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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「子どもたちをよろしく」

2020-04-11 06:25:22 | 映画の感想(か行)

 軽佻浮薄なシャシンばかりが幅を利かせる昨今の邦画界にあって、あえて硬派でシビアな題材を扱おうとした、その姿勢は良い。しかし、出来はよろしくない。物語の設定が作者の頭の中だけで組み立てたようなもので、展開も独り善がり。現実を反映しているとは、とても思えない。結末近くになってくると、製作意図さえ怪しくなってくる始末だ。

 群馬県の地方都市。デリヘルの運転手である貞夫は中学生の息子の洋一と一緒に暮らしているが、重度のギャンブル依存症で、妻にはとっくの昔に逃げられている。貧乏暮らしを強いられる洋一は、クラスメイトからの手酷いイジメに遭っている。イジメっ子の一人である稔は、父親の辰郎と義母、そして義母の連れ子である姉の優樹菜と生活しているが、父親は酒浸りで家族に暴力を振るっている。稼ぎの無い辰郎の代わりに、優樹菜は皆に内緒でデリヘル嬢として働いている。その運転手が貞夫だった。ある日、稔は家の中でデリヘルの名刺を拾う。姉はいったい何の仕事をしているのか、疑問を抱いた彼の胸中は穏やかではなくなる。

 二組の家族が風俗業を通じて微妙にクロスしてゆくという段取りは、トリッキィではあるが現実感は皆無だ。そして、イジメの場面やそれぞれの親のダメさ加減、洋一と稔の造型など、もう絵に描いたようなステレオタイプである。

 おそらく作り手は、家庭(主に親)に問題があるからイジメは発生すると思っているのだろう。だが、それは断じて違う。イジメというのは、学校のような集団生活の場ではいつでもどこでも起こり得るのである。つまりは“イジメがあるのが自然な状態”なのだ。そこを認識してから問題解決を図らなければならない。

 その意味で、いかにも家庭に関して大きな屈託を抱えているような稔よりも、一緒になって洋一をイジメる、普通の家庭で育ったような他の連中の方を掘り下げるべきだった。映画は中盤を過ぎると“不幸のための不幸”を強調したような無理筋の展開が目に余るようになり、ラストの扱いに至っては呆れ果てた。この御為ごかしの筋書きで、作者は何を訴えたかったのか。これじゃ単なる自己満足ではないか。

 隅田靖の演出は一本調子で、メリハリに欠ける。深刻な内容なのに、どうにもワザとらしい。企画担当が寺脇研と前川喜平なので、まあ仕方が無いかと思わせる中身である。鎌滝えりに杉田雷麟、椿三期といった若手には覇気が見られず、斉藤陽一郎に村上淳、有森也実などの大人のキャストも特筆すべきものがない。とにかく、ハードなネタをモノにしようと思うのなら、まずは現実を見据えることだ。机上の空理空論など、お呼びではない。
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「黒い司法 0%からの奇跡」

2020-03-23 06:33:00 | 映画の感想(か行)

 (原題:JUST MERCY)正攻法の社会派映画で、観た後の充実感が大きい。この作品がアカデミー賞候補にならなかったことが不思議だ。そして、ここで描かれたことがほんの30年ばかり前の出来事であることも驚く。アメリカという国は、まだまだ底知れぬ闇を秘めているのだろう。

 80年代後半のアラバマ州。林業に従事していた黒人男性ジョニー・Dことウォルター・マクシミリアンは、突然逮捕される。白人の少女を殺害したという容疑だ。ところがウォルターは全く身に覚えが無い。彼は激しく否認するが、法廷は死刑判決を下す。そんな中、ハーバード法科大学院を出たばかりの新人弁護士ブライアン・スティーヴンソンは、大手事務所のオファーを断り、死刑囚の支援をしているNPOのあるアラバマ州に赴任する。

 ブライアンは刑務所でウォルターと出会い、彼が有罪である証拠がほとんど無いことに驚愕する。ブライアンはNPOのスタッフであるエヴァと協力して法律事務所を設立。ウォルターを救うべく、本格的に活動を開始する。ブライアン自身の手によるノンフィクションの映画化だ。

