Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

どうなる日の丸飛行隊 その2

2005-12-30 | 冬季五輪
アルベールビル五輪翌年の世界選手権では原田はノーマルヒルでついに金メダルを勝ち取った。これは札幌五輪の笠谷以来の快挙だった。そしてその翌年94年のリレハンメル五輪では団体で惜しくも銀メダルに終わったのを憶えておられる方も多いだろう。個人競技ではラージヒルで斉藤が4位、西片が8位、ノーマルヒルでは葛西が5位、西片が再び8位と表彰台にはまだ立てなかったが入賞には手が届くようになった。そして4年後、地元長野開催に向けてジャンプ競技でメダルを量産する為の選手強化が課題となった。だがここから日本ジャンプ陣の快進撃が始まる95年の世界選手権、ノーマルヒルでは岡部、斉藤がワンツーフィニッシュ、西片が7位。そして新星、船木がラージで5位に入賞した。2年後の世界選手権、ノーマルでは地元フィンランドのアホネンが優勝し日本勢のこの種目の3大会連続優勝を阻んだが、原田が2位、船木が4位、8位に斉藤が入りラージでは原田が優勝しノーマルの雪辱を。日本人選手が五輪、世界選手権のラージヒルで金メダルを取ったのは史上初めて、あの笠谷でさえ成し遂げられなかった快挙であった。これで翌年の長野五輪には期待が寄せられる事に。その五輪、ノーマルで原田は一回目1位につけておきながら5位に終わるが、船木が銀メダル。そしてラージでは船木が金メダル、原田が銅メダル、団体では金メダル、合計金メダル2個、銀1、銅1と日本列島を大いに沸かせた。その進撃は翌年の世界選手権にも続きラージヒルで新鋭の宮平が3位、船木が5位、原田が6位そして斉藤が9位、葛西が10位。ノーマルヒルでは船木、宮原、原田で表彰台を独占。過去、五輪、世界選手権、共に表彰台を独占したのは日本だけである。しかも札幌五輪とこの世界選手権と2度も偉業を成し遂げている。
だがこの大会以降スキーの長さの規定やジャンプスーツの大きさの規制が替わり、日本選手は勝てなくなってくる。特にスキーの長さの変更は体格の小さい日本人選手には不利な変更であった。詳細は忘れたがスキー長は身長 + 80cm ( 70cm だったかな??) となり上背のある選手ほど長いスキーで滑れるようになった。スキー板が長ければ長いほど助走でのスピードが出て、飛び出し後も大気から浮力を受け易くなり飛距離が出る様になる。“体格に優る選手が優位であってこそスポーツ競技”と言う無茶苦茶な大義名分の元でのルール変更だ。元々スポーツと言うのは体格の劣るものは決められたルールの中で工夫しながら体格に優る者と渡り合うものであって、体格の優る人間の為にルールを合わせるべきでは無いはずだ。 ジャンプ競技の盛んなのは欧州大陸でワールドカップの開催地も欧州が多い。そこで日本人選手に勝ち続けられては大会スポンサーも就き難いと言うのが本音だ。幾多のスポーツ競技がこの様なルール変更で日本を不利に追い込んでいる。 2001年の世界選手権ではノーマルヒルで原田が5位に入ったのが最高で、他の入賞者は同種目で7位の斉藤のみ。2002年のソルトレーク五輪でも団体で5位入ったのみで個人種目では入賞者が無かった。2003年の世界選手権で五輪では好成績に縁の無かった葛西が1人大奮起。ノーマル、ラージ両種目で3位にはいり、団体でも2位に入る牽引を果たした。だが今年の世界選手権では入賞者どころかトップ10に入った選手はおらず、団体でも9位に沈んだ。こうやってこの10数年を振り返るとルール変更もあるが、五輪、世界選手権で上位入賞するのは同じ選手ばかりで、世代交代が進んでいない事が一目瞭然だ。今、原田はワールドカップ転戦組みから漏れてコンティネンタル杯組に。そしてかつての金メダリスト船木も。岡部が久々にワールドカップ組に復活しているが、ワールドカップでまだ上位入賞は無い。 葛西に是非五輪ではブレイクして欲しいのだが今季のワールドカップでは2回目に進めない大会も少なくない。世代交代が進まない原因はこの不況から来る実業団のリストラが大いに寄与している。新たに選手を引き取っても若手を育てる時間も余裕もないので、結局ワールドカップ遠征や五輪選考は同じ選手に偏ってしまう。 2月から始まる五輪では誰か一発大飛行を見せてくれぬか?前大会のラージ、ノーマルの2冠をあのフィンランドの鳥人 ニッカネン依頼制したスイスの Adams そしてアルベールビルでノーマル銅、ラージ金を勝ち取ったフィンランドのニエミネンの様に。五輪での勝者は往々にして五輪一発大飛行でメダルを獲得する選手が出て来るものだ。ただ彼らは若く、特にニッカネンは17歳で五輪を迎えた。今の日の丸飛行隊にこういう秘密兵器がおれば良いのだが。五輪まであと2ヶ月。なんとか大飛行を見せて欲しいものだ。33年前自分が感動した様なあの大飛行を。

