『虚空の辰刻(とき)』 目次
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- 虚空の辰刻(とき)- 第144回
成人を既に迎えているのだから親など二の次だろう。 独立して一人で暮らしていてもおかしくない歳なのだから、他人が口を挟むところではない。
だが息子の二歳下と聞かされても、本人が21歳と言っても、この誠也の父親は頭ではわかっていても心が自分の感性に正直だった。
「・・・」
「心配してらっしゃるんじゃない?」
紫揺の何を分かっているわけではなかったが、こんな小さな子が一人で真夜中に面識のない人間の船に乗るなどと有り得ない。 それにどうして一人で船に乗って来たのかも分からない。
「・・・父と母は・・・」
“父と母?” 幼い子が言う言葉ではない。 というような顔をして父親が聞いていたが、紫揺の言葉が止まってしまった。
「紫揺ちゃん?」
バックミラーに映っていた紫揺が頭を下げたのを見て思わず名前を呼んだ。 助手席でも誠也が、どうしたのか? という顔をしている。
「・・・亡くなりました」
「え?」
助手席から声が漏れた。
「私には父も母もいません。 親戚縁者も。 だから誰も心配なんかしていません」
手に持っていたメモをもう一度ポケットに押し込んだ。 今じゃなく、あとで渡そうと。
「・・・悪かったね。 嫌なことを訊いちゃった」
「いえ、そういうつもりで言ったんじゃないですから」
そうか、と小さく言うと一呼吸おいて続けた。
「でもね」
「はい」
「紫揺ちゃんのことを心配している人は、いなくなんてないんだよ」
長年培ってきた話術が出たのか心の底からなのか、絶好の間をおいて少しトーンを落として一言いった。
「いるよ」
「・・・え」
「おじさんは、紫揺ちゃんの周りにどんな人が居るのかは知らないが、少なくともその中に紫揺ちゃんのことを想っている人が居るはずだ。 心配をされていると思うよ。 おじさんなんて、ちょっと前に紫揺ちゃんに会っただけじゃない? それでも紫揺ちゃんのことを心配しているよ」
「おじさん・・・」
「紫揺ちゃんが、男に囲まれてるのを見た途端、走りだしたんだからな」
「え?」
「すぐに足が絡まってこけたけど」
「お前っ! 要らんことを言うんじゃない!」
「おじさん」
「最寄り駅になんかに降ろさないよ。 金沢駅に行こう」
「え? でも遠いんじゃ」
地理はよく分からないし、今自分がどこに居るかも分からない。 だが、改めて最寄り駅ではなく、どこどこの駅と言われれば、少なくとも最寄り駅より遠いことは分かる。
「九州方面に帰るんだろ? 金沢駅からだったら在来線を使わなくてもいいから。 サンダーバードで京都駅か新大阪駅まで出て、それから新幹線に乗り換えればいい。 しらさぎって手もあるけどね、サンダーバードの方がいいだろう。 紫揺ちゃんの持っている諭吉さんで足りるから心配しなくていいよ」
「よく知ってんだな」
「ちょっと前まで会社員だったんだからな。 出張もあるわな」
「ふーん」
口を尖らせて言うと後ろを振り返った。
「紫揺ちゃん、言っただろ? 親父のやりたいようにさせてもらえないかな?」
本心ではなかった。 いや、少し前までは本心だったが。
紫揺が父親の心配をし懸命に足をマッサージする姿を見て・・・父親が許せなかった。 いや、そうではない。 許せないのではなく “甘えんな!” そう思った。 最初は。
父親の足を懸命にマッサージする紫揺の姿。
父親のクソ足をマッサージする紫揺。 それだけではなく、筋肉や筋を伸ばすために、父親の靴を脱がし、足の裏までをとって動かし、脹脛の緊張・・・隆起とやらと向き合っていた。
面白くない。 不愉快。 胸糞悪い。
だから 「クソ親父がいい所に運んでくれるよ」 という言葉になった。
「クソ親父って何だ!」
父親が言うのは尤もである。
一瞬、親子喧嘩でも始まるのかと思いどうしたものかと身構えたが、それ以上何も言い合うことはなかった。
「父親と息子の会話ってこんな風なんですね」
顔をほころばせて言う。
「さーて、どうかな。 コイツは愚息だからこんな会話になってるんじゃないかな」
バックミラーに映る紫揺に話しかける。
「うん、いいね。 そうやって笑っていなさい」
バックミラー越しに目が合うと紫揺の顔が更にほころんだ。 父親の顔もほころぶ。
(気分ワル。 なんだよそれ。 それって俺のセリフじゃないのかよ)
プイッと、顔を横に向ける。
(って? え? なんでそんなことを思わなくちゃいけないんだ?)
