元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ROMA/ローマ」

2020-03-14 06:25:06 | 映画の感想(英数)

 (原題:ROMA)2018年作品。第91回米アカデミー賞で監督賞、撮影賞、外国語映画賞の3部門を獲得した話題作だが、確かに玄人受けするようなアート的なテイストに溢れた映画である。ただし、あくまでも“アート的”なのであって“アートそのもの”ではない。観る者を深く考えさせる要素は希薄で、作劇に斬新な視点が取り入られているわけでもないのだ。それゆえ、あまり高くは評価しない。

 70年代初頭のメキシコシティのコロニア・ローマ地区。アントニオ家の家政婦として暮らすクレオは、4人の子供に懐かれ、奥方のソフィアからの信頼も厚い。ある時、一家の長である医者のアントニオは会議のためカナダに長期出張するが、クレオとメイド仲間であるアデラは、この夫婦の関係が冷え切っていることを勘付いていた。案の定、アントニオは他の女と懇ろになり、帰宅することはなかった。

 クレオにはフェルミンというボーイフレンドがいるが、映画館でクレオが彼に妊娠を告げると、フェルミンは姿を消してしまう。当時のメキシコでは経済格差が広がり、反政府デモが絶えなかったが、買い物に出掛けたクレオたちが遭遇したのは大規模な暴動事件だった。ショックのあまりクレオは破水する。監督アルフォンソ・キュアロンの幼年時代の経験を元にしたドラマだ。

 描かれるのは両親の不仲であり、不穏な社会情勢であり、恵まれないクレオの私生活である。それらは確かに当事者たちにとっては大問題なのだが、観る者にアピールするほど深くは掘り下げられていない。ただ、個々の出来事が並べられているだけだ。また、それらイベントが積み重ねられることによって、何か別の映画的興趣が生じるわけでもない。とにかく、すべてが表面的である。

 その代わりと言っては何だが、映像はすこぶる美しい。撮影監督はキュアロン自身だが、オープニングの床面の描写からエンディングの空の描写まで、清涼なモノクロ画面がスクリーンを彩る。そして移動撮影を交えた長回しが印象的だ。これら映像面での饒舌さはまさに“アート的”なのだが、カメラが捉えた事物は通俗的なものに留まるため“アート”の領域には届かない。

 そもそもキュアロンは「ゼロ・グラビティ」(2013年)の監督で、「ハリー・ポッター」シリーズも手掛けたことがある、いわば大衆娯楽路線(?)の演出家であり、本作のような高踏的アート路線は不似合いだ。本作での筋書きをエンタテインメント色豊かに仕上げてくれれば訴求力は増したと思うが、いたずらに“アート的”な方向性を示してしまったので、観ていて居心地の悪い思いをすることになる。唯一面白いと思ったのは、劇中でクレオたちが映画館で観るのはジョン・スタージェス監督の「宇宙からの脱出」(69年)であったことだ。「ゼロ・グラビティ」を撮るキュアロンの、映画的原点を見るようで興味深かった。
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「サード」

2020-03-13 06:52:36 | 映画の感想(さ行)
 78年ATG作品。もしも十代の頃に観ていたら大きな影響を受け、このようなタイプの映画(ATG系等)こそが映画芸術の王道であり一般娯楽映画など鑑賞するに値しない・・・・などという“中二病”にしっかりと冒されていたかもしれない(大笑)。だが、あいにく私が本作を観たのはオッサンになってからで、リアリティよりも青春の甘酸っぱさが先行する好編という印象を持った。もちろん、アート系以外は映画ではないという青臭くも痛々しい考えとは無縁だ(苦笑)。

 関東朝日少年院に入院している妹尾新次は、高校の野球部で三塁を守っていたことから“サード”と呼ばれていた。彼は金欲しさに同級生の女子に売春を斡旋していたが、ある日客のヤクザともめ事を起こし、誤って相手を殺害した罪で収監されていた。新次は集団生活を基本とする少年院には馴染めず、特にリーダー格の少年とは相性が悪く、ケンカして独房に入れられることも珍しくなかった。時折面会にやってくる母親は退院後のことを何かと心配するが、新次にとっては鬱陶しいだけだった。



