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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

勝手に選んだ2006年映画ベストテン

2007-01-30 06:59:45 | 映画周辺のネタ

 ちょっと遅くなったけど、2006年度の映画ベストテンを自分なりに選んでみた。まずは外国映画の部。

第一位 プロークバック・マウンテン
第二位 ミュンヘン
第三位 プライドと偏見
第四位 グッドナイト&グッドラック
第五位 サラバンド
第六位 父親たちの星条旗
第七位 シリアナ
第八位 めぐみ 引き裂かれた家族の30年
第九位 隠された記憶
第十位 プロテューサーズ

 そして、日本映画の部。

第一位 鉄コン筋クリート
第二位 武士の一分(いちぶん)
第三位 ゆれる
第四位 ラブ★コン
第五位 紙屋悦子の青春
第六位 時をかける少女
第七位 博士の愛した数式
第八位 青春☆金属バット
第九位 フラガール
第十位 雪に願うこと

 2006年は外国映画、特にアメリカ映画の頑張りに目を見張らされた。逼迫した世情に敏感に反応するかのように次から次へと問題作を発表。前代未聞の“厳しい映画のオンパレード”になった。しかも、そういう作品をスピルバーグをはじめとする有名監督がこぞって手掛け、内容面の評価だけではなく決して低くはない興行的価値さえも生み出している。ハリウッド映画が世界的に幅広く観られているのは、何も脳天気な金満大作のおかげだけではなく、“やる時はやる”という硬派なマインドも併せ持っているからではないかと思い至った一年であった。

 対して日本映画はだらしない。格差社会問題はもちろん、拉致問題や硫黄島の攻防戦や、果ては昭和天皇でさえもまんまと外国人に持って行かれた。ではスクリーンに主に掛かっているものは何かというと、これがノスタルジアや“純愛もの”におんぶにだっこの、毒にも薬にもならない“お涙頂戴劇”か、テレビ局とのタイアップ等の安易な企画ばかり。

 その理由は、たぶん日本の観客のレベルが低いからだろう・・・・と書けば身も蓋もなく、ならば諸外国の映画の観客はどれほど程度が高いのかと聞かれれば答えに窮するが、日本の場合はその“観客のレベルの低い部分”に完全におもねっている興行側の姿勢がある。特にテレビ局の“下請け”に成り果てている映画会社に「グッドナイト&グッドラック」みたいな映画が作れるはずもない。あちこちのサイトで“邦画バブル”なる用語を目にするが、バブルである限りいつかは必ずはじけるはずだが、興行側は目先のことしか考えない。まあ、この“目先のことばかりにこだわる”というのは映画界に限らず今の経済界全体に言えることである。形ばかりの隆盛・見かけだけの好景気は、行き詰まるのも早い。今年あたりからその“ツケ”が回ってくるのではないかな。
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映画が盗まれている・・・・

2006-11-24 06:43:51 | 映画周辺のネタ
 ここ数年、映画館で本編に入る前に、よく流れる「CM」がある。そう、黒い涙を流す谷村美月の顔がアップになり「映画が盗まれている・・・感動も盗まれている・・・私は観ない。私は買わない」とナレーションが流れるアレである。

 確かに、著作権無視の海賊版の横行は許されない。しかし・・・・その「海賊版はイケマセン」という御題目を、わざわざ映画館に金払って観に来ている客に向かって主張して、いったい何になるんだろうか。コソコソと違法コピーを集めているような輩は、映画館なんかにまず行かないだろう。

 通常、問題解決の手段としては、最も大きい原因から潰してゆくのが筋である。ところが、どう考えても、あの「CM」を映画館で流すこと自体に、一番大きい「原因」に迫るという意味などありゃしない。「興行界もちゃんと考えていますよ」という自己PRにしかならない。問題解決という観点から見れば屁の突っ張りにもならないことを、得々としてやっている。・・・・なんてことを書くと「出来ることから始めているだけだ。それのどこが悪い」という反論が返ってくるだろうが、問題はその微少な効果しかあげられないことを「出来ることから始める」というスローガンで誤魔化していることだ。

