『虚空の辰刻(とき)』 目次
『虚空の辰刻(とき)』 第1回から第180回までの目次は以下の 『虚空の辰刻(とき)』リンクページ からお願いいたします。
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- 虚空の辰刻(とき)- 第190回
マツリが自室で座卓の上に肘を置くと頬杖をついた。
「ふむ・・・」
「如何なさいましたか」
フクロウのキョウゲンが問う。
仮にショウワが東の領土の者として、ずっと北の領土の人間だと誰もが思ってきていたのだ。 封じ込められていたとはいえ、当人ですらそう思ってきていたのだから。 封じ込めを解いたとして、北の領土の者がどう思うだろうか。
「どう思う?」
「さて・・・」
マツリ自身のことならともかく、人間の機微など分からない。
「それにどうして時の領主は “古の力を持つ者” を攫ったのだ?」
「それは今にしては分かりようのないことであります」
時の領主はもう居ない。 訊くことなど出来ない。 それに北の領土が東の領土に足を踏み入れた時の者たちは狼の牙にかかり、その後、領主は血筋を絶やさぬようにということで、遠縁の者を置いた。 その者は北の領土のしたことを知らない。
そして本領でも攫われたことを知らなかったのだから、本領のどの史書にもそのようなことを書いたものなど残っていないだろう。
「北の “古の力を持つ者” に跡が居ない。 その事と関係があるのだろうか」
ショウワには此之葉のように継ぐ者はいない。 それと同じように時の “古の力を持つ者” にも継ぐ者がいなかったのだろうか。 だから紫を攫いに行った時にショウワも攫ったということなのだろうか。
「だが」
紫揺の言っていたことを思い出したくはないが、思い出さなければいけない。 それは夕食の席で聞いた、マツリが居ない時に紫揺が言っていたということだ。
『笑うことも楽しむこともなく八十年間ずっと気を張っていただけ、と紫が言っておった』 そう言って四方がマツリに聞かせた。
四方が若かりし頃、北と東の領土に赴いた時にはいつも自室に居てじっと座っていたから、北と東の “古の力を持つ者” はそういうものなのだと思っていたと言う。 幼い時から二人ともそうだったと先代本領領主からも聞いていたとも。
『わしはマツリの知っているショウワより、シキの知っている独唱よりずっと若い頃を知っておる。 二人とも笑うこともなく淡々としておった』
だからあまり “古の力を持つ者” のことは気にしないようにしていたという。 そしてそれをシキとマツリが引き継いだ。 本領としては領土に厄災をもたらす者がいないかどうかを見るだけ。 “古の力を持つ者” が厄災などもたらすことはないのだから。
「独唱のことはさて置き、ショウワはあまり民と触れ合っていない?」
もともと “古の力を持つ者” は民のために生きているのではない。 五色のために生きているのだ。 民と触れ合わなければならないことなどない。
“北の領土の者がどう思うか” その領土の者とは、領主と五色だけだろうか。
疑問に思っても四方譲りの判断は早い。
「明日、北の領主の様子も見に行く」
「御意」
領主と五色を本領に連れて来ればいい。 そしてもし封じ込められていたのだとすれば、領主たちの目の前で解くのを見せればいい。 見せることが出来ないと此之葉が言うのならばそれはそれ。
ショウワだけを本領に連れて来て、のちに結果だけを聞かされては納得も何もあったものではないだろう。 目の前で見せられるのが一番だが、それが叶わないとしても解かれたショウワと話せば納得も出来るだろう。 別れも告げられるだろう。
「領主と五色を?」
翌日の朝食の席である。
「はい」
四方が箸を置いた。
「どうしてそこまでせねばならん」
「置いていかれる者のことをお考えになって下さい」
「本領の関与することではない」
「何十年と共に居た者が姿を消すかもしれません。 それも “古の力を持つ者” がです。 理解して納得してもらわなくては、北の領土の者に歪が入ってしまうかもしれません」
「なにより領主はまだ動けんだろう」