思いながらも、面白くない。 更に面白くない。 まったくもって不愉快だ。 そう思った比較級くずれを思い出す。
(え・・・うそ。 マジ?)
ガバッという効果音でもしそうなほど勢いをつけて、後ろに座る紫揺を見た。
「はい?」
紫揺がキョトンとしている。
凝視する。
「あ・・・あの」
小さくだが、ほんの小さくだが
(ドキがムネムネ・・・ちがう。 俺、何を焦ってるんだ。 もとい。 胸がドキドキして・・・る?)
「杢木・・・さん?」
「・・・いや、なんでもない」
前に向き直った。
「なにやってんだお前は」
右から父親の声がする。
(ウソダロ。 有り得ない・・・俺がロリコンだなんて。 俺の、俺の標語は・・・ “愛せよ、ボン・キュッ・ボン” だ。 それを譲るなんて有り得ない。 それもこんな何の色気もないチビッコに。 あ・・・でも・・・)
トウオウと阿秀はボン・キュッ・ボンではない事に気付いた。
(ウソダロ―・・・)
助手席で頭を抱えだした息子に冷ややかな目を送った誠也思い込みの恋敵がバックミラーの紫揺に話しかけた。
「どこかで朝ご飯でも食べようか」
同性愛、ストーカー、ロリコン。 一日を待たずしてどころか、数時間も満たない内に三つの自分を発見した。
同性愛の方は勘違いの部分があるが。 さて、どの道を選ぶのだろうか。
屋敷で電話が鳴った。
屋敷内には固定電話が置いてある。 それは親子電話で親機がホールに。 子機が、厨房、ムロイの仕事部屋、セノギの部屋。 そして仕事部屋にも置いてある。
その他の各部屋には内線だけができる電話が置いてある。
基本、外線からの電話をとるのはセノギである。 お付きたちは外部とのパイプ役は出来ない。
今はセノギが居ないため、子機をとったのは仕事部屋に居たキノラであった。
「はい」
“もしもし” ではなく “はい” 。
『こちらは証券取引等監視委員会ですが』
「はい?」
『証券取引等監視委員会です』
「・・・そんな所から電話を頂く理由などありませんが?」
画面を見ていた春樹が首を捻ってキノラの背に向けた。 聞いているうちにキノラの様子がおかしく感じられたからだ。
まぁ、この屋敷に来て初めて電話の音を聞いたのだから、電話に出た時のキノラの応対など聞いたことなどないのだから、これが普通なのかもしれないが。
「は!? 何を理由にそんなことを仰るんです!?」
『ですから、一度こちらまで―――』
「行かねばならない理由などこちらにはありません」
『あなたは代表者ではありませんよね?』
誰が代表者かはもう調べている。 それは男、ムロイである。 声の主は女。
「ムロイは今出ております」
『いつお帰りですか?』
「予定などありません! それに今は私がムロイ代理です!」
領主代理はセッカだが、仕事に関してはそうだろう。 誰も文句は言えまい。
これが親機なら受話器を叩きつけて切っただろうが、悲しくも子機だ。 持っていた手の親指でプッチと切った。
“証券取引等監視委員会” と、長々とした名を名乗った相手は、インサイダー取引の件で確認したいことがある、金融庁まで来てほしい。 とのことだった。
これに応じなければ罰金若しくは懲役があるのは知っている。 それに今は呼び出しで済んでいるが、立入検査や差し押さえなどされては仕事が滞るだけではなく、領土のことが万が一にでも露見してしまってはどうにもならない。 それに・・・。
子機を充電器に置いたキノラが振り返る。 仕事部屋に居る全員と目が合った。
「まわりくどいことは言いません」
