函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

惑わされてはならない

2016年01月26日 10時45分49秒 | えいこう語る

 

普天間から辺野古への、米軍基地移設の賛否を問う宜野湾市長選挙だと思っていたが、「普天間からの移設」が大きく取り上げられた結果、基地の危険回避を願う市民は、政府が支援する市長を選んだ。そこで政府は「辺野古基地の建設」が支持されたと、本音をさらけ出してきた。だが宜野湾市民のアンケート結果は、辺野古移設に反対が「56%」だ。どうしてこんな結果になったかというと、政府側の単純な戦術に惑わされてしまったからだ。「普天間基地の危険除去」と「ディズニーランド誘致」という、人参が功を奏したのだ。当選した市長は、自分は子どもたちから「ディズニー市長と呼ばれる」というはしゃぎぶりだ。宜野湾市民は「政府の辺野古移設マジック」に、まんまと引っかかってしまったということになる。

と考えていたら、愛媛県伊方原発の再稼働をめぐり、事故の場合も考えてと、危険性を煽り、愛媛県と隣の大分県に海底トンネルをつくろうという、自民党議員連盟がシンポジュウムを開いたそうだ。この計画は「豊予海峡ルート構想」ということで、国は調査費を出していたという。鉄道部分は四国新幹線の一部になっているというから、またもや「原発と新幹線コンビ」が浮上してきたのだ。我が国は「ディズニーと新幹線」が大好きな国民のようだ。この二つのどちらかを持ってくれば、原発再稼働や軍事基地誘致も、簡単に解決されるようだ。そういえば我が函館市も、祭りにミッキーを呼んで、盛り上がったことがあったっけ。

政府に翻弄される沖縄県、北の北海道も「新幹線の札幌延伸と泊原発再稼働」で、なんだか、アベ総理に惑わされそうな気配がしてきている。ディズニーではないけど「冬季五輪」という、道民が期待に胸を膨らますプレゼントも用意しているようだ。最近、アベ総理に北海道知事の後見人に指名されたのは、ムネオさんらしい。私の夢に中では「アベ・ムネオ」という名でよく登場している。そういえば、ムネオさんミッキーのぬいぐるみが似合うような気がしてきた。北海道の新キャラクター「ミッキー・ムネオ」が、クマモンやふなっしーを超える人気にならないよう、道民は監視しなければならない。

ちょっぴり沖縄が気になったので、大江健三郎著の「沖縄ノート」を読み返してみた。琉球新報に掲載された、栃木県のある医師の投稿だ。「琉球人よ、諸君は元来が独立国であったはずだ。それが明治維新のドサクサに紛れ、日本の沖縄県民にされ領有されたのである。そして、内地官僚の左遷された役人によって統治され、日本の赤字県とされていたのである。・・・非常に幸運なことに第二次世界大戦のおかげで、諸君は日本を離れ米軍の施政下に入っているが、そのために諸君はまだ知らなかった世界を知ったことになる。軍事施設以外は、全く内地では想像をつかぬほどの自由を持っていたのだ。朝鮮も台湾も独立した。諸君はなぜ独立しないのか。諸君の政府を作りたまえ。財政の心配などない。観光とトバクでまかなえばよい。国営トバクだ。ただし国民はやってはならない。歓楽の国にすることだ。ケンカのない理想郷を諸君の良識で作ってみないか。つまらん本土復帰の悲願などやめたまえ」。

さらに内容は、日本に復帰したら、もはや、永久に独立の政府を持つことは不可能になると続く。これは本土復帰を前にした投稿のようだが、日本と米国の二重統治に置かれ翻弄される、沖縄の現在に引きずっている元凶が見えてくるような気がする。それにしても赤字県とは国策を受け入れざるを得なくなるという要素を含んだ言葉のようだ。翁長知事は、自治権を取り戻すために、国との真っ向対決に挑んでいる。その覚悟の裏には「沖縄独立」が潜んでいるのかもしれない。宜野湾市長選を制した後の、アベ総理と菅官房長官の顔に「アリなど踏み潰す」という言葉が、浮かんでいたような気がしたのは、私だけだろうか。

沖縄問題は自分たちの問題に置き換えてみるということが、今の我が国では、立憲民主主義と地方自治を守ることにつながるのではないかと思う、沖縄宜野湾市長選終了の、私なりの拙い総括だ。


