昨夜、NHKテレビで放映された「北海道兵士の沖縄戦」を観た。
昨年の収録のようだったが、生き残りの兵士たちの言葉には、地獄を経験した魂の震えを感じた。
それぞれの元兵士の瞳の奥に、決して言葉に表せることの出来ぬ悲しみがあるのを、痛いほど感じた番組であった。
戦前、北海道の兵隊は旭川市の部隊に召集される。
日中戦争前夜の昭和11年、昭和天皇が来道し、旭川で陸軍大演習が行われ、北海道も地獄への道が開門するのである。
北海道の兵隊がいた陸軍第24師団は、満州から沖縄戦線へと移動の命が下る。
沖縄の海や山や空は美しく、沖縄の人々はとても優しかった。
※今朝の水平線。

或る朝、水平線に並んだ黒い影、敵艦隊1500隻。
新築の家での餅撒きを思い出したような、そんな砲弾の嵐だった。
隣の兵士が「小便から血が出る」といった。どれほどの恐怖なのだろうか。
米軍上陸から1月後、日本軍は総攻撃をかける。すでに実弾は底をつき、倒れた兵士の弾を集めながらの、無謀すぎる戦いだった。
死んだ兵士は4日程で白骨化し、ハエが群がりウジがわき、死体が動いていた。「苦しまないで死にたい」ただそう願ったという。
首里から南に撤退を余儀なくされた時の事を、女子看護兵が語った。
「お母さん、注射は栄養剤だというと兵隊さんは喜んでいます」
私は、母のいる東に空に向かい、毎日祈りました。青酸カリなのです。
負傷し動けないものは見捨てられ、タオルで絞殺された。
ガマ(防空壕代わりの穴)では、日本兵が奥に入り、沖縄の人は入り口に寝かされた。沖縄語で話すと日本兵は理解できないので、スパイとみなされた。
沖縄出身の元兵士が語る。「戦場になったところはすぐ近くにあるが、いまだに行く事ができない」と言う。
大本営からの最後の命令がむなしい。
「最後の一兵にいたるまで敵に出血を強要すべし」
番組の最後、雨の降る中「平和の礎」を尋ねるる元老兵士。
一人の名前を探し、泣いた。「悲しみは消えない」と。
証言したのは、階級が下の兵士たちだった。上官には墓場まで持っていかなければならぬほどの、証言できない苦しみの重さがあるのだろう。
北海道兵士の沖縄戦の死者数。10,800人。
昭和20年8月15日に戦争は終結した。だが我が国にはいまだ戦争が終わっていない地域がある。
太平洋戦争開戦70年目。
その戦いを終わらせるのが、「戦争を放棄」した、私たち国民の責務である。
昨年の収録のようだったが、生き残りの兵士たちの言葉には、地獄を経験した魂の震えを感じた。
それぞれの元兵士の瞳の奥に、決して言葉に表せることの出来ぬ悲しみがあるのを、痛いほど感じた番組であった。
戦前、北海道の兵隊は旭川市の部隊に召集される。
日中戦争前夜の昭和11年、昭和天皇が来道し、旭川で陸軍大演習が行われ、北海道も地獄への道が開門するのである。
北海道の兵隊がいた陸軍第24師団は、満州から沖縄戦線へと移動の命が下る。
沖縄の海や山や空は美しく、沖縄の人々はとても優しかった。
※今朝の水平線。

或る朝、水平線に並んだ黒い影、敵艦隊1500隻。
新築の家での餅撒きを思い出したような、そんな砲弾の嵐だった。
隣の兵士が「小便から血が出る」といった。どれほどの恐怖なのだろうか。
米軍上陸から1月後、日本軍は総攻撃をかける。すでに実弾は底をつき、倒れた兵士の弾を集めながらの、無謀すぎる戦いだった。
死んだ兵士は4日程で白骨化し、ハエが群がりウジがわき、死体が動いていた。「苦しまないで死にたい」ただそう願ったという。
首里から南に撤退を余儀なくされた時の事を、女子看護兵が語った。
「お母さん、注射は栄養剤だというと兵隊さんは喜んでいます」
私は、母のいる東に空に向かい、毎日祈りました。青酸カリなのです。
負傷し動けないものは見捨てられ、タオルで絞殺された。
ガマ(防空壕代わりの穴)では、日本兵が奥に入り、沖縄の人は入り口に寝かされた。沖縄語で話すと日本兵は理解できないので、スパイとみなされた。
沖縄出身の元兵士が語る。「戦場になったところはすぐ近くにあるが、いまだに行く事ができない」と言う。
大本営からの最後の命令がむなしい。
「最後の一兵にいたるまで敵に出血を強要すべし」
番組の最後、雨の降る中「平和の礎」を尋ねるる元老兵士。
一人の名前を探し、泣いた。「悲しみは消えない」と。
証言したのは、階級が下の兵士たちだった。上官には墓場まで持っていかなければならぬほどの、証言できない苦しみの重さがあるのだろう。
北海道兵士の沖縄戦の死者数。10,800人。
昭和20年8月15日に戦争は終結した。だが我が国にはいまだ戦争が終わっていない地域がある。
太平洋戦争開戦70年目。
その戦いを終わらせるのが、「戦争を放棄」した、私たち国民の責務である。