元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「Love Letter」

2013-12-15 06:18:37 | 映画の感想(英数)
 95年製作。初めて岩井俊二監督作に接した映画だった。その時は、彼の作風はポーランドの鬼才クシシュトフ・キェシロフスキに似ていると思った。本作は「ふたりのベロニカ」と「トリコロール 青の愛」をあわせたような映画である。あるいは「トリコロール」三部作の総集編という見方もできる。ただ、高踏的で天才肌のキェシロフスキと比べ、やや感傷的で分かりやすい。それだけ幅広い観客にアピールする普遍性を持つと感じたものだ。

 婚約者を遭難事故で亡くした博子(中山美穂)は、彼がかつて住んでいた小樽の住所を中学校の卒業アルバムから調べ“天国へ宛てた”ラブレターを出す。ところが、来るはずのない返事が来た。ただし、それは彼と同姓同名の女性・藤井樹(中山・二役)からだった。樹の中学時代に同じクラスだった同姓同名の男の子(柏原崇)がいたが、博子の婚約者とは彼のことではないかと思った樹は、ほとんど記憶の中から消えていた彼のことを思い起こす。

 もう一人の自分により生かされている自分。ここでは博子と女性の樹、さらに男性の樹という三重構造。加えて微妙な三角関係も垣間見せる。この世とあの世、現在と過去に広がった三角関係。同じ魂を持った彼らを結び付けるものは、すでに膝突き合わせての会話ではなく、手紙や思い出の共有という間接的なものにシフトしている。人生を左右するのは平易な対話ではなく、心の深層に刻まれた記憶の集積であると言わんばかりだ。



 女性の樹は平凡に過ごしてきたと思っていた中学生時代が、実は少年・樹の存在により素晴らしく充実したものだったことを知る。無口でぶっきらぼうだった少年は、誰よりも少女・樹のことが好きだった。

 二人の揺れる心を綴った中学時代の場面は素晴らしい。夕暮れの自転車置き場のシーン。ファインダー越しに覗く陸上大会のシーン。あまりにいじらしくて泣きそうになる。そして急逝した父親、同居している母親や祖父のかけがえのない思い出によって現在の自分があることも知る(死んだ父の思い出がフラッシュ・バックする場面はインパクトがある)。

 また、博子も過去の婚約者の姿を知ることにより、真に自分に向き直っていく。死んだ樹も彼らの心の中で永遠に生き続ける。輪廻のように人から人へ伝達される魂の記憶の不思議。人間の心の不可思議さ。“人生なんて”とシニカルに考えてしまう時、何もかもがイヤになってしまった時、たぶん何度も思い出す映画だろう。

 中山美穂は最高の演技。二人のヒロインを外見はほぼ同じながらキッチリ演じ分けている(「ふたりのベロニカ」のイレーネ・ジャコブを思い出してしまった)。博子に想いを寄せる友人役の豊川悦司も関西弁でひょうきんさを見せる。少女・樹役の酒井美紀もいい。彼女のヘンな友人を演じる鈴木蘭々も抜群のコメディ・リリーフ。加賀まりこや茫文雀など脇のキャラクターもいい。考えてみると無駄なキャラクターが一人もいない。また、全員がいつもと違った面を見せているし、俳優の動かし方に非凡なものを感じる。

 小樽と博子の住む神戸を澄み切った空気感で捉える篠田昇のカメラ。繊細極まりないREMEDIOSの音楽・・・・。それまでの邦画ではあまりお目にかかれなかった素敵な空間だ。

 岩井の作品はこの映画を観た後も何本も追っているが、出来不出来の激しい監督であるのは確かである。しかし、この独特のセンスは得難いもので、これからも新作が撮られればチェックし続けていきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あの頃、君を追いかけた」

2013-12-14 07:13:32 | 映画の感想(あ行)

