには「方広寺」があります。豊国神社との境は無いですが。
〈方広寺 本堂・大黒天堂〉
〈花天井〉
大黒天堂には極彩色の天井画があるようです。写真の花天井は
平成になってからのものだとか。
何と言ってもここには、あの有名な鐘が・・・
日本史上最大のなんくせ?いちゃもん?いいがかり・・・
方広寺鐘銘事件の梵鐘、これに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の
銘文に家康が因縁をつけ、大阪冬の陣、夏の陣で大阪城を攻め
豊臣家を滅亡に追いやったきっかけですね。
この事件から遡ること14年前、家康は関ヶ原の戦いで勝利し、実質的に
天下を取ったようですが、それはあくまで豊臣の家臣としての話。
関ヶ原でも豊臣家を逆臣石田三成から守るという大義名分で戦った。
下手に豊臣を攻めようものなら、第二の明智光秀になりかねない・・・
虎視眈々とチャンスを窺い、豊臣の力を弱めるため秀頼、淀(茶々)に
各地の神社仏閣の再興、寄進を進言。この方広寺もその内のひとつ。
莫大なお金を使わすも、一向に豊臣の経済力は弱まらず、
家康自身はすでに73歳、跡継ぎはぼんくら・・・
それに反して豊臣秀頼は21歳(年齢は1914年冬の陣の時点)、頭脳明晰、
帝王教育をうけた天下人として立派に見え、家康は焦りまくり?
無理からでも豊臣家を滅ぼすきっかけを掴んだってことでしょうね。
〈方広寺 鐘楼、梵鐘・重文〉
鐘楼にも草花や鳥獣と人の現世・来世を描いた天井画が残されています。
知恩院・東大寺の梵鐘と並び日本の三大梵鐘と言われます。
扉が閉ざされていたので、中に入れず梵鐘の内側まで見られません
でしたが、内側には何やら淀君の恨みの姿が浮かんで見えるとか!
京男さんが写真を撮られてました。
さて、豊国神社・方広寺の駐車場にクルマを停めたのですが、
参拝者のみ無料、境内からは出ないようにと・・・監視の方も居ます。
しかもちょうど私のクルマの横に。(^_^ゞ
仕方が無いので、家内をクルマに残し私だけ境内を出て・・・
〈耳塚〉
あ、ちゃんと係の方にもことわりを入れましたよ。
耳塚の写真を撮りに行っても良いですかって。(^_^ゞ
横にある耳塚公園、どう見ても児童公園。この意味を知っていたら
はしゃげないかも・・・
方広寺から正面通を西へ100m。高さ約7メートルの墳丘で、天辺に
五輪の石塔が立っています。
織田信長が描いた大陸支配の夢を実現しようとした豊臣秀吉が、
朝鮮半島に出兵・侵攻した文禄・慶長の役の際、戦功の証しとして
討取った朝鮮・明国兵の首級の代わりに、耳や鼻を削ぎ塩漬けにして
持ち帰ったものを供養した塚です。
その数、なんと12万6千人分とも言われています。残忍なようで
複雑な気分になりますが、秀吉は敵を弔い供養するため、
京都五山の僧を集め盛大な法要を行っています。
耳塚の写真を撮るだけの約束ですが、ちらっと近くの町家の写真も…
〈なかにしや京扇〉
〈甘春堂(かんしゅんどう)〉
創業1865年、現在6代目だそうです。2代目が創作した「茶寿器」って
菓子が最近も話題になっていましたね。一見、抹茶茶碗に見えて
お薄も点てられますが、バリッとかじって食べてしまえる。
ちょっとビックリする可笑しなお菓子です。(^_^ゞ
本店は川端通正面の角、ここは豊国神社前・東店。それと清凉寺前に
嵯峨野店があります。
本店は正面橋東詰め、ちなみに五条大橋と七条大橋の間にはこの橋しか
ありません。一条は一条戻橋と呼びますが、二条から七条までは大橋と
なっているのに六条大橋はありません。六条通も河原町から堀川までの
わずかな間、実質的には烏丸までかな。その先は車も入れませんし。
さて、正面通りレポ、次回は西本願寺の無料駐車場に停めて・・・
2016.1/11、方広寺にて。
うろうろしてみました。
正面通りって? 京都の東西を走る路なんですが・・・
例の「京の通り名おぼえ唄」には出てこない。
丸・竹・夷・二・押・御池、姉・三・六角・蛸・錦、
四・綾・仏・高・松・万・五条、雪駄・ちゃらちゃら・魚の棚、
六条・三哲・通りすぎ、七条、越えれば、八・九条、
十条、東寺でとどめさす。
六条通と七条通の間なんですがね、歌詞にはありません。
「三哲」は現在の塩小路通のことです。
この正面通り、平安京には無かった。豊臣秀吉が造った路ですからね。
今の京都の街は秀吉が再興した街と言っても過言じゃないです。
応仁の乱、戦国時代によって焦土と化し、都の面影は全く無く惨憺たる
有り様だったようで、御所も廃墟のようだったとか。
鎌倉(源氏)・室町(足利氏)のように幕府を開かず、朝廷から地位を
得て天下統一を図った秀吉、大阪城築城とともに京都の街を復興?蹂躙?