 ある日、一人の少年が院に送られてくる。数学IIBだけが取得で、通称“IIB”と呼ばれている奴だ。作業場から院生の一人の少年が脱走したのに乗じて“IIB”も逃走を図るが、あえなく捕まってしまう。新次はそんな彼を苦々しく思うのだった。軒上泊の小説「九月の町」の映画化で、脚本は寺山修司が担当している。

 新次は、ロングヒットを打ってサードを回ってホームに向かうとホームベースがなく、仕方なくそのまま走り続けるという夢をよく見る。若い頃の不安感の描出としては幾分図式的かもしれないが、主人公の(バックグラウンドを含めた)造型が上手くいっているので気にならない。

 軽い気持ちで売春斡旋に手を染め、成り行き上殺人を犯す。彼の中ではすべてがライト感覚で物事が進んでいたはずが、気が付けば牢獄の中で自己批判を強いられる日々を送っている。今頃になって未熟さを自覚しても、遅い。だが、それでも彼は走り続けなければならない。新次の目の前にある果てしない道、しかも先は靄のかかったグラウンドのように何があるか分からない。もがき苦しみながら走る“宿命”を負った彼の姿に、粉飾抜きの普遍的な青春像を見出して観る者は感銘を受ける。

 少年院の面々は個性豊かだが、それぞれが作者の個性の一断面を象徴しているようで興味深い。東陽一の演出は強靱かつしなやかで、後年の彼の作品に見られる曖昧さは無く、最後まで弛緩しない。主役の永島敏行は堂々とした演技で、とてもこれが映画出演第二作目の駆け出し俳優とは思えない。

 吉田次昭に西塚肇、根本豊、若松武といった少年院仲間に扮した連中も良い味を出しているし、母親役の島倉千代子は意外な好演で驚かされる。ヤクザ役の峰岸徹もサマになっていた。そしてヒロインを演じる若い頃の森下愛子は、とにかく可愛くてエロい(笑)。このように“当然のように身体を張る若手女優”が少なくなった昨今は寂しい限りだ。川上皓市による撮影もまた見事で、特に新次が収監される道すがら目にする“九月の町”の存在感には瞠目するしかない。
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「1917 命をかけた伝令」

2020-03-09 06:27:16 | 映画の感想(英数)
 (原題:1917)まるで期待外れ。米アカデミー賞の主要部門で無視されたのも当然と思われるような冴えない出来だ。宣伝では“驚異の全編ワンカット!”という惹句が躍ったが、ほぼ一日の出来事をワンカットで2時間以内に収められるはずもなく、少し考えればそれは間違いだと誰でも分かる。しかし、ワンカット云々を除外しても、本作のクォリティが低いことは明白だ。

 1917年、第一次世界大戦中のフランス戦線。ドイツ軍は後退しつつあったが、それは戦略的なものであり、連合国軍を自陣へと誘い込もうとする罠だった。イギリス軍はその事実を航空偵察によって把握していたが、前線のデヴォンシャー連隊は何も知らされておらず、危険な進軍を実行しようとしていた。通信線も切断されて一刻の猶予も許されない中、エリンモア将軍は若い上等兵のスコフィールドとブレイクに、連隊のマッケンジー大佐に作戦中止を伝える任務を託す。だが、急いで駆けだす2人の前に、ドイツ軍の仕掛けた数多くのトラップが待ち構える。



 まず、ドイツ軍の計画を航空偵察で知ったのならば、どうして前線まで偵察機を飛ばして連隊に知らせないのか理解できない(それが不可能だったという説明も無し)。敵軍の塹壕で危険な目に遭っても2人はかすり傷一つ負わず、ドイツ軍占領地で連合国軍兵士は彼らだけかと思ったら、前触れもなく味方がひょっこり現れたりする。ドイツ兵が至近距離から撃った銃弾は一発も当たらず、追われて川に飛び込んだらいつの間にか連隊の野営地に着いてしまうという御都合主義。