 (原題:那些年、我們一起追的女孩)本国台湾や香港などで大ヒットし各映画賞の候補にもなった青春ドラマということで観てみたが、何のことはない、日本でもよくある軽量級ラブコメでしかなかったのには脱力した。ベタな展開とユルい演出の連続で、明らかに(日頃あまり映画を観ない)若年層のみをターゲットにして作られており、私のようなオッサンはお呼びではないと合点した次第(笑)。

 90年代の半ば、台湾中西部の町・彰化に住む男子高校生コートンとその仲間達は、毎日のようにくだらないイタズラで授業を妨害し、学校当局の悩みの種になっていた。困った担任教師は、クラスの優等生の女生徒シェンを“お目付役”としてコートンの後ろの席に座らせることにする。コートンは何かにつけて偉そうに指図する彼女を最初は鬱陶しいと思っていたが、やがて憎からず思うようになってくる。それから映画は卒業後の彼らの進路を追う。

 台湾の作家ギデンズ・コーが、自伝的小説を自らのメガホンで映画化したものだが、やはり本職の監督ではないためか作劇に隙間風が吹きまくっている。全体的にテンポが悪く、ストーリーは行き当たりばったり。あちこちに挿入されるギャグはレベルが低く下品で、しかも繰り出すタイミングを外しているためにほとんど笑えない。

 そもそも登場人物が無駄に多い。主人公の悪友どもを5人も6人も用意する必要があったのか。2人か3人で十分だろう。さらにコートンが大学に進学すると、学生寮にいるアホな連中も絡んでくる有様だから、余計に面倒臭くなってくる。回想シーンと銘打った同じ画像の使い回しや、何かというとセンチメンタルな劇中曲が流れるなど、水増し的な要素も目立つ。

 わずかに印象に残ったのは、日本の漫画やアニメーションが小道具として数多く使われていることだ。改めて、我が国のサブカルチャーが台湾をはじめとする周辺諸国へ大きく影響を与えていることを確認した。もっともそれらの引用は、段取りが悪いせいかウケない(爆)。

 唯一笑えたのは主人公が格闘するシーンに挿入される“デンプシー・ロール”のネタぐらいだ。森川ジョージの漫画「はじめの一歩」における主人公の必殺ブローの一つだが、個人的には安紀宏紀の「ナックルNo.1」を思い出してしまった。

 ヒロインに扮したミシェル・チェンが83年生まれだというのには驚いた。いいトシなのだが、高校生を演じてもまったく違和感がなく、役柄にふさわしいほど可愛い。しかしながら、彼女以外のキャストは大したことはなく、コートン役のクー・チェンドンをはじめ皆“脚本通りやりました”という程度。この意味でも、個人的にはあまり作品の存在価値を見出せなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「悪の法則」

2013-12-09 06:35:33 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Counselor )つまらない。“何かあるぞ”と思わせて、実は“何も無い”という困ったシャシンである。せいぜいが“人間、ヤバいことに手を出さずに地道に生きるのが一番”といった退屈な道徳論もどきが転がっている程度。リドリー・スコット監督もいよいよヤキが回ったようだ。

 主人公はメキシコ国境付近の町に住む野心的な弁護士。魅力的な婚約者もゲットし、人生の絶頂にあると思われた。さらなる欲望に駆られた彼は、知り合いのウサン臭い実業家や裏社会のブローカーと手を組み、ハイリスクなビジネスに乗り出そうとするが、ここから雲行きが怪しくなってくる。彼らの企みは身近な者に全て筒抜けになり、やがてカネの臭いをかぎつけたメキシコの麻薬カルテルの介入を招いてしまう。

 スタイリッシュな画面造型と思わせぶりなセリフの応酬により、ハイ・ブロウな雰囲気を醸し出そうとしているようだが、物語の底は浅い。そもそも、主人公はどうしてこんな危ない橋を渡ろうとしたのかサッパリ分からない。職業柄、荒くれ共と数多く渡り合っているはずで、ヘタに闇社会に関わるとどうなるか一番よく理解しているはずなのだが・・・・。