勝負の別れ目

2016年01月25日 14時05分15秒 | えいこう語る

 

勝つ流れというものがある。例えば昨日の大相撲だ。琴奨菊が勝てば、10年ぶりの日本人優勝だ。国技と言われる大相撲が、モンゴル勢に国技という言葉さえも奪われてしまった感じのこの頃だ。国技館の雰囲気は、琴奨菊の優勝一色に染まる。対戦するのは、大関・豪栄道だ。負け越しの決まった豪栄道だが、大関の意地がある。変わり身の自在な豪栄道、まっすぐ立ち会う琴奨菊には勝てる要素はある。

だが変わり身を絶対許さないというのが、昨日の国技館の雰囲気だ。こうなれば勝負前に、勢いのある琴奨菊に軍配は上がったも同然だ。狭い民族意識で考えると、よそ者のモンゴル勢に、大きな顔をさせてはならないという、日本人の潜在意識が、琴奨菊の優勝を支えたという感じだ。つまり、勝つ雰囲気をつくり出すという心理作戦も、勝つための重要な要素なのだ。

普天間から辺野古基地移設が注目される、宜野湾市長選挙。政府が支援する現職の知事が当選し、知事が支援した辺野古基地反対を掲げる候補が落選した。辺野古基地移転については、県知事が反対しそれを県民の多くが支援しているというのが現状だ。それなら、反対派が勝てると思うが、宜野湾市民は、普天間の移設を訴える現職を選んだ。この勝負の別れ目は、どこでついたのだろうか。宜野湾市民だって、先の大戦の記憶の中で、自分の土地から米軍基地が移設され、それが県内の他の土地に移設されることなど、望んでいないだろう。

だが、米軍基地が沖縄から全て撤去されるのは、実現不可能だと考えているのではないだろうか。なぜなら、戦後70年経っても米軍は居座るし、日米の軍事協定が強固された「安保関連法案」も制定されたからだ。そうなれば地域振興のために、政府が支援する現職を当選させたほうが、無難な選択だと考えたに違いない。大衆というのは「理想より現実」を注視するものだ。生きるということは、現実が安定し、その上で理想を追求すると考えるのが、妥当な考えだろう。

勝負の潮目ができたのは、現職が「普天間基地の固定化は絶対許さない」と一貫して訴えたことだ。宜野湾市民はその言葉を支持すれば、県民と気持ちを共有できると考えたに違いない。現職を引き下ろせば、普天間は固定化してしまうのだ。辺野古基地の問題はさておき、普天間の固定化を避ける戦いに、争点が向けられたので、現職の勝利となったに違いない。

だが宜野湾市民は、辺野古に基地を押し付けたわけではないはずだ。だが、アベ政権は普天間移設イコール、辺野古建設が支持されたと勝手に解釈するに違いない。普天間の危険は回避され、危険が軽減される辺野古に移設することを、宜野湾市民が支持したと考えるだろう。憲法と同じで、アベ総理の解釈はどこまでも、ひとりよがりなのだ。沖縄県民は国防という名の下に、命をすり減らすことが義務付けられた国民なのだろうか。沖縄という言葉意味だが、人を傷つけたら眠れないというという、戦いを好まぬ民族だったという。その「沖」にある島を、国防の基地にするために「縄」で引っ張り、我が国の領土にしたのではないかと、ふと考えさせられた宜野湾市長選挙だ。

さて、次の重要な戦いは、北海道5区(札幌)の衆院選補選だ。自民党の重鎮町村信孝議員の死去に伴い、娘婿の和田氏が自公の支援を受けて立候補だ。それに、アベ総理から頼まれたムネオさんが応援する。ムネオさんの長女、貴子氏は民主党の衆議院議員だ。ムネオさんは自分の果たせぬ夢を長女に実現させるため、大きな勝負に出たものだ。流れが和田氏有利に変わってきた感じもする。対する民主党は、なかなか気っ風の良い女性候補の池田氏を対抗させている。民主は「安保関連法案廃止」と「原発再稼働反対」をスローガンにするようだ。

だが、市民の反応はどうだろうか。敵が攻めてきた時の現実的な対応を定めた「安保関連法案」だと宣伝されれば、それは不必要なことではないと思わないだろうか。原発は、いずれは廃止する方向にするが、今、安定電力の供給のためには、現行の3基ぐらいの泊原発は、残しておいたほうが電力料金も安くなるので、いいのではないかと考えるかもしれない。大地も広いが心も広い札幌市民なら、頷きそうな気がしてならない。