 アラバマ州といえば、ロバート・マリガン監督の「アラバマ物語」(1962年)の舞台になった場所だ。あの映画の時代設定は1930年代で、同じく主人公は弁護士。白人女性殺害の容疑で黒人男性が起訴されるという設定も似ている。ところが「アラバマ物語」の時代から半世紀以上経っても、事態はあまり変わっていないのだ。

 ウォルターの有罪を示すものは、たった一人の証言のみ。それもかなり怪しい。何しろ物的証拠さえ存在しないのだ。ブライアンが黒人であるという理由で、弁護士であるにも関わらず刑務所で身体検査される屈辱。黒人への差別を隠そうともしない地元の警察と検察。さらには新たな証人も別件で逮捕されるという、理不尽な出来事のオンパレードだ。

 ただし、本作の内容は不正を告発するだけに終わっていない。法曹関係者としてのブライアンの矜持をはじめ、ウォルターのプロフィールとその家族の描写、逆境に負けないエヴァのプライド、さらには他の死刑囚の心情に至るまで、各登場人物の掘り下げが実に深いのだ。特に、ウォルターの独房の両隣にいる囚人の扱いや、根拠薄弱な証言をした者の屈折した内面など、見事な洞察と言うしかない。

 デスティン・ダニエル・クレットンという監督の仕事ぶりを今回初めて見たわけだが、隙の無い作劇で高い手腕を感じさせる。ラストシーンの扱いと、それに続く各キャラクターの“その後”を紹介する幕切れの処理は、大きな感銘をもたらす。主演のマイケル・B・ジョーダンとジェイミー・フォックスの演技は素晴らしい。ティム・ブレイク・ネルソンにロブ・モーガン、ブリー・ラーソンといった他のキャストも万全だ。ブレット・ポウラクのカメラが捉えた、南部の気怠い雰囲気。ジョエル・P・ウエストの音楽および既成曲の使用も万全だ。
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「グエムル 漢江の怪物」

2020-03-15 06:31:21 | 映画の感想(か行)
 (英題:THE HOST)2006年作品。決して出来の良い作品ではないが、ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」(2019年)に繋がる製作動機のバックグラウンドを探る意味で興味深い映画である。しかも、怪獣映画という娯楽作品としての体裁を保ちつつ、作家性の発露にも手を抜いていない姿勢は認めて良いと思う。

 在韓米軍が主宰する研究所が、余った有毒物質を大量に漢江に投棄した。やがてソウルの漢江河畔に、正体不明の巨大生物の目撃例が報告される。そして休みを過ごす家族連れ等が川辺に集まった日、漢江から突如両生類に似た怪獣が上陸して人々を襲う。河川敷で売店を営むパク一家の末娘ヒョンソも、そのモンスターにさらわれてしまった。



 死んだと思われたヒョンソだが、怪物の巣である下水道から携帯電話で助けを呼んでいることが判明。パク一家は救出作戦に乗り出す。一方、在韓米軍は怪物は未知の病原菌を持っていると宣言。感染したとされるパク家の長男カンドゥを捕えようとする。

 怪獣映画にしては、タッチが暗い。もちろん、やたら明るくする必要は無いのだが、この辛気臭さはやりきれない。パク一家は当局側から追われながら怪物を退治しようとするのだが、設定こそスリリングながら演出のフットワークが重い。そして展開が遅い。終盤になってようやく盛り上がるが、そこまでの段取りがまどろっこしいため全体的な評価を押し上げるには至らず。

 しかしながら、この映画の設定にはこの監督らしさが出ている。パク一家の境遇は「パラサイト」の主人公たちと似ており、地下道の場面に多くが割かれているのも共通している。家族愛を前面に出していることも同様だ。カンドゥたちは金持ちに“寄生”したりはしないが、代わりに韓国社会にしっかりと“寄生”しているものが描かれている。それは米国だ。

 米軍は自らの失敗を覆い隠すように、病原菌だの何だのといったデマを流す。そして当然のように韓国側の捜査陣を牛耳る。このあたりの裏事情がパク一家によって明らかになるという展開は、韓国の観客にとって一種のカタルシスになるのだろう。彼の国では観客動員数1,300万人を突破し、歴代観客動員数第6位を記録したというのも納得出来る。