 しかも、その段取りがとことん間抜けで、海千山千のビジネスマンや百戦錬磨のヤクザ者といった触れ込みの二人の仲間も、単なるデクノボーにしか見えない。これでは“どうぞ始末して下さい”と言っているようなものだ。

 冒頭近くのダイヤモンドに関するウンチクや、主人公の“知り合い”達が滔々と語る処世訓じみたセリフといった、メタファーめいた小ネタは全てドラマの核心から大きく外れ、話は退屈な結末に向かってノロノロと進むのみ。面白さのカケラも無い。

 斯様に話自体は実に冴えないのだが、どういうわけかキャストだけは豪華だ。マイケル・ファスベンダーをはじめペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデム、ブラッド・ピットという主演級が5人も顔を揃えている。ところが目立った見せ場は皆無に等しく、全員が可もなく不可もなしのパフォーマンスに終始。見所を強いて挙げれば、キャメロン・ディアスのノーパン180度開脚ぐらいだ(爆)。

 結局、印象に残ったのはメキシコ・マフィアの残忍な遣り口だけ。相手が当局側の人間だろうと無辜の市民だろうと、邪魔な者は容赦なく抹殺してゆく。こんな奴らが我が物顔で闊歩している国に生まれなくて良かったと、つくづく思う。もっとも、そんなことはわざわざこの映画で語ってもらわなくても、関係資料をチェックすれば済む話なのだが(暗然)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近購入したCD(その28)。

2013-12-08 08:02:57 | 音楽ネタ
 最近は若い世代の間で“ヤバい”という言葉がポジティヴな意味で使われている・・・・ということが巷間に取り沙汰されているようだが、実は我々世代の十代の頃(つまり、かなり昔)にも“ヤバい”を肯定的な意味に捉えた使い回しは存在した。しかし、今のように滅多矢鱈と連発はしない。本当に凄いものに遭遇したとき口に出るのが“ヤバい”というフレーズだった。

 音楽に限った話では、当時思わず“コイツはヤバい!”と呟いたのはセックス・ピストルズのデビューアルバム「勝手にしやがれ!」を聴いた時だった。とにかく圧倒的な衝撃度で、これがヤバくなくて何がヤバいのかと感じたものだ。それから約35年経った今、久々に“ヤバいぞこれ!”と言いたくなるようなディスクに出会った。アイルランドのバンド、ザ・ストライプスのファースト・アルバム「スナップショット」である。



 メンバー全員が90年代半ばから後半の生まれという、トンでもない若さ。ルックスも細身で頼りないのだが、出てくる音は骨太で正攻法のロックンロールだ。80年代初頭に台頭したパブ・ロックに通じるところもあるが、とにかくこの疾走感とヘヴィな手応えには瞠目させられる。若くて、パワフルで、カッコいい。テクニックも確かなものがある(特にギター)。

 奇しくもプロデューサーは「勝手にしやがれ!」と同じクリス・トーマスだ。録音も決して悪くは無い。珍しいことに収録曲の半数がカバー曲。思えばビートルズもローリング・ストーンズもデビュー当時のアルバムは既成曲のカバーが目立っていたことを考えると、それは欠点になっていない。それどころか新鮮だ。とにかくロック好きにとっては必聴盤だろう。

 若手グループをもうひとつ紹介したい。カリフォルニア出身の三人姉妹から成るハイムだ(ハイムは3人の名字である)。デビュー・アルバムの「デイズ・アー・ゴーン」は全米ベストテンに入るヒット。全英ではトップに立った。



 主にシンセサイザーをフィーチャーしたポップ・サウンドなのだが、びっくりするほど曲作りのセンスが良い。いかにも西海岸のバンドらしい明るく軽快なリズム運びで、80年代のポップスやR&B、ヒップホップといった要素を上手く取り入れ、メロディ・ラインも蠱惑的に仕上がっている。隅々まで練り上げられており、スキがない。

