要領を得ない出来で、良い印象は受けない。高井有一による原作は読んでいないが、以前田中慎弥の小説「共喰い」を低レベルの脚色によって失敗作に終わらせた荒井晴彦は、ここでも似たような過ちを犯しているようだ。
大戦も終わりに近付いた昭和20年の夏。杉並に住む19歳の里子は父を早くに病気で亡くし、役所に勤めながら母親との二人だけの暮らしを支えていた。隣家には妻子を疎開させた銀行員の市毛が暮らしており、里子は彼の身の回りの世話もしている。空襲が頻発し、いつ死んでもおかしくない状況が続き、彼女は“男を知らないまま命が尽きてしまうのではないか”という焦燥感を覚え、勢いで市毛と一線を越えてしまう。やがて8月15日を迎え平和が訪れるが、里子の懊悩はそれから始まる。
作者の視線が戦争及び、それに翻弄される国民の苦難に向いていないのが不満だ。もちろん、それらしいモチーフは並べられている。疎開や招集で周りの者が次々といなくなり、里子と母親は食料調達にも難儀するようになる。さらには家を焼け出されてきた伯母も転がり込み、屈託は募るばかりだ。しかし、どれも通り一遍の描き方しかされていない。
そのことを強調するのが登場人物のセリフ回しである。まるで昭和30年代の映画に出てくる、金持ちの令嬢みたいな芝居がかった物言いだ。これが何か効果があったのかというと、全然ない。ハッキリ言ってしまえば“戦時中の市民の暮らしなど、どうでもいい”と主張しているように思える。だいたい、母親と伯母との折り合いの悪さの実相さえ示していないのだから、あとは推して知るべしだ。
では作者の興味はどこにあったのかというと、ラストのモノローグが全てを語っている。つまりは戦争が終わってからの“イデオロギー闘争”だ。ここでは“女性の(物言う)権利”が俎上に載せられているようだが、いずれにしても戦争の惨禍そのものを軽視しているような雰囲気は拭えない。おそらくは全共闘時代にも通じるネタ振りをしたつもりなのだろう。これだから荒井のような団塊世代は始末が悪い。
里子と市毛との絡みの場面は恐ろしく下手。荒井は前の監督作「身も心も」ではオジさんとオバさんとのラブシーンでは達者なところを見せたが、若い女優相手では勝手が違うようだ。しかも里子の身体は戦時中とは思えない“健康優良児”そのもので(笑)、演じる二階堂ふみの実力をもってしても違和感が残ってしまう。市毛役の長谷川博己は園子温監督作等での彼とは打って変わった煮え切らない演技。母親の工藤夕貴も伯母の富田靖子も“トシ取ったなぁ”と思わせるばかりで、大した仕事はしていない。
特殊効果の安っぽさは低予算なので仕方がないのかもしれないが、もうちょっと見せ方があったはずだ。結局、本作で興味深かったのは映画そのものではなく、監督から“付けわき毛”を強要されて二階堂が拒んだの何だのという“関係ない話”であったというのは脱力せざるをえない(爆)。