元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

CDプレーヤーの更改とDACの導入(その1)。

2015-08-18 06:30:41 | プア・オーディオへの招待
 実家で使用しているオーディオのメイン・システムのCDプレーヤーが経年劣化で使い物にならなくなり、やむなく買い替えることになった。ところが、ここで困ったことが発生。今まで使用していたプレーヤーはTEACのVRDS-25xという製品で、定価は19万円だった。しかし、同クラスの“CD専用プレーヤー”が今ではあまり存在しないのだ。

 店頭に並んでいる中級品以上のプレーヤーは、大半がSACD兼用機である。私はSACDを保有していないし、今後買う予定も無い。そもそも、登場してから15年以上も経過しているのに未だにショップの片隅に申し訳程度にしか陳列されていない(すでに“終わった”ような)メディアを聴くためだけに、従来型CDのリスナーにとってコストパフォーマンスが低いSACD兼用を購入する道理は無いのだ。



 しかしながら、数少ない定価20万円までの現行のCD専用機では、物量が投入されたVRDS-25xを音質面で凌ぐことは難しい。どうしたものかと思案した結果、考え付いたのが単体のDACを別途用意するという方法だ。

 DAC(Digital to Analog Converter )とは、デジタル電気信号をアナログ電気信号に変換する機器あるいは回路のことで、通常CDプレーヤーには内蔵されている(内蔵されておらずドライヴ部分だけで構成された機器は、CDトランスポートと呼ばれる)。このDACの質が音に大きな影響を与えることは昔から知られており、DACを別筐体に収めたプレーヤーはCDが登場して間もない80年代半ばにはすでに製品化されていたほどだ。

 最近ではPCオーディオの普及により単体のDACの製品数もクォリティも充実した感があり、ここらでひとつ調達してみようかと思った次第である。

 選んだプレーヤーはONKYOのC-7000Rだ。サブ・システムで使っているROTELのRCD-1570と並ぶ、10万円台における質の良いCD専用機である。思えば前に同社のC-1VLを使用したことがあり、むかし我が家に最初にやって来たCDプレーヤーもONKYO製だった。個人的にこのメーカーとはよっぽど縁が深いのだろう(笑)。



 そして導入したDACは、NmodeのX-DU1である。このブランドが発足した2008年から“いつか同社の製品を買い求めたい”と思っていたものだが、今回やっとそれが実現した。Nmodeのモデルは聴感上の物理特性に優れ、しかも繋ぐ機器を選ばないことから高いパフォーマンスが期待出来る。値付けも8万円台で、10万円台のプレーヤーとの価格バランスも悪くない。

 さて、プレーヤーが納品されてから手始めに通常のアナログ接続で聴いてみた。事前に何度も試聴していて音の傾向は分かっていたが、改めて自室で鳴らすといかにもONKYOらしいスッキリと整った音像配置と伸びやかなレンジ感が強く印象付けられる。大抵のリスナーならばこれで満足出来るようなレベルだ。

 感心したのはディスクの読み込みが速いこと。トレイのスムーズな動きも含めて、ユーザーにストレスを与えないだけの操作性を維持している。もちろん80年代の諸製品に比べれば使い勝手は遅れを取るが、リモコンの反応は良いし、あまり強く文句を付ける筋合いは無い。

 次に試したのがX-DU1を介しての再生だが、これに関しては次のアーティクルで述べたい。

(この項つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人生スイッチ」

2015-08-17 06:23:22 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Relatos salvajes)とても楽しめた。まさにブラック・コメディの快作だ。本国アルゼンチンでは、何と歴代ナンバー1ヒットを記録したらしい。コアな映画ファンは面白がって観るだろうが、とても一般ウケはしないと思われる本作を大々的に受け入れてくれる彼の国の状況は、とても興味深いものがある。

 6つのパートから成るオムニバス作品だが、それぞれ話が繋がっているわけではない。しかし、製作スタンスは一貫している。それは、ふとしたきっかけで人生の不幸スイッチがオンに入ってしまった哀れな人々を笑い飛ばそうというものだ。実に不謹慎な主題だが、この下世話な劣情めいたものがエンタテインメントの大きなモチーフに成り得ると見切った作者の思い切りの良さには感服する。

 第一話は、飛行機に乗ったある男が近くの席の美女に話しかけているうちに、話の中に出てきたある男のことを乗客全部が知っていたという事態に気付くが、もう“時すでに遅し”の状況だったというエゲツないストーリー。短い時間でキレの良い展開を見せ、ツカミはOK。あとはこの調子で歯切れ良く各エピソードが綴られていく。