 最前線で大佐に報告へ行く途中では、スコフィールドは意味も無く塹壕から飛び出て全力疾走する始末。ラスト近くになると、エリンモア将軍の“大佐に報告するときは第三者を入れろ”という最初の命令も、どこかに置き忘れている。

 それでも映像や演出にキレ味があればそれほど大きな不満を抱かずに観ていられるものだが、本作はその点も落第。とにかく緊迫感が希薄で、監督が007シリーズを手掛けたサム・メンデスであるせいか、全体的にアクション映画のノリなのだ。戦争の悲惨さなんか、ほとんど表現出来ていない(ただ死体を並べておけば良いというものではない)。少なくともスピルバーグの「プライベート・ライアン」やメル・ギブソンの「ハクソー・リッジ」などに完全に負けている。

 主演のジョージ・マッケイとマーク・ストロングは、単なる好青年というレベルを超えていない。ベネディクト・カンバーバッチやコリン・ファースも出ているのだが、印象に残らず。トーマス・ニューマンの音楽はまあいいとして、ロジャー・ディーキンスによるカメラワークはワンカット云々に足を引っ張られて精彩を欠く。

 さて、手練れの映画ファンならば本作の設定を見て、ピーター・ウィアー監督の「誓い」(81年)を思い出す向きも多いだろう。舞台が第一次大戦であることも、無謀な作戦を止めるために主人公が伝令として敵陣地を突っ切って疾走することも共通している。しかし、ヴォルテージは圧倒的にピーター・ウィアー作品の方が高い(ラストなんか、胸が締め付けられるほどの感動を味わえる)。あの映画に比べると、この「1917」の不甲斐無さが一層際立ってしまう。
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「序の舞」

2020-03-08 06:30:33 | 映画の感想(さ行)
 84年作品。1964年にデビューして以来、多くの作品を手掛けた中島貞夫監督の80年代以降の代表作の一つだ。女性キャラクターの造型とその内面描写、骨太なドラマ運び、見事な美術意匠と時代考証など、まさに横綱相撲と言って良いほどの安定感を見せる。2時間半近い上映時間の中、弛緩した部分はまるで見当たらない。

 安政5年、洛北・大宮村の貧しい農家の娘であった勢以は、京都の葉茶屋に養女に出され、やがて結婚して2人の娘をもうけるが、夫に先立たれてしまう。それから彼女は娘たちを女手ひとつで育てるが、長女の津也は絵画に興味を持つようになる。京でも有数の松溪画塾へ通うことになった津也は、明治23年、第三回内国観業博覧会に出品した「四季美人図」により大賞を獲得する。



 一躍有名になった彼女は松溪塾に入塾した村上徳二という青年に惹かれるものの、師匠の松溪の誘いを断れずに妊娠してしまう。それに気付いた勢以は、娘を激しく責めて絵を禁じた。津也は松溪のもとを離れて徳二と一緒の生活を送るが、絵への想いは捨てきれなかった。女流日本画の先駆者である上村松園をモデルにした、宮尾登美子の同名小説の映画化だ。

 とにかく、各登場人物が深く掘り下げられていることに感心する。特に目立つのはヒロインの津也の生母である勢以だ。幼少の頃からの足跡をじっくり追い、なおかつ京都の雰囲気の中からタフな気質を培ってゆく過程がうまく描出されている。その勝ち気さは娘の津也にも受け継がれ、中盤以降の母娘の葛藤の大きな背景となる。何より、津也の2度目の妊娠の時にはもはや世間体など気にすることなく、自分たちの手で育てようと決心するあたりは印象的。この時代の、しかも京都という土地柄で決断するという思い切った展開は観る者の琴線に触れる。

 力強い女たちに対して、男性陣は津也の最初の先生になる西内にしろ徳二にしろ、何だか頼りない。ただし松渓の造型だけは、マイナスのオーラを伴って映画の中では大きなアクセントとなる。弟子に平気で手を出すロクデナシながら、逆に津也たちのバイタリティを強調する媒体になっており、これはキャラクター配置の妙であろう。