と前置きをして続ける。
「インサイダーなどということはしていませんね」
ビクッと体を震わせたのは雲渡。 目を大きく開いたのは春樹。 あとの者は困惑の色を見せ互いに見合っている。
「電話がかかってきたからと言って、仕事を止めたくはありません。 ですが一人ずつに話を聞きます。 順番にホールに下りてきてください」
そう言うとすぐに部屋を出て行った。
バタンと閉められたドア。
「ど、どういうことだよ、インサイダーって」
一人が言う。
「ああ。 でも今はそんな事よりホールに下りる順番だ。 待たせたら怖い。 どうする?」
もう一人が言う。
「まずは・・・新米、からか?」
更にもう一人が言うと、三人の目が春樹に集中する。
「・・・分かりました」
掌を上に向けて肩の高さまで上げ、オーバーアクション気味に応えると席を立った。
雲渡をチラッと見ると青ざめた顔をしている。 これでは誰がインサイダーをしていたかは一目瞭然だろう。
(さて・・・疑っていたことを言うべきか言わざるべきか)
部屋を出ると階段を降りて行った。
階段を上がろうと歩いていると、ホールを歩いている青年の後姿が目に入った。 ホールにあるソファーにはキノラが座っている。
青年は領土の者ではなくここで仕事をしている者だ。 方向からすると外から入ってきたのではなく、小階段を使っておりてきたのだろう。 こんな時間にホールを歩いているなどとは珍しいことだ。
「もしかしたら・・・あの人がシユラ様の手紙を預かってくれた人かしら」
つい足を止めて見てしまったが、気にしながらもそのまま階段を上がった。 手には体温計と替えのタオルを持っている。
セキは 『キノラ様の仕事の人? よくわからないけど、私たちと同じ所で生活している人から預かりました』 そう言いながら手紙を渡してくれた。
ムロイの仕事部屋で何度も何度も紫揺からの手紙を読み返した。 もう今日の分の涙が枯れ果てた。 明日また読むとまた涙を流すだろうが、泣いているばかりでは紫揺に恥ずかしい。
紫揺の気持ちが嬉しかったし、紫揺は自分の道を歩き出したのだ。 自分も出来ることを、せねばならないことを、したいことをすればいい。
そして今自分の出来ることは、せねばならないことはショウワの身を案じることだ。 そう思うと最後の一粒を落として立ち上がった。
もちろん、紫揺が居なくなったことは誰にも言っていない。 紫揺がここを出て行くことを誰にも止める権利などないのだから。 ムラサキとしての力のことが気にならないと言えば嘘になるが、そのことも含めて紫揺がここを出て行ったのだ。
――― 心配などいたしません。 シユラ様なら乗り越えることがお出来になる。
立ち上がった後、ムロイの部屋でそう締め括った。
青年がキノラの前に立つと一礼した。 キノラが向かいのソファーに座るように促しているのが見てとれる。
「あら」
声のした方に目先を変えるとセッカがいた。
「体温計にタオル? なに? シユラ様はお熱でも出されたのかしら?」
「いえ、これはショウワ様に」
「お熱を出されたの? ・・・まぁ、お熱を出されても構わないわ。 ご報告さえ聞いていただければ。 で? シユラ様は?」
「あ・・・あの」
ニョゼが言い淀んでいるとトウオウの声が響いた。
「へー、珍しいねー、キノラ何してんのー?」
廊下の手すりに肘をついて階下のキノラに言った。
アマフウの部屋を訪ねようと部屋を出てきたら、珍しい所を見て訊かずにはいられなかったようだ。
セッカとニョゼがトウオウの声につられた。