 個人的に面白いと思ったのは第三話。田舎道を運転中にノロい前車を追い抜いた男が思わぬトラブルに巻き込まれるという筋書きだが、スピルバーグの「激突!」の悪意に満ちたリメイクとも言えるもので、先の読めないプロットと思いがけない結末により、強い印象を残す。

 さらに、血生臭い展開の釣瓶打ちかと思わせて、第六話だけは変化球を持ってくるあたりも見上げたものだ。親族や友人・知人がこぞって結婚を祝う披露宴の席で、花嫁は花婿がかつての彼の浮気相手の女と親しそうに話している現場を目撃して逆上。会場を抜け出してやけっぱちな行動に走る彼女と、なだめようとして却って事態を深刻化させてしまう花婿により、あたりは修羅場となる。製作を担当したペドロ・アルモドヴァルのカラーが強いパートだとは思うが、明らかにアルモドヴァル作品よりも面白い。

 これが長編映画3作目となるというアルゼンチンの若手ダミアン・ジフロンの演出は実に達者で、話の運びに淀みが無く、しかもプロットの“積み残し”も見当たらない。今後期待出来る人材だと言えるだろう。

 キャストは「瞳の奥の秘密」に出ていたリカルド・ダリン以外は知らない顔ぶれだが、たぶん本国では手練れの演技者だと思われる者ばかりで、皆良好なパフォーマンスを披露している。第87回米アカデミー賞ではアルゼンチン映画として外国語映画賞にもノミネートされた本作、観て損は無いほどのインパクトを提供している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆきゆきて、神軍」

2015-08-16 06:37:26 | 映画の感想(や行)
 86年疾走プロダクション作品。監督は原一男。公開当時は大きな反響を呼び、国内外で多くの賞を獲得している。とにかく凄いドキュメンタリー映画だ。“感動した”とか“共感した”といったレベルの凄さではない。あまりの衝撃に真っ青になってしまうような問題作である。

 この映画の主人公、というか作者が題材にしている人物は奥崎謙三という元日本陸軍の兵士で、彼は数少ないニューギニア戦線での生き残りである。表向きはカタギの仕事をしているが、彼は自らを“神軍上等兵”と称し、天皇の戦争責任を糾弾するため危険なプロパガンダ活動を行なうという、もうひとつの顔がある。といっても左翼過激派とは関係なく、一匹狼の活動家で、昭和天皇にパチンコ弾を打ち込もうとした事件などで、数回逮捕されている。その彼が敗戦直後ニューギニアで起こった兵士処刑事件の真相を暴くべく、遺族とともに当時の戦友を訪ね歩く。映画はその一部始終を追っている。

 何よりもその取材方法が常軌を逸している。カメラは突然の訪問者である奥崎とともに彼にとっての“被告”である元の上官の家に勝手に上がり込む。明らかに迷惑そうな当事者の顔が見える。これはプライバシーの侵害であり、ジャーナリズムのルールにも反している。そして奥崎は相手の知られたくない過去を問いただす。言うことをきかない相手には突然殴る蹴るの暴行まで加える。



 明らかな犯罪行為であるが、それでもカメラは回りっぱなしだ。異常な主人公と尋常ではないスタッフ。ドキュメンタリー映画の一線を超えてしまっているにもかかわらず、そこには異様な迫力がある。嘘いつわりのない主人公の行動に作者のカツドウ屋としての血が騒いでしまったからだろう。

 やがて当時ニューギニアで起こった惨劇の真相が明らかになってくる。事件にかかわった一人である神戸に住む元衛生兵は“そんなこと誰でもやってたことさ。たいしたことじゃないよ”などと言ってのける。このシーンは語られる衝撃的な事実と語る口調の軽さのアンバランスのために、ほとんど圧倒的である。

 この元衛生兵は極端な例としても、戦時中いろいろとヒドいことをした連中が、戦後は善良な市民面して社会生活を営んでいるという事実は、頭ではわかっていても、相当なショックだ。彼らにはアメリカ映画が描くような戦争(特にベトナム戦)の深刻な後遺症に悩む元兵士の面影はどこにもなく、戦争中の蛮行さえも思い出のひとつとして風化させてしまっている能天気な日本人の姿がそこにある。小林正樹監督の「東京裁判」でも示された、誰も責任をとらない日本の権力構造というものが、ここでは一般庶民をも巻き込んだリアルなものとしてはっきりと提示される。