「這わせてでもと考えておりますが、それも出来ないであるようならば領主のことは諦めます。 ですがショウワを東の者と認めず、北の “古の力を持つ者” と言い張るのであれば、領主の代理を出すようにと思っております」
「代理!? そんな者が認められるはずがなかろう」
「各々の領土に足を踏み入れぬこと。 それは東西南北の領土だけの話。 本領には関係のないことです。 領主、五色、”古の力を持つ者” これ以外の者が本領に入ってはいけないとはどこにも確約されておりません」
「暗黙の了解というものだ」
「この本領への道のりを知られるのを一人でも抑えるためのこととは分かっています。 ですがその為に北の者の心に歪が入り、万が一にも民を狼の牙にかけねばならぬことにでもなれば、代理の一人くらい本領に足を踏み入れても良いではありませんか」
「万が一だろう。 それに歪が入るとは限らん」
「領土史には、民が狼たちに牙をかけられた後の北の領土の荒れようが書かれています。 ご存知でしょう」
「マツリ? 口の利き方を慎みなさい」
先ほどのマツリの言いようは、四方を侮っているように聞こえなくもない。
マツリが僅かに横を向いて隣に座るシキに頷くようにした。
「北の領主も愚蒙(ぐまい)な者を代理になどたてるとは思えません」
「・・・」
マツリの言いようが分からなくもない。
「お許し願えますか?」
「・・・北の領土の今はマツリが見ておる。 一番分かっているのはマツリだろう。 マツリに任せる」
シキが笑みを零して箸を動かした。
リツソは全く聞いていない。 頭の中は紫揺だけで染め上げられている。
此之葉と秋我が東の領土の衣を着ている。 此之葉にしてみれば気慣れない衣より、我が領土の衣の方が良いと思っているが、秋我は上流の者が着る衣と聞き、万が一にも汚してはと思うと落ち着いていられないという理由であったが、自分の領土の衣を着るのは当たり前であり、本領も本領の衣を押し付けるわけにもいかない。
それに領土の衣は昨日の内にきれいに洗ってあったようで、秋我の衣からはほのかに爽やかな香りがする。 香を焚き染めてくれたようだ。
此之葉の衣が無臭なのは、古の力を邪魔しないためであろう。
そんな二人をよそに紫揺だけは本領の衣を着ている。 理由もあるが、紫揺にしてみれば気慣れているのはジャージやGパンであり、東の領土の衣にこだわりなどない。 ほんの数日前に数回着ただけなのだから。
その理由とは、朝起きるとすでにシキが起きていて、あれやこれやと昌耶と衣裳を選んでいたのだ。 そしてまた二択が出された。 昨日のことからシキと昌耶がそれぞれ選んだのは分かっている。 だが昨日はそんなこととは知らず、昌耶が見立てた衣を選んでしまった。 今日はシキに花を持たせねばいけない。
うーん、うーんと考えていると思い出したことがあった。 たしか昨日、お揃いで着ようと思ったとシキが言っていた。 ならば今シキが着ている衣と同じ色の衣を選べばいいことなのではないか。 だがシキと同じ色の衣は目の前にない。 今日のシキの衣は藤色が基調となり蘇芳色の帯。 ならば近い色を選ぼう。
「こっち」
と指さしたのは、薄紅藤を基調とし、紅桔梗色の帯。
「きゃっ!」 と嬉しそうな声を上げたのはシキであった。
「まぁ、どうしてで御座いましょう。 こちらの方が紫さまにお似合いですのに」
昌耶の言うこちらは、紅赤色を基調に海老色の帯である。
早い話、昨日と同じくどちらも完全女の子色であった。
「唱和様、今日来て頂けるでしょうか」
「うーん・・・」
思い出したくない昨日のマツリの話を思い出す。
「東の領土と違って北の領土は洞窟を抜けてから領主の家までかなりあるんです。 五色と領主は馬を走らせることが出来ていましたが、私は馬に乗れないから馬車で移動したんですけど、たぶん唱和様も同じだと思います。 何日もかかったのでかなり疲れました。 唱和様のお歳を考えるとかなり厳しいものがあったと思います」
「そうなのですね・・・」
箸が進まない。
「此之葉、残してはいけませんし、これからのこともありますからしっかりと食べてください」
領主代理、秋我が言う。
「そうですよ此之葉さん。 唱和様が来られた時に力が出ない状態では困りますよ?」
「はい・・・」
「此之葉。 此之葉が紫さまをお守りせねばならないのに、紫さまに励まされてどうするんですか?」