さらに、新幹線の札幌までの早期延伸をアベ総理が確約する。そして、ムネオさんが、札幌冬季五輪、宇宙ロケット基地構想と空港民営化による「新北海道観光構想」を大声で吠えるという作戦だ。なんだか、勝負の潮目が和田氏の方に向かうのではないかと懸念される。民主党は、そこの微妙な市民の心理を見逃さないでほしいものだ。この補選で次期知事選の「勝負の別れ目」ができそうな気がするからだ。

もし、この補選で政府支持者が当選すれば、次期知事選は「不戦勝」とも言うべき、自民党の勝ちが約束されるに違いない。今の北海道民主党に欠けているのは「闘争心」だと思う。4回連続、はるみ知事に優勝をさらわれている民主党。大関の角番を5回もクリアーした琴奨菊にあやかり、ぜひこの補選に勝利し、知事選での優勝をめざしてほしいものだというだらだらした長い夢が、昨日の夢だった。起床したのが7時をとっくに過ぎていた。琴奨菊の優勝の美酒を飲み過ぎたせいに違いない。


日本人の気質

2016年01月24日 13時06分21秒 | えいこう語る

 

アフリカの女性が、日本の「もったいない」という言葉を世界中に広めたのは、つい最近のことだが、この運動も、すでに記憶の外に追いやられたようだ。「もったいない」という日本人の特性が世界中に理解されそうになったのだから、それを国策として何らかの行動を起こして欲しいものだと思ったが、「流行」というジャンルの中で流されてしまうのは、実に「もったいない」ことだと思う。大事なものが簡単に流されるというのが、今の日本人気質というのは「もったいない」を通り越して「情けない」という現状なのではないだろうか。

戦争をしてはならないと決め、世界中から信頼されていた「日本国憲法第9条」。70年の歳月を重ね守ってきたものを、アベ総理というたった一人の人物が変えようとしている。実に「もったいない」ことだが、国民がそう受け止めるとすれば、実に「情けない」ことだ。日本人初のノーベル文学賞の作家川端康成さんが「美しい日本の私」とスピーチした。二人目の大江健三郎さんは「あいまいな日本の私」に変わった。時代の変化と共に、日本人の気質も変わってきたという意味なのだろう。3人目の受賞者が出たら「情けない日本の私」になるのではないかと想像できるぐらい、気質すらあいまいな、今の我が国だ。

廃棄しなければならない食材を、横流しした廃棄物処理会社の実態が大きな問題となっている。この事件の問題に潜むものは「もったいない」という日本人の気質だ。戦後の食糧難を体験した人なら、食べれるものなら捨ててはならないというのは、DNAに染み込んでいるに違いない。私たち戦後生まれでも「飯粒を一つでも残したら目が潰れる」といわれたものだ。だが戦後の高度経済成長は消費が美徳だとし、「古いものは捨てる」というのが世の流れとなった。「賞味期限」という概念もそんな時代背景に生まれたものだろう。

「賞味期限」という言葉、食の安全・安心という内容を含んだ言葉だが、経済効率向上する言葉であり、それに違和感を抱いていた国民もいたのではないかと思う。「もったいない」というのは、日本人のDNAなので、そう簡単には消滅てしまわないのだ。コンビニで捨てられる弁当を「あたりまえ」と考えること自体が、異常なことではないかという議論に、我が国は欠けていたのではないかと思う。コンビニ業界が、地域に存在していた商店を、絶滅にさせた張本人だという議論と共に。

「便利」という概念が「もったいない」という日本人の優れたDNAを破壊していることが、今回の食品廃棄回収業者の問題で、考えなければならない、本質的問題ではないかと思う。廃棄業者の、食べれるものなら開発途上国に転売するというのも、犯罪の延長ということではなく、飢餓状態にある世界の人々を救うという観点に立ち、それらを解消するという発想の転換が求められるのではないだろうか。もしかして「世界一便利」という国に住んでいて「進化」という名のもとに「真理を見極める」目が曇っているのが、今の私たち日本人ではないだろうかと、考えされられるのが、今回の食品廃棄の報道だ。

