函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

美しい国というけれど

2016年01月29日 10時27分52秒 | えいこう語る

 

教科書会社が、検定中の教科書を教員らに見せて意見を聞き、謝礼を渡していたというのは報道で知っていた。だが、我が北海道が最多の489人とは、甘利大臣の金銭授受より、問題は大きいのではないだろうか。なぜかというと「道徳」が教科化される問題と、連動しているのではないかと考えられるからだ。最大2万円の謝礼をもらった教師もいたそうだが、選挙前に低所得の老人たちに、3万円の現金を支給する手口に似ていやしないか。お金で1票が買えるというのを、聖職者たる教師たちが、実証したように感じるからだ。北教組の加入率も低下しているようだが、教職のタガも緩んできているとすれば「戦争は教育から始まる」という歴史の、前兆が表面化した問題として、単純に見過ごしてはならない感じがする。

「教育勅語」が出された明治中期に、我が国に滞在していた語学者チェンバレンは「天皇遥拝」という「日本の新しき宗教」の「新しい布教の大要塞とも言うべきものは学校である」と指摘している。戦後になるが、1951年の天野貞祐文部大臣の「国民実践要領」には、天皇の存在を「道徳的的中心」と、記している。共に、横田耕一著「憲法と天皇制」より。さらに、現アベ総理も、著書「美しい国へ」では『教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ。そして教育の再考は、国家の任である」と断言している。現在の「道徳教育の教科化」をどのように考えるかは、国民全体の問題だが、やはり教育者たちに突きつけられた問題ではないだろうか。そこが「買収?」にあっているかのような教科書問題は、国家の大事ではないかと、私の「老爺心」は微妙に反応するのだ。

戦前と戦後は、教育が大変化し、国民の考えも変わったと考えているが、実は「連続性」の中で、国家は存在し続けているのではないだろうかと、アベ政権の政策で強く感じることがある。それは、一気に決着がついたというような「従軍慰安婦問題」にも見えるてくる。敗戦直後の我が国に於ける「連合国軍慰安所」の設置だ。日本軍がアジア・太平洋各地で多くの強姦事件をおこした事実を照らしあわせ、日本の婦女子を守るため国家が推進したのだ。この事実から、従軍慰安婦という制度は、国家が容認し推進したということが証明される。戦後の慰安所の設置は、多くの国民が賛同していたというから、国民自体も戦争下の慰安婦の存在は、認めていたことになるのではないだろうか。ここが慰安婦問題の難しさでもある。

さらに、当時の我が北海道の動きに驚きを感じる。道庁は直ちに警察部保安課と慰安所の設置を進めている。敗戦わずか2ヶ月あまりで、札幌だけで770人の慰安婦を集めたという。吉見義明著「従軍慰安婦」より。開拓精神旺盛な北海道は、国の影響を受けやすい土壌だということなのだろうか。北海道民として、なんだか心配になってきた最近の出来事だ。

甘利氏の辞任は、7月の参議院選に向けてのスタートの号砲かもしれない。もしくは衆参同時選挙への幕開けを示唆しているのかもしれない。野党も甘利問題だけ集中していると、戦いの陣営を強化できなくなる。それが、甘利辞任劇の、与党奇襲作戦なのかもしれない。マスメディアまで仲間に引き入れた感がある奸智に長けた与党。もはや、改憲は意のままになるのではないかと感じられる、最近の我が国だ。北海道5区の補選も、参議院選を占う重要な選挙だ。共産党が民主党に共闘を申し出ているが「候補者を下ろし、頭を下げてこい」という民主党の高飛車では、負けが見えている。平和の党と自負していた公明党を、仲間に入れた自民党の手法を見習っててほしいものだ。

たとえ甘利氏が、議員辞職したとしても、次の選挙ではトップ当選してくるに違いない。「政治家としての矜持に鑑み、辞任を決意した」と、潔い切腹を地元有権者に見せたからだ。歌手の細川たかしさんと友達という甘利氏、得意な歌は細川さんの「北酒場」だという。だが、辞任から歌うカラオケはこの曲になるだろう。

昨日の私の夢だ。カラオケで細川さんと甘利さんと私の三人が、飲んで歌っている。甘利さんは細川さんの「心のこり」を替え歌で何度も熱唱していた。♪私バカよねおバカさんよね 後ろ指後ろ指さされても アベさん一人に命をかけて耐えてきたのさ今日まで♪。私もこんな掛け声で甘利さんを応援した。「よ!次の大統領」と。