▼佐高信(72歳)ビートたけし(70歳)かわぐちえいこう(69歳)。前の二人に、私を並べるのも変だが、私がいつも気になっているのがこの二人なので、私自身の分析も含める上で、並べてみた。
▼ビートたけしは、私と同じ団塊世代なので、感性は似たものを感じている。彼のマルチな才能は、自ら「天才たけし」と豪語しても、納得の人物だ。長い間テレビ界を席巻し、他に追従を許さぬ活躍ぶりや、的確に把握する世相観に注目している。
▼歯に衣を着せないジャーナリストの佐高は、たけし批判も強烈なものがある。さらに「アベのバカたれ」と、罵倒するするのも痛快だ。しかし、その考えは、たけしと同類ではないかと私は感じている。お互いのユーモアのセンスは、皮肉がメインで同質のものだと思っている。
▼佐高信著「タレント文化人100人切り」では、たけしを3度取り上げるぐらい、たけしを糾弾している。たけしが軍団を率いり、フライデーに殴り込みをかけた事件で、漫才の横山やすしが「一人で行け、ドアホ―」といった言葉を引き合いに、たけしを弱虫の卑怯者と指摘している。
▼映画監督としてのたけしの才能は、今や世界が認めるところだ。だが私は「アウトレイジ」や「その男凶暴につき」などというバイオレンスは好まない。健さんの任侠道や、人間臭漂う「仁義なき戦い」とは、異質な感じがするからだ。
▼佐高は、たけしを「狂暴」というより「臆病」な「狂獣」と切り捨てる。さらに「気弱な奴凧」ともいう。「一度落ちたかに見えたヤッコダコは、周囲におだてられ再び舞い上がっている。露骨で下品で、ゲスなこのヤッコダコは、降りることを知らずに舞い上がり続けるだろう」と、酷評している。
▼この酷評は、たけしの存在を別の角度から評価しているのではないかと、私は受け取っている。たけしがテレビを席巻することで、日本人は、経済優先でのぼせ上った我が身を、たけしにより振り返ることが必要ではないかということを、言っているような気がするからだ。
▼ちょっぴり変わった、たけしの見方がある。たけしに「タテマエだけの書き屋」と罵倒された、田原総一郎の言葉もこの本にある。
▼「たけしがガーっと頑張っていると、禁止用語をバンバン使ったり、ヒンシュク買うようなことをやって・・・ああまだ、彼があれだけやっているんだから大丈夫だとか、あいつのちょっと手前で、この程度はやっても大丈夫だとか、みんな思っているんじゃいかな。・・・たけしがやられたら、オレたちもちょっと気をつけなきゃならないとか」と持ち上げている。
▼それに対し、たけしは「オレは炭坑のカナリアみたいなもんだね」といい「オレは実に汚くてね」などと、自虐的に認めるので「たけしは徹頭徹尾キタナイ奴」だと、佐高は批判している。
▼さらに佐高は、たけしを毒舌でもなんでもなく「時代のタイコ持ち」と批判している。その点は、私も同様に観ていた。だが『TVタックル』という番組では、政治を国民の身近にした功績は大だ。
▼自民党の悪党といわれた「ハマコウ」を起用し、政治評論家の三宅久一と上手に対抗させるなどの芸は、一流の「タイコ持ち」を連想させたからだ。
▼「タイコ持ち」という芸風はすたれたが、今日のような混迷の社会では、たけしのような、周囲をすべて盛り上げる「タイコ持ち」が、必要だと思う。
▼「憲法改正」という今年の大テーマ。二手に分かれ、抜き差しならぬ対立を深めるに違いない。しかし、たけしのような「タイコ持ち」の行司の方が、笑いがありふざけているようだが、国民は興味を惹かれるのではないかと思う。
▼筋金入りの論客佐高の「アベのバカたれ論」。対する、たけしの「タイコ持ち論」。それに対しては、私は「ゾウさんもいいがキリンさんもいい。シャンシャンもいい」という考えだ。
▼つまり、様々な意見を総合的に判断し、憲法論を時には佐高流に、時にはタイコ持ち流に、自分の身近でバランスよく提案し、議論していきたいものだと思っている。
▼そのために、もっと憲法を学ばなければならないと思っている「曖昧な日本の曖昧な私」だ。