 ヴォーカルが意外にボーイッシュであるのも魅力で、切れ味のあるギターも含めて、明朗な中にもクールな響きが感じられるのも面白い。歌詞はけっこうシビアなところがあり、これも興味深い。また、かなりステージ・アクトは定評があるらしく、一度は生で観てみたいと思わせる。

 私はフュージョンという音楽にはあまり興味は無いのだが、珍しく買ってしまったのがニューヨーク州バッファロー出身のバンド、スパイロ・ジャイラのセカンド・アルバム「モーニング・ダンス」だ。理由は優秀録音として知られたこのディスクが、最近Blu-spec CD2という高音質ヴァージョンで再発されたからである。



 このアルバムが最初リリースされたのは79年で、趣味のオーディオが社会的に認知されていた頃でもあり、表題曲の「モーニング・ダンス」はオーディオ機器のデモ用として各ショップで鳴り響いていたことを思い出す。今回買い求めたCDでもそのセールスポイントは遺憾なく発揮されており、録音レベルは低いが、オーディオ的快感の大きいクリアな音像の取り出し方には端倪すべからざるものがある。その意味でも買って損は無い。

 また、アルバムを通して聴くと結構レベルの高い作品だということが分かる。どのナンバーもキャッチーで聴きやすく、なおかつヴァラエティに富んでいる。中にはプログレッシヴ・ロック的な展開を見せる曲もあり、BGMとして流すだけではなくシッカリと対峙して聴き込んでも満足出来る内容だ。なお、このグループは今も活動しているが、最近出たニューアルバムを試聴してみたところ、何の変哲も無い退屈なスムーズ・ジャズに成り果てていてガッカリした。やはり「モーニング・ダンス」を発売した頃が全盛期だったのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マラヴィータ」

2013-12-07 06:54:43 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MALAVITA)この頃あまりパッとしなかったリュック・ベッソン監督作にしては、けっこう楽しめる。ただしこれは、プロデュースを担当するマーティン・スコセッシが手綱を握ってストーリー面での迷走を抑えたことが大きいと思う。何しろ、スコセッシが製作に絡んだことに基因する小ネタも散見されるほどだ(笑)。

 フランスのノルマンディー地方の田舎町にアメリカ人のブレイク一家が引っ越してくる。この一家の主フレッドは元々ニューヨークを根城にしていたマフィアで、警察への密告によりボスが逮捕されたため、FBIの証人保護プログラムにより家族ともども“避難”を強いられている。お目付役としてFBIのスタッフも同行しているが、何せこの一家は揃いも揃って“口よりも先に手が出る”タイプ。行く先々でトラブルを引き起こし、この辺鄙な場所に流れ着いてきたのだ。

 フレッドがいい加減な仕事をしていた水道配管業者をボコボコにしたのを皮切りに、アメリカ人をバカにする現地民に怒った妻がスーパーマーケットを爆破し、長女は高校でナンパしようとしたチャラ男を半殺しの目に遭わせ、同じ学校に通う長男は学内で裏シンジケートを結成。その暴れっぷりが乾いたブラックユーモア仕立てでテンポよく描かれているため、残虐度ゼロの爽快さで見せきってしまう。またそれが、アメリカとフランスとのカルチャーギャップを下敷きにしているのも痛快だ。

 それでも何とか地元に溶け込もうとする一家の、涙ぐましい奮闘ぶりもおかしい。圧巻は、町の映画鑑賞会で「グッドフェローズ」が上映されるくだりだ。言わずと知れたスコセッシの代表作で、しかもアメリカ人として上映後のレクチャーを依頼されるフレッドに扮しているのがロバート・デ・ニーロというのだから笑える。

 フレッドは“自分の経験”を元にしたマフィアの生態を得々と披露して地元民から大喝采を浴びてしまうが、言うまでもなくこれはスコセッシ作品の“総括”を勝手にやっているセルフ・パロディである(爆)。