決して責めて言っているわけではない。 相好を崩して言っている。
「あ、はい。 紫さま申し訳ありません」
「ここ、謝るとこじゃないですよ? それより、しっかり食べないと大きくなれませんよ。 此之葉さんは細すぎます」
ね? と此之葉の顔を覗いて励ますように笑みを送る。
此之葉が細すぎるということは秋我も思うし、その前に付けた『大きくなれませんよ』 というのは細すぎるということなのだと話の流れから分かるが、言葉の使い方に笑いがこみあげてくる。 言われた此之葉にしてもそうだ。
「ほら此之葉、大きくなるために食べてください」
クックと笑いが漏れる口を、箸を持った手で押えながら言う。
「はい。 そうですね」
こちらは顔を横に向けて笑いを堪えている。
紫さまが微笑まれれば民が微笑み、悼みを抱かれれば民が心沈む。 これもそういう事なのだろうか。 と、長い間辺境で民の悲しみばかり見てきて、自分も笑うことが無かった秋我が思う。
だがそれは先の紫のことであるし、紫揺の場合は単なる天然である。 それでも悲しみばかり持っていた東の領土の者にすれば、紫揺の笑みが何よりもうれしいのだ。 紫揺が花を咲かせたのは民が紫としての力を見たものだった。 紫揺がありがとうと言ったのは、悲しみから救ってくれる言葉だった。
朝食を食べ終えたマツリがすぐに北の領土に飛んでいた。
「領主の具合はどうだ?」
「かなり良くなってきておいでです」
ムロイの部屋の前でショウジが答える。
「歩けるか?」
「それは到底不可能なことで御座います」
普通で考えても歩行などと無理な話だというのに、ショウジが居ない間、つまりは師匠と医者が見ている時にショウジがムロイの足に付けていた添え木を換えてしまっていた。 そのせいで足に問題が起きていた。
マツリが顎に手をやった。 這うことはできるか? と訊いても無理な話だろう。 四方に“這ってでも” と言ったのは、言葉の綾である。 領主がどう判断するかに任せるしかない。 だがショウワのことはここではまだ言うつもりはない。
「入っていいか?」
「もちろんに御座います」
ショウジが戸を開けてマツリを入れる。
「領主、マツリ様に御座います」
領主であるムロイが瞼を上げた。
「これはマツリ様。 薬草師を変えるように言っていただいたと聞きました。 お蔭さまでこれまで回復することが出来ました」
起き上がろうとしてウッ、と呻き顔を歪める。
「無理をせずともよい。 まだ足が痛むか?」
「若くはありませんから治りが遅いようです。 歳はとりたくありません」
以前シキに噛みつくように言ったのと同じ人間かと疑いたくなる程の違いである。 何かあったのだろうかと疑ってしまうのは、ムロイに失礼な話しなのだろうか。 そう思いながらも話を逸らすわけにはいかない。 その為に来たのだから。
「昨日、東の領土から本領に紫が来た」
「え?」
「北の領土がどこで紫を囲っていたのかも聞いた。 洞は塞がせるが、まだあちらに人が残っているとショウワから聞いた。 即座に全員を引き上げさせ洞を塞ぐよう。 そして紫のことは諦めよ」
「・・・」
「あくまでも、各々の領土に足を踏み入れぬこと、という確約を破ったわけではない。 それに対しての本領からの咎はないが、厄災を招くかもしれない洞の報告が無かった事に対しては後に知らせる」
「ムラサキ様の事、ショウワ様はご存知なのですか?」
「昨日言った」
「落胆されていたでしょう」
「その色は見えた。 だが憑き物が落ちたようだった」
「え?」
「苦しい年月ではなかったのか?」
「・・・そうかもしれません」
「シキ様が仰ったように、これからは領主が先頭となり五色を愛し心より想い、厭うことの無きようにせよ」
「・・・」
「そしてショウワにも苦しい年月を終わらせる。 その為に本領に連れて行くが、領主と五色にも来てもらいたい」
「ショウワ様の苦しい年月を終わらせる? それを本領が? どういう事でしょうか?」
「紫と東の “古の力を持つ者” を今も本領に待たせておる。 ショウワに紫を会わせ、紫を守る東の “古の力を持つ者” と話をさせる。 ショウワも納得をして終わることが出来るだろう」
「それを五色や私にもということですか?」
「そうだ」
