▼私の家は浄土宗だ。開祖は法然上人で、現在の岡山県の出身だ。岡山といえば桃の産地だ。だから私の法然像は、桃が割れ、その中に法然上人がいるという感じだ。つまり桃太郎のような身近な感じがしているのだ。現在お寺の役員もしているが、恥ずかしいがいまだにお経の内容も知らない。「南無阿弥陀仏」と唱えているが、その有り難みもよくわからない。数年前長野の善光寺の本堂の地下の、真っ暗な廊下を通過した時、暗闇での恐怖心の中、自然に口から出たのが「南無阿弥陀仏」だ。
唱えているうちに心が落ち着いた経験がある。その時「南無阿弥陀仏」がわかりそうな気がしたが、やはり今だにわからないでいる。
▼70年近く生きてきたのだから、少しは仏教についての理解力の下地ができてきたのだろうと思い、仏教の本を購入したが、読み始めると、理解ができないような気がしてしまい、読むのを諦めてしまった。他宗の住職に尋ねたら「学べば学ぶほどよくわからない」という答えが返ってきた。ということは凡人なら、理解ができないのが当たり前と、私は解釈してしまったのだ。だが、お迎えが来てもおかしくない歳になってきたので、少しぐらいは仏教の知識をと思い「私だけの仏教」という、ちょっぴり変わった題名の本を購入した。作者は自らも僧侶である、芥川賞作家の玄侑宗久さんだ。文学的立場から解釈するなら、少しは理解が出来るのではと思ったが、やはり今回も完読まで行きそうもない気配だ。この辛抱のなさが、私の信仰心の薄さなのかもしれないし、仏教を理解できない脳みそなのかもしれないと思うと、悲しくもなる。
▼だが「布施」ということは少しは理解できたので書き留めてみたい。布施といえば葬儀や法事の時に住職に支払うお金を思い出すだろう。基本的には布施とは贈与することだという。贈与するのはお金ばかりではなく、笑顔、眼差し、優しい言葉、座る席や止まる宿など、お金がなくとも様々に人は布施が出来る。布施とは積極的に相手を喜ばせる行為のことだ。だが他人を喜ばせるのは欺瞞だという人もいるだろうが、他人のためと考えなくとも、それを喜ぶ自分のためだと考えられるだろう。我々はもともと他人が喜ぶのを喜ぶ生き物だという認識が必要という。だから「布施して布施知らず」というところまでいこうという。
▼そういえば「恩に着せず」という言葉もあったなと、ふと思い出した。そして次に思いだしたのが原子力発電所のことだ。原発の名前に「普賢」「文殊」と菩薩の名を使用しているものがある。安全・安心で地球にやさしいクリーンエネルギーを供給してきたのだろう。それは、戦後の経済復興の、我が国の原動力になったのは間違いない。つまり原発は国民を喜ばせ「布施」を行なってきたのだ。だが福島第一原発事故で、その「布施」は必要がなくなったのだ。にも関わらず「再稼働させなければ電気料金の値上げをする」という、謙虚さの欠片もなく「布施」の意義も理解しない原発だ。「布施して布施知らず」の心を失った原発に「普賢」や「文殊」などという名は、即刻外してほしいものだ。
▼国民は安全で安心な生活を保証してもらうために、税金という「布施」をする。それは国民の義務と思い「布施」を続ける。だがこの国民のまごころに対し、国家は「布施」の意味を理解していないのではないだろうか。自分勝手に使いすぎていやしないだろうか。対価を期待すれば「布施して布施知らず」に到達はできないだろうが、仏教の本を読んでいたのにだんだん腹が立ってきたのだ。こんな考えだから、私はいくつになっても仏教を理解できないということを気がついたのだ。
▼ふと外を見たら、雪が静かに降っている。その雪景色の中に太陽がやけに神々しく光っている。おもわず「南無阿弥陀仏」と唱えてみた午後3時の私だ。