 海賊版を大量に流通させているのはどういう連中か。そして、その元締めになっている「国」はどこなのか。あの「CM」はそんな奴らに向けて発信すべきだ。それが無理なら、テレビのゴールデンタイムで流すべきだろう。カネを払っている「優良顧客」の我々には関係ない話だ。

 この「微細なことをやって自己満足している」という構図は、このことに限らない。最近叫ばれている「地球環境を考えて、出来ることから初めてどうのこうの」というキャンペーンなど、その最たるものだ。地球環境を汚している一番の原因は我々か? そうじゃないだろ。ゴミの削減とか無駄遣いの低減とか、そういう「マナー」に収斂されるような事物にわざわざ「地球環境保護」というレッテルを貼っているだけだ。だいたい酸性雨の元凶も水質汚濁の大御所も、「あの国」ではないか。「あの国」に対して「地球環境を守れ!」と迫る方が先ではないのか。

 ・・・・話がそれた(爆 ^^;)。とにかく、自己満足の御為ごかしのCMなど、いい加減やめて欲しいってのが本音だ。そうでなくても上映前のCMの多さに辟易している昨今である。
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相互リンクを張りました。

2006-05-13 09:08:21 | 映画周辺のネタ
 映画ファンのサイト「Woops! 福岡シネマ王国」と相互リンクを張りました。

 ここの管理人氏とはオフラインでも面識があり、かつてはここの常連が中心となって“オフ会の嵐”(謎 ^^;)が巻き起こったものでした。そういえば“鑑賞ツアー”なんぞも多々企画されていたなァ・・・・(しみじみ)。

 もしも読者諸氏諸嬢の中でこのサイトを御存知でない人がいれば、ぜひ一度アクセスしてみてください。
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韓国映画なんて、もう沢山。

2006-04-18 06:38:51 | 映画周辺のネタ
 すでに“韓流ブーム”は下火になりつつあるようだが、本日はその韓国映画について書いてみよう。最初に断っておくが、私は「韓国映画だから、その時点でダメだ」とか「この演出家はサヨク(orウヨク)だから最初から否定する」とかいった、偏狭な態度とは無縁でありたいと思っている。作った奴がどこの国の者だろうが、出ている俳優がどんな「くされ外道」だろうが、演出家の私生活がズタボロだろうが、出来た作品が面白ければそれでオッケー。反対に、いくら作者が品行方正な野郎でも、作った映画がカスなら完全否定するのみである。

 韓国映画にも確実に良い作品がある。巨匠イム・グォンテグ監督の傑作「風の丘を越えて/西便制」や「春香伝」は一見の価値はあるし、朝鮮戦争の実像をニュートラルな視点で描いた同監督の「太白山脈」は歴史好きには必見といえる。イ・チャンドン監督の「ペパーミント・キャンディー」は痛切きわまりない秀作で、ホン・サンス監督「豚が井戸に落ちた日」もシビアな快作。我が国でもリメイクされたホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」は、誰にでも勧められる恋愛映画の佳篇である。

 しかし、上にあげた作品は、すべて国際映画祭などでインターナショナルな評価が「確定」している。良質な外国映画として、どこの国でも公開されてしかるべきだと思う。だが、韓流ブームが巻き起こってからの日本の劇場(特にミニシアター)でスクリーンを占拠していた韓国映画の数々は、大部分が低劣なシロモノばかり(まあ、全部は観てはいないけど ^^;)。クサい設定と泥臭い展開とご都合主義的な結末、もはや香港映画でさえ恥ずかしくて作らないような三文芝居を得意満面で製作して、それが本国ではヒットしているらしい。問題はどうしてその「この程度」のシャシンを我が国が多数輸入・配給しなければならなかったのか・・・・ということだ。