 勢以役の岡田茉莉子、松渓に扮する佐藤慶、いずれも好演。佐藤のクセ者ぶりもさることながら、岡田が演じる勢以は江戸時代生まれの古風な女であるが、新しい時代に適応する明るさを上手く表現している。津也役の名取裕子はこれが映画初主演だったが、個性的な風貌を活かした熱演で強い印象を残す。風間杜夫に水沢アキ、三田村邦彦、成田三樹夫、高峰三枝子といった他のキャストも良い仕事をしている。津也の清新な絵と老いた松渓とを対比させる絶妙の幕切れも含めて、中島監督の円熟味を堪能出来るシャシンだ。森田富士郎の撮影、黛敏郎の音楽、井川徳道と佐野義和の美術、いずれも申し分ない。
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「スキャンダル」

2020-03-07 06:29:11 | 映画の感想(さ行)
 (原題:BOMBSHELL )元ネタのセクハラ事件の数年後に、このような実名入りの“ノンフィクション風ドラマ”を作り上げてしまったハリウッドの大胆さ(および抜け目のなさ)には驚くばかりだが、映画としては面白くない。特に前半の冗長な展開は眠気を誘う。中盤以降はいくらか盛り返すが、それでも観終わると釈然としないものが残る。テレビ画面で十分のシャシンかもしれない。

 2016年、FOXニュースの人気キャスターだったグレッチェン・カールソンは、同社を辞めた後にFOXニュースのCEOであるロジャー・エイルズをセクハラで告発した。この一報に衝撃を受けたのが現キャスターのメーガンで、実は彼女もロジャーから性的な嫌がらせを受けていたのだ。一方、メインキャスターの座を狙う若手のケイラは、ロジャーに会う機会を得る。だが、さっそく彼のセクハラ攻勢を受けて困惑する。事実を元にしたドラマだ。



 出来るだけ情報を提供しようという意図なのか、FOXニュースの内実の説明をはじめ各登場人物のプロフィールなどに割かれた部分が必要以上に多い。しかも、それらはあまり興味をそそられない事物だ。結果としてドラマのテンポは遅くなり、観る側は退屈を覚えることになる。

 ロジャーの所業が明らかになる後半になるとやっと物語が動き出すという感じだが、よく見れば単純な勧善懲悪劇である。権力を笠に着るクセの悪いオヤジが、それまで虐げられてきた女性陣にやり込められたという、痛快に思えるが“その程度の話”でしかない。

 FOXニュースが何をどう伝えてきて、その姿勢がどうしてロジャーという問題人物を生み出し、平気で女性陣を冷遇する“社風”に染まったのか。そんな大事なことをこの映画はまるで伝えない。政権批判に繋げたいような雰囲気もあるが、このレベルでは無理な注文だ。本作でメイクアップアーティストのカズ・ヒロはオスカーに輝いている。各キャストの見た目が“本物そっくりだから”という理由らしい。しかし、本国の観客ならばまだしも、こっちはその“本物”には縁が無いのでピンと来ないというのが実情。

 ジェイ・ローチの演出きキレもコクも無く、演技指導も上手くいっているとは思えない。シャーリーズ・セロン、ニコール・キッドマン、マーゴット・ロビーという人気女優を集め、敵役にはジョン・リスゴーを配するという贅沢なキャスティングながら、文字通りの“顔見世興行”に終わっている。やたらカラフルな映像デザインも、残念ながら作品の“軽量級らしさ”を強調するばかり。良かったのはコリーン・アトウッドによる衣装デザインぐらいだろうか。作品の主題にあまり合っているとは思えないが、それ自体にはとても訴求力があった。
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「マクマホン・ファイル」

2020-03-06 06:16:51 | 映画の感想(ま行)
 (原題:THE LAST THING HE WANTED)2020年2月よりNetflixで配信された社会派サスペンス映画。キャスティングが悪くなかったので見てみたが、何とも冴えない出来だ。後でネットの評判をチェックしたところ、本国では酷評されているらしい。映画鑑賞にはある程度の“事前リサーチ”は必要であると、改めて思った次第である(笑)。