どうなる日の丸飛行隊

2005-12-24 | 冬季五輪
今年もあと1週間少し。街は Christmas Carol が溢れている。来年はドイツで FIFA ワールドカップが開催されるが、その前にイタリア、トリノで2月10日より第20回冬季五輪が始まる。世間はこれから始まるフィギァースケートの全日本選手権に関心が集まっているが大会後に五輪代表に選ばれた選手達は是非メダルを勝とて欲しい。でも少し過熱しすぎではないか?それに引き換え、スキージャンプは全くと言って良いほど話題に昇らない。新聞の片隅に載るワールドカップに転戦する我らが代表選手の戦績も芳しくない様だ。私は冬季五輪と言うと子供の時に見た札幌五輪での日の丸飛行隊の表彰台独占が忘れられない、といいたい所だが、後に行われた90m級の方が印象に残っている。メダル独占の偉業を達成した70m級 が行われたのは授業のある日で、学校から帰宅後そのニュースはテレビで観て知った。90m級が行われたのは日曜日でトライアルからの中継が行われていた。日本人の期待を背負った70m級の金メダリスト笠谷幸男は1回目106mを飛んで111mを飛んだ Poland のフォルトナに次いで2位に着けていた。当時は今と違って2回目の試技の順番は1回目の順位によって変えたりしなかったので、笠谷の順番45番目(だったと記憶している)は変らなかった。2回目の試技では1回目トップのフォルトナを初め有力選手が次々と失速し、いよいよ笠谷の順番が廻ってきた。96mを飛べばトップに立てるはずであった。そして笠谷の後ろには有力選手はもういなかった。日本人全てが笠谷の2冠達成を期待した、そして信じていた。しかし、笠谷の飛行は優勝ラインの10mも手前の85m付近に落ちてしまい、7位に沈んでしまった。テレビから伝わってきたこの瞬間の会場の雰囲気は今でも忘れられない。そして中継していたNHKのアナウンサーの落胆振りも。五輪が終わってしばらくの間、笠谷のこのジャンプが忘れられなかったがジャンプ競技こそ冬季五輪では最も期待出来る種目と思う様になった。しかし再びジャンプで日本人金メダリストを見られるのには26年後、再び地元(長野)で開催されるまで待たねばならなかった。その間にも好成績は見られた。1980年のレークプラシッド五輪の70m級で八木弘和が銀メダル、秋元正博が4位に入賞したが以降、フィンランドの英雄、マッティ=ニッカネンが登場し、ノルディック王国フィンランド、ノルウェー、そしてオーストリア、東西ドイツには大きく水を開けられる事に。毎年10数回開催されるワールドカップでは1985年に地元札幌で秋元が優勝するなど単発的には好成績が見られたが五輪でのメダルは遠かった。1991年の Valdi Fieme での世界選手権のラージヒル、ノーマルヒルでは日本人最高ながら10位に終わった東和紀が1回目でトップにつけて、2回目の試技を最後に飛んだ。笠谷以来の金メダルが期待されたが、5位に終わってしまった。しかしレークプラシッド五輪以来の入賞だった。この大会では複合競技リレーで日本チームが銅メダルを獲得。翌年そして翌年からの五輪での同種目連覇に繋がる。そしてジャンプも上昇してくる。翌年のアルベールビル五輪では原田がラージヒルで4位に入った。3位オーストリアの Heinz Kuttin とはわずか 3.5 差であった。そして5位チェコの Parma とは 13.3 の差をつけていた。この五輪から原田の時代が始まる。 続く