 単純に考えれば、そんな「低劣韓国映画」を観て喜んでしまう日本の観客が大勢いることが原因だろう。憂国系の掲示板などでは、よく“韓流ブームに踊っているのは在日のオバチャンだけ!”なんてフレーズを見かけたが、在日の人たちだけではあんなブームにはならない。“韓流ブームなんて存在しない。オレの周りでは見かけない”と決めつけるのも早計。ちなみに私の周囲でも韓流スターにハマっている女性(在日ではない)はけっこういた。“韓国映画特集上映”みたいなイベントがあると、劇場内は満員電車みたいな大混雑になることも珍しくない。韓流ブームに踊っていたのは、やっぱり“日本のオバチャン”であるのも事実だろう。そんな層が存在するから、有象無象の韓国映画も輸入されてしまう。

 ではどうして「この程度」のシャシンに日本のオバチャンはハマるのか。それはズバリ“韓流スター”である。つまりは、出ている俳優の存在感だけでくだらない内容の映画を2時間保たせてしまう、そんな“スター万能主義”みたいなスタイルを恥ずかしげもなく前面に出していること、これがオバチャン達にはたまらない。逆に言えば、俳優にスター性がなければ箸にも棒にもかからない。

 韓国の俳優には“スター性”があること・・・・は事実である。オバチャン達からキャーキャー言われている男優はもとより、女優のレベルは(整形云々を差し引いても)昔からかなり高い。でも、そんな“スターにおんぶに抱っこ”の状態で映画を量産するのは、世界的に見て古色蒼然としたスタイルであることは論を待たない。

 “スターが出てくる古臭い三文ドラマ”でしかないほとんどの韓国作品に我が国のオバチャン達が過剰反応してしまったのは、日本の映画界がスターの育成を怠り、下世話な観客を惹きつけておくことに失敗し、まんまと韓国映画ごときに話題を持って行かれたからだと思う。日本映画は質的には世界有数だが、万人を魅了する映画スター(特に若手)はいなくなってしまった。今からでも遅くはない。韓流スターに負けない人材を探して育てるべきである。

 それと、日本も国家が映画産業を助成した方が良いと思う。韓国は国家が補助金出して学費無料の国立映画学校まで作って、やっと「あの程度」だ。対して日本は現状でもレベルが高い。国家がカネ出せばもっと優秀な人材が集まる。そうなれば多くの韓国映画は“忘却の彼方”になってしまうことだろう。

 いずれにしろ、この“韓国映画ブーム”は完全に終わって欲しいものだ。韓国からは昔のように“本当に見応えのある映画”だけを少数輸入するだけで結構。韓国作品が必要上に幅を利かせると、ヨーロッパ映画や韓国以外のアジア映画やマイナーな邦画などの公開の場が少なくなる。映画ファンとしては面白くないからね。
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次世代DVDの、気勢の上がらない船出。

2006-04-06 18:57:20 | 映画周辺のネタ
 佐々部清監督の「陽はまた昇る」は、VHSフォーマットを開発した日本ビクター従業員の活躍を描いた実録映画で、泥臭いながらも正攻法の演出により観る者に感銘を与えた。ただしこの件を消費者サイドから見れば、果たして“ビクターの技術陣は立派だった”と片づけて良いものか。

 何でも、VHSが出る前は家庭用VTRの仕様はベータで一本化される見通しだったらしい(よく知らんけど ^^;)。映画の中でもベータに執心する当時の通産官僚とビクター幹部の“対決”がハイライトになっていたが、考えてみれば通産省の“一本化すべし”という主張に限っては正当性があったと思う。VHSフォーマットが世に出たおかげで、市場にはまったく互換性のない二つの仕様の機器とソフトが並ぶことになり、やがて“市場原理”によってVHSに軍配が上がるまで、ベータを選んだ少なくない数の消費者はバカを見ることになった。まあ、出始めのベータが長時間録画や機器のコンパクト化の面でVHSに後れを取っていたことは確からしいが、通産省はそこで両者に歩み寄らせて一本化させるという方法を探るべきではなかったのか。いずれにしろ、供給側の勝手な都合により消費者が振り回される事態だけは避けねばならなかっただろう。