 演技陣では何といってもカンドゥ役のソン・ガンホが目立っている。ポン・ジュノ監督とのタッグも堂に入ったもので、活き活きとスクリーン上を動き回る。ピョン・ヒボンやパク・ヘイルといった脇の面子も良いのだが、デビュー作「ほえる犬は噛まない」(2000年)でも組んだペ・ドゥナの扱いは面白い。アーチェリーの選手でもあるカンドゥの妹ナムジュを演じているが、終盤にちゃんと見せ場を用意しているのは嬉しい。
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「風の電話」

2020-02-10 06:43:00 | 映画の感想(か行)
 作劇上の欠点がかなり目立つ。その意味では、諏訪敦彦監督が前に“日本で”撮った傑作「M/OTHER」(99年)と比べれば質的に少し落ちる。何しろタイトルにある“風の電話”そのものが、終盤に取って付けたように出てくるだけなのだ。しかしながら、少なくない瑕疵を余裕でカバー出来るほどの切迫したテーマの設定と大きな求心力により、見応えのある映画に仕上がっている。キャストの力演も見逃せない。

 17歳の女子高生ハルは、幼い頃に東日本大震災で家族を亡くし、今では故郷の岩手県大槌町を離れて広島県呉市に住む叔母の広子のもとに身を寄せている。ある日、ハルが帰宅すると台所で広子が倒れていた。病院に運ばれたが、意識が戻らない。突然一人ぼっちになってしまったハルは自暴自棄になるが、通り掛かった軽トラックを運転する公平に助けられる。



 公平と別れた後、彼女は意を決して大槌町に戻ることにする。ヒッチハイクで道程を進めるハルはさまざまな人々と関わり合うが、やがて彼女は大槌町浪板海岸にあるという、死んだ者たちに想いを届ける電話ボックス“風の電話”の存在を知る。

 入院中の叔母を放ったまま長い旅に出ようとするハルの行動は無理があるし、制服姿のままヒッチハイクするのは危うい。道中で出会う者たちは(彼女にちょっかいを出す不良どもを除けば)なぜか皆善良だし、そもそも広島からの長い行程が具体的に表現されているとは言い難い。それでも、この映画には瞠目すべき吸引力がある。

 西日本豪雨の被害者やかつての原爆禍の体験者、あえて困難な道を歩もうとする姉弟や帰る祖国も喪失したクルド人難民、そしてハルと同じく家族を震災で失った福島第一原発の元従業員。彼らの立場はバラバラのようでいて、社会から阻害されているという点では一緒である。何の落ち度も無いのに、理不尽な状況によって虐げられている。一見、復興が進んだように見える東北の住民にしても、心の中には重い澱が溜まっている。



 ハルの旅は、こうした恵まれない人々の実相を浮かび上がらせると共に、我が国が陥っている暗鬱な構図を浮き彫りにする。そして、そんな境遇にあっても何とか前を向こうとする彼らの姿を目撃することによって、ハルもまた明日を生きる決心をするのだ。

 諏訪の演出は綿密な脚本を用意せずセリフの多くをアドリブで処理するという独特のものだが、それが上手くいっていない箇所はあるものの、インパクトの強いシークエンスをいくつか創造することに成功している。特にラストのハルの独白には、観ているこちらの心が揺すぶられた。また、道中知り合った元原発従業員の自宅でハルが自分の家族の幻を見る場面や、幼い頃の友人の母親とハルが出会うシーンは、映像の喚起力もあって感動を呼ぶ。

 ハルに扮するモトーラ世理奈は初めて見る女優だが、独特の風貌と静謐なオーラをまとった逸材で、今後を大いに期待させるものがある。本年度の新人賞の有力候補だ。西島秀俊に三浦友和、渡辺真起子、山本未來、占部房子など他のキャストも好演。そして西田敏行はこれまでお目にかかったことがない“素”の演技に専念し、見事に“福島のオッサン”になりきっていて驚いた。世武裕子の音楽も良い。第70回ベルリン国際映画祭“ジェネレーション部門”出品作品。2020年の劈頭を飾る力作である。
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「恋人たちの予感」

2020-01-05 06:25:51 | 映画の感想(か行)

 (原題:When Harry Met Sally... )89年作品。ロブ・ライナー監督の、おそらく全盛期の一作。ノーラ・エフロンの絶妙な脚本を得て、弾けるような恋愛模様を謳い上げる。キャストの好演も相まって、鑑賞後の満足度は実に高い。

