▼「テレビに釘付けになった」という表現を、久しぶりに思い出したのが、昨日の白鵬と琴奨菊戦だ。だが「テレビに釘付け」、このフレーズも、テレビに釘は変ではないかとふと思う。私たちの世代は、周囲が木材で溢れていたので、釘付けというのは、生活に馴染んでいた言葉だ。だが「おじさんテレビに釘付け」なんてそんな言葉はおかしいよと言われそうだと、ふと思ったのだ。
▼この頃、日本語に違和感を覚えることがある。テレビの若いアナウンサーにも、日本語が変だと思うことが度々あるからだ。全体の話の流れでは意味がわかるのだが、
よく考えると同じ意味の言葉を重ねて使っているものとか、間違っている言葉だと思うのだが、全体を通せば特別支障もなく、内容も伝わるのだ。テレビに向かい、この言葉の使い方は間違っていると、解説したりしているこの頃だ。そういうことが習慣になると、自分の日本語にも不安を感じてしまうのだ。
▼日本語に自信が持てなくなった理由が解明できた。国会中継をテレビで観たせいだ。アベ総理とアソウ大臣の答弁だ。二人の日本語には、相手に納得させる内容が欠けている。つまり、日本語の理解力が足りないのだ。自分流の日本語の理解力で、答弁しているので、聞く者は混乱し、やがて終了してしまうのだ。審議は十分尽くしたと自分では思っているが、肝心の答えにはなっていず、汽車でいえば、脱線したまま到着地についてしまったという感じだ。そんな現在の国会が、日本語を乱している元凶なのだ。
▼私も大きく脱線してしまったが、昨日の大一番に軌道修正しよう。仕切り最中から私は琴奨菊が勝つと思った。観客のすべての拍手が琴奨菊の応援をしていたからだ。それは白鵬自身が一番感じていたに違いない。「ねこだまし」「張り手」「頭おさえ」など、横綱にあるまじき相撲が批判されているが、普段はそんなものは無視する白鵬だ。もはや誰が見ても各界の第一人者だ。勝負は負けたらおしまいなのだ。批判するんだったら、俺をぶん投げればいいというのが、白鵬なりの「心・技・体」なのだろう。
▼今場所の初日、テレビの前で私が読んだ一句を紹介したい。「新年もモンゴル部屋で相撲とり」。もはや日本相撲協会は、モンゴル部屋が仕切っているというのが白鵬の心の中ではないかと思う。その慢心が観客の白鵬批判の拍手になったのだ。「時間です」の呼び声に、塩を持つ白鳳の姿からは闘争心が消えていた。日本中の相撲フアンの目が、琴奨菊の背後に見えたからだ。ダンプカーに押される如く、土俵からはみ出されてしまったのだ。
▼私もテレビの前で、拍手とバンザイを叫んだのだ。だが、千秋楽までは日がある。修羅場を乗り越えてきた「モンゴルの鬼」白鵬の逆襲劇はいかにだ。私の一句が千秋楽に当てはまらないよう願いたいものだ。この勝負、観客の声援が琴奨菊の勝ちにつながった。相撲を見てから、ふと思いついたのは「大間原発」のことだ。
▼昨年、函館市町会連合会は、14万6184人の建設反対署名を持って、国と電力会社に届けた。だが、この程度では白鵬に挑む同様、勝負にはならない。勝つためには、函館市民27万の声援が必要だ。原発反対の大勝負に、市民の関心が弱いのを感じる。今年はどんな反対運動を展開したらいいか、どうしたら市民の関心を高めることが出来るのか、私も迷っているところだ。迷ったら勝負にならないこともわかっている。それは白鵬が昨日の一戦で教えてくれたからだ。
▼夏場所「参議院戦」。白鵬でも観客の声援で負けたのだ。アベ総理の完敗で、日本中から座布団が飛び交う夢でも見たい気分である。