書名 新劇とロシア演劇-築地小劇場の異文化接触
著者 武田清 出版社 而立書房 出版年 2012
タイトルを見ると、正直えっという感じがする、いまどき死語ともいえるふたつの単語がくっついてしまった、しかも副題に至っては誰が知っているのだろう築地小劇場なんて、こんなことをいまさらとりあげるのはどうなのかなと最初思ってしまったことを正直に告白する。
でも中身は全然時代錯誤になっていないし、実に刺激的な論考を集めた演劇論集となっていた。
それは何故か、日本の演劇界(新劇)が、メイエルホリドのビオメハニカを、そしてエブレイノフのモノドラマをなぜあれだけ猛烈に知ろうとしたなかに、時代と演劇という宿命的な問題が透けて見えてくることもあるが、そこには演劇の手法を乗りこえた本質的な問題があったのではないかということまで迫っているからだと思う。それは日本の新劇というフィルターを一度通すことによって見えてきたものといえるかもしれない。メイエルホリドの粛清と杉本良吉と岡田嘉子のロシア脱出について、ソ連解体後新資料が次々暴かれるなか、当時いろいろ言われたことについて、岡田が永遠に伏せようとしたことにも言及しながら、その真実について迫る論考には迫力を感じた。ここまで言及した人はいないのではないだろうか。
エブレイノフのモノドラマに触れながら、救いの道化という視点から分析を試みた論考も刺激的であった。ロシアのキャバレー演劇の発生からネップ期までを緻密にたどった論考も書かれた時代は相当古いのだが、いまこれだけまとめてこうした歴史を辿れたという意味でも非常に参考になった。
そしてこれは自分にとってはまったく未知の世界だったのだが、ネップ期に書かれた戯曲の紹介分析は、面白かった。これだけ実に奥行きのある、グロテスクナ喜劇がこの時代に書かれていたということは、逆にネップ期というのはいろいろな可能性を問いかけることができた、ソビエト演劇史のなかでも、実り豊かな時代といえるのではないかという気さえしてくる。
ロシア演劇を日本の新劇がどう受けとめようとしたのかという、きわめて歴史的な切り口にみえるやりかたで、逆に歴史を超えるような本質的も問題を提出することができたのではないだろうか、だからこそメイエルホリドもエブレイノフもこの書のなかでは、実に生き生きとしていた。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=deracinetuush-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=488059363X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
著者 武田清 出版社 而立書房 出版年 2012
タイトルを見ると、正直えっという感じがする、いまどき死語ともいえるふたつの単語がくっついてしまった、しかも副題に至っては誰が知っているのだろう築地小劇場なんて、こんなことをいまさらとりあげるのはどうなのかなと最初思ってしまったことを正直に告白する。
でも中身は全然時代錯誤になっていないし、実に刺激的な論考を集めた演劇論集となっていた。
それは何故か、日本の演劇界(新劇)が、メイエルホリドのビオメハニカを、そしてエブレイノフのモノドラマをなぜあれだけ猛烈に知ろうとしたなかに、時代と演劇という宿命的な問題が透けて見えてくることもあるが、そこには演劇の手法を乗りこえた本質的な問題があったのではないかということまで迫っているからだと思う。それは日本の新劇というフィルターを一度通すことによって見えてきたものといえるかもしれない。メイエルホリドの粛清と杉本良吉と岡田嘉子のロシア脱出について、ソ連解体後新資料が次々暴かれるなか、当時いろいろ言われたことについて、岡田が永遠に伏せようとしたことにも言及しながら、その真実について迫る論考には迫力を感じた。ここまで言及した人はいないのではないだろうか。
エブレイノフのモノドラマに触れながら、救いの道化という視点から分析を試みた論考も刺激的であった。ロシアのキャバレー演劇の発生からネップ期までを緻密にたどった論考も書かれた時代は相当古いのだが、いまこれだけまとめてこうした歴史を辿れたという意味でも非常に参考になった。
そしてこれは自分にとってはまったく未知の世界だったのだが、ネップ期に書かれた戯曲の紹介分析は、面白かった。これだけ実に奥行きのある、グロテスクナ喜劇がこの時代に書かれていたということは、逆にネップ期というのはいろいろな可能性を問いかけることができた、ソビエト演劇史のなかでも、実り豊かな時代といえるのではないかという気さえしてくる。
ロシア演劇を日本の新劇がどう受けとめようとしたのかという、きわめて歴史的な切り口にみえるやりかたで、逆に歴史を超えるような本質的も問題を提出することができたのではないだろうか、だからこそメイエルホリドもエブレイノフもこの書のなかでは、実に生き生きとしていた。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=deracinetuush-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=488059363X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>