元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「東京ファンタ」の思い出(笑)。

2014-07-13 07:10:15 | 映画周辺のネタ
 「東京ファンタ」とは何かというと、85年から2005年まで毎年秋に東京で開催されていた映画祭のことで、正式名称は東京国際ファンタスティック映画祭といった。もともと「東京国際映画祭」のイベントの一つであったが、好評につき毎年開かれるようになったものだ(ちなみに東京国際映画祭は発足当初は一年おきの開催だった)。ホラー・SF映画を中心に組まれたプログラムはそのテのファンを数多く集め、ひとつの名物になった感があったが、2006年以降は開かれていない。

 原因としては不景気によるスポンサー不足が挙げられるが、配給会社がいい作品を出し惜しみして、プログラムの質が落ちていることもあったという。そして当時の雑誌記事によると、衰退の最大の理由は映画祭に集まる観客の質であるということだった。あまりにもマニアックな連中ばかりがやってきて一般のファンを遠ざけている、ということだ。

 これを読んで“なるほどな”と思った。私は87年と89年に「東京ファンタ」に足を伸ばしたことがある。とにかく観客の異様なノリにびっくりした。特にひどかったのが89年である。

 最前列に大学のサークルらしい若い連中がずらっと十数人ばかり並んで座っていたのだが、上映前に彼らの一人がきったないカバンから「バットマン」のコミック(アメリカ版)を取り出してストーリーについて講釈を始めた。



 “この巻ではさぁー、前のと作者が違うんだよね。だからロビンのキャラクターがちょっと変わってるんだ”するともう一人が、“そうそう、だから次の巻ではロビンは死んで新しいロビンが登場するんだぜ”“何言ってんだい、オレの持っている○○年版じゃロビンが女になってるんだぞっ、すげーだろっ”“キミの持ってるのは復刻版だろ。僕はオリジナル版を3冊持ってるぞ”“甘い甘い、オレの持ってるのはもっと古いぞ”“僕なんて絵見ただけで何年の作品か分かっちゃうんだぞー。そうそう、その絵は○○年前のだ。主人公の腰のあたりのデッサンが・・・・(以下略)”などという会話を大声で始めたではないか。

 その状態に呆れているうち、本編が始まる前に「バットマン」(ティム・バートン監督版)の予告編が上映された。すると彼らはどこから取り出したのか、タンバリンや鈴やカスタネット等をテーマ音楽に合わせてジャンジャン鳴らし始めたではないか。まわりの迷惑などまったくお構いなしだ(あっけにとられて、注意するのも忘れてしまった)。そして本編上映中は、連中はほとんど居眠りである。いったい何しに来たんだろう(まあ、本編のナントカっていう映画は眠たくなるほど退屈だったってのは事実だが ^^;)。

 こういうオタクな奴らといっしょに見られたくない、とフツーの映画ファンだったら思うだろう(私もそう思った)。だから一般ピープルは「東京ファンタ」を敬遠する。よって採算が取れなくなるのも道理だ。

 「東京ファンタ」のコンセプトは2006年に開催された東京国際シネシティフェスティバルに引き継がれたらしいが、その映画祭も2007年で終わっている。映画観て鐘や太鼓で大騒ぎする連中が集まるイベントというのは、(少なくとも国内では)不釣り合いなのだろう。とはいえ、ホラー・SF映画中心の特集上映というのは企画としては悪くない。マナーの周知を徹底させた上で(ここ九州でも)開催しても面白いだろう。
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「罪の手ざわり」

2014-07-12 09:59:01 | 映画の感想(た行)

 (原題:天注定)強い求心力を持った秀作だ。中国の異能ジャ・ジャンクー監督の「四川のうた」以来5年ぶりの長編劇映画で、格差が生み出す悲劇を描くことによる社会批判と共に、当事者達と大衆演劇や武侠の世界を平行してイメージ的に描き、ドラマに奥行きを持たせている。

 映画は4つのパートに分かれるオムニバス形式だが、それぞれ微妙な関連性を有している。山西省の山村に住むダーハイは、以前は村全体の共同所有だった炭鉱が特定の実業家に独占され、利益が吸い上げられていることに怒りを感じている。ダーハイは資本家に対して抗議行動に打って出るがあえなく叩き出され、しかも村の者まで彼をバカにし始める。切羽詰まった彼は、猟銃を持ちだして凶行に及ぶのであった。