都を完全支配するため大改造、復興に乗り出します。
街を守るため城塞化する御土居、御所の修築、聚楽第の創築。
天正の地割りと言われる京都改造を行ないました。新しい路を造り
寺院なども強制移転させ寺町を形成し、職業別に地区を割り当てる
近世城下町的な都市形態にしました。
現在、大和大路から千本通まで途切れ途切れに走る「正面通り」、
豊臣秀吉が京都に残した興味深い足跡のひとつです。
その起点になるのが方広寺(ほうこうじ)と豊国(とよくに)神社。
〈後陽成天皇宸筆による『豊国大明神』の勅額〉オリジナルは唐門に。
〈手水舎・五七の桐紋〉
秀吉は、天正14年(1586)松永弾正(久秀)の焼き討ちにより焼損した
東大寺大仏に代わる大仏を京都に造立することを発願。
文禄4年(1595)、ここに造られた大仏殿は、高さ約49メートル、
南北約88メートル、東西約54メートルという史上最大級の木造建築。
境内も現在の方広寺・豊国神社境内のみならず、京都国立博物館、
妙法院、智積院、三十三間堂まで含む広大なものでした。
盧舎那仏(大仏)も奈良の14mを上回る19m、市内を見守るように
西向きに置かれました。その先に真っ直ぐな道路(後に正面通りと
呼ばれる)を敷き、突き当たりに本願寺(西本願寺)を建てました。
当時の本願寺は大宮通から千本通まであり、その先に今のように
正面通りはありませんでした。
〈豊国神社 唐門・国宝〉
大仏はというと、開眼法要前に京都を襲った大地震によって
完成1年後に崩壊、秀吉もその2年後に亡くなってしまいます。
大仏殿と本願寺(西本願寺)を繋ぐ正面通りは、徳川によって
建てられた真宗本廟(東本願寺)で、寸断されてしまいます。
〈唐門・石灯籠〉
〈唐門・目無しの鶴〉
秀吉はその遺言により東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られ、その麓に
秀吉を神「豊国大明神」として祀る神社が創建されたのが、豊国神社の
始まり。今よりずっと東の位置にありました。
大坂夏の陣で豊臣家滅亡の後は、家康によって神号は廃され社領も没収。
秀吉の正妻、北政所ねねの願いで社殿だけは残されましたが、参道上に
新日吉神宮(いまひえじんぐう)をわざわざ移設、参道を塞いでしまい
社殿は放置され荒廃していったようです。
江戸時代はついに復興されることなく、維新になリ明治天皇が秀吉を
「天下統一を果たしたが、幕府を作らず天皇を尊重した人物」と
再評価、1880年(明治13年)現在の場所に社殿が再建されました。
唐門の左右にある古い石灯篭。これは秀吉に仕えた武将達から
寄進されたもので、創建当初は56基もあり豊臣の威光の大きさを
知らしめましたが、今は8基が現存するのみです。
再建にあたり、南禅寺の塔頭・金地院から移された唐門。西本願寺、
大徳寺の唐門と並び、国宝三唐門に数えられる見事な門ですが
もともと伏見城の城門であったと伝えられています。
欄間の彫刻に左甚五郎作の鶴が三羽ありますが、いずれも目が彫られて
いません。目を彫ると飛び立って行くからだそうで・・・
〈唐門から拝殿、その奥に本殿〉
本殿横には北政所ねねを祀る貞照(さだてる)神社があります。
〈千成ひょうたん絵馬〉秀吉の馬印にちなんで。
〈十二支みくじ〉
十二支の変わりみくじが揃えられるのは、ここだけかな?