 80年代前半、米国のジャーナリストであるエレナ・マクマホンは、ニカラグアで反共ゲリラの活動を取材していた。ところが、政府当局の“事情”により圧力が掛かり、彼女は中米での仕事を取りやめることを余儀なくされる。そんな折、エレナに父親のリチャードが緊急入院したという知らせが届く。

 ヤクザな生活を送り、別れた妻の訃報も知らなかったという極道者だが、エレナには今更ながら“やり遂げなければなかった取引があるので、代わりにやってくれ”という無理な注文をつけるのだった。仕方なくエレナは取引を実行するため中米コスタリカに密入国するが、その取引とは武装組織への武器供与だった。しかも、その“代金”は麻薬である。いつの間にか彼女は、大きな陰謀に巻き込まれていたのだ。

 原作者のジョーン・ディディオンは有名作家らしいが、この映画化がどの程度元ネタを反映しているのかはわからない。しかしながら、本作は随分と雑な仕上がりである。序盤はマジメに中米の軍事情勢をリポートし、筋を通すためには上司とも遣り合う正統派のジャーナリストとして描かれるヒロインが、いくら父親の頼みとはいえ、危ない橋を渡る理由が見出せない。

 だいたい、正常な判断力を持った者ならば、取引のブツが重火器だと判明した時点でとっとと退散するはずだ。それなのにエレナはよほど金に困っているのかどうか知らないが、どんどん危ない道にハマり込んでゆく。ジャーナリストとしての矜持も、どこかに置いてきたらしい。

 彼女を取り巻く“陰謀”とやらもハッキリせず、現地の武装組織やらCIAやらフランス情報部やらが脈絡もなく行き来するばかりで、その実体がまったく掴めない。ワケの分からない連中に翻弄された挙句、不本意な結末に追いやられるエレナには、とても感情移入は出来ない。時代設定を80年代にした意図も、いまひとつ不明だ。

 ディー・リースの演出は冗長で、ポリティカル・サスペンスらしい緊張感は見当たらない。ドラマの交通整理も出来ず、各キャラクターの性格設定も名覚束ない有様だ。主演のアン・ハサウェイは頑張ってはいるが、彼女に合った役柄とも思えない。ベン・アフレックは大根に見えるし、何かやらかしてくれそうなウィレム・デフォーも見掛け倒しに終わる。音楽・撮影とも特筆できるものは無く、失敗作と言われても仕方がない内容だ。
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「さよならテレビ」

2020-03-02 06:28:53 | 映画の感想(さ行)
 少しも面白くない。観ている間は退屈だ。しかし、実はこの“退屈で面白くない”という本作の内容が、取り上げた題材をストレートに反映している。つまり、面白くないものを面白くないまま提示することによって、テーマの本質に迫ろうという、倒錯した興趣を創出しているのだ。その意味で、なかなか示唆に富んだドキュメンタリー映画ではある。

 「平成ジレンマ」(2010年)や「ヤクザと憲法」(2016年)などの話題作を手掛けた東海テレビが12作目のトピックとして選んだのは、自社の業務であった。現時点でテレビ番組製作の周辺で何が起きているのかを、自らの現場でカメラを回して探ろうという算段だ。しかしながら、製作者の気負った態度とは裏腹に、ここに映し出されるのは何ともパッとしないテレビ局員の“日常”である。



 前半に、キャスターが小学生相手に報道の役割を説くシーンがある。(1)事件・事故・政治・災害を知らせる。(2)困っている人(弱者)を助ける。(3)権力を監視する。以上の3つがマスコミの使命であるというのだが、言うまでもなくテレビ局がその役割を果たしているとは誰も思っていない。国際NGO団体の調査によれば、報道の自由度ランキングで日本はG7の中で最下位だ。

 そもそも、我が国ではテレビ事業は総務省の許認可を受けた免許が必要である。だから基本的に“お上”の意向や既得権益者の利害に大っぴらに逆らうことなど、出来るはずがないのだ。だから彼らが重視するのは、せいぜい視聴率ぐらいしかない。事実、映画の中では秒単位で視聴率が表示され、局員はそれに一喜一憂する。そして他局に勝ったの負けたのと大騒ぎだ(誠にナサケない話である)。