 その村を通り過ぎて妻子の待つ重慶に向かったチョウは、出稼ぎと称して各地で強盗殺人を繰り返していた。故郷に着いても家族や親戚と折り合えず再び旅に出たチョウは、銀行で金を下ろしてきたばかりの中年夫婦を射殺して金を奪う。

 チョウが立ち寄った停車場から出る夜行バスで湖北省の宜昌(イーチャン)に到着した男ヨウリャンは、恋人のシャオユーが待っているレストランに向かう。ヨウリャンには妻がおり、二人は長い間不倫の関係にあった。シャオユーは相手に離婚を迫るが、ヨウリャンの態度は煮え切らない。彼を見送って勤め先であるサウナの受付に戻るシャオユーだったが、夜中に横柄な客がやってきて性的なサービスを彼女に要求する。執拗に迫る客に身の危険を感じた彼女は、側にあった刃物で相手をメッタ刺しにする。

 ヨウリャンが工場長を務める広東省の縫製工場で働く青年シャオホイは、勤務中に同僚に怪我をさせてしまう。職場に居辛くなった彼は仕事を辞め、故郷の東莞(トングァン)に帰る。彼はそこで観光客相手のナイトクラブで働くようになるが、この店でシャオホイはホステスのリェンロンと知り合う。親交を深めるうちに彼女を好きになってしまう彼だが、リェンロンには誰にも告げていない秘密があった。それを知ったシャオホイは、捨て鉢な行動に出る。

 主人公達の振る舞いは反社会的であり、それは現代の中国にはびこる社会問題が大きく関わっていることは論を待たないが、それだけに終わらせないのが、事に至る前(あるいはその後)に見せる得意気な表情だ。殺戮を終えたダーハイは満足げに笑い、“仕事”を済ませたチョウは淡々と達成感に浸り、血まみれのナイフをかざしたシャオユーは武侠映画の登場人物のようにポーズを取る。

 彼らは地縁・血縁から見放された孤独な存在だが、そんな者達が演劇などのフィクションの世界に自らを投影し、インモラルな次元でやっと自身の存在感を認識するという、犯罪の深遠な本質を見抜いたような作者の冷徹な視線に感服してしまう。

 ワン・バオキアンやチャオ・タオ等キャストは知らない面々ばかりだが皆芸達者で、即物的な効果を上げるのに貢献している。無機的な映像の構図も忘れがたい。第66回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。本年度のアジア映画の収穫である。
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バランス接続を試してみた。

2014-07-11 06:33:36 | プア・オーディオへの招待
 使用中のアンプ(SOULNOTEのsa3.0)とCDプレーヤー(ROTELのRCD-1570)は、バランス接続が可能である。多くのオーディオ機器の接続に使われるラインケーブルにはRCAプラグが装着されているが、これはアンバランス接続と呼ばれる規格に則っている。対してバランス接続は、XLR型という大型のコネクターを搭載したケーブルを使用する。一般にバランス接続の方がノイズに強いと言われており、プロ用機材にはよく使われる。

 家庭用オーディオではケーブル方面から侵入するノイズがそれほど多いとは思えず、果たしてバランス接続の存在価値はあるのだろうかという疑問も持ったのだが、その旨をディーラーのスタッフに話してみたら“バランス接続とアンバランス接続とではけっこう音が違いますよ”という答えが返ってきた。もちろんオーディオというのは実践の世界なので“やってみなければ分からない”のであるが、XLRケーブルをわざわざ購入する必要があるのかどうか迷っていると、くだんのスタッフ氏が“試しに、ケーブルを一組貸しましょう”と申し出てくれた。

 さっそく自宅に持ち帰って換装してみたところ、明らかにRCAケーブルを使っていた時とは音は違う。しかもこれは“激変”に近い。



 まずびっくりするのが、音圧感の上昇だ。ヴォリュームの位置が上がったような印象を受ける。そして低域の骨格がシッカリとしてきて、安定感が増してきた。さらには音場が聴感上1.5倍ぐらいに広がり、見通しが格段に良くなった。とにかく、アンバランス接続とは別の次元に移行した感がある。

 反面、使っているスピーカー(KEFのLS50)がモニター的な展開であるせいか、ソースの録音のアラがしっかり出てくるようになった。質の良くない音源だと、耳障りで聴くに耐えない音になる。とはいえ、RCAケーブル使用時とはパフォーマンスにおいて差をつけているのは確かだ。