 さて、去る3月31日に、東芝がHD-DVDのプレーヤーを発表した。一方の仕様であるブルーレイを見据えての見切り発車的なリリースだが、HD-DVD方式のソフトは一枚も発売されておらず、今後発売日が確定しているソフトも10タイトルに満たないという。発表会の席上では東芝の幹部はブルーレイ陣営への敵意をあらわすばかりで、消費者に対する“これからの映像文化と生活”みたいな前向きの提案は一切なかったらしい。

 たぶん今年末には国内向けのブルーレイ方式のプレーヤーも発売されるはず。その時にもやっぱり対HD-DVDへの牽制に終始してしまうのだろう。結果、VTRと同じくまったく互換性のない方式が二つ同時に世に出ることになり、混乱するのは消費者の側だ。

 別に、二つ以上のフォーマットが同時に市場に出ること自体は珍しくもない。次世代音楽ディスクではSACDとDVDオーディオが併走しているし、DVDが出る前のLDの黎明期にはVHDというもう一つの方式が存在していた。しかし、いまだマニア向け商品でしかない次世代音楽ディスクや、性能が違いすぎたLDとVHDの世界とは今回の件は違う。確かな需要が見込めるハイビジョン用ディスクのマーケットで、おそらくはスペックにあまり差のない二つの方式が、メーカーの都合で勝手に覇を競ってもらっては消費者としては困るのだ。

 こんな状態を見るにつけ、日本の大企業ってのは目先のことしか考えなくなったのだなあと、つくづく思う。互換性のない複数のフォーマットが同時発進すれば、ユーザー側は買い控える。家庭用ビデオが普及していなかった80年代半ばまでは、VHSだろうとベータだろうとVTRそのものに対する需要は大いにあった。しかし従来型DVDがこれだけ普及している現在、ここでハイビジョン用を売ろうという段になって“自分の買った方式は、いずれ消え去るかもしれない”という疑念を消費者に与えてしまっては、中長期的にはマイナスだ。プレーヤーだけでなく、DLPプロジェクターやAVアンプといった関連機器の売れ行きにも悪影響を与える。

 まあ、すでに二つの方式が出てしまったのだから、今更“統一方式を!”と言っても仕方がない。今後は、できるだけ早い時期に互換性を考慮した解決策を打ち出すことだ。たとえばHD-DVDだろうがブルーレイだろうが、ディスクを入れさえすればプレーヤー側で勝手に判別して正常に再生できるような、そういう簡便なユーザー・インターフェースを確立するメーカーこそが真の“勝ち組”と呼べるだろう。どっかのサイトで見たが、すでに韓国LG社が互換性をクリアしたプレーヤーの発売を見込んでいるとか。その点で日本のメーカーは“負け組”にならないように精進してもらいたい。
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映画検定って何よ(笑)。

2006-02-01 07:02:10 | 映画周辺のネタ
 キネマ旬報社は今年4月に「映画検定」なる試験を実施するらしい。

(該当HPより概要引用)
「映画検定」は“もっと映画を知ることで、もっと映画を楽しもう”というテーマのもと、周囲の人達に映画の楽しさ、面白さを伝えられるような方々が増えることを願って実施するものである。また、映画を生涯学習のテーマにする方々が増えており、それに対応していきたいという背景もある。
(引用終了)

 で、その検定内容というのは・・・・
・映画検定3級(映画の歴史・作品などについて基礎的な知識レベルを持っている)
・映画検定2級(映画の歴史・作品などについてやや高度な知識レベルを持っている)
・映画検定1級(映画の歴史・作品などについて高度な知識レベルを持っており、映画の魅力を自分の言葉で語ることができる)
・・・・というもので、当初行われるのは2級と3級の試験。1級は2級合格者のみを対象とした論述式だという。

 最近「ナントカ検定」って流行ですな。「○○観光検定」とか「おたく検定」とかいうのもあったか(笑)。合格しても屁の役にも立たず、逆に変人と思われる可能性大の「企画」ではある。こんなの受ける奴は一般ピープルにはあまりいないと思うが、映画関係の文章書いてゼニ貰っている連中に強制的に受けさせたら面白いと思う。たぶん3級も合格しない自称「映画ライター」がゾロゾロ出てくるはず・・・・。
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井筒和幸、嫌い