 この作品は映画作りのモラルの点から言うと大きな問題があり、しかもこの主人公は自分が常に正しく自分こそが神の使いであると信じきっており、他人の迷惑など知ったことではない確信犯である。当然、観客の共感は期待できない。あまりにもブッ飛んだ作品であるため、同様の映画が作られることはまずないと思う。しかし、平和をむさぼる現代日本の裏側をあばき出すためには、ここまでやらないとダメだということだろうか。

 この映画の撮影後、奥崎は元上官の息子を狙撃して重傷を負わせ、服役している。また昭和天皇崩御の際には“戦争犯罪人、天皇ヒロヒトに対してようやく天罰が下った”という意味のコメントを残している。なお、彼が出所して2005年に死去するまでの間に撮られたドキュメンタリー作品「神様の愛い奴」は観ていない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「群青色の、とおり道」

2015-08-15 06:40:01 | 映画の感想(か行)
 気持ち良く鑑賞出来た。地方発信の映画ながら余計な気負いが無く、よくある話を丁寧に追っていることに好感を覚える。これ見よがしの“仕掛け”に走るよりも、地道に題材を扱った方が“ご当地映画”としては成功する場合があるのだ。

 かつてミュージシャンを夢見て故郷を飛び出した佳幸だが、結局大した実績も残せないまま10年間を過ごすことになる。ある日、絶縁状態だった父からある報せが届く。久しぶりに故郷に戻った佳幸は、そこで以前と変わらず陽気な母や高校生になった妹と再会するが、小さな工場を経営している父はかつての厳格さは影を潜め、どこか弱気になったように見える。



 そして小学校の音楽教師になった同級生・唯香やかつての悪友達とも会うが、彼らはそれぞれ地に足が付いた生活を手に入れており、いまだ風采の上がらない自身の立場と比べれば屈託が積み上がるばかりだ。そんな時、以前デモ音源を送った東京の事務所から、佳幸の楽曲をテレビ番組の主題歌として使いたいというオファーが届く。

 当然のことながら、東京イコール世知辛い場所で地方イコール人情味に溢れた住みやすい場所といったステレオタイプの構図は提示されていない。ただ、一度は地元を“捨てた”主人公が都会で悪戦苦闘している間にも、地方には地方なりの時間が流れているという、厳然たる事実を映し出している。

 いくら家族や幼馴染み、生まれ育った土地などから遠く離れて目の前の課題をクリアすべく奮闘していようと、人はホームグラウンドから逸脱することは出来ない。故郷に帰れば、自らの立ち位置を再確認することも可能だ。つまりは、地方(生い立ち)と都会(現在の生活)というような二段構えのスタンスを持つことの大切さ(一方がダメでも、もう一方がある)を、訴えた作品だと思う。



 淡々とした映画のカラーには佐々部清の演出はマッチしていて、外連味の無い地道な仕事を披露している。主演の桐山漣は初めて見る男優だが、ナイーヴな良い演技をしている。唯香に扮した杉野希妃は珍しく“女優に専念した”仕事をこなしているが、好感の持てるパフォーマンスだ。升毅や宮崎美子、安田聖愛、伊嵜充則、井上順といった脇の面子も良い。

 そして何より、舞台になった群馬県太田市の風情が捨てがたい。特にこの地に“ねぷた”が存在することを初めて知った(江戸時代には津軽藩の飛び地だったらしい)。また、主人公がミュージシャンであることもあり、音楽の使い方も悪くない。劇中曲の「電車の窓から」は良いナンバーだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミュータント・タートルズ」

2015-08-14 06:53:35 | 映画の感想(ま行)
 (原題:TEENAGE MUTANT NINJA TURTLES )90年作品。ここで紹介するのは2014年に製作されたものではなく、90年代に作られたシリーズ物の第一作である。監督はミュージックビデオ界出身のスティーヴ・バロン。

 アメリカでは大ヒットした作品ということだが、ハッキリ言ってまったく面白くない。一番の敗因は主人公4人(匹?)がカメであるという特徴を強調するエピソードが全然ないからである。ただクンフーが強いだけのクリーチャーであれば、カメである必要などない。ワニでもトカゲでもよかったはずである。それをカメにした理由というのがわからない。どうせなら、わが国のガメラみたいに、引っ込めた手足からジェットを噴射して空を飛ぶ、ぐらいの芸を見せてほしい。



 キャラクター・デザインもそれほど魅力的ではなく、何よりも4人がどれも同じような外見で、マスクの色以外に見分ける方法がないというのはつらい。かのジム・ヘンソンも、この程度の仕事が遺作になってしまったというのは、さぞかし不本意だっただろう。