「・・・私はこんな状態です。 行くことは叶いません。 それに五色には必要ありません」
「どういうことだ?」
「五色はムラサキ様のことを何とも思っておりません。 言いましたでしょう。 ろくでもない五色だと」
「領主!」
「分かっております。 ですが真実です。 あの者たちは・・・いえ、いつの代からなのか、北の領土の五色は自分のやりたいことをするだけです。 民のことなど考えておりません。 シキ様は五色の力のことを仰いましたが、力以前の問題。 五色としての意識もなければ、人としても何もない。 囲っていた場所をお知りになったと仰いましたが、今の五色はそこでずっと暮らしておりました。 民のことなど見ておりません。 まず、民を人としても見ておりません。 顎で使える便利な道具としていると言っても遠くはないでしょう」
五色のことは領主の責ではない。 “古の力を持つ者” の責となる。 領主を責めることなど出来ない。 だが
「あの地に行ったことが大きな理由なのではないのか?」
「それは否めません。 五色をあの地に連れて行ったのは私と先代ですから、私にも責任があるでしょう。 ですが五色としての些細な意識すらあの者たちにはありません」
「それは “古の力を持つ者” ショウワの責だとでもいうのか」
“古の力を持つ者” は単に五色を守るだけでなく、五色としての立場を意識させ、心を民に添わせるように導くということも含まれている。 だがそれは敢えて言われなくとも五色になら分かるはずだが、それさえも北の五色には無いという。
「ショウワ様が “古の力を持つ者” ? 何とも冗談にもほどがありますな」
「どういうことだ」
「ショウワ様は北の重鎮です。 まぁ、こうなってはなにも隠すことが御座いませんから申しますが、なんらかのお力はあるように思います。 ですからムラサキ様を探し出すことが出来たのですから。 それを “古の力を持つ者” とは何を仰いますことか」
「本当にそう思っているのか?」
「昔はどうだったかは存じませんが、今の北の領土にはそのような者はおりません」
「ではショウワと五色の繋がりは?」
「重鎮、ただそれだけです。 せいぜいセッカがショウワさまを重鎮と重んじているくらいでしょう。 他の者は話したことさえあるのかどうか」
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マツリが自室で座卓の上に肘を置くと頬杖をついた。
「ふむ・・・」
「如何なさいましたか」
フクロウのキョウゲンが問う。
仮にショウワが東の領土の者として、ずっと北の領土の人間だと誰もが思ってきていたのだ。 封じ込められていたとはいえ、当人ですらそう思ってきていたのだから。 封じ込めを解いたとして、北の領土の者がどう思うだろうか。
「どう思う?」
「さて・・・」
マツリ自身のことならともかく、人間の機微など分からない。
「それにどうして時の領主は “古の力を持つ者” を攫ったのだ?」
「それは今にしては分かりようのないことであります」
時の領主はもう居ない。 訊くことなど出来ない。 それに北の領土が東の領土に足を踏み入れた時の者たちは狼の牙にかかり、その後、領主は血筋を絶やさぬようにということで、遠縁の者を置いた。 その者は北の領土のしたことを知らない。
そして本領でも攫われたことを知らなかったのだから、本領のどの史書にもそのようなことを書いたものなど残っていないだろう。
「北の “古の力を持つ者” に跡が居ない。 その事と関係があるのだろうか」
ショウワには此之葉のように継ぐ者はいない。 それと同じように時の “古の力を持つ者” にも継ぐ者がいなかったのだろうか。 だから紫を攫いに行った時にショウワも攫ったということなのだろうか。
「だが」
紫揺の言っていたことを思い出したくはないが、思い出さなければいけない。 それは夕食の席で聞いた、マツリが居ない時に紫揺が言っていたということだ。
『笑うことも楽しむこともなく八十年間ずっと気を張っていただけ、と紫が言っておった』 そう言って四方がマツリに聞かせた。
四方が若かりし頃、北と東の領土に赴いた時にはいつも自室に居てじっと座っていたから、北と東の “古の力を持つ者” はそういうものなのだと思っていたと言う。 幼い時から二人ともそうだったと先代本領領主からも聞いていたとも。