仕事をしている者は大階段を使わないように言われている。 それに屋敷の中を自由に歩くことも禁じられている。 それなのに五色の目がある時間にフロアーを歩き、ましてやソファーに座るなどあり得ない。
階下からキノラと振り返った春樹が二階を見上げた。
「お黙りなさい」
「あら、ご機嫌斜め」
肩を竦めると少し離れた所に居るニョゼの手を見た。
「あれ? 体温計って?」
「ショウワ様のお身体の具合があまりおよろしくないようなので」
「ふーん」
両手を後頭部に組むと「お歳だからね」 と言いながらアマフウの部屋に向かおうと一歩を出した。
セッカもついトウオウにつられて階下を見ていたが、その顔を戻して先程までの会話を続ける。
「で? シユラ様は?」
トウオウの足が止まった。
「はい・・・その」
腕は後頭部に置いたまま、回れ右をしたトウオウ。
「シユラ様ならいないよ」
「いない? どういうことかしら?」
トウオウに向けたセッカの眉が寄る。
「屋敷から出て行ったってこと。 ってか、島から出て行った」
「冗談を言ってる暇はないの。 こっちは急いでいますの」
「まぁ、信じる信じないは自由だけどな。 ってことでオレはちゃんとセッカお姉さまに報告したからな」
言い終えるとまたもや回れ右をして歩き出そうとした。
「ちょっと待ちなさい、いったいどういうことなの?!」
階下では本来話すことも忘れて、キノラと春樹が二人の会話を聞いている。
春樹にとっては気になるところだし、それに “紫揺様” と言っている。 “様” 付け。 どういうことだ、と思わなければいけないのに、紫揺の名前を聞いただけで、その動向を聞いただけで “様” 付けが吹っ飛んでしまっていた。
そして春樹とは違う意味で、キノラも紫揺の話に食い入っている。
「だーかーらー」
またもやクルリと回転するが、だるそうに手は下ろされた。
「夜中、この島を出て行ったって」
「出て行ったって・・・船も何も無いのにどうやって出て行ったというの?」
「船ならあったよ。 迎えが来た」
良かった会えたんだ、と春樹が胸を撫で下ろした。
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成人を既に迎えているのだから親など二の次だろう。 独立して一人で暮らしていてもおかしくない歳なのだから、他人が口を挟むところではない。
だが息子の二歳下と聞かされても、本人が21歳と言っても、この誠也の父親は頭ではわかっていても心が自分の感性に正直だった。
「・・・」
「心配してらっしゃるんじゃない?」
紫揺の何を分かっているわけではなかったが、こんな小さな子が一人で真夜中に面識のない人間の船に乗るなどと有り得ない。 それにどうして一人で船に乗って来たのかも分からない。
「・・・父と母は・・・」
“父と母?” 幼い子が言う言葉ではない。 というような顔をして父親が聞いていたが、紫揺の言葉が止まってしまった。
「紫揺ちゃん?」
バックミラーに映っていた紫揺が頭を下げたのを見て思わず名前を呼んだ。 助手席でも誠也が、どうしたのか? という顔をしている。
「・・・亡くなりました」
「え?」
助手席から声が漏れた。
「私には父も母もいません。 親戚縁者も。 だから誰も心配なんかしていません」
手に持っていたメモをもう一度ポケットに押し込んだ。 今じゃなく、あとで渡そうと。
「・・・悪かったね。 嫌なことを訊いちゃった」
「いえ、そういうつもりで言ったんじゃないですから」
