▼昭和20年7月15日、当時人口が3,500人程の私の村は、米軍の奇襲を受け4人が死亡した。函館市から東側に40キロほどしか離れていない漁村が、なぜ米軍の攻撃を受けたのかというと、津軽海峡の太平洋側の先端に位置していたため、日本軍の監視所が、岬の突端にあったからだ。当日、太平洋上に現れた米艦隊から、函館・室蘭に向け爆撃機が飛び立った。その途中に我が村の上空を通過したのだが、見過ごせばよかったのだが、米軍機に発砲したため、2機が引き返し銃弾の雨を降らせたという。
▼死亡者の一人は、赤ん坊と一緒にいた若いお母さんだ。足を銃弾が貫通し、数日後に亡くなったそうだ。戦時中ゆえ、火葬場からの煙が敵の目標になることを恐れ,土葬にしたという。その後まもなく戦争が終了し、地中から掘り返し火葬したというのは、その実の姉から私が聞き取っている。その姉の子供が私と同級生で、数年前病気で、母親より先に旅立ったのだ。その姉は、私の知り合いと同じ病室に入院していた。亡くなる直前には、私が病院を訪れるたびに「あんたはうちの息子と同級生だったもね」と言いながら涙を流していた。
▼昨年は戦後70年の節目で、安保関連法案が強行採決されたことに伴い、戦争について考えさせられた年でもあった。襲撃を受けた当日、椴法華小学校も狙われ、校舎が破壊された。幸い生徒は休みで、人的被害はなかったが、校舎は相当破損した。学校を破壊しなくても良かったのではないかと思うが、いずれ兵士となる予備軍を養成する学校は、叩き壊せというのが戦争の実態なのだろう。
▼小学校のすぐ隣に、私の菩提寺がある。実は、数年前から修復作業をしていたが、その一角に銃弾が刺さっていたのだ。自衛隊に知り合いがいたので調べてもらうと、米軍機から発射された弾丸だという。弾丸処理の手続きは、地元警察に届け出ることから始まるという。爆発の危険性はなく、鉄の塊ということになった。私は地元の小学校に、戦争があった記憶として子どもたちに見てやりたいので、寄贈したいというと、それならお使いくださいと言われた。校長先生とも相談し、学校へ寄贈しようと思っていたところだ。
▼ところがふと気がついたことがある。私の町会の中に、玄関に大砲の弾を置いている人のことを思い出したのだ。その家の亡くなったおじいさんが、戦後前浜で拾ってきたもので、火薬とか取り除かれているというので、何気なしに置いていたものだった。それも戦争の記憶として小学校に寄贈したいと申し出ると、それならどうぞという。だが長さ32センチ直径12センチほどの砲弾なので、処分の手順上地元警察に届けると、ちょっとした騒ぎとなってしまった。
▼函館中央警察署から函館の自衛隊基地へ、さらに不発弾処理班が、なんと札幌からやってくるという。近隣の消防車も駆けつけ、報道機関までもやってきた。地元駐在所に届け出してから10時間近くも、警戒態勢が布かれた。発見場所から半径50メートル以内は退避勧告となり、私の家もその範囲に入ってしまった。その朝のテレビで「今日の運勢」は珍しく私の星座が一番になり、今日はいいことがあると妻に話していたばかりだったのだ。
▼結果は、米軍艦隊からの砲撃での弾丸と判明し、火薬も抜かれていてただの鉄の塊だったが、米軍からの砲弾は、戦後71年目に我が村から札幌に移送されて行ったのだ。もし私が手続きを知らず、小学校へ砲弾を持って行ったら、大変な迷惑ををかけたに違いない。運勢が良いというのは、この程度で済んだことではないかと、私は自分自身に言い聞かせた一日だった。
▼私も、現場いたが、自衛隊、警察、消防の対応は極めて親切で、熱心だった。だが安保関連法案の今後の流れで、一朝有事となるとどんな対応になるのかと心配になる。自衛隊が軍隊に変身した時は、国民の基本的人権などどうなるのかと、ふと考えさせられたりもした。同時に、この親切な自衛隊員たちが、集団的自衛権行使などで、遠い海外で危険にさらされることが無いように、心の中で願っていた。
▼アベ総理の言う「積極的平和主義」は「積極的戦争主義」で「安保関連法案」は「戦争推進法案」なのだと、なんだかきな臭い匂いが周囲に漂った、昨日の不発弾騒動だった。