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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「クライム・オブ・パッション」

2019-12-06 06:52:27 | 映画の感想(か行)
 (原題:Crime of Passion)84年作品。ケン・ラッセル監督のアヴァンギャルドな個性が全面展開している一編で、とても楽しめる。もちろん、通常のラブストーリーやサスペンス劇を期待して接すると完全に裏切られるが(笑)、同監督の持ち味を認識しているコアな観客にとっては、濃密な時間を堪能出来ること請け合いであろう。

 ロスに住むボビーとエイミーの夫婦は、2人の子供と一見平穏な家庭生活を送っている。しかし、実は夫婦仲は冷え切っていた。ファッションデザイナーのジョアンナは有能なキャリアウーマンに見えて、夜になるとチャイナ・ブルーという名の大胆な娼婦として街を闊歩する。ある日ボビーは、ひょんなことから企業スパイの疑いが掛かったジョアンナを密かに調査する仕事を依頼される。



 ジョアンナを尾行したボビーは、ジョアンナの二重生活を知って驚くが、同時に彼女の魅力のとりこになってしまった。一方、ジョアンナはピーターという奇妙な客となじみになる。彼は聖職者らしく、夜ごと娼婦たちの告解を聞いている。だが、やがて自身の価値観と相容れない存在のジョアンナに対し、ピーターは殺意を抱いてゆく。

 作者は、外的側面の裏側に潜む人間意識を執拗に追求しているようだ。映画の序盤に参加者が互いの悩みを告白し合うサロンのようなものが紹介されるが、それも“上っ面”に過ぎない。悩みなんてものは、多くは打ち明けた瞬間に各人の“仮面”の一部となってしまう。本当の内面は他人はもちろん当人にとっても把握するのは難しいのだ。

 その意味で、本作に於けるピーターの存在は欺瞞そのものである。人の悩みを聞いてやる立場だが、本当は何も分かっておらず、夜郎自大な振る舞いに出る。昼と夜の“仮面”を使い分けるジョアンナや、表面的に夫婦仲をよく見せるボビーも同様で、彼らは“裏の顔”こそが“本当の姿”だと思っているが、実はそれも“仮面”に過ぎない。アイデンティティを喪失して彷徨する人間像を、意地悪く描くラッセルの筆致は冴え渡る。終盤のトリック描写も鮮やかだ。

 ジョアンナに扮するキャスリーン・ターナーはまさに怪演で、二つの顔を毒々しく演じ分ける。この頃の彼女は絶好調だった。ピーター役のアンソニー・パーキンスも得意の変態演技で盛り上げてくれる。ジョン・ローリンとアニー・ポッツの演技も悪くない。音楽担当は何とリック・ウェイクマンで、彼らしい持ち味は控え目だが、しっかりと仕事をこなしている。
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「帰れない二人」

2019-10-26 06:52:35 | 映画の感想(か行)

 (英題:ASH IS PUREST WHITE )かつて注目作を放ったジャ・ジャンクー監督も、昨今はネタ切れのようだ。前作「山河ノスタルジア」(2015年)では冴えない題材を小手先の映像ギミックで糊塗しようとしたが(もっとも、そのことを本人は自覚はしていないと思われる)、この映画は本来のスタイルに立ち返ったものの、何ら新しい提案が成されていない。正直、長い上映時間が辛く感じた。

 2001年、山西省の大同に暮らすチャオは、街の顔役であるヤクザ者のビンと付き合っていた。ある日、敵対する勢力が放ったチンピラ連中にビンが襲われ、チャオは助けようとしてビンから預かっていた拳銃を威嚇発砲する。銃器不法所持の罪を被ったチャオは、懲役5年の判決を言い渡される。2006年に出所した彼女は、音信不通だったビンを探して長江の沿岸にある奉節に赴くが、彼は取引先の女と懇ろな仲になっていた。居場所が無くなったチャオは、新疆ウイグル自地区まで傷心の旅に出る。

