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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「シネ・リーブル博多駅」が閉館。

2011-05-20 06:36:12 | 映画周辺のネタ

 去る5月13日、福岡市博多区にあるミニシアター「シネ・リーブル博多駅」が閉館した。同館は99年にオープン。東京テアトル系列の小規模映画館として、大きな映画館では公開されにくい単館系の作品を手掛けてきた。80席と57席の二つのスクリーンを持ち、観客動員の実績は年間約6万人。ここ数年も黒字経営だったが「将来の収益見通しを考慮し、賃貸契約の更新期を迎えたのを機に閉館を決めた」(関係者談)とのことらしい。

 福岡市では近年「シネテリエ天神」や「シネサロン・パヴェリア」といったミニシアターが相次いで無くなっている。残っているのは天神地区の「KBCシネマ」だけになった。単館系作品をコンスタントに上映している映画館としては他に天神地区の「ソラリアシネマ」があるが、ここは元々東宝系の封切館であり、単館系作品の集客力に比べて劇場規模が大きすぎる。入居しているソラリアプラザビルが入場客数を減らしていることもあり、いつまで存続出来るか分からない。

 ただし、映画ファンとしては観たい作品が上映されればオッケーなのであって、それがミニシアターじゃないとダメだということはないのである。正直言って、今回閉館した「シネ・リーブル博多駅」は場内の環境は良くなかった。極端に小さなスクリーンに高低差のあまりないフロア。一番前の真ん中の席じゃないと真に満足出来る鑑賞が出来ないというのは感心しなかった。しかもロケーションが騒音の大きいゲームセンターの中で、映画館内にトイレもない(ゲームセンターと共用)というのは、観客にとって不都合だ。

 これは前に閉館した「シネテリエ天神」も似たようなもので、飲屋街の中という立地といい、狭い場内スペースといい、どう考えても積極的に足を運びたい劇場ではなかった。「シネサロン・パヴェリア」に至っては市の中心地から遠く離れていて、行くのに一日仕事だったことを思い出す。要するに閉館した映画館は、顧客マーケティングの面から言えば“淘汰されて当たり前”だったのだ。良い映画をやっているから客も来るはずだ・・・・という姿勢は、この不況下では通用しない。

 最近では首都圏においてもミニシアターは苦戦を強いられ、映画館といえばシネマ・コンプレックスの形態が主流になってきたという。これも、シネコンの方がビジネスモデルとして優れていたというだけの話だろう。従来型の映画館が姿を消すことに対して、ことさらに異を唱える必要性もない。

 さて、「シネ・リーブル博多駅」で上映していたタイプの映画は、今後どこで公開しくれるのか。たぶんある程度はシネコンが引き継ぐだろう。具体的には、キャナルシティ博多にあるユナイテッドシネマだと思う。以前より単館系作品を何回か手掛けたことがあったが、新しい博多駅ビルに出来たシネコン「T・ジョイ博多」との差別化を図るために、独自色を出してくるはずだ。単館系作品の公開はその戦略の一つになる。

 だが、いくら何でも「シネ・リーブル博多駅」でのレイトショー作品のような極端にマニアックな映画は、シネコンではやってくれないだろう。総体的に福岡市内での単館系作品の上映本数は減ると思われる。これも時代の流れといえば仕方がないのかもしれない。

 今思い出したが、実は東京テアトル系列の劇場は「シネ・リーブル博多駅」だけではなかったのだ。博多区中洲に「シネリーブル博多」という映画館があった。元は日活系の成人映画館だったが、ミニシアターとして98年に再出発。意欲的な作品展開を見せていた。ところが途中で経営母体が変わったらしく、単なる二番館に成り下がり、2000年にはあえなく閉館。わずか2年弱の命に終わったが、それはいかがわしい(?)歓楽街の真ん中という立地も関係していたのだろう。改めて、ロケーションの重要さを痛感する。
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勝手に選んだ2010年映画ベストテン。

2010-12-28 06:32:35 | 映画周辺のネタ
 2010年も終盤になり、まことに勝手ながらここで2010年の個人的な映画ベストテンを発表したいと思う(^^;)。



日本映画の部

第一位 おとうと
第二位 川の底からこんにちは
第三位 オカンの嫁入り
第四位 キャタピラー
第五位 告白
第六位 ケンタとジュンとカヨちゃんの国
第七位 おにいちゃんのハナビ
第八位 海炭市叙景
第九位 書道ガールズ!! わたしたちの甲子園
第十位 REDLINE