私は巳年ですが、今年の干支「申」、秀吉のあだ名「猿」にちなんで
猿の変わりみくじをお持ち帰り♪
みくじの内容には興味が無いのですが、「大吉」でしたよ。(^_^ゞ
さて、隣りには「方広寺」があります。豊国神社との境は無いですが。
〈方広寺 本堂・大黒天堂〉
〈花天井〉
大黒天堂には極彩色の天井画があるようです。写真の花天井は
平成になってからのものだとか。
何と言ってもここには、あの有名な鐘が・・・
日本史上最大のなんくせ?いちゃもん?いいがかり・・・
方広寺鐘銘事件の梵鐘、これに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の
銘文に家康が因縁をつけ、大阪冬の陣、夏の陣で大阪城を攻め
豊臣家を滅亡に追いやったきっかけですね。
この事件から遡ること14年前、家康は関ヶ原の戦いで勝利し、実質的に
天下を取ったようですが、それはあくまで豊臣の家臣としての話。
関ヶ原でも豊臣家を逆臣石田三成から守るという大義名分で戦った。
下手に豊臣を攻めようものなら、第二の明智光秀になりかねない・・・
虎視眈々とチャンスを窺い、豊臣の力を弱めるため秀頼、淀(茶々)に
各地の神社仏閣の再興、寄進を進言。この方広寺もその内のひとつ。
莫大なお金を使わすも、一向に豊臣の経済力は弱まらず、
家康自身はすでに73歳、跡継ぎはぼんくら・・・
それに反して豊臣秀頼は21歳(年齢は1914年冬の陣の時点)、頭脳明晰、
帝王教育をうけた天下人として立派に見え、家康は焦りまくり?
無理からでも豊臣家を滅ぼすきっかけを掴んだってことでしょうね。
〈方広寺 鐘楼、梵鐘・重文〉
鐘楼にも草花や鳥獣と人の現世・来世を描いた天井画が残されています。
知恩院・東大寺の梵鐘と並び日本の三大梵鐘と言われます。
扉が閉ざされていたので、中に入れず梵鐘の内側まで見られません
でしたが、内側には何やら淀君の恨みの姿が浮かんで見えるとか!
京男さんが写真を撮られてました。
さて、豊国神社・方広寺の駐車場にクルマを停めたのですが、
参拝者のみ無料、境内からは出ないようにと・・・監視の方も居ます。
しかもちょうど私のクルマの横に。(^_^ゞ
仕方が無いので、家内をクルマに残し私だけ境内を出て・・・
〈耳塚〉
あ、ちゃんと係の方にもことわりを入れましたよ。
耳塚の写真を撮りに行っても良いですかって。(^_^ゞ
横にある耳塚公園、どう見ても児童公園。この意味を知っていたら
はしゃげないかも・・・
方広寺から正面通を西へ100m。高さ約7メートルの墳丘で、天辺に
五輪の石塔が立っています。
織田信長が描いた大陸支配の夢を実現しようとした豊臣秀吉が、
朝鮮半島に出兵・侵攻した文禄・慶長の役の際、戦功の証しとして
討取った朝鮮・明国兵の首級の代わりに、耳や鼻を削ぎ塩漬けにして
持ち帰ったものを供養した塚です。
その数、なんと12万6千人分とも言われています。残忍なようで
複雑な気分になりますが、秀吉は敵を弔い供養するため、
京都五山の僧を集め盛大な法要を行っています。
耳塚の写真を撮るだけの約束ですが、ちらっと近くの町家の写真も…
〈なかにしや京扇〉
〈甘春堂(かんしゅんどう)〉
創業1865年、現在6代目だそうです。2代目が創作した「茶寿器」って
菓子が最近も話題になっていましたね。一見、抹茶茶碗に見えて
お薄も点てられますが、バリッとかじって食べてしまえる。
ちょっとビックリする可笑しなお菓子です。(^_^ゞ
本店は川端通正面の角、ここは豊国神社前・東店。それと清凉寺前に
嵯峨野店があります。
本店は正面橋東詰め、ちなみに五条大橋と七条大橋の間にはこの橋しか
ありません。一条は一条戻橋と呼びますが、二条から七条までは大橋と
なっているのに六条大橋はありません。六条通も河原町から堀川までの
わずかな間、実質的には烏丸までかな。その先は車も入れませんし。
さて、正面通りレポ、次回は西本願寺の無料駐車場に停めて・・・
2016.1/11、方広寺にて。