 そして、悪役もオチャラケ映画そのもの。“フットー団”とかいうニューヨークの窃盗団が登場するのだが、それが全員ヘンな覆面をしているし、親玉は韓国からやって来たクンフーの達人ということだが、外見は日本人としか言いようがない。おまけに日本語のセリフは連発するし、まったくいいかげんにしてくれと言いたくなる。それがまあ、オチャラケを突き抜けた高度(?)な笑いにまで達していればよかったのだが、そこまで作者のこころざしは高くない。要するに、ちょっと目先の変わったものを出せばウケるだろうという、いいかげんな姿勢がまる見えである。

 ストーリー、演出、どれをとっても子供だましの幼稚な映画、という域をまったく脱していない。冒頭、いきなりゴールデン・ハーベストのタイトルが出た時点で“あ、こりゃダメだ”と感じる。これは実は香港資本の映画だったのだ。となれば舞台を香港に移し、スタッフ・キャストもすべて香港映画人で固めてしまった方が断然いいのは明白。

 まるっきりの香港映画ならば、どんなに荒唐無稽な設定も、失笑するしかない泥臭いギャグも、いいかげんなSFXも、すべてがプラスの方向にはたらいたはずである(はたらかなかったかもしれないが)。それを無理してニューヨークを舞台にしたハリウッド製SF大作にしてしまったから完全にボロが出てしまう。まあ、それによってハーベスト側は初のアメリカ映画進出を成功させ、大儲けしたのだから世話がない。このシリーズはパート3まで作られるが、2作目以降は観ていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「野火」

2015-08-10 06:04:28 | 映画の感想(な行)

 この題材を塚本晋也監督が手掛けるということで、エゲツない場面がてんこ盛りかと思っていたが、意外に描写は抑制されている。しかし、それによってメッセージ性が薄められているかというと、決してそうではない。理屈やイデオロギー抜きの、戦場の剥き出しの悲惨さが凝縮して伝わってくる。かなりの力作と言えよう。

 日本軍の敗北が濃厚となった第二次世界大戦末期のフィリピンのレイテ島。胸を患っている田村一等兵は部隊から追放され、野戦病院へ行けと言われる。しかし、野戦病院では物資不足を理由に入院を断られ、仕方なく部隊に戻るも合流を拒否されてしまう。やがて米軍の攻撃によって日本軍は総崩れになり、各兵士はバラバラに敗走するハメになる。空腹と孤独と戦いながらジャングルの中をさまよう田村だが、偶然かつての仲間たちと再会。しかし、軍規もへったくれもない状況においては、生きるために反道徳的な行いに走る者も少なくなかった。

 原作は大岡昇平の同名小説で、市川崑監督版(1959年)に続いて2回目の映画化になる。モノクロだった市川版とは違って本作はカラー映像。しかも(予算不足もあって)意図的に平板かつ即物的な映像処理に終始。だがそれが思わぬ効果を生む。

 登場人物達は、部隊を離れて個的なサバイバルを強いられるに従い、次第に周囲の自然の色と同化していくのだ。つまり、戦争が人間の尊厳はおろか理性や知性をも剥ぎ取り、弱肉強食の野生の摂理に突入させるという、明け透けな真理を身も蓋も無く描出している。有り体に言えば“自然に還る”ということなのだが、“自然”とはかくも理不尽なものなのだ。

 主演を兼ねた塚本晋也の演技は、かなり上出来だと思う。いかにも頼りない、どうしてこんな地獄のようなところにいるのだろうという戸惑いと諦念をヴィヴィッドに表現していた。リリー・フランキーや中村達也、森優作といった脇の面子も申し分ない。

 余談だが、この映画を観ていると昨今の安保法制をめぐる議論が虚しく思えてくる。やれホルムズ海峡の機雷封鎖だ、やれ南シナ海の中国の侵攻だと喧しいが、いざという時に矢面に立たされるのは、現場の自衛官である。彼らが愛国心も軍律もどこかに行ってしまい、ただ自らの生存だけを求めて彷徨うハメになる可能性を、少しでも考慮した意見があるのだろうか。

 戦争とは合理性が支配する世界では断じてない。死と不条理がすぐ隣に存在する異空間である。それを踏まえて論議すべきだろう。それでなくても、短絡的で好戦的な見解に接するたびに、ウンザリしてまう今日この頃である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハモの天丼は、美味しい(笑)。