外国映画の部

第一位 瞳の奥の秘密
第二位 パリ20区、僕たちのクラス
第三位 第9地区
第四位 キャピタリズム マネーは踊る
第五位 マイレージ、マイライフ
第六位 (500)日のサマー
第七位 ハート・ロッカー
第八位 オーケストラ!
第九位 息もできない
第十位 フローズン・リバー

 邦画の傾向で印象的だったのが、疲弊する地方経済や惨めで寂しい庶民、特に不遇な若者を扱ったものが目立つこと。若いのに将来に何の希望も持てず、その日その日を乗り切るのに精一杯で、向上心なんかどこかに置いてきたような感じだ。後ろ向きで閉塞感が立ちこめる社会情勢を、ようやく映画も反映させるようになってきたことは納得出来る。政府はこんな状況に対して何の手も打っていないようであるし、おそらく今後も暗くて苦い青春群像がスクリーン上で映し出されることだろう。

 対して、取って付けたような時代劇の乱造には呆れるばかり。数年前からの団塊世代のリタイアに伴い、映画会社がシニア層の顧客の掘り起こしに取り掛かったことは分かるが、どれもこれも話にならない出来だ。どうせこの世代には、映画館に通い詰めて本格的な作品に接してきた者はそれほど多くはない。大半がお茶の間でテレビの時代劇を楽しんできたクチである。だからテレビ的なチマチマとした画面をスクリーンで見せられても、観る側の多くは何の違和感も覚えないのだろう。

 就職難やリストラで悩んでいる現役世代と、小金を貯め込んで“我関せず”とばかりに自分のことしか考えない団塊世代。映画作りの面でも、この憂鬱な“二重構造”はこれからも続いていくのかもしれない。

 なお、以下の通り各賞も選んでみた。まずは邦画の部。

監督:山田洋次(おとうと)
脚本:呉美保(オカンの嫁入り)
主演男優:浅野忠信(酔いがさめたら、うちに帰ろう。)
主演女優:寺島しのぶ(キャタピラー)
音楽:富田勲(おとうと)
撮影:リー・ビンビン(ノルウェイの森)
新人:錦戸亮(ちょんまげぷりん)、水原希子(ノルウェイの森)、石井裕也監督(川の底からこんにちは)

 次は洋画の部。

監督:ファン・ホゼ・カンパネッラ(瞳の奥の秘密)
脚本:ニール・ブロムカンプ、テリー・タッチェル(第9地区)
主演男優:ジェフ・ブリッジス(クレイジー・ハート)
主演女優:ヨランド・モロー(セラフィーヌの庭)
音楽:ハンス・ジマー(インセプション)
撮影:フェリックス・モンティ(瞳の奥の秘密)
新人:アナ・ケンドリック(マイレージ、マイライフ)、クリスティーナ・アギレラ(バーレスク)、ダンカン・ジョーンズ監督(月に囚われた男)、ニール・ブロムカンプ監督(第9地区)

 ついでに、ワーストテンも選んでみる(笑)。

邦画ワースト

1.悪人
2.ソラニン
 以上2本は世相を映し出したような2010年のトレンドである“ダメな若者”を描いているが、ベストテンに入れた作品群に比べると描き方が甘い。問題意識の欠如であろう。
3.ロストクライム 閃光
4.行きずりの街
5.桜田門外ノ変
 質的にほとんど全滅状態の時代劇を、この映画に代表させてもらった。“上から目線”の作劇と安っぽい画面。観ていて萎えるばかり。
6.人間失格
7.さらば愛しの大統領
8.孤高のメス
9.借りぐらしのアリエッティ
10.ゴールデンスランバー

洋画ワースト

1.しあわせの隠れ場所
 別に本作が特別に出来が悪いというわけではない。単なる“凡作”だが、この程度の演技で大賞をもらえた主演女優に対しては、愉快ならざる気分を抱いてしまう。
2.NINE
3.ゾンビランド
4.ソルト
5.プレシャス
6.ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い
 いかに苦労して公開にこぎつけたかを前面に出すような宣伝は、どうして今まで公開されなかったのかをも考慮して、実施に移すかどうかを考えるべきだろう。
7.アンナと過ごした4日間
8.カティンの森
9.戦場でワルツを
 いずれも、作家性の押し付けが鬱陶しい。
10.マチェーテ
 おちゃらけ映画を撮るときは、手加減は無用。それが徹底していないから、ワーストに入ってしまうのだ(爆)。