 映画は局アナと、いずれも非正規のベテラン記者と若い記者の3人を“主人公”として設定するが、彼らの働きぶりが何か興趣を生み出すかといえば、全くそうではない。それぞれ忙しく振る舞っているが、その仕事は大して世の中に役立っているとは思えない。特に、彼らが“頑張って”グルメリポートの番組を作るくだりは脱力する。



 いくら熱心に業務に励んでも、しょせん“ただの食レポ”である。視聴者にとってはどうでもいい情報に過ぎない。そんなことに力を注ぐより、他にすることがあると思うのだが、彼らは“立場上”そうするしかないのだ。このように、本作は退屈で平板な映像を積み重ねることにより、テレビ番組の制作現場というのがいかに“退屈で面白くないか”を鮮やかに描き出している。

 若者のテレビ離れが取り沙汰され、テレビを長時間視聴しているのは年寄りばかりではないかという話が持ち上がる昨今、実際にテレビ局の現場でカメラを回した結果“やっぱりテレビは終わってました”という、業界人が認めたくないような結論を導き出したこの映画は、とても野心的だと思う。

 かくいう私も、テレビというメディアにはほとんど興味を持っていない。見るに値する番組なんて、極少数ではないか。大半の者がテレビに無関心になっていく状況の中で、それでも“退屈で面白くない”日常を送るしかないテレビ局員の立場を思うと、むなしいものが込み上げてくる。
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「イフゲニア」

2020-03-01 06:30:20 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Iphigenie )77年ギリシア作品。古代ギリシアの悲劇作家エウリピデスの「アウリスのイフゲニア」を映画化したもので、マイケル・カコヤニス監督作としては「エレクトラ」(61年)「トロイアの女」(71年)と並んで三部作を形成するとのことだ。私は前2作は観ていないが、本作だけでも十分に鑑賞する価値のある秀作だと思う。

 紀元前1200年頃、アルゴス王アガメムノンを総大将とするギリシア連合軍がトロイア征伐のためアウリスの浜に集結する。だが、風が何日も吹かず、1000隻以上の軍艦はエーゲ海に出撃出来ない。女神アルテミスの神託によると、アガメムノンの長女イフゲニアを生贄として捧げれば風が吹くという。そこでアガメムノンはアキレウスの嫁にすると嘘をついてイフゲニアを呼び寄せる。娘に付いてきた王の妻クリュタイムネストラは真相を知り、夫に対して激烈に抗議する。



 この映画の主題は、言うまでもなく反戦だ。そもそもトロイア戦争は、アガメムノンの弟メネラオスがトロイの王子パリスに妻ヘレネを奪われたことが発端になっている。そんなくだらない理由でミュケーナイを中心とするギリシア連合軍は戦争を仕掛け、勝利はしたが大きな損害も被った。

 さらにはイフゲニアをはじめ身内の者まで理不尽な運命を強いられ、アガメムノンも後に悲惨な最期を遂げている。67年から74年にかけて、ギリシアの軍事政権下でアメリカに亡命しなければならなかったカコヤニスの、国際社会に対するルサンチマンを投影したものと言って良いのかもしれない。

 この映画に出てくる男たちは、アキレウスを除けば皆吹けば飛ぶようなプライドにしがみつき、周囲の犠牲などまるで関知していない俗物として扱われる。対して女たちは美しく堂々としていて、精神的な気高さにあふれている。特にクリュタイムネストラの凛とした言動には感動を禁じ得ない。演じるイレーネ・パパスとしても、代表作の一つであろう。

 イフゲニアに扮するタチアナ・パパモスクーのピュアで透明感に満ちた佇まいにも、大いに感じ入った。カコヤニスの演出はまさに横綱相撲で、史劇の重々しさと人間ドラマの奥深さを十二分に表現している。展開にも冗長な部分は見当たらない。ジョルゴス・アルヴァニティスによる撮影とミキス・テオドラキスの音楽も言うこと無しだ。
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