2015-08-09 06:48:40 | その他
 先日、出張で大阪に行ってきた。昼食時に梅田近辺をウロウロしていてふと目に付いたのが“夏季限定メニュー、ハモ天丼”という看板。これは食べるしかないと思って店に入ったが、ひょっとしてハズレかもしれないという心配は結果として無用に終わった。早い話、とても美味しかったのだ(笑)。

 実を言えば、ハモの天丼を食べるのはこれが初めて。ハモといえば梅肉ソースで和えたものをこの季節に何度か食したことがあるが、天ぷらにしても美味いということを今回認識した次第だ。



 しかも、これに味噌汁を付けても千円を切る価格。コストパフォーマンスは本当に高い(^^)。

 さて、参考にハモ天丼の写真を添付しているが、ここでハモよりも目立っていたのが大きな赤い天ぷら。これは一体何かと思って口に入れたら、何と噂に聞く“大阪名物、紅ショウガの天ぷら”だったのだ。しかも、ピリリとした辛さが季節柄ジャストフィットである。

 次回夏場に大阪に行けるのはいつになるか分からないが、もしも行けたら再びチェックしたいメニューであるのは間違いない。やはりダテに大阪に“食い倒れ”のキャッチフレーズは付けられていないと感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「なつやすみの巨匠」

2015-08-08 06:30:07 | 映画の感想(な行)

 出来の良さにびっくりした。福岡市西区にある能古島を舞台にした地方発信の映画だが、同じく以前福岡県内で製作された“ご当地映画”である「千年火」や「スーパー・ハイスクール・ギャング」といった作品が低レベルであったこともあり、大して期待せずに臨んだのだが、これは嬉しい誤算であった。

 能古島に住む小学4年生のシュンは、夏休み中もやる気が起きず、ヒマを持て余していた。地元で行われていた水泳実習もサボってばかり。ある日、彼は学生時代に映画研究部員だった父から古びたビデオカメラを譲り受ける。かねてよりハリウッド映画好きだったこともあり、シュンはすぐにそのカメラに夢中になる。さっそく悪友2人と映画撮影の真似事に熱中するが、野郎ばかりでは味気なく、早々にマンネリに陥ってしまう。

 そんな中、島でアトリエを構える老人のもとに、シュンと同世代の女の子ユイが預けられる。ユイは老人の孫なのだが、家出同然で出て行った娘とブラジル人男性との間に出来た子供で、ある理由により夏休みの間だけこの島に滞在することになったのだ。シュンは彼女に一目ぼれしてしまい、自分の“映画作品”にユイをヒロインとして出演させることにする。

 何より感心したのは、登場人物達が地に足が付いていることだ。主人公の家のテレビはブラウン管式で、部屋にはビデオテープが並べてあることから、最初は時代設定が今から十数年昔だと思っていた。しかし、時折画面に映される福岡市中心部の風景は紛れもなく現代のもの。そう、シュンの家庭や周りの者の生活は豊かでは無いのだ。

 父親は漁師だが、港に停泊している漁船の半数以上は稼働していない。島には観光資源こそあるが、確固とした産業は根付いていない。さらにはシュンが引き起こしたトラブルによって、父親は窮地に追いやられてしまう。島の実態を丁寧に描いているからこそ、幾分非日常的な少年少女の甘酸っぱい“アヴァンチュール”(笑)が違和感なく展開出来ている。

 脚本は福岡出身の入江信吾の手によるものだが、名の知れた原作の映画化しか企画が通らない昨今の日本映画界に対抗するように、オリジナルのシナリオで勝負しているところが嬉しい。後半から終盤に至るまでの伏線の張り方も堂に入ったもので、特にラストの大仕掛けには感動すら覚えてしまった。

 中島良の演出は堅実で、大人のキャストの動かし方にはなかなかの技量を示している。父親に扮する博多華丸をはじめ、板谷由夏、落合モトキ、リリー・フランキーなど、皆持ち味を発揮した好演だ。感心したのが母親役の国生さゆりの演技で、もっと映画に出て欲しいと思わせるほどのパフォーマンスを示している。野上天翔や村重マリア(姉がHKT48のメンバーらしい)ら子供達のキャラも立っている。

 そしてエンディングテーマの井上陽水の「能古島の片想い」が効果的。なお、よく上映前に流される“映画館でのマナー”の映像が、地元の子供達による自作自演であるのがケッ作だった(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「エントラップメント」