 さて、2010年における“企画賞”は、何といっても東宝系の劇場で実施した「午前十時の映画祭」である。要するに有名な映画のリバイバル特集なのだが、スクリーンで観たことのない層や、若い頃に接したけどもう一度観たいと思っているオールドファンを集めてなかなか盛況だったようだ。

 原則として朝一番のみの公開。そして週替わりで番組が変わっていくあたりも、マーケティング面でよく考えられていた。まるで昔の名画座の雰囲気だ。

 やはり映画は映画館で観るものなのだ。シニア層を狙った御為ごかしの時代劇ブームよりも、昔の映画を銀幕に再現してもらった方が素直に嬉しい。2011年も継続するらしいが、ぜひとも他の配給系でもやって欲しいと思う。
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“自分探し”なんてマヤカシだ。

2010-12-23 07:24:35 | 映画周辺のネタ
 2002年に「Laundry[ランドリー]」という映画を観て、大いに気分を害したことがある。技巧的に稚拙なのはもちろんだが、窪塚洋介扮する知恵遅れの青年と仲良くなる若い女(小雪)の扱い方に、この新人監督(名前は失念)の人間観察の浅はかさが如実に現れており、そのへんに愉快ならざる感想を持ったのである。

 彼女は不遇な日常から外れ、遠い街で変わった人々と付き合うことにより、(警察の御厄介になることがあったものの)結果として自分を取り戻して人生に前向きに取り組むようになる。映画はこれを共感を込めて描こうとしており、いわば“自分探し”の旅をしてみたら得をしたという設定である。

 しかし、私に言わせればこんなのはウソっぱちだ。映画としてはそのウソ臭さを確信犯的に全面展開するかあるいは徹底的に突き放すという方法もあったのだが、この監督はそこまで素材に対しての批判精神を持ち合わせてはおらず、ただ微温的で退屈な映像が流れるだけであった。



 巷で言われる“自分探し”とは、ここにいる自分は本当の自分ではなく、日常を変えればそれを見つけられるという方法論のことらしいが、それ自体が紛い物であることは論を待たない。そもそも人間は自分一人では“人間”になれない。他者あるいは共同体とかかわり合うことによって初めて“人間”になるのである。だから他者との関わりにおける自分以外に“何か別の自分”はない。他者との関係性そのものが“自分”なのである。

 今ここに日常を生きている“自分”が“本当の自分”であり、非日常に逃避することで“何か別の自分”が現れてくるはずもないのである。日常が不遇なのは自分に他者との関係性を構築する力がないためだ。

 “自分探しの旅”とは単に関係する他者を意識的に少なくする、あるいは他者から逃避することに過ぎない。それで“何か別の自分を見つけられた”と思ったとしても、それは関係すべき他者からエスケープしたことによる“気苦労の軽減”でしかないのだ。

 “自分探しの旅”の終着点で“新たな自分”が別の日常を形成しようとしたら、またしても関係する他者の数が増えることにより“不遇な日常”が再発するだけである。今ここにいる自分がこの場所で他者との関係を改善しない限り、別の場所で“本当の自分”を見つけようとしても無駄なのだ。

 根岸吉太郎監督の「遠雷」で、退屈な農村の暮らしに嫌気がさして蓮っ葉な女と逃げ出した男(ジョニー大倉)が、結局は故郷に舞い戻ってきて主人公(永島敏行)にこう洩らす。「しょせん男と女、どこへ行ってもやることは一緒だよ」。しがない男が漫然と日常を変えたいと思い、漫然と外へ出たものの、漫然としたまんまで何も変わらなかったというやるせなさを描いて出色であった。「Laundry(ランドリー)」の監督には絶対撮れないシークエンスである。

 日常を外れるのは単なる“気分転換”であって“別の自分”なんてどこにも見つかるはずもない。“自分探し”が市民権を持ってしまう風潮は若者のフリーター・ニート増加と微妙にシンクロしているようで、“日常”と戦えない社会構成員全体の虚弱化を現しているとも思われる。そうなったのは、何も不況のせいばかりではないだろう。
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映画評論家・双葉十三郎のこと。