 開巻からチャオが逮捕されるまでが、意味も無く長い。この間、筋書きが面白いわけでも、直截的な恋愛の描写があるわけでも、映像に見どころがあるわけでもなく、ただ漫然と画面が流れてゆくだけだ。そしてチャオが足を運ぶ奉節の奇観は目を引くが、これはこの監督が過去作品でも紹介していたモチーフなので、何ら驚きは無い。夜空にUFOが飛ぶ等の奇を衒ったシーンも、以前の作品の二番煎じである。

 ヒロインが旅の途中で出会う者達も、少しも印象に残らないし、出てくる意味も掴めない。後半、チャオがどうしてビンと再会したのか、どうやって大同に戻ったのか、それも説明されていない。また、終盤はいつの間にか時代設定が2017年になっているが、そこに至るプロセスが描かれていない。そもそも、チャオを映すパートが多い割に、彼女のプロフィールや性格が示されていない。これで登場人物に感情移入しろと言われても、無理な注文だ。

 かと思えば、21世紀に入ってからの中国社会の変節に関する描写も不十分だ。せいぜい奉節が三峡ダム建設に伴う水没地帯であったため、大規模な住民移動が実施されたという事実を紹介する程度。主役のチャオ・タオとリャオ・ファンの演技は、可もなく不可も無し。脇のキャラクターを演じる俳優達にも、目立った者は見当たらず。それにしても、この邦題は何とかならなかったのか。作品の内容を暗示しているわけでもなく、それ以前に井上陽水のナンバーと一緒ではないか(笑)。
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「限りなく透明に近いブルー」

2019-10-11 06:39:05 | 映画の感想(か行)
 79年作品。作家の村上龍には5本の監督作があるが、概ね評論家筋にはウケが悪く興行的にも低評価である。そのせいか、96年製作の「KYOKO」のあとは映画を撮っていない。ただし本作はその中でも一番マシな出来だと、個人的には思う。原作は村上のデビュー作で第75回の芥川賞受賞作だが、私は未読。ただし大まかなストーリーは知っている。

 作者の分身である、米軍基地の近くに住むリュウという青年が、麻薬とセックスにドップリと漬かった生活から、周囲の人間達との交流によって立ち直る(?)過程を描いている。まあ、話自体は取り立てて捻ったところはなく平易に進むのだが、個々の描写には見るべきものがある。



 特に興味深かったのが、黒人兵達との乱交パーティーの場面だ。黒人兵が日本人女性と絡むシーンで、これまでの映画ではあまりお目にかかれないような、黒人と東洋人との肌のキメの違いまでジリジリと出している演出には、少なからず驚いた。また、主人公が森の中で女友達のリリーと絡み合うシークエンスも、とてもキレイだ。赤川修也によるカメラが効果的に機能している。

 村上の仕事ぶりは冗漫な印象もあるが、異業種からの参入でしかも第一作であることを勘案すると、及第点であろう。星勝による音楽および既成曲の使い方も万全だ。主演の三田村邦彦は好演。リュウの屈折した内面を繊細なタッチで表現する。ヒロインに扮した中山麻理も、捨て鉢でありながら放ってはおけない存在感を醸し出していて好感触。なお、この2人は本作での共演が切っ掛けで交際がスタートし、翌80年には結婚にまで漕ぎ着けている(後に離婚 ^^;)。平田満や中村晃子、斉藤晴彦といった脇の面子も悪くない。

 この映画が地方で封切られたとき、同時上映はジャマイカ映画の「ハーダー・ゼイ・カム」(72年)だったらしい。まったく毛色の違う二本立てだが(そもそも、製作国が違う)、無軌道な若者が主人公である点だけは共通していると言える(笑)。昔はそういった“異色の抱き合わせ上映”というのが珍しくなかった。シネコン全盛の現在では考えられないことだ。
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「火口のふたり」

2019-09-28 06:29:36 | 映画の感想(か行)
 物語の設定、および登場するキャラクターが2人のみという思い切りの良さは興味をそそられた。しかし、中盤以降は監督と脚本を担当している荒井晴彦の“悪い意味での”持ち味が全面展開し、何とも釈然としない気分になる。ラストに至っては“なんじゃこりゃ”で、結局肩を落としたまま劇場を後にした。

 離婚して仕事も無くし、東京で無為な日々を送る永原賢治の元に、父親から電話が掛かってくる。従妹の佐藤直子が結婚するので、帰省して欲しいとのことだ。挙式まであと10日となる中、賢治は故郷の秋田に戻ってくる。直子に久しぶりに会い、新生活に向けての手伝いをする賢治だが、実は直子が東京の学校に通っている間、2人は恋愛関係にあった。



 片付けていた荷物から直子は一冊のアルバムを取り出すが、そこには2人の交情場面が写ったモノクロームの写真が収められていた。その頃のことを思い出した賢治は、直子の婚約者が戻るまでの5日間だけ、欲望のままに彼女と過ごすことにする。白石一文による同名小説の映画化だ。

 かつては“禁断の恋”めいたシチュエーションに身を置いたものの、今では賢治は鬱屈した生活に甘んじ、直子はさほど好きでもない相手と“早いところ子供が欲しいから”という消極的な理由で結婚を決める。この若くして人生に疲れたような2人が、何となく昔のように懇ろな仲になるという設定は、なかなか良い。しかも5日間というタイムリミットがある。人間、限定されたシチュエーションならば、捨て鉢な行動に走るというのも十分あり得る。とことん後ろ向きに過ごしてみるのも、また一興なのだ(笑)。

 しかし、後半から様子がおかしくなる。直子のフィアンセが自衛隊員で、しかも極秘の任務を与えられているというモチーフからして、かなり臭い。街には“イージス・アショア設置反対”のビラが貼られ、終盤にはこの国のカタチがどうしたの何のという、大仰なネタが振られる。挙げ句の果ては唐突に過ぎる幕切れを見せられ、憮然とした心持ちになった。

 かつて田中慎弥の小説「共喰い」の映画化で、天皇の戦争責任やら何やら余計なものを付与して観る者を脱力させた荒井は、ここでも似たようなことをやっている。企画に寺脇研が参加しているのも“ああ、やっぱりね”といった案配だ。

 主演の柄本佑と瀧内公美は好演。たった2人で、映画を支えている。だが、肝心の絡みの場面は盛り上がらない。前作「この国の空」(2015年)でもそうだったが、この監督はベッドシーンがそれほど上手くない。川上皓市の撮影は健闘していたとは思うが、終わり近くの巨大な発電用風車の場面は、同じ舞台の藤井道人監督作「デイアンドナイト」での同様の映像に及ばない。下田逸郎の音楽はそれ単体では決して悪くはないが、映画に合っているとは思えない。
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「恋の街、テヘラン」

2019-09-20 06:36:15 | 映画の感想(か行)

 (英題:TEHRAN:CITY OF LOVE )アジアフォーカス福岡国際映画祭2019出品作品。ドラマの設定とキャラクターの造型はとても面白い。しかしながら、それらを十分に活かすような筋書きにはなっていない。脚本をもう一捻りして訴求力を発揮して欲しかった。

 元ボディビルのチャンピオンで、今は若手の育成に専念するトレーナーのヴァヒドは、そのインパクトのある外見を武器に映画のオーディションに応募。見事に合格するが、映画はフランス資本で、テヘランでの撮影許可も下りていない。そんな状況で本業を休んで俳優業に専念出来るのか悩む日々だ。

 男性を対象にした美容エステサロンに勤めるミナは、太った冴えない女。気に入った男性客の連絡先を勝手に抜き出し、セクシーな声を使って架空の女に成り済ます。宗教歌手のハッサンはその美声を買われて葬式での歌唱を主な仕事にしているが、雰囲気と外観が“葬式臭く”なってしまい、婚約者にも逃げられる。そこで彼は出会いの機会を増やそうと、ウェディング・シンガーへの転身を試みる。

 生き方がヘタな中年男女の物語だ。3人の置かれた環境の描写は秀逸。ヴァヒドは若い弟子に入れ込むが、期待した結果にはならず、家では老いた父親との要領を得ないやり取りに終始。ミナの言動と外観は明らかに痛々しいのだが、“自分はこんなものじゃない!”と必死で自分に言い聞かせて暴走を続ける様子はスラップスティックな笑いを呼ぶ。

 優柔不断なハッサンのために周りの知り合いや親戚がいろいろとフォローしようとするものの、一度身に付いた“葬式臭さ”は容易に払拭出来ず、ストレスは溜まるばかりだ。3人は互いの面識は無いのだが、それぞれのエピソードが微妙にクロスする。だが、作者はそういう玄妙な“御膳立て”だけで満足しているようなフシがあり、3人の人生が絡み合って新たな局面に突入するとか、そういう思い切ったことをする様子は無い。そこが大いに不満だ。

 アリ・ジャベルアンサリの演出は丁寧で、終盤で大きな縫いぐるみを背負って街を歩くミナの描写に代表されるように、映像面でも健闘している。しかし、ここ一番でのパワーは不足している。主演の3人は好演。特にヴァヒド役のメーディ・サキは、大柄なマッチョ男ながら繊細な表情の演技も出来る。幅広いジャンルに適合しそうだ。
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「工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男」

2019-09-16 06:57:57 | 映画の感想(か行)

 (英題:THE SPY GONE NORTH)見事なポリティカル・サスペンスだ。昨年(2018年)公開された「1987、ある闘いの真実」や「タクシー運転手 約束は海を越えて」を挙げるまでもなく、韓国映画はこういうネタを扱うと、無類の強さを発揮する。政治ネタを忌避し、せいぜいが「新聞記者」などという低劣な作品でお茶を濁している日本映画とは大違いだ。

 92年、韓国陸軍の将校だったパク・ソギョンは、国家安全企画部のチェ・ハクソン室長の命令で、スパイとして北朝鮮へ潜入することを命じられる。表向きは軍を辞め、酒に溺れて身を持ち崩し、その後実業家として再起したという設定でプロフィールを確立し、95年に北京で北朝鮮の対外経済委員会の関係者と接触する。

 やがて、パクは北京駐在の対外経済委員会の所長リ・ミョンウンと会うことに成功。リ所長は経済的に苦しい状態にある北の政府を救うため、パクが持ちかけた南北共同の広告事業に興味を示す。そしてついにパクは金正日にも謁見し、この“商談”をまとめることが出来た。だが97年の大統領選に金大中が立候補したことにより、安企部の周囲が慌ただしくなる。今までの苦労が水の泡になると察したパクは、リ所長と共に一か八かの大勝負に出る。

 スパイ物に付き物のアクション場面どころか、色を添えるための美女の登場も抑えられている。主人公も二枚目ではない。それでいて、徹頭徹尾ハードボイルドで観る者を引き込む。実話を元にしているが、場を盛り上げるための創作的モチーフも多数挿入されていると思われる。実録物とフィクションの要素を高い次元で融合させた監督(脚本にも参画)ユン・ジョンビンの実力は端倪すべからざるものだ。

 南北双方の虚々実々の駆け引きには息をつく暇もなく、特に“贈答品”をめぐるやり取りには、その巧みさに唸った。北側にはチョン・ムテク課長という国家安全保衛部のスタッフも加わっており、彼を出し抜くためパクは周到に立ち回るが、その段取りには無理が見られない。さらには大統領選を前にしての南北の“談合”まで俎上に載せるなど、重層的な素材の扱い方には感心する。

 キャラクター設定も絶妙で、ディレンマに苦しみつつもミッションを遂行しようとするパクと、北の高官でありながら国民の窮乏を何とか救いたいと思っているリベラル派のリ所長が、不思議な友情で結ばれるくだりは説得力がある。敵役のチョン課長の意外な人間臭さも印象的だし、金正日が出てくるシーンなど、「007」シリーズでスペクターの親玉が登場する場面より盛り上がる。主演のファン・ジョンミンをはじめ、イ・ソンミン、チョ・ジヌン、チュ・ジフンらキャストは皆好演。チェ・チャンミンのカメラによる彩度を抑えた映像は効果的。“事件”後を描く感動のラストまで、存分に楽しませてくれる。
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「風をつかまえた少年」

2019-08-24 06:22:37 | 映画の感想(か行)

 (原題:THE BOY WHO HARNESSED THE WIND)題材は興味深く、展開に破綻は無い。キャストは皆好演だし、メッセージ性も万全だ。学校の体育館などで生徒たちに見せるには格好の作品かと思う。しかしながら、手練れの(?)映画ファンとしては物足りない。もっと精緻なドラマツルギーが欲しいところだ。

 2001年、アフリカ大陸南東部に位置する最貧国のひとつであるマラウイを大干ばつが襲う。農村に住む14歳のウィリアムは、飢饉による貧困で学費を滞納し、中学校を退学させられる。それでも勉強熱心な彼は、こっそりと学校の図書館に通い、自学自習に励む。彼はそこで一冊の本に出会う。それは風力発電に関する書物で、村にその設備を作れば、乾いた畑に水を引くことが可能になる。

 早速彼はプロトタイプを作成してラジオを鳴らすことに成功するが、父親はそんなウィリアムの行動を理解しない。干ばつによる被害は大きくなり、村では略奪が発生し、政府に惨状を訴えた族長は暴行に遭い、学校も閉鎖されることになる。風力発電を可能にするには、父親が所有している自転車の部品が必要だ。ウィリアムたちは必死で父親を説得しようとする。実在の人物ウィリアム・カムクワンバを描いたノンフィクション(2010年出版)の映画化だ。

 まず、映画の焦点が主人公の風力発電機の開発ではなく、主にマラウイの苦境の描写に向けられていたことに違和感を覚える。確かに、21世紀に入っても電気も水道も無い不自由な生活を強いられている人々がたくさんいることは問題だ。そして、不穏な政情が国民を苦しめていることも憂慮すべきことだ。

 しかし、それらは映画の核心ではない。題名通り、これは“風をつかまえた少年”の話のはずである。舞台背景ばかりに重きが置かれると、肝心のモチーフが描出不足になる。風力発電のメカニズムとは何か、果たして自転車のダイナモで用が足せるのか、一つの井戸から水を汲み出すことに成功しても、それで解決出来たのか等々、こちらが知りたいことは何も示されない。また、一見リベラルで、実は頑固だという父親のキャラクターがハッキリしていないのも不満だ。

 とはいえ父親役で出演しているキウェテル・イジョフォーは俳優として実績を積んではいるが、監督はこれが初めて。要領を得ない部分があるのは仕方が無いとも言えるし、第一作で取り敢えず手堅くまとめたのは評価すべきかもしれない。ウィリアムを演じるマックスウェル・シンバは健闘しているし、他の出演陣も良い。広大なアフリカの景色と、葬式時に出てくる民族衣装の者達の扱いは目を引いた。
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「ゴールデン・リバー」

2019-08-03 06:52:22 | 映画の感想(か行)

 (原題:THE SISTERS BROTHERS)何とも要領を得ない映画である。盛り上がる箇所は無いし、モチーフは珍妙だし、ラストに至っては完全に腰砕けだ。何のために撮られたのか、どういう観客を想定して製作したのか、まるで分からない。“ヨーロッパの監督が西部劇を撮ったらどうなるか”というケーススタディにさえ成り得ず、観終わって疲れだけが残る。

 1851年、兄チャーリーと弟イーライによる“シスターズ兄弟”は、凄腕の殺し屋として地元の西海岸オレゴン・カントリーではその名が知れ渡っていた。あるとき“提督”と呼ばれる彼らの雇い主から、連絡係のモリスが見張っているウォームという男を消すように命じられる。

 モリスはカリフォルニアの小さな町ウルフ・クリークで、ウォームと接触することに成功。理想社会の実現を目指すというウォームの意見にモリスが感服している間に、チャーリーとイーライは2人に追いついてくる。実はウォームは科学者で、黄金を作り出す化学式を発見していることを知った“シスターズ兄弟”は、モリスとウォームと組んで黄金を手に入れようとする。しかし、裏切りを知った雇い主は次々と刺客を送り込む。

 邦題およびポスターと惹句から、観る前はてっきり“黄金を手にした4人が、独り占めを狙って仲間割れ。横取りしようとする悪党達も現れて、バイオレンスとアクションが大々的に展開する娯楽編”だと思っていた。ましてや監督は「ディーパンの闘い」(2015年)で往年の任侠映画を“復刻”させたジャック・オーディアールだ。期待しない方がおかしい。ところが出来上がったのは、娯楽映画どころか作家性を前面に出したアーティスティックなものでもない、観ていて閉口するようなシロモノだった。

 そもそも、錬金術を可能にする知識を持った人間を、どうして始末しようとするのか分からない。利用する価値はいくらでもあるだろう。また“黄金を生成する液体”の成分は何で、その材料はどうやって調達したのか不明。何やら劇薬のようで、そのおかげで4人は窮地に陥るのだが、見終わってみれば独り相撲の感が強い。活劇シーンもパッとせず、気勢が上がらないまま迎えたラストは、まさに脱力ものだ。

 ジョン・C・ライリーにホアキン・フェニックス、ジェイク・ギレンホールという芸達者を揃えていながら、いずれも精彩が無い。映像面でも目立ったところは見当たらず、居心地の悪い2時間を過ごすハメになった。第75回ヴェネツィア国際映画賞で監督賞を獲得しているらしいが、その理由は見当が付かない。
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「幸福なラザロ」

2019-07-13 06:36:08 | 映画の感想(か行)

 (原題:LAZZARO FELICE)感想を書く際には、こういう映画が一番困る。何しろ、まるでピンと来ないのだ。面白かった、あるいは面白くなかったという印象さえ述べるのも憚られるような、自身のメンタリティの埒外にあるシャシンである。ただ、第71回カンヌ国際映画祭で脚本賞を獲得しているので、おそらく存在価値はあるのだろう。

 イタリアの山奥にあるインヴィオラータ村は、渓谷に囲まれ外の世界とは隔絶されていた。そこでは前近代的な農奴制が敷かれ、村人たちは領主であるデ・ルーナ侯爵夫人から搾取されていた。村の若者ラザロは人を疑うことを知らず、絵に描いたような善人だ。ある日、デ・ルーナ夫人の放蕩息子タンクレディが村を訪れる。彼はラザロと仲良くなり、退屈しのぎにデッチ上げた狂言誘拐に彼を引き入れる。ところが、急な発熱で足元が覚束なくなったラザロは崖から転落し、気を失ってしまう。彼が目覚めると、長い年月が経過しており、デ・ルーナ夫人の悪だくみが発覚して村人たちは全員村から出た後だった。

 ラザロが新約聖書の登場人物であることは知っているが、斯様に宗教ネタを突き詰めたような作劇では、こちらとしては正直“引く”しかない。映画の後半になると、村を離れて都会の住人になったかつての村人たちやタンクレディはそれなりに老けているのだが、ラザロは全く年を取っていない。それどころか、たびたび小さな“奇跡”を起こす。

 ラザロがスピリチュアルな存在であることは分かるのだが、一体何のメタファーになっているのか判然としない。かと思えばラストは意味不明のトラブルによって“退場”してしまう。宗教に詳しい観客にとっては腑に落ちる展開なのかもしれないが、門外漢の私にとっては最後まで“関係のない映画”であった。

 興味を惹かれる箇所をあえて挙げると、封建的な村から抜け出して自由になったはずの住民たちが、都会では社会の底辺で燻っているという点だ。結局、抑圧的な環境から逃れても、得られたのは“貧乏になる自由”だけだったわけで、皮肉な結果にタメ息が出る。

 アリーチェ・ロルヴァケルの演出は、上手いのか下手なのかよく分からない。ラザロ役のアドリアーノ・タルディオロは(宗教ネタにふさわしい神々しさこそないが)妙な存在感はある。あとどうでもいいことだが、村人たちが乗っているトラックが、見たことも無い三輪車であったのが少し印象的だった。
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「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」

2019-07-08 06:30:28 | 映画の感想(か行)

 (原題:GODZILLA:KING OF THE MONSTERS )お馴染みの怪獣たちが取っ組み合いをすること自体に価値を見出す観客(実は、私もその一人だ ^^;)ならば楽しめるだろう。当然、それ以外の者はお呼びではない。米国における興収がアメコミの映画化作品よりも低調であるのも、それと無関係ではあるまい。

 ゴジラとムートーの戦いから5年が経ち、以前から怪獣の調査を行ってきた秘密機関“モナーク”は政府や国連から怪獣をコントロールできなかったことに関して激しい追及を受けていた。それでも“モナーク”は世界各地に眠る怪獣の監視を続けていたが、その中の一つである中国の雲南省にある基地の地下では、モスラの幼虫が孵化していた。そこへ環境テロリストのアラン・ジョナ率いるテロ部隊が基地に乱入。エマ・ラッセル博士と娘のマディソンを拉致し、怪獣と交信する装置“オルカ”も強奪されてしまう。

 ジョナの狙いは“オルカ”を使って南極に眠る“モンスター・ゼロ”ことキングギドラをよみがえらせることだ。“モナーク”の幹部である芹沢猪四郎博士は、エマの夫で科学者のマークに協力を要請するが、その間にキングギドラは覚醒。かつてギドラと覇を争ったゴジラが戦いを挑む。さらには、メキシコの火山島ではラドンが出現。こうして怪獣バトル・ロワイアルがワールドワイドに展開する。

 バトル場面が夜間中心であるのは不満だが、それでも往年の東宝の怪獣オールスターズが画面狭しと暴れ回るのは壮観だ。何よりかつての「ゴジラVSキングギドラ」(91年)みたいにギドラ氏が放射能を浴びた小動物の化身ではなく、ちゃんと“宇宙からの侵略者”という設定に戻っているのが嬉しい。

 しかし、人間側のドラマはあまりにもお粗末だ。ジョナの目的はハッキリとせず、エマが敵に寝返った理由も分からない。芹沢博士の言動は元祖「ゴジラ」(1954年)を下敷きにしているとはいえ、結局は不自然に終わる。極めつけは最後のボストンでの戦いのシーンで、マークとエマそしてマディソンの一家の行動は支離滅裂。事態をややこしくするだけだ。

 マイケル・ドハティの演出は深みは無いがテンポがある。カイル・チャンドラーにヴェラ・ファーミガ、ミリー・ボビー・ブラウン、渡辺謙、チャン・ツィイーといったキャストもまあ良いだろう。もちろん続編は作られるのだが、困ったのは四大怪獣以外の面々の造型がイマイチなこと。またムートー(前作とは別個体)なんか出すよりも、昔の東宝怪獣映画からもっとキャラクターを“引用”してほしいものだ。

 とはいえ、伊福部昭による“ゴジラのテーマ”はフィーチャーされるし、古関裕而作曲の“モスラの歌”も流れるし、ブルー・オイスター・カルトの“ゴジラ”も鳴り響く。その点は良かった。
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