『わしはマツリの知っているショウワより、シキの知っている独唱よりずっと若い頃を知っておる。 二人とも笑うこともなく淡々としておった』
だからあまり “古の力を持つ者” のことは気にしないようにしていたという。 そしてそれをシキとマツリが引き継いだ。 本領としては領土に厄災をもたらす者がいないかどうかを見るだけ。 “古の力を持つ者” が厄災などもたらすことはないのだから。
「独唱のことはさて置き、ショウワはあまり民と触れ合っていない?」
もともと “古の力を持つ者” は民のために生きているのではない。 五色のために生きているのだ。 民と触れ合わなければならないことなどない。
“北の領土の者がどう思うか” その領土の者とは、領主と五色だけだろうか。
疑問に思っても四方譲りの判断は早い。
「明日、北の領主の様子も見に行く」
「御意」
領主と五色を本領に連れて来ればいい。 そしてもし封じ込められていたのだとすれば、領主たちの目の前で解くのを見せればいい。 見せることが出来ないと此之葉が言うのならばそれはそれ。
ショウワだけを本領に連れて来て、のちに結果だけを聞かされては納得も何もあったものではないだろう。 目の前で見せられるのが一番だが、それが叶わないとしても解かれたショウワと話せば納得も出来るだろう。 別れも告げられるだろう。
「領主と五色を?」
翌日の朝食の席である。
「はい」
四方が箸を置いた。
「どうしてそこまでせねばならん」
「置いていかれる者のことをお考えになって下さい」
「本領の関与することではない」
「何十年と共に居た者が姿を消すかもしれません。 それも “古の力を持つ者” がです。 理解して納得してもらわなくては、北の領土の者に歪が入ってしまうかもしれません」
「なにより領主はまだ動けんだろう」
「這わせてでもと考えておりますが、それも出来ないであるようならば領主のことは諦めます。 ですがショウワを東の者と認めず、北の “古の力を持つ者” と言い張るのであれば、領主の代理を出すようにと思っております」
「代理!? そんな者が認められるはずがなかろう」
「各々の領土に足を踏み入れぬこと。 それは東西南北の領土だけの話。 本領には関係のないことです。 領主、五色、”古の力を持つ者” これ以外の者が本領に入ってはいけないとはどこにも確約されておりません」
「暗黙の了解というものだ」
「この本領への道のりを知られるのを一人でも抑えるためのこととは分かっています。 ですがその為に北の者の心に歪が入り、万が一にも民を狼の牙にかけねばならぬことにでもなれば、代理の一人くらい本領に足を踏み入れても良いではありませんか」
「万が一だろう。 それに歪が入るとは限らん」
「領土史には、民が狼たちに牙をかけられた後の北の領土の荒れようが書かれています。 ご存知でしょう」
「マツリ? 口の利き方を慎みなさい」
先ほどのマツリの言いようは、四方を侮っているように聞こえなくもない。
マツリが僅かに横を向いて隣に座るシキに頷くようにした。
「北の領主も愚蒙(ぐまい)な者を代理になどたてるとは思えません」
「・・・」
マツリの言いようが分からなくもない。
「お許し願えますか?」
「・・・北の領土の今はマツリが見ておる。 一番分かっているのはマツリだろう。 マツリに任せる」
シキが笑みを零して箸を動かした。
リツソは全く聞いていない。 頭の中は紫揺だけで染め上げられている。
此之葉と秋我が東の領土の衣を着ている。 此之葉にしてみれば気慣れない衣より、我が領土の衣の方が良いと思っているが、秋我は上流の者が着る衣と聞き、万が一にも汚してはと思うと落ち着いていられないという理由であったが、自分の領土の衣を着るのは当たり前であり、本領も本領の衣を押し付けるわけにもいかない。
それに領土の衣は昨日の内にきれいに洗ってあったようで、秋我の衣からはほのかに爽やかな香りがする。 香を焚き染めてくれたようだ。
此之葉の衣が無臭なのは、古の力を邪魔しないためであろう。
そんな二人をよそに紫揺だけは本領の衣を着ている。 理由もあるが、紫揺にしてみれば気慣れているのはジャージやGパンであり、東の領土の衣にこだわりなどない。 ほんの数日前に数回着ただけなのだから。
