ドキュメンタリー映画としてはかなりの力作であることは分かるが、どこか釈然としないものを感じる。たぶんそれは、重要なことが描かれていないからだろう。もちろんドキュメンタリーとはいえ作者が伝えたいテーマは存在しており、フィクショナルなテイストの介在は避けられない。そこを扱う題材とどう折り合いを付けるかが、作品の成否の要素になる。本作の場合、そのあたりがどうも微妙なのだ。
1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が行方不明となり、同県甘木市(現・朝倉市)の山中で他殺体となって発見されるという、いわゆる飯塚事件が起きる。94年に犯人として逮捕されたのは、被害者と同じ校区に住む久間三千年だ。久間は2006年に死刑判決が確定し、2008年に刑が執行される。しかし、執行の翌年に冤罪を訴える再審が福岡地裁に請求された。2022にNHK-BSで放送され高評価を得た「正義の行方 飯塚事件30年後の迷宮」を、劇場版として再編集したものだ。
映画はこの事件に関わった弁護士や警察官、新聞記者がそれぞれの立場から語る内容を淡々と綴る。面白いのは、本作にはナレーションが存在しないことだ。観る者を(少なくとも表面上は)なるべくミスリードしないようにする配慮かと思うが、ハードな雰囲気を作品に付与して観る者を引き付けることに貢献していると思う。
とはいえ作者のスタンスはハッキリしており、死刑判決が出てから執行までが早かったこと、及び当時のDNA鑑定の信用性が万全ではなかったことを引き合いに出し、冤罪の可能性を指摘していく内容になっている。つまりは警察当局と司法、検察の体制の不備を突こうとしているのだ。また、目撃者の証言が全面的に信用出来るものではないらしいことも匂わせる。
しかし、映画は大事なポイントを見逃している。それは、どうして久間が警察の第一のターゲットに成り得たのかということだ。いくら警察でも、純然たる一般人を突然マークはしない。それなりの背景があるはずだ。にも関わらず映画はそのことについて言及していない。そして、捜査当時の警察庁長官は国松孝次だ。国松といえば“あの事件”を思い出す向きも多いだろうが、映画は少しも触れていない。もちろん飯塚事件とは直接の関係は無いだろうが、取り上げることにより映画に厚みを与えると思われる。監督の木寺一孝はどうしてそうしなかったのか、疑問の残るところだ。
なお、2024年6月5日に福岡地裁は再審を認めない決定を下した。まあ当然のことかと思う。もしも本件に関して再審が認められると、司法制度の根幹が揺らぐような大騒ぎになる。裁判所側としても受け入れるわけにはいかない。だが、真相がすべて明らかになっていないような隔靴掻痒感は残る。この状態は決定的な新証拠が出てこない限り、今後もずっと続くのだろう。