2010-01-20 06:20:32 | 映画周辺のネタ
 去る2009年12月12日、映画評論家の双葉十三郎が死去した。99歳の大往生で、不遇な最期を遂げる者(佐藤重臣、南俊子、田山力哉など)が目立つ映画評論家の中にあっては、珍しく長寿を全うした大ベテランである。

 彼の仕事で一番印象に残っているのが、雑誌「スクリーン」に40年以上にわたって連載された「ぼくの採点表」である。有名作品はもちろん、B級や時にはC級の映画も分け隔て無く取り上げ、それぞれに真っ当な評論を展開していることに好感を持った。限られた行数の中で、映画の質を素早く見抜くと共に“採点”をおこなう。☆20点、★5点を組み合わせたスコア形式も明快で、観る映画を決める際には大いに参考になった。

 彼のスタンスの特徴は、まずジャンルに拘らずにあらゆる題材の映画を俎上に載せること。そして、特別な感情やイデオロギーに囚われずに冷静な判断を下すことだ。特に脚本を徹底して重視することは、どうしてもヴィジュアルばかりに目が行ってしまう映画ファンの見方に対する絶妙なアンチテーゼだったと思う。さらには、書いている本人が相当な知性の持ち主であるにもかかわらず、難解な言い回しや専門用語の使用を極力廃し、砕けた口調で通しているのも有り難かった。

 実を言うと、私がこのブログに書き散らしている映画の感想文も、この「ぼくの採点表」のスタイルに影響を受けている。何しろ「スクリーン」誌は私が十代の頃に購読していたのだ。最初に出会った映画評論が「ぼくの採点表」における双葉十三郎による文章なのである。もちろんクォリティとしては彼の文章の足元にも及ばないが、素材を一歩も二歩も引いて見ることや、脚本の出来不出来に敏感であることは、若い頃に「ぼくの採点表」を読み込んでいたことと無関係ではないと思う。

 そういえば、映画雑誌を買わなくなって久しい。映画の情報は書店に足を運ばなくてもネット上でタイムリーに手に入ることが大きいと思うが、雑誌に載っている評論家の文章に魅力がないことも購入を遠ざけている原因だ。当然、立ち読みでは全部カバー出来るはずもないが、目に付く論評は不必要に長くて要領を得ないものばかりである。少なくとも「ぼくの採点表」のような評論スタイルを持つものは皆無ではないかと想像してしまう。

 なお、彼はレイモンド・チャンドラーなどのミステリー小説の翻訳や関連評論も多い。江戸川乱歩とも親交があったそうで、テンポが良く肩肘張らない文体は多くの娯楽小説に精通していたからだとも思われる。高齢だったので仕方がないが、いなくなってみれば寂しい。まことに得がたい人材だったと思う。
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シネテリエ天神が閉館。

2009-10-15 06:33:12 | 映画周辺のネタ

 去る10月12日付をもって福岡市中央区天神にあるミニシアター「シネテリエ天神」が閉館した。この劇場は80年代半ばに「東映ホール」としてオープン。当初は東映系作品の二番館としての位置付けだったが、突然やり始めた“寺山修司特集”からミニシアター路線に突入。劇場名を「てあとるTENJIN」に変更して単館系の作品を上映するようになる。後に「シネテリエ天神」と名を改め、それらしい内装を整えた封切館として福岡の映画ファンにはお馴染みになる。

 今回の閉館は、赤字部門を整理するという運営会社の都合らしい。同時に、公開できる作品が少なくなってきたことも背景にあるだろう。昨今隆盛を極めるシネマ・コンプレックスにとって、単館系の劇場の存在はあまり面白くない。シネコンの配給側への対応により、本来ミニシアターで公開されるのがふさわしいような作品まで押さえてしまうという話を聞いた。

 福岡市にはあと2つミニシアターが存在するが、KBCシネマは地元放送局がバックアップしており、シネ・リーブル博多駅は日活が運営している。対してシネテリエの経営元は中堅の興行会社でしかなく、基盤が強固ではない。少しでも逆境に立たされると撤退を余儀なくされるのは仕方がないのかもしれない。

 だが、正直シネテリエはあまり鑑賞環境の良い小屋ではなかった。狭い客席に小さいスクリーン。空調の音も必要以上に響く。特に地下に続く急勾配の階段はバリアフリーもへったくれもない。同じく天神地区にあって、東宝系の作品を上映していたソラリアシネマが独自に番組をチョイスするようになり、ミニシアター作品もカバーするようになった現在、シネテリエの退場はさほど感慨深くもない。少なくとも、10数年前にKBCシネマの前身であったKBCシネマ北天神がなくなった時ほどには名残惜しくはない。