世界の食物の3分の1ほどが廃棄されている実態があると報道されている。日本の一部業者の違反問題としてではなく、日本からこの問題を国連に提起し、世界から飢餓をなくすことが「積極的平和主義」ではないか。「古くなった」「使い勝手が悪い」「賞味期限が切れた」などということで「憲法まで廃棄処分」にしては、日本人だと胸を張っていえないのではないかと思う。

「もったいない」という日本人気質、それを維持することが、国際社会で名誉ある地位を確保することでないかと思うのだが。それにつけても、大相撲の日本人優勝に、身体が熱くなる今日の千秋楽だ。私はこんな自分に、愛国精神のDNAを感じるのだ。日本力士の優勝を神仏に祈りたい。だが、内閣総理大臣杯の授与に、アベ総理が現れないことも、併せて神仏に祈ることにしたい。


布施

2016年01月23日 15時49分36秒 | えいこう語る

 

私の家は浄土宗だ。開祖は法然上人で、現在の岡山県の出身だ。岡山といえば桃の産地だ。だから私の法然像は、桃が割れ、その中に法然上人がいるという感じだ。つまり桃太郎のような身近な感じがしているのだ。現在お寺の役員もしているが、恥ずかしいがいまだにお経の内容も知らない。「南無阿弥陀仏」と唱えているが、その有り難みもよくわからない。数年前長野の善光寺の本堂の地下の、真っ暗な廊下を通過した時、暗闇での恐怖心の中、自然に口から出たのが「南無阿弥陀仏」だ。

唱えているうちに心が落ち着いた経験がある。その時「南無阿弥陀仏」がわかりそうな気がしたが、やはり今だにわからないでいる。

70年近く生きてきたのだから、少しは仏教についての理解力の下地ができてきたのだろうと思い、仏教の本を購入したが、読み始めると、理解ができないような気がしてしまい、読むのを諦めてしまった。他宗の住職に尋ねたら「学べば学ぶほどよくわからない」という答えが返ってきた。ということは凡人なら、理解ができないのが当たり前と、私は解釈してしまったのだ。だが、お迎えが来てもおかしくない歳になってきたので、少しぐらいは仏教の知識をと思い「私だけの仏教」という、ちょっぴり変わった題名の本を購入した。作者は自らも僧侶である、芥川賞作家の玄侑宗久さんだ。文学的立場から解釈するなら、少しは理解が出来るのではと思ったが、やはり今回も完読まで行きそうもない気配だ。この辛抱のなさが、私の信仰心の薄さなのかもしれないし、仏教を理解できない脳みそなのかもしれないと思うと、悲しくもなる。

だが「布施」ということは少しは理解できたので書き留めてみたい。布施といえば葬儀や法事の時に住職に支払うお金を思い出すだろう。基本的には布施とは贈与することだという。贈与するのはお金ばかりではなく、笑顔、眼差し、優しい言葉、座る席や止まる宿など、お金がなくとも様々に人は布施が出来る。布施とは積極的に相手を喜ばせる行為のことだ。だが他人を喜ばせるのは欺瞞だという人もいるだろうが、他人のためと考えなくとも、それを喜ぶ自分のためだと考えられるだろう。我々はもともと他人が喜ぶのを喜ぶ生き物だという認識が必要という。だから「布施して布施知らず」というところまでいこうという。

そういえば「恩に着せず」という言葉もあったなと、ふと思い出した。そして次に思いだしたのが原子力発電所のことだ。原発の名前に「普賢」「文殊」と菩薩の名を使用しているものがある。安全・安心で地球にやさしいクリーンエネルギーを供給してきたのだろう。それは、戦後の経済復興の、我が国の原動力になったのは間違いない。つまり原発は国民を喜ばせ「布施」を行なってきたのだ。だが福島第一原発事故で、その「布施」は必要がなくなったのだ。にも関わらず「再稼働させなければ電気料金の値上げをする」という、謙虚さの欠片もなく「布施」の意義も理解しない原発だ。「布施して布施知らず」の心を失った原発に「普賢」や「文殊」などという名は、即刻外してほしいものだ。

国民は安全で安心な生活を保証してもらうために、税金という「布施」をする。それは国民の義務と思い「布施」を続ける。だがこの国民のまごころに対し、国家は「布施」の意味を理解していないのではないだろうか。自分勝手に使いすぎていやしないだろうか。対価を期待すれば「布施して布施知らず」に到達はできないだろうが、仏教の本を読んでいたのにだんだん腹が立ってきたのだ。こんな考えだから、私はいくつになっても仏教を理解できないということを気がついたのだ。