そうか、と小さく言うと一呼吸おいて続けた。
「でもね」
「はい」
「紫揺ちゃんのことを心配している人は、いなくなんてないんだよ」
長年培ってきた話術が出たのか心の底からなのか、絶好の間をおいて少しトーンを落として一言いった。
「いるよ」
「・・・え」
「おじさんは、紫揺ちゃんの周りにどんな人が居るのかは知らないが、少なくともその中に紫揺ちゃんのことを想っている人が居るはずだ。 心配をされていると思うよ。 おじさんなんて、ちょっと前に紫揺ちゃんに会っただけじゃない? それでも紫揺ちゃんのことを心配しているよ」
「おじさん・・・」
「紫揺ちゃんが、男に囲まれてるのを見た途端、走りだしたんだからな」
「え?」
「すぐに足が絡まってこけたけど」
「お前っ! 要らんことを言うんじゃない!」
「おじさん」
「最寄り駅になんかに降ろさないよ。 金沢駅に行こう」
「え? でも遠いんじゃ」
地理はよく分からないし、今自分がどこに居るかも分からない。 だが、改めて最寄り駅ではなく、どこどこの駅と言われれば、少なくとも最寄り駅より遠いことは分かる。
「九州方面に帰るんだろ? 金沢駅からだったら在来線を使わなくてもいいから。 サンダーバードで京都駅か新大阪駅まで出て、それから新幹線に乗り換えればいい。 しらさぎって手もあるけどね、サンダーバードの方がいいだろう。 紫揺ちゃんの持っている諭吉さんで足りるから心配しなくていいよ」
「よく知ってんだな」
「ちょっと前まで会社員だったんだからな。 出張もあるわな」
「ふーん」
口を尖らせて言うと後ろを振り返った。
「紫揺ちゃん、言っただろ? 親父のやりたいようにさせてもらえないかな?」
本心ではなかった。 いや、少し前までは本心だったが。
紫揺が父親の心配をし懸命に足をマッサージする姿を見て・・・父親が許せなかった。 いや、そうではない。 許せないのではなく “甘えんな!” そう思った。 最初は。
父親の足を懸命にマッサージする紫揺の姿。
父親のクソ足をマッサージする紫揺。 それだけではなく、筋肉や筋を伸ばすために、父親の靴を脱がし、足の裏までをとって動かし、脹脛の緊張・・・隆起とやらと向き合っていた。
面白くない。 不愉快。 胸糞悪い。
だから 「クソ親父がいい所に運んでくれるよ」 という言葉になった。
「クソ親父って何だ!」
父親が言うのは尤もである。
一瞬、親子喧嘩でも始まるのかと思いどうしたものかと身構えたが、それ以上何も言い合うことはなかった。
「父親と息子の会話ってこんな風なんですね」
顔をほころばせて言う。
「さーて、どうかな。 コイツは愚息だからこんな会話になってるんじゃないかな」
バックミラーに映る紫揺に話しかける。
「うん、いいね。 そうやって笑っていなさい」
バックミラー越しに目が合うと紫揺の顔が更にほころんだ。 父親の顔もほころぶ。
(気分ワル。 なんだよそれ。 それって俺のセリフじゃないのかよ)
プイッと、顔を横に向ける。
(って? え? なんでそんなことを思わなくちゃいけないんだ?)
思いながらも、面白くない。 更に面白くない。 まったくもって不愉快だ。 そう思った比較級くずれを思い出す。
(え・・・うそ。 マジ?)
ガバッという効果音でもしそうなほど勢いをつけて、後ろに座る紫揺を見た。
「はい?」
紫揺がキョトンとしている。
凝視する。
「あ・・・あの」
小さくだが、ほんの小さくだが
(ドキがムネムネ・・・ちがう。 俺、何を焦ってるんだ。 もとい。 胸がドキドキして・・・る?)