 なお、10月16日にはシネテリエ天神の跡地に「天神シネマ」が開館する。なんと成人映画専門館だという。数年前に中洲地区のオークラ劇場が小屋をたたんでから福岡市には成人映画をフィルム上映する劇場は存在しなかったのだが、ここにきてまさかのカムバックだ。滝田洋二郎監督の特集など、オープニングの作品から注目映画が並んでいる。まあ、映画ファンとしては嬉しいのだが、全国的に成人映画の需要が減少している今、どこまで続けられるか心配である。今後の成り行きに注目したい。
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“泣ける映画”なんか嫌いだ。

2009-02-07 06:30:02 | 映画周辺のネタ
 掲示板などでは“泣ける映画を教えてください”という書き込みをよく見かける。私自身も“泣ける映画を紹介しろ”と実生活で言われることがある。しかし、そもそも“泣ける映画”とは何なのか。映画を観て泣けるかどうかは受け手の人生経験や知識・教養などで大きく違ってくる。いくら他人が滂沱の涙を流していても、自分は平然としていられる映画なんていくらでもある。そもそも“映画を観て泣く”という行為にどれほどの意味があるのか。

 これが“笑える映画を教えて欲しい”というのならば話は別だ。単純にコメディを紹介すればいい。たとえ笑えなくても、映画自体が当初から笑いをメインにしていることは誰でも分かるし、たまたま自分のツボと合わなかっただけだ。対して、最初から“泣き”を狙った映画ほどシラけるものはない。

 一方“泣ける映画とは感動できる映画のことだ”という意見もあろう。だが、いくら感動したからといって涙が出るとは限らない。本当に感銘を受けたときは、席を立つのを忘れて主題について深く考えたりすることが多いのではないだろうか。もちろん泣けてくる場合もあるが、それは感動できる映画に接した場合のリアクションのひとつに過ぎない。

 お涙頂戴映画が胡散臭いことは誰でも知っているのに、それでも“泣ける映画”に対するニーズが高いということは、泣く行為そのものがストレス解消を目的とした生理現象であることを意味している。映画を観て泣くことだけを求める層は、単に泣くことによって鬱憤を晴らしたいのであり、映画のテーマについて想いを馳せよう云々といった殊勝な考えはハナから持ち合わせていない。少しでも映画鑑賞に対して能動的であろうとする受け手は“泣ける映画を教えてください”という物言いの代わりに“感動できる映画や考えさせられる映画を教えてください”というセリフを用意するであろう。

 そもそも映画を“泣けるor泣けない”というような捉え方をすることに対しては愉快になれない。そんな“泣けるor泣けない”といった価値基準を優先させてしまうと、たとえば下世話な韓国映画と映画史に残るようなヒューマン大作とが同じレベルになってしまう。ヘタすると“泣ける分だけ韓国映画の方が好き”みたいなみたいな話になったりして・・・・(^^;)。

 もちろん、映画なんてのは大衆娯楽だから、映画を観て泣いてそれで満足するのも個人の勝手であるし、そういう観客向けの映画作りも否定できない。ただし、それだけでは寂しすぎる。ちなみに私は“泣ける映画を教えてください”と言われたら、“笑いすぎて涙が出てくる映画”もしくは“あまりのくだらなさに情けなくなって泣けてくる映画”を紹介することにしている(爆)。
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映画産業を助成すべきだ。

2008-12-03 06:35:53 | 映画周辺のネタ
 一時期、韓国映画の総体的なレベルが日本映画をも凌ぐようになった・・・・と思われたのは、政府が映画産業を大々的に助成しているからである。私は日本もそうするべきだと思う。

 ・・・・こんなことを書くと決まって返ってくるのが「それは芸術表現活動に対する国家介入を呼び込むものだ」という物言いである。何かのテレビ番組で江川なんとかっていう漫画家も同じようなことを言っていた。「漫画にしろ音楽(ニューウェーヴやヒップホップ等)にしろ、ドン底で生きるハングリーな奴らが勃興を担っていたのだ。お上の助成など百害あって一利無し」とかなんとか・・・・。しかし、映画は漫画や音楽や文学とは違うのである。漫画は一人でも描ける。音楽も一人で歌って演奏できる。対して映画はそうじゃない。監督がいて俳優がいて、プロデューサーがいてカメラマンもいる。チームを組まなければ作れない「総合芸術」なのだ。だからカネがかかる。才能があるのに資金を調達できないばかりに埋もれてゆく人材を掘り起こすためにも援助が必要だ。