ふと外を見たら、雪が静かに降っている。その雪景色の中に太陽がやけに神々しく光っている。おもわず「南無阿弥陀仏」と唱えてみた午後3時の私だ。


しかたがない大地・北海道

2016年01月22日 08時16分22秒 | えいこう語る

 

経済産業省が、核のゴミの処分に本格的に動き出した。核のゴミはすでにあるから、原発に賛成・反対とは関係なく、処分地を決めるというものだ。どの自治体が引き受けてくれるかということではなく、引き受けてくれる自治体を国がつくり出すとい決意だ。つまり、原発建設の時と同じ手法を使えばいいのだ。まずは経済的に困窮する自治体をつくり出すことだ。首長も議会も、住民を飢えさせてはならないので、引き受けざるを得なくする作戦だ。名付けて「しかたがない作戦」だ。

日本全体で考えると、広大な大地・北海道はゴミ捨て場としては好適地だ。破産自治体で辛抱を強いられている夕張市などは、炭鉱の跡地があるので有力候補に違いない。核のゴミ処分研究施設がある幌延町はNO1候補だ。だが、私が最近心配しているのは、日高地方だ。高波による土砂崩れで、日高線の存続が危ぶまれているからだ。JR北海道としては、赤字路線でこれからも売上が期待できないこの路線は、廃止にしたいのが本音だ。

だが、地元自治体にとって、この路線が廃止になると、地域はますます疲弊するのだ。復旧額は38億円にもなるが、JRと国と道が3分の1ずつ負担する案が浮上して、地元に希望をもたせている。この希望が実は悩ましい希望なのだ。さらに、こんな問題が起きるというより、起こすのだ。復旧したとしても離岸堤がなければまた削られてしまうので、離岸堤の設置をJRが要望しているのだ。この費用負担の見通しが立たなければ、存続を断念しなければならないという。さらに、存続後の赤字は、沿線自治体に一定負担してもらうという条件まで付く。

離岸堤さえ設置してもらえれば存続は可能だ。沿線自治体としては知事にお願いするしかない。だが、大津波や高潮被害の防御のため、全道各地で海岸整備の要望は多い。日高方面を優先させるには、道議会の理解が必要になる。はるみ知事は沿線自治体の首長を、ある夜に知事公館に招待した。期待に胸を膨らませる首長を前に、はるみ知事はいつもの笑顔で話しはじめる。

「私が見た夢を皆さんにお話したい。夢の話だから、私の真意と少し違うところがあるというのも理解してほしい。我が国の戦後の経済復興は、電力により支えられた。私が以前勤務していた通産省が主導し、原子力での発電がそれを支えてきた。だが原子力のゴミがたまり、処分に困っている。このゴミの処理は地中深く埋めれば安心だといわれている。もしそれを引き受ける自治体があれば、国は相当な補助金を未来永劫に用意してくれるという夢だ」と。

その夢を聞いた沿線の自治体の首長たちは、その夜札幌のホテルでこんな夢を見る。「新幹線の札幌早期延伸に国も前向きだ。ということは、国と道とJRとそして道議会も良好な関係を結んでいる。後は我々地元が決断すればいいのだ。夢の中では、今までに見せたことがない、とびっきりの笑顔でそれが正解ですとはるみ知事が微笑んだ。首長たちはお互い協力し合い、地中深く、さらに深いゴミの処分場の誘致を、地元民に理解してもらうことを誓った」というところで、首長たちが夢から覚めるという夢を、私は昨夜夢に見たのだ。

何かを得るためには何かの犠牲が必要なのだ。歴史は「しかたがない」という諦念で成り立っているような気がする。先の大戦も国民すべてが協力し参加したのだ。済んだことは「しかたがない」ことなのだ。それを引きずっていてもなんの解決にもならないのだ。要は前向きに事を処理することなのだ。

昔我が国には「神隠し」という共同体存続の知恵があった。人目の届かぬところに追いやってしまえばいいのだ。1月21日の北海道新聞の「核のゴミ処分有望地、年内選定」「適地道内にも当然ある」という、経済産業省地層処分技術WGの栃山修委員長の言葉が、私にこんな夢を見させてしまったのだ。