その理由とは、朝起きるとすでにシキが起きていて、あれやこれやと昌耶と衣裳を選んでいたのだ。 そしてまた二択が出された。 昨日のことからシキと昌耶がそれぞれ選んだのは分かっている。 だが昨日はそんなこととは知らず、昌耶が見立てた衣を選んでしまった。 今日はシキに花を持たせねばいけない。
うーん、うーんと考えていると思い出したことがあった。 たしか昨日、お揃いで着ようと思ったとシキが言っていた。 ならば今シキが着ている衣と同じ色の衣を選べばいいことなのではないか。 だがシキと同じ色の衣は目の前にない。 今日のシキの衣は藤色が基調となり蘇芳色の帯。 ならば近い色を選ぼう。
「こっち」
と指さしたのは、薄紅藤を基調とし、紅桔梗色の帯。
「きゃっ!」 と嬉しそうな声を上げたのはシキであった。
「まぁ、どうしてで御座いましょう。 こちらの方が紫さまにお似合いですのに」
昌耶の言うこちらは、紅赤色を基調に海老色の帯である。
早い話、昨日と同じくどちらも完全女の子色であった。
「唱和様、今日来て頂けるでしょうか」
「うーん・・・」
思い出したくない昨日のマツリの話を思い出す。
「東の領土と違って北の領土は洞窟を抜けてから領主の家までかなりあるんです。 五色と領主は馬を走らせることが出来ていましたが、私は馬に乗れないから馬車で移動したんですけど、たぶん唱和様も同じだと思います。 何日もかかったのでかなり疲れました。 唱和様のお歳を考えるとかなり厳しいものがあったと思います」
「そうなのですね・・・」
箸が進まない。
「此之葉、残してはいけませんし、これからのこともありますからしっかりと食べてください」
領主代理、秋我が言う。
「そうですよ此之葉さん。 唱和様が来られた時に力が出ない状態では困りますよ?」
「はい・・・」
「此之葉。 此之葉が紫さまをお守りせねばならないのに、紫さまに励まされてどうするんですか?」
決して責めて言っているわけではない。 相好を崩して言っている。
「あ、はい。 紫さま申し訳ありません」
「ここ、謝るとこじゃないですよ? それより、しっかり食べないと大きくなれませんよ。 此之葉さんは細すぎます」
ね? と此之葉の顔を覗いて励ますように笑みを送る。
此之葉が細すぎるということは秋我も思うし、その前に付けた『大きくなれませんよ』 というのは細すぎるということなのだと話の流れから分かるが、言葉の使い方に笑いがこみあげてくる。 言われた此之葉にしてもそうだ。
「ほら此之葉、大きくなるために食べてください」
クックと笑いが漏れる口を、箸を持った手で押えながら言う。
「はい。 そうですね」
こちらは顔を横に向けて笑いを堪えている。
紫さまが微笑まれれば民が微笑み、悼みを抱かれれば民が心沈む。 これもそういう事なのだろうか。 と、長い間辺境で民の悲しみばかり見てきて、自分も笑うことが無かった秋我が思う。
だがそれは先の紫のことであるし、紫揺の場合は単なる天然である。 それでも悲しみばかり持っていた東の領土の者にすれば、紫揺の笑みが何よりもうれしいのだ。 紫揺が花を咲かせたのは民が紫としての力を見たものだった。 紫揺がありがとうと言ったのは、悲しみから救ってくれる言葉だった。
朝食を食べ終えたマツリがすぐに北の領土に飛んでいた。
「領主の具合はどうだ?」
「かなり良くなってきておいでです」
ムロイの部屋の前でショウジが答える。
「歩けるか?」
「それは到底不可能なことで御座います」
普通で考えても歩行などと無理な話だというのに、ショウジが居ない間、つまりは師匠と医者が見ている時にショウジがムロイの足に付けていた添え木を換えてしまっていた。 そのせいで足に問題が起きていた。
マツリが顎に手をやった。 這うことはできるか? と訊いても無理な話だろう。 四方に“這ってでも” と言ったのは、言葉の綾である。 領主がどう判断するかに任せるしかない。 だがショウワのことはここではまだ言うつもりはない。
「入っていいか?」
「もちろんに御座います」
ショウジが戸を開けてマツリを入れる。
「領主、マツリ様に御座います」
領主であるムロイが瞼を上げた。