「杢木・・・さん?」
「・・・いや、なんでもない」
前に向き直った。
「なにやってんだお前は」
右から父親の声がする。
(ウソダロ。 有り得ない・・・俺がロリコンだなんて。 俺の、俺の標語は・・・ “愛せよ、ボン・キュッ・ボン” だ。 それを譲るなんて有り得ない。 それもこんな何の色気もないチビッコに。 あ・・・でも・・・)
トウオウと阿秀はボン・キュッ・ボンではない事に気付いた。
(ウソダロ―・・・)
助手席で頭を抱えだした息子に冷ややかな目を送った誠也思い込みの恋敵がバックミラーの紫揺に話しかけた。
「どこかで朝ご飯でも食べようか」
同性愛、ストーカー、ロリコン。 一日を待たずしてどころか、数時間も満たない内に三つの自分を発見した。
同性愛の方は勘違いの部分があるが。 さて、どの道を選ぶのだろうか。
屋敷で電話が鳴った。
屋敷内には固定電話が置いてある。 それは親子電話で親機がホールに。 子機が、厨房、ムロイの仕事部屋、セノギの部屋。 そして仕事部屋にも置いてある。
その他の各部屋には内線だけができる電話が置いてある。
基本、外線からの電話をとるのはセノギである。 お付きたちは外部とのパイプ役は出来ない。
今はセノギが居ないため、子機をとったのは仕事部屋に居たキノラであった。
「はい」
“もしもし” ではなく “はい” 。
『こちらは証券取引等監視委員会ですが』
「はい?」
『証券取引等監視委員会です』
「・・・そんな所から電話を頂く理由などありませんが?」
画面を見ていた春樹が首を捻ってキノラの背に向けた。 聞いているうちにキノラの様子がおかしく感じられたからだ。
まぁ、この屋敷に来て初めて電話の音を聞いたのだから、電話に出た時のキノラの応対など聞いたことなどないのだから、これが普通なのかもしれないが。
「は!? 何を理由にそんなことを仰るんです!?」
『ですから、一度こちらまで―――』
「行かねばならない理由などこちらにはありません」
『あなたは代表者ではありませんよね?』
誰が代表者かはもう調べている。 それは男、ムロイである。 声の主は女。
「ムロイは今出ております」
『いつお帰りですか?』
「予定などありません! それに今は私がムロイ代理です!」
領主代理はセッカだが、仕事に関してはそうだろう。 誰も文句は言えまい。
これが親機なら受話器を叩きつけて切っただろうが、悲しくも子機だ。 持っていた手の親指でプッチと切った。
“証券取引等監視委員会” と、長々とした名を名乗った相手は、インサイダー取引の件で確認したいことがある、金融庁まで来てほしい。 とのことだった。
これに応じなければ罰金若しくは懲役があるのは知っている。 それに今は呼び出しで済んでいるが、立入検査や差し押さえなどされては仕事が滞るだけではなく、領土のことが万が一にでも露見してしまってはどうにもならない。 それに・・・。
子機を充電器に置いたキノラが振り返る。 仕事部屋に居る全員と目が合った。
「まわりくどいことは言いません」
と前置きをして続ける。
「インサイダーなどということはしていませんね」
ビクッと体を震わせたのは雲渡。 目を大きく開いたのは春樹。 あとの者は困惑の色を見せ互いに見合っている。
「電話がかかってきたからと言って、仕事を止めたくはありません。 ですが一人ずつに話を聞きます。 順番にホールに下りてきてください」
そう言うとすぐに部屋を出て行った。
バタンと閉められたドア。
「ど、どういうことだよ、インサイダーって」
一人が言う。
「ああ。 でも今はそんな事よりホールに下りる順番だ。 待たせたら怖い。 どうする?」
もう一人が言う。
「まずは・・・新米、からか?」
更にもう一人が言うと、三人の目が春樹に集中する。
「・・・分かりました」
掌を上に向けて肩の高さまで上げ、オーバーアクション気味に応えると席を立った。
雲渡をチラッと見ると青ざめた顔をしている。 これでは誰がインサイダーをしていたかは一目瞭然だろう。
(さて・・・疑っていたことを言うべきか言わざるべきか)
部屋を出ると階段を降りて行った。
階段を上がろうと歩いていると、ホールを歩いている青年の後姿が目に入った。 ホールにあるソファーにはキノラが座っている。