 やがて、ひょんなことから一家の所在を知った服役中のマフィアのボスが、殺し屋集団をノルマンディーに派遣。ブレイク家とのバトルに発展するが、このあたりの描写は意外と淡白だ。まあ、それより前に描きたいことは全部描ききってしまったので、終盤の活劇は“オマケ”に過ぎないのだろう。

 妻役のミシェル・ファイファー、一家を監視するFBI捜査官を演じるトミー・リー・ジョーンズ、共に好演かつ怪演。長女に扮するディアナ・アグロンが女子高生役だと、どうしてもTVシリーズ「glee」を思い出してしまうが、今回は歌と踊りのシーンはない(←当たり前だ)。なお、タイトルのマラヴィータとは、一家が飼っている犬の名前である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ピンポン」

2013-12-06 06:39:20 | 映画の感想(は行)
 2002年作品。神奈川県の高校の卓球部に所属する星野裕は腕は確かだが、自分の才能に自惚れており、クラブ活動にも身が入らない。そんな彼が思わぬ相手に苦杯を嘗めたことから、一念発起してインターハイ制覇に挑む。松本大洋による漫画の映画化。

 これが監督デビュー作となった曽利文彦はCGデジタル合成の分野で活躍してきた人物で、その資質は卓球の試合場面で最もよく活かされている。卓球といえば「フォレスト・ガンプ」を思い出す向きも多いだろうが、迫力においてこの作品は完全に上を行く。特にピンポン球が大きくドライブして高速で飛び交うシーンはスペースオペラ映画の空中戦のようで、思わず身を乗り出した。



 しかし肝心のドラマの方は、かなり素人臭い・・・・とまではいかないが、万全とは言い難いのは確か。何より窪塚洋介扮する主人公像が絵空事の域を出ておらず、彼が画面を飛び回れば飛び回るほどストーリーが宙に浮いてしまう。

 登場人物達が思い描く“子供の頃のヒーロー”というモチーフも、物語とほとんど結び付いていない割には頻繁に挿入されるし、竹中直人演じるコーチの“過去”を描く部分も取って付けたようだ。反面、ARATAやサム・リー、中村獅童、大倉孝二といったその他のキャラクターは比較的リアルに描かれており、その落差が映画全体を幾分バランスの悪いものにしている。

 映画のクライマックスは主人公と中村扮する“ドラゴン”との対決だが、作劇上での山場はARATA演じるライバルとの試合であるべきで、そこをネグレクトせざるを得なかったのは、そこまでのドラマ運びに誤謬があったとしか思えない。まあ、観て損はない映画ではあるんだけど。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本の悲劇」

2013-12-02 06:31:38 | 映画の感想(な行)

 脚本の詰めが甘い。確かに力のこもった映画ではあるのだが、ここに描かれるのは“悲劇のための悲劇”でしかなく、日常生活の中に潜む陥穽を暴き出すというような、真に観る者を慄然とさせる凄味は感じられない。惜しい出来だと思う。

 元大工で、今はガンで余命幾ばくもない不二男が無理矢理に退院して家に帰ってくる。付き添っているのは一人息子の義男だ。義男はリストラに遭い、一時期精神のバランスを崩したため現在も失職中。別居していた義男の妻子は、実家の気仙沼で震災に巻き込まれて行方不明である。不二男の妻も数年前に世を去り、結局この世に残されたのは父と子だけだ。収入は不二男の年金しかない。

 ある日、不二男は自室の戸を釘で打ち付けて中に閉じこもる。このまま飲まず食わずで“即身仏”になるのだという。義男は出てくるように説得するが、父は頑として受け付けない。暗い部屋の中で、不二男は家族が揃っていた頃を回想するのだった。