 「芸術に対する国家干渉」を必要以上に危険視するのも的はずれである。イラン映画や少し前の中国映画を見てみればいい。当局側の規制などものともせずに、それらを巧妙に潜り抜けて作家性豊かな映画を作り上げているではないか。「規制があるから出来ない」なんてのは、才能のない奴のエクスキューズに過ぎない。

 そもそも、人材というものは「カネのあるところ」に集まるのである。「いい企画や脚本を持っていけば、国がカネを出してくれる」という構図が認知できれば、才能はもっと集まってくるはずだ。しかも、日本映画はかつて世界最高のレベルを誇っていたのだ。これを助成して何が悪かろう。意味のない銀行への公的資金投入や為替市場介入に莫大なカネを使うより、こうした有意義な方策に資金を向けるべきだと思う。
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記憶に残る、映画の中のセリフ

2008-02-21 08:43:35 | 映画周辺のネタ
 印象に残った“映画の中のセリフ”として真っ先に思い出すのが、利重剛が89年に監督した「ザジ ZAZIE」という作品の中で中村義人扮する主人公がつぶやく言葉である。

「性格の80%は“癖”だ。“癖”は直せる」

 なかなか面白い指摘だと思った。性格というのは文字通り内面的なものだが、それにより真に本人に影響を与えたりするものは、具体的な行動、すなわち外面的な要素である。性格によって頻繁に現れる行動パターンとしての“癖”を理性によって制御すれば、逆に性格そのものを変えることも出来ると作者は主張したいらしい。突き詰めて考えれば“内面”とは個的なものではなく他者との関係性により形成される部分が大きいので、第一義的に他者と関わり合う外形的要素を修正すれば、内面へのフィードバックも少なくないはず。それで性格まで一変してしまうことも十分有り得る。

 ただし、外面的な行動を修正するのは並大抵のことではない。本人によほどの自覚と持続力がなければ達成されるものではないのだ(遺伝的・先天的な部分も当然あるだろう)。確かに“80%は癖”かもしれないが、残り20%を克服するのは至難の業である。人生はそんなに甘くない。

 とはいっても、自分の性格に関して悩みを持つ者にとっては“目からウロコ”のセリフであることは間違いないだろう。物事を別の視点から捉えることの重要性も合わせて、なかなか含蓄に満ちた言葉である。

 もうひとつ、シルヴェスター・スタローンが83年に監督した「ステイン・アライブ」の中で印象的なセリフがある。ジョン・トラヴォルタ扮する自己中心的な新入りダンサーに対して、舞台監督がこのように言い放つ。

「周りを自分に従わせようと思うな。自分を周りに合わせるんだ!」

 周囲の状況に不満を募らせていた当時の私にとって、このセリフはかなり効いた。まずは協調して、それから自分を出してゆく。そうしないと何も事態は進展しない。こんな当たり前のことがまさか映画の中から発せられるとは思ってもみなかった。それにしても、昨今の風潮を見るとますますこのセリフの重さを感じさせられる。“人権”だの“個性”だのといったスローガンばかりが先行し、自分を抑えて周囲に合わせることが悪いかのごとく論じられる。戦後民主主義とやらの悪弊かもしれない(^^;)。

 さて、実は「ザジ ZAZIE」も「ステイン・アライブ」も映画としてはロクなものではない。そもそも映画は映像と演出によりテーマを表現するのが王道であり、主題をセリフで滔々と語るのは落第である。映画の内容よりセリフが印象に残ってしまうのは、その映画が失敗であることを意味する。映画には“お題目”としてのセリフなんか不要だ。画面でテーマを語るべきなのである。
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“都会の憂鬱”とミニシアター系作品

2007-05-31 08:42:58 | 映画周辺のネタ
 河瀬直美監督がメガホンを取った「殯(もがり)の森」が第60回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得した。私はイマイチこの作家を信用していないが、受賞自体は快挙であることには変わりなく、公開された際には観る予定だ。

