goo blog サービス終了のお知らせ 

函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

天皇と総理大臣

2016年01月28日 16時31分02秒 | えいこう語る

 

フィリピンを公式訪問されている天皇、皇后両陛下。先の大戦で、日本軍と米軍がフィリピン国内で戦争したことで、110万人ものフィリピン人の犠牲者を出したという。日本軍の虐殺などもあったことから、戦犯として捕虜にされたが、8年後当時のキリノ大統領が、日本人戦犯全員を恩赦し、その後日本との国交を回復したという。「憎むべきは戦争であり、戦争に参加させられた人ではない」というという、フィリピン大統領の寛容の精神の極みを、そこに見ることが出来る。日本人であれば「フィリピンに頭を向けては眠れぬ」という思いがする、記憶にとどめておきたい歴史の1ページだ。

天皇陛下のお言葉は、戦争で迷惑をかけたことを心からわび、その恩赦に対しても深い敬意を称し、両国が一層絆を深めていくことを願う、真心のこもった挨拶が心に響いて来る。この内容と同じメーッセージをアベ総理が語ったとしても、私はフィリピン国民も日本国民も、心からの感動を覚えないのではないかと思う。陛下が望むものは「戦争のない平和」だ。だが、アベ総理が望むものは「軍事力を背景にした平和」だからだ。

近年の陛下のお言葉には、二度と戦争を繰り返さないという、強い意志を私は感じる。大日本帝国軍は大元帥閣下であった昭和天皇の軍隊だった。その皇軍が人類史上大虐殺を敢行したのだ。二度と戦争をさせないというのは、現天皇陛下の究極の目標なのではないだろうか。だが、アベ政権は「安保関連法案」を制定させ、憲法改正を打ち出してきた。天皇陛下としては、本来ならアベ総理を呼びつけ、叱咤したい気持ちなのではないだろうか。

だが現憲法では、天皇は国事行為のみとされ、内閣の助言と承認が必要とされ、個人的な言動はほとんど制限されている。憲法第1章の天皇に関する記述をよく読めば、この章は、先の大戦での天皇の戦争責任を問う、終身蟄居の内容ではないだろうか。簡単に解釈すると、内閣の許しがなければ天皇は何もできないということではないか。

我が国の憲法でいえば、国家元首は総理大臣だが、フィリピン訪問での天皇の存在は明らかに、国家元首だ。それに、ふさわしいような、総理大臣以上の品格と威厳を持ち合わせている。総理とは身分の違えさえ感じられる、圧倒的存在が天皇陛下だ。私は、今まで感じたことがない、天皇の存在意義を、このフィリピン訪問でのお言葉の内容と、天皇から発せられる、純真な輝きのようなものを意識させられたのだ。

横田耕一著「憲法と天皇制」にこう書かれている。「天皇はいまや具体的な政治的権限を一切持っていないが、国事行為を行う権威ある存在として、国民意識を一つに統合するという、極めて高度の政治的機能を果たしているし、今後も果たすであろうことを意味している。したがって、政治的権限を実際持たなくとも、国事行為を行う主体として天皇が存在するということ自体が、日本において大きな政治的意味を持っている」という解釈だ。私はこの解釈に大いに興味をひかれる。

最近の天皇の戦争に関するお言葉には、自身の反戦の思いを率直に語っているように感じる。だが、自民党の改憲案には、天皇を国家元首とする案もあるようだ。国民統合の象徴という、極めて明確さに欠けている存在から、国家元首という、明確な存在を与えようとするアベ政権の真意は、どこにあるのか。そんなこともちょっぴり考えさせられた、今回の天皇・皇后両陛下のフィリピン訪問だ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。