「従う」「適合する」という意味だが、一般的に「法令遵守」といわれている。
法はなぜ必要か。人口が増えて来た時、ある一定のルールが必要になってくる。
秩序を保つためである。
安全な暮らしをするためには、法という一定の拘束力が担保となる。
ちょっぴり息苦しいが、安全であるためには法令は遵守しなければならない。
変な事件が発生した。携帯電話を使い大学受験でカンニングし、逮捕されたという。現行の法律に当てはめると「偽計業務妨害」になるということだ。
役人が談合に加担した罪も「偽計業務妨害」である。なんだかぴんとこない。
今までカンニングは逮捕の対象であったろうか。
学生生活でカンニングなどは、誰もが多かれ少なかれなかれ経験しているはずである。そんな経験を通し、世の中に出れば不正をしないように心がけるのだ。
コンピュータ世代に個人所有の携帯電話。こんな社会規範の及ばぬ世界を急速に作り出しては、このような行為が発生するのは必然なのである。
冷静に対処し検討策を考えてほしいものだ。
※温泉帰りの隣町の夕暮れ。

以前、公務員が飲酒運転で車に追突し、追突された車が川の落ち子供が死んだ事件を思い出した。
いつものようにマスコミが一日中視聴者を洗脳し、国民の憤りを煽りたて、その世論をバックに道路交通法が改正され、飲酒運転が厳罰性になった経過がある。
あれは多量の飲酒をし、事故があった後逃げた、まれなケースである。
その事件だけを厳罰に処理すればいいだけが、経済不況で雇用がままならない世情とあいまって、税金で生かされている公僕に、国民の鬱憤が集中したことにもよる。
この種のパニック障害は、国家総動員を思い起こし、いわゆる「キモイ」のだ。
うがった考え方だと思われるが、警察の度を過ぎた不正経理問題で、取り締まる側の倫理が低下した背景に、この法改正があったのではないかと思う。
国民の警察に対する不信感。それに対し「舐めたらいかんぜよ」のお上意識が働いたのではないか。
庶民にとってはべらぼうな罰金である。飲んだ仲間まで連帯責任だ。
一網打尽の戦前の政治犯逮捕劇ではないか。
飲んで運転しないようにと、飲む前にみんなで誓い合っても、誓いを守らぬ不心得者が中にいる。他は誓いを守り運転していないのである。それでも容赦無しでは「お代官様、あまりにむごうございます」である。
お代官様だって、いまだに悪いことしていませんかと、誰もいない田舎の直線道路を、わずかのスピード度違反で捕まれば、そんな暴言も吐きたくもなる。言いたい事はたくさんありすぎ、まとまらないのがこの種の問題である。
そうだ今気がついたが、日本国憲法第九条である。
憲法は我が国の「最高規範」である。でも守られているだろうか。守らない人間は罰せられているだろうか。
だとすれば、憲法第九条はコンプライアンスの『最高の放棄』と言えるのではないだろうか。
またあらぬところまで行き過ぎてしまったが、要は世論を煽り世論の後押しで、善良な市民のささやかな生活を、法でがんじがらめにしてはならぬという憤りである。
明治以来の、官治集権の国家体制から、地方分権社会に移行したのである。
地域の特性に合わせ市民自治の精神で、法律のあり方も少しは検討してほしいものである。米国の州法のようにである。
法はなぜ必要か。人口が増えて来た時、ある一定のルールが必要になってくる。
秩序を保つためである。
安全な暮らしをするためには、法という一定の拘束力が担保となる。
ちょっぴり息苦しいが、安全であるためには法令は遵守しなければならない。
変な事件が発生した。携帯電話を使い大学受験でカンニングし、逮捕されたという。現行の法律に当てはめると「偽計業務妨害」になるということだ。
役人が談合に加担した罪も「偽計業務妨害」である。なんだかぴんとこない。
今までカンニングは逮捕の対象であったろうか。
学生生活でカンニングなどは、誰もが多かれ少なかれなかれ経験しているはずである。そんな経験を通し、世の中に出れば不正をしないように心がけるのだ。
コンピュータ世代に個人所有の携帯電話。こんな社会規範の及ばぬ世界を急速に作り出しては、このような行為が発生するのは必然なのである。
冷静に対処し検討策を考えてほしいものだ。
※温泉帰りの隣町の夕暮れ。

以前、公務員が飲酒運転で車に追突し、追突された車が川の落ち子供が死んだ事件を思い出した。
いつものようにマスコミが一日中視聴者を洗脳し、国民の憤りを煽りたて、その世論をバックに道路交通法が改正され、飲酒運転が厳罰性になった経過がある。
あれは多量の飲酒をし、事故があった後逃げた、まれなケースである。
その事件だけを厳罰に処理すればいいだけが、経済不況で雇用がままならない世情とあいまって、税金で生かされている公僕に、国民の鬱憤が集中したことにもよる。
この種のパニック障害は、国家総動員を思い起こし、いわゆる「キモイ」のだ。
うがった考え方だと思われるが、警察の度を過ぎた不正経理問題で、取り締まる側の倫理が低下した背景に、この法改正があったのではないかと思う。
国民の警察に対する不信感。それに対し「舐めたらいかんぜよ」のお上意識が働いたのではないか。
庶民にとってはべらぼうな罰金である。飲んだ仲間まで連帯責任だ。
一網打尽の戦前の政治犯逮捕劇ではないか。
飲んで運転しないようにと、飲む前にみんなで誓い合っても、誓いを守らぬ不心得者が中にいる。他は誓いを守り運転していないのである。それでも容赦無しでは「お代官様、あまりにむごうございます」である。
お代官様だって、いまだに悪いことしていませんかと、誰もいない田舎の直線道路を、わずかのスピード度違反で捕まれば、そんな暴言も吐きたくもなる。言いたい事はたくさんありすぎ、まとまらないのがこの種の問題である。
そうだ今気がついたが、日本国憲法第九条である。
憲法は我が国の「最高規範」である。でも守られているだろうか。守らない人間は罰せられているだろうか。
だとすれば、憲法第九条はコンプライアンスの『最高の放棄』と言えるのではないだろうか。
またあらぬところまで行き過ぎてしまったが、要は世論を煽り世論の後押しで、善良な市民のささやかな生活を、法でがんじがらめにしてはならぬという憤りである。
明治以来の、官治集権の国家体制から、地方分権社会に移行したのである。
地域の特性に合わせ市民自治の精神で、法律のあり方も少しは検討してほしいものである。米国の州法のようにである。