 さて、何年か前、某新聞でとある地方のミニシアターの支配人が“各国の映画祭でいくら日本映画が賞を取ったと言っても、多くはマイナー作品のため、肝心の日本人自身の目に触れる機会が少ない。最近のシネコン攻勢が上映作品の偏向化を促進させている状況もあり、これは愉快になれない”なんてことを言っていた。一応もっともな説のように思われるが、よく考えてみると少しおかしい。マイナー作品ってのは観客の大量動員が見込めないからマイナーなのであって、たとえ賞を取ろうとその基本線が変わるわけじゃないのだ。これは日本に限ったことではないだろう。たとえば「ロゼッタ」や「永遠と一日」や「桜桃の味」がカンヌで大賞を取っても、本国で一斉拡大公開されているとは考えにくい(まあ、多少は興行的に優遇はされるだろうけど)。多くの一般ピープルはそんな小難しい映画はさし置いて、ハリウッド作品や国産の娯楽映画に走るのだろう。それが正常だと思う。

 酷な言い方だけど、映画館の支配人たるもの、外資系シネコンの台頭ばかりを嘆いても仕方ない。もっと地道な努力が必要だと思う。ちなみに、くだんのミニシアターで封切った「M/OTHER」(諏訪敦彦監督、第52回カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞作)の観客は一回の上映平均で数人だったそうだ。当然だろう。

 で、たとえば全国チェーンのシネコンでマイナー作品をやったと仮定して、福岡市でいえばキャナルシティのユナイテッドシネマみたいな街の真ん中にあるシネコンは別にして、田舎(失礼)のショッピングセンターにあるシネコンに客が来るかどうかといえば・・・・絶対来ない。

 マイナー作品の持つスノッブさ、難解さ、スタイリッシュさ、アンニュイ度(まあ、すべてがそうだと言うわけじゃないけど ^^;)、それらはすべて“都会”のものだ(都会を舞台にしているという意味ではない。念のため)。農業に従事しているおっちゃんに“都市生活者の微妙な屈託”を見せつけてもピンとこない。生活基盤が違うのだからしょうがない。ミニシアターが都会ばかりにあるのは、何も人口密度のせいばかりではないのだ。“都会の憂鬱”を理解できる客層の有無というのも大きな要素なのである。
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権威皆無の日本アカデミー賞

2007-02-18 08:39:46 | 映画周辺のネタ
 先日、日本アカデミー賞の授賞式の模様が放映されていたが、相変わらず盛り上がりに欠ける雰囲気だ。今年で30回にもなるのだが、正直言ってこういう賞が30回も続いていること自体驚きである。

 昔、黒澤明がこの賞を辞退したことに対し、その年の司会者の山城新伍が「これから映画人が育てていこうとしている賞を『権威が無いからいらない』とは何たることだ」とか何とか批判していたが、あれから20年以上たった今でも、相変わらずこの賞は権威がないままだ(だいたい、今回キムタクにさえ事務所の意向という理由でソッポを向かれたぐらいだから ^^;)。

 賞を選出する日本アカデミー賞協会の中では松竹、東宝、東映、角川といった邦画メジャー関係者が幅をきかせている。だから、これらの会社が関わった作品以外の映画は、どんなに評判が良くても、いくら国外の賞を獲得しようと、完全無視される。独立系の映画会社による作品が受賞したのは、今回の「フラガール」以外では「午後の遺言状」「ツィゴイネルワイゼン」の2回しかない。本家の米アカデミー賞がマイナーな作品にもちゃんと注意を払っているのに比べると、いかにも閉鎖的だ。

 しかも、日本テレビが授賞式の放映権を持っているためか、同社の手による作品が優先される傾向がある。もちろん、そのあたりの構図も視聴者に見透かされてしまっている。これでは権威を感じろという方が無理だ。

 要するに、本家から拝借した「アカデミー」という呼称で、何とか話題性をキープしているに過ぎないのである。

 しかし、これに代わる“真に権威のある賞”を創出できない我が国の映画人の体たらくの方がもっと批判されてしかるべきだろう。日本アカデミー賞以外の映画賞にはキネマ旬報賞とか毎日映画コンクールなどがあるが、一般ピープルには知られていない。フランスのセザール賞や香港の金像奨のように、国内発のポピュラーな賞がとっくの昔に出来ていて当然だと思うのだが・・・・。

 いずれにせよ、“邦画バブル”と言われるほど興行成績が回復した昨今でも、映画の“権威”を高めようとする賞も作れない状況を見れば、いかに我が国では映画が軽んじられているか分かろうというものだ。
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