2006-01-18 06:43:17 | 映画周辺のネタ
 本日は映画監督の中でもやたらマスコミでの露出が多い井筒和幸について書きましょう。まず、某週刊誌での映画「電車男」に対する彼のコメントを抜粋引用します。

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思い切り気持ちワルい話が映画化されるという。あの「電車男」という薄気味悪い本。実ははっきりとは知らんし、知りたくもないんやけど、ウワサでは相当に気色悪い代物だと聞いた。電車の中で接した女に悶々としたまま、自分から女には何ひとつできないオタクが、病人の巣窟のようなネット掲示板という、タンツボの世界で、ネットバカとその女についてやり取りをする変態本やと。(中略)それは痴漢やストーカーと変わりない行為。犯罪の一歩手前(以下略)。
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 言うまでもなく、映画「電車男」は「自分から女には何ひとつできない野郎」の話ではないし、「ネット掲示板で、ネットワーカー達とその女についてやり取りをする」だけの話でもない。ましてや「主人公が犯罪一歩手前の行為に及ぶシーン」など、どこにも出てこない。「はっきりとは知らんし、知りたくもない」対象を、よくもまあ自分の当て推量だけで論難できるものだ。井筒の硬直した思考パターンといい加減な態度が窺えます。

 次に紹介するのは、テレ朝系「スーパーモーニング」で、司会者がいかりや長介の死去について井筒にコメントを求めた場面。

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ドリフとか、役者のいかりやさんとか(わーわー大騒ぎして)いいますけど、わたしは「てなもんや三度笠」で育ったもんですから、(コメントを求められても)よくわからないですねー。役者としても、全くわからないんで、別に 悲しくもないですけどね。
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 スタジオの空気が一瞬にして凍り付いたらしいが、当然だ。場の雰囲気を読めない独善的な態度と言うしかない。たとえ自分がいかりや長介に興味がなくても、大人だったら追悼の言葉ぐらいは添えるべきだ。

 映画「パッチギ!」に関してのサヨク的発言も鬱陶しい。何でも彼は大学時代に教職課程を取っていたらしいが、つくづくこんなのが教師にならなくて良かったと思う。

 でも、映画作家にとっては「作品」がすべてです。いくら無礼な野郎だろうと、頭の中が左巻きだろうと、撮った映画が素晴らしければ何も言いません。しかし井筒の場合はどうか・・・・。

 私は彼の映画を全て観ているわけではありません。見たのは「晴れ、ときどき殺人」「みゆき」「二代目はクリスチャン」「(金)(ビ)の金魂巻」「岸和田少年愚連隊」「のど自慢」そして「パッチギ!」の計7本です。ところが、良い映画なんて一本もないですな。少なくとも、私は彼の監督としての力量を評価できない。問題は、どうしてこんな者があたかも「映画作家の代表」みたいな顔をして各マスコミに出まくっているのか・・・・ということです。

 彼は映画監督にしては口数が多く、被写体(or取材対象)として面白いからマスコミが取り上げるのだとは思います。でも、たったそれだけの理由で「映画作家の代表」みたいに振る舞わせて良いものか・・・・。たぶんこれはマスコミが「映画」(つまりは、日本映画)をバカにしているからでしょう。井筒と一緒にテレビに出ている番組のパーソナリティの中に、たぶん井筒の映画を丹念に観ている奴なんてほとんどいないだろう。もしも「観ていた」のなら、井筒の監督のとしての実力が大したことないことが分かるので、誰もマジメに相手しないはずですからね。

 以前、映画なんて20年以上も撮ったことがない山本晋也を「カントク」呼ばわりしていたのと一緒。本業がどうなのかはマスコミは知ったことではないし、また知ろうともしない。ただ見た目が面白ければそれでヨシ・・・・こんな姿勢が自国の文化たる日本映画を貶めることになるのです。
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