 この作品が2010年に足立区で実際に起きた年金不正受給事件を元にしていることを、映画を観た後で知った。なるほど、不二男の行為は自身の死後も義男に年金を渡すためだったのだ。しかし、劇中ではそれは明示されていない。だから観る側としては不二男の行動は腑に落ちないのだ。だいたい、末期ガンの患者がそんなに簡単に退院出来るものなのだろうか。

 いくら失業中であろうと、たとえ親が要介護であろうと、外部にSOSを発信する手段はいくらでもある。たとえば、義男は生活保護の申請ぐらい出来るはずだ。さらに言えば、旦那が職を失えば、取り敢えず妻が生活を支えようとするのではないか。いくら小さい子供を抱えていても、働くことは不可能ではない。しかし、義男の妻はそんな素振りも見せずに実家に帰ってしまう。

 もちろん、実際には誰にも助けを呼べず、そのまま孤独に最期を迎えてしまった者もけっこう存在するし、そんなケースは今後も増えるのかもしれない。けれども、そういう人達には切迫した“事情”があるはずだ。映画で描くべきはその“事情”の方ではなかったか。そこをスッ飛ばして現象面での悲劇の連鎖だけを見せつけられても、それはある意味で御都合主義だろう。

 小林政広の演出は粘り強く、固定カメラで描くモノクロの画面は迫力がある。絶妙な音響効果も忘れがたい。また、不二男役の仲代達矢をはじめ義男に扮する北村一輝、寺島しのぶ、大森暁美と4人しかいないキャストそれぞれが熱演である。特に北村のモノローグには心を動かされた。ただ、斯様に物語の根本的な部分が練り上げられていないため、全体的に空回りしている印象を受ける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「唐獅子株式会社」

2013-12-01 08:17:41 | 映画の感想(か行)
 83年東映作品。小林信彦による原作はとても面白いのだが、この映画化作品はとことんダメである。その敗因は明らかで、製作に“吉本興業人脈”が荷担しているからだ。

 外観は強面の極道連中だけど、やることなすことオフビートであるという、そのギャップで笑わせてくれた原作に対し、本作は見た目がすでに“(吉本流)お笑い”の世界に足を突っ込んでいるのが痛い。この御膳立てでさらにギャグをかましてみても、単なる芸人のネタ披露にしかならず、映画的興趣とは懸け離れるばかりだ。

 三年ぶりに刑務所から出所したダーク荒巻が組に戻ってみると、そこには「唐獅子通信社」の見慣れない看板が掲げられていた。伊達酔狂な親分の気まぐれにより“ヤクザも時代に追いつかなければならない”というスローガンの元、組は会社組織に変貌し、新規事業開拓に乗り出していたのだ。荒巻はいつの間にか兄貴分の哲と共に芸能マネージメント業務を請け負わされ、新人女性歌手の世話役に任命されてしまう。

 原作での荒巻は単なるコメディ・リリーフであり、中心人物は親分の無茶な命令に四苦八苦する哲の方だった。ところが、映画では主人公は荒巻である。これは無論、荒巻が哲よりも“吉本的キャラクター”であるからに他ならない。しかも、演じているのが横山やすし。これではどう転んでも吉本新喜劇の亜流にしかならない。

 こういう観客から足元を見られているような企画であるためか、曾根中生の演出にもキレが無い。脚本に内藤誠と桂千穂という手練れを配しているにもかかわらず、一向に盛り上がるところが無い。しかも、脇に島田紳助や明石家さんま等が控えており、映画全体の軽薄短小さは倍加する一方である。伊東四朗や丹波哲郎は頑張っていたが、それだけでは評価出来ないだろう。

 唯一印象に残ったのは、雨の中で横山と甲斐智枝美と桑名正博が踊りまくるシークエンスだ。言うまでも無くこの3人は若くして世を去っており、それを考えると、今見れば何やら切なさがこみあげてくる。なお、公開当時はこの場面を“和製フラッシュ・ダンス”と評した評論家もいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする