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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ザ・コールデスト・ゲーム」

2020-04-12 06:10:51 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE COLDEST GAME)2019年作品。Netflixで配信されたスパイ・サスペンスで、設定や雰囲気はアメリカ映画のようだが、実はポーランド映画。言われてみれば、ストーリーラインにこの国の戦後史が散りばめられており、それが効果を上げている。展開は荒っぽさも感じるが、緊迫度が高く最後まで飽きずに見ていられる。

 キューバ危機が勃発した1962年、アメリカとソ連のチェスのチャンピオンによる親善試合がワルシャワで行われようとしていた。ところが米国代表が試合直前に謎の死を遂げ、アメリカ当局は代わりに天才数学者でチェスの達人であるマイスキーを拉致同然にポーランドに移送し、試合に臨ませようとする。



 実はこのイベントの裏には米ソの諜報戦が絡んでおり、マイスキーにはソビエト軍内部の通報者に接触して、キューバ情勢に関する機密を入手せよとの指令が無理矢理に押し付けられる。ポーランドのアメリカ大使館のスタッフやCIAのエージェントがマイスキーをフォローするが、彼はイマイチ信用していない。通報者の正体も分からない中、やがて予期せぬ出来事が次々と起こる。

 マイスキーのキャラクター設定が秀逸だ。重度のアル中だが、彼はシラフでいる時には頭の回転が速すぎて上手く行動出来ない。ところが酒を飲むといい案配に頭脳の明晰度が緩和され、結果としてチェスでは無敵になる。まるでジャッキー・チェン扮する「酔拳」の主人公みたいな造型だが、マイスキーは外見はショボくれたオッサンであるところが面白い。まさに意外性の塊だ。

 そんな彼が誰が敵か味方か分からない剣呑な世界に放り込まれることになるが、終始マイペースで難関を乗り越えていく。特に、地元の博物館の館長と飲み友達になるくだりは興味深い。館長は第二次大戦末期のワルシャワ蜂起を体験しており、街中に張り巡らされた抜け道(地下水道を含む)をマイスキーに紹介するのだが、そこに大戦中にポーランド国民が味わった苦難が刻み込まれている。かつてナチスに蹂躙されたこの地は、冷戦下ではソ連の支配するところになった。その鬱屈ぶりが焙り出されている。



 物語は、意外な裏切り者と、これまた意外な味方が交互に現れ、二転三転する。それに応じてチェスの対局も波乱含みになるあたり、なかなかよく考えられている。登場人物は皆十分に“立って”いるが、敵役のソ連の司令官が絵に描いたようなサイコパスぶりを披露する場面は個人的にウケた。

 ルカシュ・コスミッキの演出は中盤でのプロットの混濁はあるものの、重量感があってテンポも悪くない。主演のビル・プルマンのパフォーマンスは絶品で、おそらく彼の代表作の一つになるだろう。ロッテ・ファービークにロベルト・ヴィェンツキェヴィチ、ジェームズ・ブルーアといった他のキャストも万全だ。上映時間が103分とコンパクトなのも有り難い。
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「殺意の香り」

2020-04-03 06:52:38 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Still of the Night)83年作品。ヒッチコック的な御膳立ての中に、当時キャリアを順調に積み上げていたメリル・ストリープを投げ入れたらどうなるか・・・・というアイデアで作られた映画だと思う。ただし、言い換えれば彼女のキャラクターや演技パターンが気に入らない観客にとっては、あまり意味の無いシャシンでもある。ただし、出来自体はロバート・ベントン監督作品だけあって、水準はクリアしている。

 マンハッタンで、停められていた車の中から男の死体が発見される。被害者はオークション・ギャラリーの経営者であるジョージ・バイナムだった。一方、離婚したばかりの精神分析医サム・ライスは、終始怯えたような表情を見せる女性の訪問を受ける。彼女はバイナムの助手であったブルック・レイノルズだ。実はバイナムはサムの患者であり、ブルックはバイナムがアパートに置き忘れた腕時計を彼の妻に返してほしいと頼むのだった。そんな時、殺人課のヴィトゥッキ刑事がやって来て、バイナムの個人情報を明かすようにサムに要請する。一度は患者の秘密は公開できないと断わるサムだが、彼は独自にバイナムの身辺を調査し始める。

 精神科医が事件の背景を探っていくうちに容疑者に惹かれていくという設定は、言うまでもなく「白い恐怖」(1945年)からの引用だ。そしてオークション会場で彼女の急場を凌ぐために、サムが必死になって絵を競り落とそうとするシークエンスは「北北西に進路を取れ」(1959年)の一場面と似ている。そのように手練れの映画ファンがニヤリとするようなシチュエーションを積み上げれば、多少のプロットの不明確さも糊塗できるというのが作者の魂胆かもしれないが、それは成功している。

 実際、鑑賞後にはストーリー自体よりも個別のモチーフだけが印象に残る始末なのだ(笑)。特に作者のM・ストリープに対する“執着”はただ事ではなく、彼女が初めてスクリーン上に姿を現すシーンから、粘りつくようなカメラワークが全開。そして震える指で煙草を取り出すと2,3服してもみ消してしまうというショットでは、彼女の“神経症的演技もお手のもの”という得意げなポーズが画面いっぱい展開して、まさに苦笑するしかない。

 ここではヒッチコック的な道具立てで彼女を機能させるという当初のたくらみが、いつの間にかヒッチコックのスタイルが彼女を引き立てる要素みたいな構図に移行しており、まったくもってこの頃のストリープの存在感というのは大したものだと感心するしかない。サム役のロイ・シャイダーやジェシカ・タンディ、サラ・ボッツフォードといった面子が影が薄いのも仕方がないだろう。なお、撮影はネストール・アルメンドロスで、さすがの安定感を見せる。
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「神経衰弱ぎりぎりの女たち」

2020-03-22 06:32:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Mujeres Al Borde de un Ataque ed Nervious )87年作品。スペインの“巨匠”と言われて数々の賞をモノにしているペドロ・アルモドヴァル監督だが、個人的にはその作風は肌に合わない。有り体に言えば、どこが良いのか分からないのである。しかし、本作だけは別だ。筋書きの面白さもさることながら、独特のヴィジュアルが劇中シチュエーションと各キャラクターにマッチしている。快作と呼んでも差し支えが無い。

 同棲中の俳優のペパとイヴァンは、映画の吹き替えで何とか生計を立てながら暮らしていた。ある日、イヴァンが失踪。思い出の詰まった部屋で一人で住むのは辛いペパは、部屋を貸すことにするが、イヴァンが新しい女と懇ろになっているという噂を聞いてしまう。そんな中、友人のカンデリャが、男関係のトラブルで彼女のアパートに転がり込む。



 さらに、部屋を借りたいという若いカップルがやってくるが、男の方はイヴァンの息子である。しかしペパはその事は知らない。そして20年前にイヴァンの恋人であったルシアが精神病院を退院してくる。彼女はイヴァンを忘れるには彼を殺すしかないと思い込んでおり、銃を片手にイヴァンを追い回す。

 映画が進むごとに出てくるキャラクターの危なさが昂進し、騒ぎが幾何級数的に大きくなる様子は、まさに壮観だ。それを盛り上げるのがこの監督独特の美的センスである。特に赤色の使い方は非凡だ。女たちのルージュの赤から衣裳をはじめトマトスープやCMの中のワイシャツに付いた血など、これでもかとケバケバしい赤の洪水が押し寄せる。

 そして舞台の大道具・小道具もキッチュかつ繊細に練り上げられており、観ていて飽きることがない。女たちの造型もキレまくっており、大きすぎる口や長すぎる鼻、デフォルメされた顎など、まさにピカソの抽象画と見まごうばかりの大胆さだ。現在進行形で恋に生きるペパたちと、20年前に時間が止まったまま恋の幻を追いかけるルシアとの対比も強烈。それぞれ見据えるものが違うが、どちらも周囲が見えなくなるほど猪突猛進な暴走を展開する。

 ペパ役のカルメン・マウラをはじめ、フリエタ・セラーノ、マリア・バランコら女優陣はいずれも快演。いつもはアクの強さを見せつけるアントニオ・バンデラスが、ここでは何となく地味な印象を受けるのもおかしい。ホセ・ルイス・アルカイネによるカメラと、ベルナルド・ボネッツィの音楽も快調。“神経衰弱ぎりぎり”どころか、それを超越した次元に突き抜けた、パッショネートな逸品である。
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「ジュディ 虹の彼方に」

2020-03-21 06:56:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JUDY)かなりの力作で、キャストも熱演だ。見応えはある。しかしながら、物足りなさも感じた。それはひとえに、肝心な部分を描いていないことに尽きるだろう。米アカデミー賞では主演女優賞以外はノミネートされていない理由も、案外そんなところにあるのかもしれない。

 1968年。かつてミュージカル映画の大スターとして名声をほしいままにしたジュディ・ガーランドだったが、問題行動を重ねるあまり仕事が激減し、住む家も無いまま巡業で食い繋ぐ日々を送っていた。そんな中、ロンドンでの興行の話が舞い込む。ハリウッドでは“過去の人”扱いだが、英国ではまだ人気があったのだ。



 元のダンナに幼い娘と息子を預けて渡英するジュディだが、プレッシャーでステージになかなか上がれない。それでもひとたび舞台に立てば、素晴らしいパフォーマンスを発揮して観客を魅了。ショーは大盛況で、新しい恋人も出来て彼女の人生は久々に上向いたように思われたが、子供と離れていることによる心労で徐々に酒とクスリに溺れ、ついには舞台でも取り返しの付かないミスを犯してしまう。

 冒頭、少女時代のジュディが事務所関係者らによって芸能人としての“カタにハメられる”様子が描かれる。このモチーフは劇中何度か出てきて、彼女は十代の頃から私生活など無いに等しい状況だったことが示される。しかも、当時は合法だった薬物によって心身共にボロボロだ。作者は、若い時分から酷使されたことによってジュデイは不遇な晩年を送る羽目になったと言いたいようだが、残念ながらそれだけでは不十分なのだ。

 この頃のハリウッドスターは、程度の差こそあれ若手時代は皆ジュデイと似たような境遇ではなかったのか。彼女が落ちぶれたのは、自身が元々メンタル面で不安要素があったと思われること、そして親との関係が正常ではなかったこと、さらにはアカデミー賞で本命視されていたにも関わらずオスカーを獲得できなかったことなど、いくつもの要因が重なった結果だろう。にも関わらず映画はデビュー当時と晩年しか描いておらず、その間がスッポリと抜けている。

 だから、ロンドン公演での彼女の言動には共感できないのだ。これでは、周囲を困らせるただのオバサンではないか。いくらステージ上ではカリスマ性を発揮しようと、役柄の上では魅力を欠く。そもそも本作は、ピーター・キルターによる舞台劇の映画化であり、正攻法の伝記映画ではないことも影響していると思われる。

 主役のレネー・ゼルウィガーはさすがの演技で、本人による歌唱も堂に入ったものだ。ジェシー・バックリーやルーファス・シーウェル、ロイス・ピアソン、マイケル・ガンボンなどの脇の面子も万全。そして、少女時代のジュディを演じるダーシー・ショウのフレッシュな魅力も忘れ難い。だが、作劇面で踏み込みが足りないため、全体的にいまひとつ訴求力が高まらない。なお、劇中のナンバーのほかにもオリジナルスコアを提供したガブリエル・ヤレドの仕事ぶりも印象的だ。
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「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」

2020-03-16 06:35:15 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE PEANUT BUTTER FALCON)共通性を指摘されるであろう、トラヴィス・ファイン監督の「チョコレートドーナツ」(2012年)よりは良い出来だ。だが、飛び抜けて上質ではない。有り体に言えば“中の上”というところか。やはり、劇映画としてはこの題材を扱うことはハードルが高いのだと思う。

 ジョージア州サバンナにある養護施設で暮らすダウン症の青年ザックは、子供の頃からプロレスが好きで、いつか憧れの悪役レスラーが経営する養成学校に入ることを夢見ている。そのため、施設を脱出する機会をいつも窺っていた。そしてある日、同室のカール老人の助けを得て脱走に成功。そしてひょんなことから漁師のタイラーと出会う。タイラーはしっかり者の兄を亡くしてから自暴自棄になり、漁師仲間の仕事を妨害して追われる身になっていた。いつしか意気投合した2人は、レスラー養成所のあるノースカロライナ州へと向かう。養護施設のスタッフであるエレノアは何とか2人に追いつくが、成り行き上、期限付きで彼らと行動を共にする。

 訳ありの3人が旅をするハメになるというロードムービーの設定は盤石で、舞台になるアメリカ南部の風情も捨てがたい。二転三転する筋書きは飽きさせないし、出来過ぎと思われがちな終盤の処理も観ていて決して悪い気はしない。とはいえ、無理筋のプロットも散見されて評価するのを躊躇わせるのも確かだ。

 タイラーは劇中では“活躍”するものの、いくら兄を失ったことでヤケになっていたとはいえ、やったことは窃盗と器物損壊だ。そのため感情移入しにくい。エレノアはザックを施設に引き戻す手段を失ってしまうが、だからといって“前科者”のタイラーに付いていくのは理解しがたい。ザックに関しては、果たしてこの行程をこなせるのかハラハラしてしまう。

 そもそも、ザックが施設を抜け出すくだりで、段取りの悪さからパンツ一枚で外を走り回る様子からして実に危うい。ハッキリ言って、ダウン症患者でなければならない理由があまりない。別の“重い境遇”を背負ったキャラクターを出した方がスンナリドラマが進むのではないか。

 ダウン症患者に限らず、知的なハンデのある者を物語の主軸に据えるのは難しいと思う。なぜなら、映画として内面を掘り起こすことが容易ではないからだ。「チョコレートドーナツ」だけではなく、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の「八日目」(96年)もその轍を踏んでおり、上手くいっていない。

 とはいえ、ザック役のザック・ゴッツァーゲンはイイ味を出しており、タイラーに扮するシャイア・ラブーフも(何やら彼自身の素行の悪さを反映しているような役柄だが ^^;)好演だ。エレノアを演じるダコタ・ジョンソンは「サスペリア」(2018年)とは打って変わって、とても魅力的に撮られている。くれぐれも私生活では母親(メラニー・グリフィス)のマネをせず、真っ当に女優業に励んで欲しい。
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「サード」

2020-03-13 06:52:36 | 映画の感想(さ行)
 78年ATG作品。もしも十代の頃に観ていたら大きな影響を受け、このようなタイプの映画(ATG系等)こそが映画芸術の王道であり一般娯楽映画など鑑賞するに値しない・・・・などという“中二病”にしっかりと冒されていたかもしれない(大笑)。だが、あいにく私が本作を観たのはオッサンになってからで、リアリティよりも青春の甘酸っぱさが先行する好編という印象を持った。もちろん、アート系以外は映画ではないという青臭くも痛々しい考えとは無縁だ(苦笑)。

 関東朝日少年院に入院している妹尾新次は、高校の野球部で三塁を守っていたことから“サード”と呼ばれていた。彼は金欲しさに同級生の女子に売春を斡旋していたが、ある日客のヤクザともめ事を起こし、誤って相手を殺害した罪で収監されていた。新次は集団生活を基本とする少年院には馴染めず、特にリーダー格の少年とは相性が悪く、ケンカして独房に入れられることも珍しくなかった。時折面会にやってくる母親は退院後のことを何かと心配するが、新次にとっては鬱陶しいだけだった。



 ある日、一人の少年が院に送られてくる。数学IIBだけが取得で、通称“IIB”と呼ばれている奴だ。作業場から院生の一人の少年が脱走したのに乗じて“IIB”も逃走を図るが、あえなく捕まってしまう。新次はそんな彼を苦々しく思うのだった。軒上泊の小説「九月の町」の映画化で、脚本は寺山修司が担当している。

 新次は、ロングヒットを打ってサードを回ってホームに向かうとホームベースがなく、仕方なくそのまま走り続けるという夢をよく見る。若い頃の不安感の描出としては幾分図式的かもしれないが、主人公の(バックグラウンドを含めた)造型が上手くいっているので気にならない。

 軽い気持ちで売春斡旋に手を染め、成り行き上殺人を犯す。彼の中ではすべてがライト感覚で物事が進んでいたはずが、気が付けば牢獄の中で自己批判を強いられる日々を送っている。今頃になって未熟さを自覚しても、遅い。だが、それでも彼は走り続けなければならない。新次の目の前にある果てしない道、しかも先は靄のかかったグラウンドのように何があるか分からない。もがき苦しみながら走る“宿命”を負った彼の姿に、粉飾抜きの普遍的な青春像を見出して観る者は感銘を受ける。

 少年院の面々は個性豊かだが、それぞれが作者の個性の一断面を象徴しているようで興味深い。東陽一の演出は強靱かつしなやかで、後年の彼の作品に見られる曖昧さは無く、最後まで弛緩しない。主役の永島敏行は堂々とした演技で、とてもこれが映画出演第二作目の駆け出し俳優とは思えない。

 吉田次昭に西塚肇、根本豊、若松武といった少年院仲間に扮した連中も良い味を出しているし、母親役の島倉千代子は意外な好演で驚かされる。ヤクザ役の峰岸徹もサマになっていた。そしてヒロインを演じる若い頃の森下愛子は、とにかく可愛くてエロい(笑)。このように“当然のように身体を張る若手女優”が少なくなった昨今は寂しい限りだ。川上皓市による撮影もまた見事で、特に新次が収監される道すがら目にする“九月の町”の存在感には瞠目するしかない。
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「序の舞」

2020-03-08 06:30:33 | 映画の感想(さ行)
 84年作品。1964年にデビューして以来、多くの作品を手掛けた中島貞夫監督の80年代以降の代表作の一つだ。女性キャラクターの造型とその内面描写、骨太なドラマ運び、見事な美術意匠と時代考証など、まさに横綱相撲と言って良いほどの安定感を見せる。2時間半近い上映時間の中、弛緩した部分はまるで見当たらない。

 安政5年、洛北・大宮村の貧しい農家の娘であった勢以は、京都の葉茶屋に養女に出され、やがて結婚して2人の娘をもうけるが、夫に先立たれてしまう。それから彼女は娘たちを女手ひとつで育てるが、長女の津也は絵画に興味を持つようになる。京でも有数の松溪画塾へ通うことになった津也は、明治23年、第三回内国観業博覧会に出品した「四季美人図」により大賞を獲得する。



 一躍有名になった彼女は松溪塾に入塾した村上徳二という青年に惹かれるものの、師匠の松溪の誘いを断れずに妊娠してしまう。それに気付いた勢以は、娘を激しく責めて絵を禁じた。津也は松溪のもとを離れて徳二と一緒の生活を送るが、絵への想いは捨てきれなかった。女流日本画の先駆者である上村松園をモデルにした、宮尾登美子の同名小説の映画化だ。

 とにかく、各登場人物が深く掘り下げられていることに感心する。特に目立つのはヒロインの津也の生母である勢以だ。幼少の頃からの足跡をじっくり追い、なおかつ京都の雰囲気の中からタフな気質を培ってゆく過程がうまく描出されている。その勝ち気さは娘の津也にも受け継がれ、中盤以降の母娘の葛藤の大きな背景となる。何より、津也の2度目の妊娠の時にはもはや世間体など気にすることなく、自分たちの手で育てようと決心するあたりは印象的。この時代の、しかも京都という土地柄で決断するという思い切った展開は観る者の琴線に触れる。

 力強い女たちに対して、男性陣は津也の最初の先生になる西内にしろ徳二にしろ、何だか頼りない。ただし松渓の造型だけは、マイナスのオーラを伴って映画の中では大きなアクセントとなる。弟子に平気で手を出すロクデナシながら、逆に津也たちのバイタリティを強調する媒体になっており、これはキャラクター配置の妙であろう。

 勢以役の岡田茉莉子、松渓に扮する佐藤慶、いずれも好演。佐藤のクセ者ぶりもさることながら、岡田が演じる勢以は江戸時代生まれの古風な女であるが、新しい時代に適応する明るさを上手く表現している。津也役の名取裕子はこれが映画初主演だったが、個性的な風貌を活かした熱演で強い印象を残す。風間杜夫に水沢アキ、三田村邦彦、成田三樹夫、高峰三枝子といった他のキャストも良い仕事をしている。津也の清新な絵と老いた松渓とを対比させる絶妙の幕切れも含めて、中島監督の円熟味を堪能出来るシャシンだ。森田富士郎の撮影、黛敏郎の音楽、井川徳道と佐野義和の美術、いずれも申し分ない。
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「スキャンダル」

2020-03-07 06:29:11 | 映画の感想(さ行)
 (原題:BOMBSHELL )元ネタのセクハラ事件の数年後に、このような実名入りの“ノンフィクション風ドラマ”を作り上げてしまったハリウッドの大胆さ(および抜け目のなさ)には驚くばかりだが、映画としては面白くない。特に前半の冗長な展開は眠気を誘う。中盤以降はいくらか盛り返すが、それでも観終わると釈然としないものが残る。テレビ画面で十分のシャシンかもしれない。

 2016年、FOXニュースの人気キャスターだったグレッチェン・カールソンは、同社を辞めた後にFOXニュースのCEOであるロジャー・エイルズをセクハラで告発した。この一報に衝撃を受けたのが現キャスターのメーガンで、実は彼女もロジャーから性的な嫌がらせを受けていたのだ。一方、メインキャスターの座を狙う若手のケイラは、ロジャーに会う機会を得る。だが、さっそく彼のセクハラ攻勢を受けて困惑する。事実を元にしたドラマだ。



 出来るだけ情報を提供しようという意図なのか、FOXニュースの内実の説明をはじめ各登場人物のプロフィールなどに割かれた部分が必要以上に多い。しかも、それらはあまり興味をそそられない事物だ。結果としてドラマのテンポは遅くなり、観る側は退屈を覚えることになる。

 ロジャーの所業が明らかになる後半になるとやっと物語が動き出すという感じだが、よく見れば単純な勧善懲悪劇である。権力を笠に着るクセの悪いオヤジが、それまで虐げられてきた女性陣にやり込められたという、痛快に思えるが“その程度の話”でしかない。

 FOXニュースが何をどう伝えてきて、その姿勢がどうしてロジャーという問題人物を生み出し、平気で女性陣を冷遇する“社風”に染まったのか。そんな大事なことをこの映画はまるで伝えない。政権批判に繋げたいような雰囲気もあるが、このレベルでは無理な注文だ。本作でメイクアップアーティストのカズ・ヒロはオスカーに輝いている。各キャストの見た目が“本物そっくりだから”という理由らしい。しかし、本国の観客ならばまだしも、こっちはその“本物”には縁が無いのでピンと来ないというのが実情。

 ジェイ・ローチの演出きキレもコクも無く、演技指導も上手くいっているとは思えない。シャーリーズ・セロン、ニコール・キッドマン、マーゴット・ロビーという人気女優を集め、敵役にはジョン・リスゴーを配するという贅沢なキャスティングながら、文字通りの“顔見世興行”に終わっている。やたらカラフルな映像デザインも、残念ながら作品の“軽量級らしさ”を強調するばかり。良かったのはコリーン・アトウッドによる衣装デザインぐらいだろうか。作品の主題にあまり合っているとは思えないが、それ自体にはとても訴求力があった。
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「さよならテレビ」

2020-03-02 06:28:53 | 映画の感想(さ行)
 少しも面白くない。観ている間は退屈だ。しかし、実はこの“退屈で面白くない”という本作の内容が、取り上げた題材をストレートに反映している。つまり、面白くないものを面白くないまま提示することによって、テーマの本質に迫ろうという、倒錯した興趣を創出しているのだ。その意味で、なかなか示唆に富んだドキュメンタリー映画ではある。

 「平成ジレンマ」(2010年)や「ヤクザと憲法」(2016年)などの話題作を手掛けた東海テレビが12作目のトピックとして選んだのは、自社の業務であった。現時点でテレビ番組製作の周辺で何が起きているのかを、自らの現場でカメラを回して探ろうという算段だ。しかしながら、製作者の気負った態度とは裏腹に、ここに映し出されるのは何ともパッとしないテレビ局員の“日常”である。



 前半に、キャスターが小学生相手に報道の役割を説くシーンがある。(1)事件・事故・政治・災害を知らせる。(2)困っている人(弱者)を助ける。(3)権力を監視する。以上の3つがマスコミの使命であるというのだが、言うまでもなくテレビ局がその役割を果たしているとは誰も思っていない。国際NGO団体の調査によれば、報道の自由度ランキングで日本はG7の中で最下位だ。

 そもそも、我が国ではテレビ事業は総務省の許認可を受けた免許が必要である。だから基本的に“お上”の意向や既得権益者の利害に大っぴらに逆らうことなど、出来るはずがないのだ。だから彼らが重視するのは、せいぜい視聴率ぐらいしかない。事実、映画の中では秒単位で視聴率が表示され、局員はそれに一喜一憂する。そして他局に勝ったの負けたのと大騒ぎだ(誠にナサケない話である)。

 映画は局アナと、いずれも非正規のベテラン記者と若い記者の3人を“主人公”として設定するが、彼らの働きぶりが何か興趣を生み出すかといえば、全くそうではない。それぞれ忙しく振る舞っているが、その仕事は大して世の中に役立っているとは思えない。特に、彼らが“頑張って”グルメリポートの番組を作るくだりは脱力する。



 いくら熱心に業務に励んでも、しょせん“ただの食レポ”である。視聴者にとってはどうでもいい情報に過ぎない。そんなことに力を注ぐより、他にすることがあると思うのだが、彼らは“立場上”そうするしかないのだ。このように、本作は退屈で平板な映像を積み重ねることにより、テレビ番組の制作現場というのがいかに“退屈で面白くないか”を鮮やかに描き出している。

 若者のテレビ離れが取り沙汰され、テレビを長時間視聴しているのは年寄りばかりではないかという話が持ち上がる昨今、実際にテレビ局の現場でカメラを回した結果“やっぱりテレビは終わってました”という、業界人が認めたくないような結論を導き出したこの映画は、とても野心的だと思う。

 かくいう私も、テレビというメディアにはほとんど興味を持っていない。見るに値する番組なんて、極少数ではないか。大半の者がテレビに無関心になっていく状況の中で、それでも“退屈で面白くない”日常を送るしかないテレビ局員の立場を思うと、むなしいものが込み上げてくる。
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「ジョジョ・ラビット」

2020-02-03 06:30:37 | 映画の感想(さ行)

 (原題:JOJO RABBIT )拭い難い違和感を覚える映画だ。やはり戦争をユーモアのネタにしたり、ファンタジー仕立てにするのは無理がある。しかも大昔の戦乱ならばともかく、ここで扱われているのは体験者が少なくない第二次大戦。まさに文字通りシャレにならない状況が展開し、到底承服できない。しかし、どう考えても失敗作にしかならない御膳立ての中で、ラストシーンだけは光り輝いていた。かくして、本作は駄作の烙印を押されずに済んだのである(笑)。

 第二次世界大戦が始まって数年経ち、当初好調だったドイツは連合国側の反撃を受けて次第に敗色が濃くなっていた。そんな中でも10歳のジョジョは立派なドイツ軍兵士になるため、ヒトラーユーゲントの訓練で奮闘する日々を送っていた。ある日、彼は訓練中に教官から“ウサギを殺せ”と命じられるが、そんな可哀想なことはできない。おかげで彼は周囲から“ジョジョ・ラビット”というあだ名をつけられ、冷や飯を食わされる。

 そんなジョジョの心の拠り所は、空想の中に登場するアドルフ・ヒトラーだった。戦地に赴いている父親の代わりに家を守っているジョジョの母ロージーは、実は反ナチス運動に加わっていた。ロージーは壁の裏の部屋にエルサというユダヤ人の少女を匿っていたところ、ジョジョが彼女を見つけてしまう。彼はどう対処したらいいか分からず、“友人”であるヒトラーに相談するのだった。

 訓練中のジョジョの悪戦苦闘ぶりや、思わぬ事故によって入院するくだり、友人ヨーキーとの掛け合いなどは、笑いを交えて軽快に描かれる。エルサとのやり取りも深刻さはあまり感じられない。終盤近くにはジョジョの住む町は市街戦に突入するのだが、悲惨さや残酷さは完全に抑えられている。

 戦争の実相ではなく、少年の成長をメインに描きたいという意図は分かる。しかし、斯様なライト感覚で良いわけがない。どう逆立ちしたって戦争は悲劇でしかなく、明るく捉えるべきではないのだ。しかも、本作はアメリカ映画。当然セリフは英語だが、これは無理筋だ。特に、ラスト近くで“侵攻してきたアメリカ兵と言葉が通じない”というくだりでは、両方英語を喋っているのに意思疎通が出来ないという、珍妙な場面が現出している。

 そもそも、ジョジョの空想の中に出てくるヒトラーにしても、いかにも“当事国以外の者が勝手にデッチ上げた”という造型で、余計なお世話でしかない(このネタをドイツ映画でやれば、それなりにサマになったとは思う)。だが、幕切れの処理にはヤラれてしまった。ある有名なナンバーがバックに流れるのだが、この曲の歌詞の内容、および曲が出来た背景などを考えると、実に感慨深い。映画全体がこのナンバーのプロモーション・ビデオだと考えると、ひょっとして納得できるかもしれない。

 ヒトラー役で出演もしているタイカ・ワイティティの演出は賑々しいが、深みが足りない。主人公に扮するローマン・グリフィン・デイヴィスは良くやっていたと思うが、サム・ロックウェルやスカーレット・ヨハンソン、アルフィー・アレンといった脇の面子はサマになっていない(だいたい、全員とてもドイツ人には見えない ^^;)。唯一印象的だったのが、エルサ役のトーマシン・マッケンジーで、早くも“ジェニファー・ローレンスの2代目”という声が出るほどの存在感と透明感を見せる。今後に期待したい。
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