「これはマツリ様。 薬草師を変えるように言っていただいたと聞きました。 お蔭さまでこれまで回復することが出来ました」
起き上がろうとしてウッ、と呻き顔を歪める。
「無理をせずともよい。 まだ足が痛むか?」
「若くはありませんから治りが遅いようです。 歳はとりたくありません」
以前シキに噛みつくように言ったのと同じ人間かと疑いたくなる程の違いである。 何かあったのだろうかと疑ってしまうのは、ムロイに失礼な話しなのだろうか。 そう思いながらも話を逸らすわけにはいかない。 その為に来たのだから。
「昨日、東の領土から本領に紫が来た」
「え?」
「北の領土がどこで紫を囲っていたのかも聞いた。 洞は塞がせるが、まだあちらに人が残っているとショウワから聞いた。 即座に全員を引き上げさせ洞を塞ぐよう。 そして紫のことは諦めよ」
「・・・」
「あくまでも、各々の領土に足を踏み入れぬこと、という確約を破ったわけではない。 それに対しての本領からの咎はないが、厄災を招くかもしれない洞の報告が無かった事に対しては後に知らせる」
「ムラサキ様の事、ショウワ様はご存知なのですか?」
「昨日言った」
「落胆されていたでしょう」
「その色は見えた。 だが憑き物が落ちたようだった」
「え?」
「苦しい年月ではなかったのか?」
「・・・そうかもしれません」
「シキ様が仰ったように、これからは領主が先頭となり五色を愛し心より想い、厭うことの無きようにせよ」
「・・・」
「そしてショウワにも苦しい年月を終わらせる。 その為に本領に連れて行くが、領主と五色にも来てもらいたい」
「ショウワ様の苦しい年月を終わらせる? それを本領が? どういう事でしょうか?」
「紫と東の “古の力を持つ者” を今も本領に待たせておる。 ショウワに紫を会わせ、紫を守る東の “古の力を持つ者” と話をさせる。 ショウワも納得をして終わることが出来るだろう」
「それを五色や私にもということですか?」
「そうだ」
「・・・私はこんな状態です。 行くことは叶いません。 それに五色には必要ありません」
「どういうことだ?」
「五色はムラサキ様のことを何とも思っておりません。 言いましたでしょう。 ろくでもない五色だと」
「領主!」
「分かっております。 ですが真実です。 あの者たちは・・・いえ、いつの代からなのか、北の領土の五色は自分のやりたいことをするだけです。 民のことなど考えておりません。 シキ様は五色の力のことを仰いましたが、力以前の問題。 五色としての意識もなければ、人としても何もない。 囲っていた場所をお知りになったと仰いましたが、今の五色はそこでずっと暮らしておりました。 民のことなど見ておりません。 まず、民を人としても見ておりません。 顎で使える便利な道具としていると言っても遠くはないでしょう」
五色のことは領主の責ではない。 “古の力を持つ者” の責となる。 領主を責めることなど出来ない。 だが
「あの地に行ったことが大きな理由なのではないのか?」
「それは否めません。 五色をあの地に連れて行ったのは私と先代ですから、私にも責任があるでしょう。 ですが五色としての些細な意識すらあの者たちにはありません」
「それは “古の力を持つ者” ショウワの責だとでもいうのか」
“古の力を持つ者” は単に五色を守るだけでなく、五色としての立場を意識させ、心を民に添わせるように導くということも含まれている。 だがそれは敢えて言われなくとも五色になら分かるはずだが、それさえも北の五色には無いという。
「ショウワ様が “古の力を持つ者” ? 何とも冗談にもほどがありますな」
「どういうことだ」
「ショウワ様は北の重鎮です。 まぁ、こうなってはなにも隠すことが御座いませんから申しますが、なんらかのお力はあるように思います。 ですからムラサキ様を探し出すことが出来たのですから。 それを “古の力を持つ者” とは何を仰いますことか」
「本当にそう思っているのか?」
「昔はどうだったかは存じませんが、今の北の領土にはそのような者はおりません」
「ではショウワと五色の繋がりは?」
「重鎮、ただそれだけです。 せいぜいセッカがショウワさまを重鎮と重んじているくらいでしょう。 他の者は話したことさえあるのかどうか」