青年は領土の者ではなくここで仕事をしている者だ。 方向からすると外から入ってきたのではなく、小階段を使っておりてきたのだろう。 こんな時間にホールを歩いているなどとは珍しいことだ。
「もしかしたら・・・あの人がシユラ様の手紙を預かってくれた人かしら」
つい足を止めて見てしまったが、気にしながらもそのまま階段を上がった。 手には体温計と替えのタオルを持っている。
セキは 『キノラ様の仕事の人? よくわからないけど、私たちと同じ所で生活している人から預かりました』 そう言いながら手紙を渡してくれた。
ムロイの仕事部屋で何度も何度も紫揺からの手紙を読み返した。 もう今日の分の涙が枯れ果てた。 明日また読むとまた涙を流すだろうが、泣いているばかりでは紫揺に恥ずかしい。
紫揺の気持ちが嬉しかったし、紫揺は自分の道を歩き出したのだ。 自分も出来ることを、せねばならないことを、したいことをすればいい。
そして今自分の出来ることは、せねばならないことはショウワの身を案じることだ。 そう思うと最後の一粒を落として立ち上がった。
もちろん、紫揺が居なくなったことは誰にも言っていない。 紫揺がここを出て行くことを誰にも止める権利などないのだから。 ムラサキとしての力のことが気にならないと言えば嘘になるが、そのことも含めて紫揺がここを出て行ったのだ。
――― 心配などいたしません。 シユラ様なら乗り越えることがお出来になる。
立ち上がった後、ムロイの部屋でそう締め括った。
青年がキノラの前に立つと一礼した。 キノラが向かいのソファーに座るように促しているのが見てとれる。
「あら」
声のした方に目先を変えるとセッカがいた。
「体温計にタオル? なに? シユラ様はお熱でも出されたのかしら?」
「いえ、これはショウワ様に」
「お熱を出されたの? ・・・まぁ、お熱を出されても構わないわ。 ご報告さえ聞いていただければ。 で? シユラ様は?」
「あ・・・あの」
ニョゼが言い淀んでいるとトウオウの声が響いた。
「へー、珍しいねー、キノラ何してんのー?」
廊下の手すりに肘をついて階下のキノラに言った。
アマフウの部屋を訪ねようと部屋を出てきたら、珍しい所を見て訊かずにはいられなかったようだ。
セッカとニョゼがトウオウの声につられた。
仕事をしている者は大階段を使わないように言われている。 それに屋敷の中を自由に歩くことも禁じられている。 それなのに五色の目がある時間にフロアーを歩き、ましてやソファーに座るなどあり得ない。
階下からキノラと振り返った春樹が二階を見上げた。
「お黙りなさい」
「あら、ご機嫌斜め」
肩を竦めると少し離れた所に居るニョゼの手を見た。
「あれ? 体温計って?」
「ショウワ様のお身体の具合があまりおよろしくないようなので」
「ふーん」
両手を後頭部に組むと「お歳だからね」 と言いながらアマフウの部屋に向かおうと一歩を出した。
セッカもついトウオウにつられて階下を見ていたが、その顔を戻して先程までの会話を続ける。
「で? シユラ様は?」
トウオウの足が止まった。
「はい・・・その」
腕は後頭部に置いたまま、回れ右をしたトウオウ。
「シユラ様ならいないよ」
「いない? どういうことかしら?」
トウオウに向けたセッカの眉が寄る。
「屋敷から出て行ったってこと。 ってか、島から出て行った」
「冗談を言ってる暇はないの。 こっちは急いでいますの」
「まぁ、信じる信じないは自由だけどな。 ってことでオレはちゃんとセッカお姉さまに報告したからな」
言い終えるとまたもや回れ右をして歩き出そうとした。
「ちょっと待ちなさい、いったいどういうことなの?!」
階下では本来話すことも忘れて、キノラと春樹が二人の会話を聞いている。
春樹にとっては気になるところだし、それに “紫揺様” と言っている。 “様” 付け。 どういうことだ、と思わなければいけないのに、紫揺の名前を聞いただけで、その動向を聞いただけで “様” 付けが吹っ飛んでしまっていた。
そして春樹とは違う意味で、キノラも紫揺の話に食い入っている。
「だーかーらー」
またもやクルリと回転するが、だるそうに手は下ろされた。
「夜中、この島を出て行ったって」
「出て行ったって・・・船も何も無いのにどうやって出て行ったというの?」
「船ならあったよ。 迎えが来た」
良かった会えたんだ、と春樹が胸を撫で下ろした。