元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「牡丹燈籠」

2017-08-19 06:51:38 | 映画の感想(は行)
 68年大映作品。福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映“怪談映画の夜”にて鑑賞。結論から言えば、大して面白くは無かった。全然怖くないし、それどころか笑ってしまうような場面も散見される。ただし、山本薩夫という日本映画史上にその名を残す映像作家もこういう映画を撮っていたのかという、そんな事実に対しては興味を覚える。

 旗本の三男坊新三郎は、急逝した兄に代わって家督を継げという親族からのプレッシャーを嫌い、下町の長屋に住み地元の子供達に読み書きを教えるという生活を送っている。盆の十六日、燈籠流しの夜に彼は吉原の遊女お露とその下女のお米と知り合う。武士の娘でありながら吉原に売られたお露の不幸な身の上に同情した新三郎は、盆の間だけでもお露と祝言の真似事をして一緒に過ごすことを決める。

 ところがこの一件を覗き見ていた同じ長屋に住む伴蔵は、お露の裾が消えているのに仰天する。何とお露とお米はすでに自害しており、新三郎の前に現れたのは幽霊だったのだ。お露との逢瀬を続けるうちに新三郎は衰弱していき、このままでは死を待つばかり。伴蔵から様子を聞いた白翁堂は、寺の住職の協力を仰ぎ、新三郎を魔除けの御札を貼ったお堂に盆の間閉じ込めることにする。三遊亭圓朝による落語の怪談噺の映画化だ。

 幽霊には足が無いというのが“定説”で、本作のお露とお米もそういうエクステリアを伴って現れることもあるのだが、なぜかカランコロンと下駄の音が聞こえてくるのは不可解だ。また、新三郎も身の危険を察知したのならば、まずは遠くに逃げることを考えるべきだと思うのだが、そうしないのはオカシイと思う。

 お露とお米が“正体”を現して空中を飛び回るシーン等は、当時としてはインパクトがあったのだろうが、今観ると稚拙で“時代”を感じるばかり。終盤の展開はポピュラーな怪談である「吉備津の釜」と一緒であり、ストーリー面での興趣は乏しい。

 新三郎役の本郷功次郎、お露に扮する赤座美代子、いずれも呆れるほどのオーバーアクト。小川真由美や西村晃、志村喬といった脇の面々は悪くないのだが、主役2人のパフォーマンスがこの有り様なので割を食っている。

 怪談映画は古くから作られていたが、70年代前半あたりから数を大幅に減らしている。丁度ヤクザ映画が古式ゆかしい任侠物から実録路線に転じた時期でもあり、昔ながらの怪談物も飽きられたのだろう。現時点でオールドファッションの怪談物を“復活”させようとすれば、様式美を追求したアート系ぐらいしか方法が無いと思われる。

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