 ただし、ディーラーが貸してくれたXLRケーブルは約2万円の値札が付いているもので、果たして今回の結果がバランス接続によるものか、あるいは当該ケーブル自体の性能によるものか判別できない。よってケーブルを返却後、とりあえず別のケーブルの調達を考えた。だが自他ともに認めるケチな私としては(爆)、電線ごときに2万円も払いたくはない。ここはひとまず安価なXLRケーブルを購入して“バランス接続自体の音質向上効果”を見極めることにした。



 導入したのはBeldenの88770とGothamのGAC-4/1だ。共にローコストな業務用ケーブルだが、どうして2組も買ったのかというと、実家のメイン・システムもバランス接続が可能であり、いずれはそちらにも装着することを考慮したものだ(ただし、大型コネクターを接続するためには重いラックを前に移動させるなどの厄介な作業が必要であり、メイン・システムでの運用はまだ先の話になりそうである ^^;)。

 実装してみると、やはりRCAケーブル接続時とはまったく異なる展開を見せた。音の伸びや透明感こそ前にレンタルした2万円のケーブルに遅れを取るが、音圧感のアップと低域の積極性、そして音場の広さはここでも強く印象付けられる。各ケーブルの音の違いは確かにあり、Beldenが中低音のメリハリ重視でGothamは全域のバランスの良さと滑らかさが特徴的だ。私はどちらかというとGothamの方が好きだが(特にヴォーカルの再現性)、Beldenの元気の良さを好むユーザーもいるかもしれない。

 正直言って、個人的にはもうRCAケーブルによるアンバランス接続には戻れない。もしも今後ラインケーブルを調達するとすれば、XLRケーブル限定になるだろう。もちろん、今回の結果は私のシステムに限った話であり、すべてのリスナーにとってバランス接続が適しているかどうかは分からない。ケーブルだけバランス接続にしても、プレーヤーやアンプの信号処理が完全にバランス回路化された製品じゃないと効果は望めないという意見もある。

 ただ、今回のようにケーブルの仕様を変えるだけで大きな音の変化が見られたケースもあるし、それにXLR型コネクターは機器にしっかりと固定されて接続するので、使用上の安心感にも繋がる。バランス接続が可能であるならば、トライする価値はあるだろう。
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「トランセンデンス」

2014-07-08 06:59:51 | 映画の感想(た行)

 (原題:Transcendence )つまらない。ストーリーは練られていないし、キャラクターは魅力が無い。映像面でも見るべきものは存在せず。要するに、何のために作ったのか分からない映画である。

 天才的な頭脳を持つ科学者ウィルは、意志を持つ人工知能の開発に勤しんでいたが、急激なテクノロジーの発展を危険視する過激派組織によって銃撃される。研究パートナーでもある妻のエヴリンは、死ぬ寸前の彼の頭脳を大型コンピューターのメモリーにアップロードさせ、ウィルの意識を永久保存しようとする。

 ウィルの人格を持つに至ったそのコンピューターはネット上からすべての情報を吸収し、思わぬ“進化”を遂げる。やがてコンピューターは自身が理想と考える世界を構築するため、人間界を支配しようとする。この事態に危機感を抱いた当局側は、くだんのテロリスト達とも協力してコンピューターと対決する。

 研究バカで周囲の情勢を顧みないウィルにはとても感情移入出来ないが、そんな彼に首ったけの妻が安易に夫の“頭の中の情報”を電脳空間に残そうと考え、しかもホイホイとネットに繋げてしまうあたりで脱力した。危機管理も常識も持ち合わせていない彼女の行動を“愛する人の命を繋ぎとめたい”とかいうセンチメンタルな動機付けで正当化しているような本作の作劇は、とても納得できるものではない。

 しかもこのコンピューターの遣り口というのが、あまり頭が良さそうには見えない。なぜか荒野の真っ直中に拠点を築くのだが、そんなことをすれば電脳化されていない“旧兵器”の攻撃の絶好の的になってしまう(事実、そうなるのだが ^^;)。ネットを制圧してしまえば、攻撃を受けにくい場所(たとえば、政府機関の中枢とか)をアジトにすることも可能なはずだが、それをやらないからナノテクノロジーやら何やらに関する無理筋のプロットを積み上げなければならない。