2015-08-07 06:25:06 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Entrapment)99年作品。期待せずに観た映画だが、そこそこ面白かった。ストーリーはそれなりの仕掛けが施されているが、決して無理筋の展開にならないし、不自然に観客に頭を捻らせるようなこともない。また、主演者は映画を最後まで保たせられるだけの存在感を発揮している。観て損は無い好編だ。

 ニューヨークの高層ビルに保管してあったレンブラントの名画が盗まれた。女性保険調査員のジンは、これは名の知れた美術品泥棒のマックの犯行だと睨む。上司の許可を得てマックに近づくが、あっさり正体を見破られてしまう。



 ところが彼女は、実は自分が泥棒であることを明かし、逆に銀行の大金強奪計画にマックを引き入れてしまう。その計画とは、当時騒がれていた2000年問題で一時的に銀行のコンピューターが処理を停止する間に、銀行のカネをごっそりと自分の口座に移してしまうというものであった。

 サスペンス物らしくプロットはよく考えられているが、それほど凝ったトリックが展開されるわけではない。これは主役のショーン・コネリーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズの共演を楽しむ映画なのだ。余裕綽々でベテランの美術泥棒を演じるコネリーと、お色気要員も兼ねた(笑)食えない保険エージェントに扮したゼタ=ジョーンズの2人は、実にスクリーン映えする。特にゼタ=ジョーンズがレーザービームをくぐり抜ける訓練をする場面は、本当にセクシーだ。

 ジョン・アミエルの演出は取り立てて優れてはいないが、堅実で無理がない。ヴィング・レイムスやウィル・パットンといった脇の面子もソツなく役柄をこなしている。そして最大の見どころは、クアラルンプールにあるペトロナスツインタワーでの立ち回り。単なるサスペンス場面ではなく、観光気分も大いに味わえる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神々のたそがれ」

2015-08-03 06:23:51 | 映画の感想(か行)
 (英題:Hard to Be a God)全編が汚物と臓物に溢れ、その中を身なりも内面も卑しいような連中が動き回るだけの映画だ。もっとも“見た目が汚いからダメだ”と言うつもりは無い。それなりの映画的興趣やカタルシスが提示されていればイチャモンを付ける筋合いはないのだが、本作にはそれらは見当たらない。正直“スカトロ趣味のある者以外は、受け付けないのでは”と思った(笑)。

 ストルガツキー兄弟のSF小説「神様はつらい」の映画化で、地球より800年ほど発展が遅れた某惑星が舞台。かつてこの星を調査するため30人の学者たちが派遣されたが、その中の一人であるドン・ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)は地球に帰らずに居座り、住民からは神のように崇められる存在になっていた。この惑星では中世の暗黒時代のような圧政や知識人の粛清等が繰り返されており、いくら神様扱いされるドン・ルマータでも、それらを傍観するしかない。



 ストーリーはあって無いようなもので、ドン・ルマータがどうして神格化されるようになったのか、この星の権力構造がどうなっているのか、途中で勃発する内乱の結果はどのようなものか、それらは一切具体的に示されない。ただ、小汚い奴らがカメラの前に寄ってきて何やら意味不明のことを毒づく場面が延々と映し出されるだけだ。しかも、撮り方が一本調子でメリハリがないため、しばらく眺めているうちに眠気を催してくる。いったい、これのどこが面白いのだろうか。

 だいたい設定がSF仕立てながら、それらしいテイストが皆無というのも愉快になれない。別に大仰な視覚効果や先鋭的なメカ類を出せとは言わないが、地球上のものではない決定的に異質な意匠を披露してセンス・オブ・ワンダーを演出するぐらいのことはやって良かった。これではただの“中世を舞台にしたアングラ劇”でしかない。



 監督は「フルスタリョフ、車を!」「わが友イワン・ラプシン」(ともに私は未見)などで知られるロシアの巨匠(と言われる)アレクセイ・ゲルマンで、これが遺作だという。製作にこぎつけるため15年を要し、上映時間は3時間近くもある“大作”なのだそうだが、いずれにしろ“構想○○年。製作○○年”といった謳い文句のシャシンにはロクなものは無いことを再確認することになった。全編モノクロで撮られていることだけが救いだろうか。これがカラーだったら途中で退場する者がゾロゾロ出てくることは想像に難くない。

 それにしても、ワーグナーの楽劇と同じ邦題というのはいただけない。そして配給会社による“21世紀の最高傑作!”という惹句はもっといただけない。ここは“21世紀前半を代表するキワモノ登場! 心して観よ!”といった方向性で攻めた方が、マーケティングとして相応しかったと思う(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする