元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「バケモノの子」

2015-08-01 06:46:48 | 映画の感想(は行)

 雑な映画だ。細田守監督の前作「おおかみこどもの雨と雪」は観ていないが、少なくとも「時をかける少女」や「サマー・ウォーズ」で見せた同監督の才気がここではどこにも見当たらない。では何があるのかというと、いかにも向こう受けを狙った親子愛や家族愛(のようなもの)の押し付けである。しかも、キャラクターの掘り下げやシナリオの精査を捨象したまま御題目だけが先走りしていて、これではとても評価出来ない。

 母親を亡くし、父親は長らく行方不明という境遇に置かれた9歳の蓮は、親戚たちを嫌って一人で渋谷の街に飛び出す。ところがいつの間にか彼はこの世の“裏側”に存在するバケモノたちが住まう“渋天街(じゅうてんがい)”に迷い込んでしまう。蓮は彼の面倒を見ることになったバケモノ・熊徹から勝手に九太という名前を与えられ、格闘技を学びながら育てられることになる。

 九太が17歳になった頃、“渋天街”の新しいリーダーを決める競技大会が開かれることになり、熊徹はその準備に余念が無い。同時に九太は現実世界に出向くことが可能になり、そこで高校生の楓と出会い仲良くなる。

 まず、この“バケモノの世界”自体の設定がいい加減である。バケモノ達は普通の人間とほぼ同じ体型・体格で、違うのは顔や皮膚の表面が動物である点だけ。熊徹をはじめ格闘時に変身する者もいるようだが、大半の者はバケモノたる特性(?)を活かさないまま漫然と描かれる。さらにバケモノ達は人間の“心の闇”を恐れて人間を忌避しているようだが、ではその“心の闇”とは具体的に何なのか、納得できる説明が成されていない。

 そもそも人間だろうがバケモノだろうが、社会的生活を送っている以上、それぞれの確執や軋轢などが生じて当然だ。それがなぜ人間だけに“心の闇”があってバケモノには無いのか。そのあたりをただ“人間には心の闇があって云々”と、セリフだけで片付けてもらっては困る。

 成長した九太が人間界に自由に行き来することが出来るようになるくだりは、まさに御都合主義の極み。楓の存在も取って付けたようだ。熊徹のライバルになるバケモノには息子がいるが、コイツが何の伏線も無いまま超能力を使い、果ては人間界に勝手に進出して鯨に変身して大暴れするという、支離滅裂な展開には閉口するばかり。

 斯様に取り散らかった設定の中にあって、ワザとらしく九太と熊徹との疑似親子愛や、蓮と実の父親との再会と和解などが勿体ぶったように差し出されるのには脱力するしかない。映像面でも見るべきものはなく、どこかの中華街のコピーみたいな“バケモノの世界”の街並みや、迫力が全くない活劇場面、終盤の“渋谷で鯨が大暴れ”のシーンの凡庸さなど、ため息しか出ないような展開だ。

 熊徹役の役所広司をはじめ、宮崎あおい、染谷将太、広瀬すず、津川雅彦、リリー・フランキー、大泉洋と声の出演陣はかなり豪華。しかしながら、それぞれの役者としての存在感が大きすぎて物語のキャラクターに成りきっていない。ここはプロの声優を中心としたキャスティングをおこなうべきではなかったか。メジャーな監督として認知されるようになった細田守は、どうやら“向こう受けを狙おう”という欲が出てきたようだ。もちろん作家性のゴリ押しはイヤだが、迎合路線はもっと勘弁してほしい。
コメント
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