 当局側は暴走コンピューターに対抗するためウイルスの使用に踏み切るのだが、その“感染”させる方法というのがまさに噴飯もの。いくら相手が“意志”を持った機械だといっても、コンピューター・ウイルスと単なる病原体とを同一視したような展開には呆れるばかりだ。

 これがデビュー作になるウォーリー・フィスターの演出はぎこちなく、テンポも悪い。作劇にキレもコクも無く、メリハリを付けることもしていない。SFXの出来は平板で、観客を驚かせるような映像は最後まで見られない。演技指導もへったくれも無いので、ジョニー・デップやモーガン・フリーマン、レベッカ・ホールといった面々も手持ち無沙汰でスクリーンの中に佇むばかりだ。

 キャストで唯一印象に残ったのはテロリストの一人を演じるケイト・マーラで、顔立ちと名字から“ひょっとしたら”と思って検索してみると、ルーニー・マーラの姉だった。妹よりもキツいルックスで(笑)、悪女役が似合いそうだ。
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「XYZマーダーズ」

2014-07-07 06:38:47 | 映画の感想(英数)
 (原題:CRIMEWAVE )85年作品。サム・ライミの監督作の中でも、特に面白い映画の一つだ。脚本はライミ自身とコーエン兄弟が共同で書いており(今から考えると信じられないコラボレーションだが ^^;)、両者のヘンタイ度が良い感じに(?)ブレンドされているような印象を受ける。

 デトロイトの刑務所で電気椅子に座らされている死刑囚ヴィックは“僕は無罪だ!”と叫び続けていた。映画はそれから彼の回想場面に移る。ヴィックは警備会社に勤める冴えない男。社長のオデガードは共同経営者のトレンドに内緒で会社を売却しようとしていた。これを知ったトレンドは、二人の殺し屋を差し向けてオデガードを始末しようとするが、どういうわけかオデガードだけでなくトレンドまで消してしまう。



 偶然犯行を目撃したトレンド夫人は殺し屋二人に追われるハメになるが、殺し屋が夫人の部屋と間違えてヴィックが思いを寄せるナンシーの部屋に乱入。ナンシーは殺し屋共に拉致され、ヴィックがその後を猛追する。

 ヒッチコックが得意とした“追われながら事件を解決する話”を踏襲しているが、本作の特徴は徹底してオフビートな展開とブラックなユーモアが横溢していること。ほとんど不死身に近い殺し屋二人のキャラクターは強烈だが、助っ人を買って出るミスター・ヤーマンの登場とその“有り得ない最期”には大いに笑った。

 ヴィックの追跡がヘンなところで“脱線”してしまうのにもウケたし、ナンシーが過去の無軌道な生活を悔い改めるために修道院に入ってしまう展開には吹き出してしまった。

 主演のリード・バーニーをはじめキャストには(会社の買収者を演じるブルース・キャンベルを除いて)知らない面々が名を連ねているが、どいつもこいつもイイ味を出している。トレンド夫人の“その後”を紹介したエピローグも含めて、存分に楽しませてくれる。
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「私の男」

2014-07-06 08:19:56 | 映画の感想(わ行)

 大して面白くもない。直木賞を受賞した桜庭一樹による同名小説はすでに読んでいるが、この映画化作品は筋書きが違う。別に“原作をトレースしていないからダメだ”と言うつもりなど毛頭無いが、小説版で提示された重要なモチーフがスッポリと抜け落ち、代わりにどうでも良いようなシークエンスが挿入されている。つまりは物語の要点が捨象されて余計なエクステリアが付与されているということで、これは評価出来ない。

 北海道南西沖地震により大津波に襲われた奥尻島で家族を失った10歳の少女・花は、遠い親戚だという腐野淳悟に引き取られ、二人で暮らすようになる。地元の名士で二人の後見人になった大塩は、成長して高校生になった花と淳悟の歪んだ関係に気付くが、やがて流氷の海で死体となって発見される。それを切っ掛けに花と淳悟は北海道を離れ、住居を東京に移す。

 原作では、花が美郎との新婚旅行から帰ってみると淳悟が消えたことが最初に描かれ、それから時間を遡って花と淳悟との関係性が綴られていくのだが、映画では二人の出会いから始まり、そこからノーマルな時系列で進められる。この脚色は良くない。

 実を言うと、原作で花と淳悟との“間柄の秘密”が示されるのはラスト近くの、震災よりも前の出来事に言及されるパートにおいてである。そこを終盤に持ってきているおかげで、原作はかなりのインパクトを獲得するに至ったのだが、時制の組み立てを反対にしている映画版ではそれが描けない。

 その代わりに何があるかというと、社会人になった花の交際相手である美郎と淳悟との、珍妙な掛け合いである。美郎がこの二人のただならぬ関係を察するという意味で考案されたのかもしれないが、蛇足以外の何物でも無い。その後に示されるエピローグも、何とも要領を得ない表現で脱力する。

 熊切和嘉の演出は前作「夏の終り」同様、テンポが悪く本調子とは言えない。舞台設定によって撮影メディアを変更するという方法は成果が上がっていないし、花と淳悟との絡みのシーンで部屋が血の海になるといった幻想場面も奇を衒ったものとしか思えない。そしてセリフの聞き取りにくさがドラマの進行を停滞させている。唯一良かったと思えたのは、犯罪ドラマとしては欠点が目立つ原作のストーリーを何とかカバーしていることだろうか(プロットに難があるため、私は小説版を評価していない)。

 主演の浅野忠信と二階堂ふみは熱演している。モスクワ映画祭で賞を獲得した浅野のパフォーマンスは彼のキャリアの中での代表作となりそうだし、二階堂も年齢を感じさせずファム・ファタールを演じきっている。余談だが、彼女の姉の宮崎あおい(←だから、姉じゃねえだろ ^^;)と似ているのは顔だけで、首から下は全然造型が異なっていることを再認識した(爆)。脇の藤竜也や高良健吾も悪くないし、北国の描写も捨てがたいのだが、映画の出来がこの程度では褒め上げるわけにはいかない。
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「クルックリン」

2014-07-03 06:58:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:Crooklyn)94年作品。スパイク・リー監督による、ブルックリンを舞台に自らの少年時代を描くファミリー・ドラマ。売れないミュージシャンの父、口うるさい母とわんぱく盛りの5人の子供たちを、当時の風俗と音楽をからめてにぎやかに綴る。

 で、観た印象だが、退屈な映画である。単に微笑ましいだけの家庭の様子を、別にドラマティックな出来事もなくスケッチ風に追ったに過ぎない。断っておくが、起伏もなく淡々とした展開だからダメというわけではない(抑えたストーリーでも傑作になる例はいくらでもある)。しかしここには作者の気合いというか、覇気というか、ドラマの方向性が全然ないのだ。



 紹介されるエピソードは、どれもこれも毒にも薬にもならない、観てる側にはどうでもいいものばっかり。“はぁ、それは楽しい少年時代でしたねぇ。よかったよかった、ははは・・・・”という時点に留まっていて、何ら問題意識やトンがった主張もなし。例えるなら、赤の他人の自家製ホーム・ビデオを無理矢理見せられている居心地の悪さがある。

 ドッと白けたのは中盤。ゴミゴミしたブルックリンの自宅から、郊外に住む金持ちの親戚に夏の間だけ預けられた末娘のエピソードだ。なんとこの部分だけシネスコで撮っている(それ以外のパートはビスタサイズ)。スクリーン・サイズは変更しないので、ここだけ縦長のおかしな画面になる。つまり、小ぎれいな郊外の生活より埃っぽいけど明るいブルックリンの方がいい、という心情の吐露なのだが、まさにミエミエの比較論でガッカリした。

 考えてみれば、リーはこの映画で描かれているように、黒人としてはフツーの家庭に育ったのであり、ブラック・カルチャーの旗手でも何でもない。平均的なハリウッドの監督なのだ。それが「ドゥ・ザ・ライト・シング」という突出した映画を撮ってしまったため、評価がヘンな方向に行っただけかもしれない。

 「マルコムX」「モ’ベター・ブルース」などはハリウッド製娯楽劇の典型だし、一方「ジャングル・フィーバー」みたいに社会派好みの事象を扱っても、パターン化されたエピソードの羅列になってしまう。そういえば公開当時に観た際、居眠りしている観客も目立った(^_^;)。
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「春を背負って」

2014-07-02 06:17:38 | 映画の感想(は行)

 いったい何十年前の映画を観ているのだろうかと思った。斯様にこの作品は古くさい。これを“雄大な山の風景をバックにしているから気にならない”と評する向きもあるのかもしれないが、私は全然納得しない。それ以前に、どうしてこのような作風の映画を現時点で作らなければならないのか、理解出来ない。

 東京の投資ファンドに勤めている長嶺亨のもとに、富山県立山連峰で山小屋を営む父親が亡くなったとの知らせが届く。父は遭難した登山客を救おうとして、自ら犠牲になったのだ。久々に帰郷した亨は、山を愛した父や周囲の人々の思いに触れ、山小屋の経営を引き継ぐことにする。そんな彼を、父の僚友であったゴロさんや、山小屋を切り盛りする女性従業員の愛がフォローする。ある日、ゴロさんが脳梗塞で倒れてしまう。亨は彼を背負い、決死の思いで下山を試みる。

 設定が物凄く図式的だ。東京での亨の仕事が生き馬の目を抜くように世知辛く、対して山での生活が人情味に溢れ豊かな自然に癒やされるといった、見事なステレオタイプにセッティングされている。現実はそう簡単に割り切れるはずもないのだが、作り手は“オレがそう思うのだから、そうに決まっている”と言わんばかりに決め付ける。

 登場人物は滔々と自己の気持ちをセリフで説明してくれる。そして全員が気持ちが真っ直ぐで、間違ってもグチを言ったり屈折した態度をあらわすことは無い。さらには“一歩一歩、自分の力で普通に歩けばいい”とか“人は誰も荷物を背負って生きている”とかいった、有り難い人生訓を垂れたりもするのだ。極めつけは、亨と愛とのラブシーン。何と二人は、手をとりあってクルクルと回転しながら想いを伝えるのだ。大昔作られた明朗青春映画のノリで、観ているこちらは気恥ずかしくなってしまった。

 木村大作監督の前作「劔岳 点の記」もそういうテイストはあったのだが、あれは純然たる“出張”(ビジネス)の話であったから、文字通りビジネスライクに割り切って素材を受け止めることが出来た。対してこれは、そういう冷静なスタンスが付け入る余地は無い。大甘の予定調和の話を噛んで含めたように聞かされるみたいで、すこぶる居心地が悪い。

 主演の松山ケンイチをはじめ、蒼井優、豊川悦司、檀ふみ、小林薫、新井浩文、安藤サクラ、池松壮亮、石橋蓮司といった多彩なキャストが顔を揃えているのだが、どうも実体感の無いパフォーマンスに終始していて感銘を受けるにはほど遠い。本来はカメラマンである木村大作による映像は、確かに美しい。しかし、それは絵葉書的で底は浅く、求心力に乏しい。

 この映画に存在価値があるとするならば、シニア層の動員だろう。斜に構えたところが全然なく、微温的でノスタルジックな展開に終始する本作は、高年齢の観客が安心して対峙できる内容だ。今後のマーケティングの指針にはなると思う。
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「紅い鞄 チベット、秘境モォトゥオへ」

2014-07-01 06:17:16 | 映画の感想(あ行)
 (原題:心跳墨脱)2003年作品。「世界の果ての通学路」を観て思い出したのがこの映画。一般公開されているかは不明(ビデオ化はされている)。私は2004年のアジアフォーカス福岡映画祭で鑑賞している。

 中国の奥地で自費で小学校を建てた老人を訪ねるべく、チベット自治区のモォトゥオ(墨脱)県に向かった雑誌記者とその一行が遭遇する苦難を描くロードムービー。内蒙古電影制作所に所属するモンゴル族のハスチョローが演出を担当している。



 道なき道を一週間かけて踏破しないと辿り着けない超過疎地が放置されている中国の国内問題はもとより、修羅場をくぐるたびに結束を高めてゆく主人公達や、僻地の教育に命を賭けた老人の気高い意志を描く人間ドラマの側面、そして「インディ・ジョーンズ」ばりに配置される危機また危機の活劇場面も含め、あらゆる映画の面白さが一本に凝縮されているという意味で、これは驚くべき作品だ。

 そして何よりチベットの雄大な風景に圧倒される。この映像だけで十分入場料のモトは取れるだろう。家族を失ったジャーナリストや、都会人っぽさが抜けきらない女医など、各キャラクターも実に良く“立って”おり、現地人を中心としたキャストも皆本当にいい顔をしている。“拾いもの”とも思える秀作だ。
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