 77年、シカゴの大学を卒業したばかりのハリーとサリーは、偶然に同じ車でニューヨークまで出掛けることになる。しかし初対面だった2人の相性は最悪で、ことごとく意見は対立。目的地に着くと、早々に別れてしまう。5年後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港で恋人ジョンと一緒にいたサリーは、思いがけずハリーに再会する。

 その時は2人とも互いの名前を覚えていたことに驚くが、乗り込む飛行機が同じで、しかも席が隣り合わせ。ハリーとサリーはまたしても口論になるが、結婚を控えていたハリーはどこか余裕があった。さらに5年後、離婚直前のハリーと、失恋したサリーがまたしても再会した。これも何かの縁ということで2人は友達同士になろうとするが、やっぱり何か違うと思い始める。

 自身と正反対のキャラクターを持つ異性に惹かれるというのは、よくある話である。ところが、そんな場合は初めから上手くいくことはあまり無い。互いに反発してケンカ別れするのがオチだ。ただし、そこを何とか我慢して歩み寄れば、最良のカップルになることもある。

 本作の場合、自分の本当の気持ちが分かるまで約10年を要したという、まるで大河ドラマみたいな(笑)恋路をリズミカルに追っている。そもそも、2回目に会ったときそれぞれの名前を覚えていたという時点で2人は状況を把握して然るべきだと思うのだが、そうならないのが何とも面白い。

 さらに、三度目の邂逅を経て2人はなおも“友人関係”というモラトリアムな位置に留まろうとするのだから、この筋金入りの優柔不断ぶりには笑ってしまった。また男女間に友情は成立するのかという余計なモチーフに拘泥するに及んで、その変化球の連投には手を叩きたくなる。まったく、どこまで寄り道すれば気が済むのか。

 ライナーの演出は淀みがなくドラマをテンポ良く進ませる。主演のビリー・クリスタルとメグ・ライアンは絶好調で、ギャグの繰り出し方も堂に入っており、大いに楽しませてくれる。キャリー・フィッシャーやブルーノ・カービーも抜群のコメディ・リリーフだ。バリー・ソネンフェルドのカメラによる美しい映像と、ハリー・コニック・ジュニアの音楽が場を盛り上げる。まさにラブ・コメディの金字塔だ。
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「カントリー」

2019-12-29 06:33:37 | 映画の感想(か行)
 (原題:COUNTRY )84年作品。派手な見せ場はなく、展開も抑揚に乏しいと思われるのだが、題材は興味深い。30年以上前の映画ながら、現在のアメリカの状況を暗示しているような内容だ。また各キャストも持ち味を発揮している。

 アイオワで農家を営むギルとその妻ジュエルは、小麦を収穫中に竜巻に襲われる。危うく難を逃れた2人だったが、収穫は激減してしまう。更生局はそんな彼らを助けるどころか、収穫代金を差し押さえる。地方管理官のフォーダイスからは、家や土地を手放して負債の精算をすすめられる始末だ。隣家の夫婦は自己破産に追い込まれ、ギルの助力もむなしく一家の主であるアーロンは自ら命を絶ってしまう。



 更生局は容赦なく収穫減額分の督促状をギルに送り付けるが、ギルはヤケを起こして家出。残されたジュエルは、父親のオーティスに励まされ、理不尽に競売を断行しようとする更正局と戦うことを決心する。彼女は同じ窮乏に喘ぐ農家を一人一人説得し、当局側と対抗すべく結束する。

 20世紀に入ってフロンティアの時代はとうに過ぎ、農民たちは目の前に広大な土地を見せつけられても、自身では開拓はできない。事業を始めるには資金がいる。当局側や金融機関は気前よく貸し付けているように思えたが、天災などで上手くいかなくなると全責任を農民たちに押し付け、資金の回収に走る。

 そんな理不尽な図式は現在も尾を引き、今や大規模化や機械化・省人化投資ができる大資本でなければ、この地域では農業は採算が取れないらしい。当然、一般ピープルの不満は募る。そんな中西部ラストベルトの状況に付け込んで票を掘り起こしたのがトランプの一派なのだろう。

 映画ではジュエルの奮闘により事態は好転する兆しを見せる。だが、それはあくまでも“局地的”なもので、全体を覆う抑圧的な空気はそのままだ。トランプ政権がこの状態をどれほど改善したのかはハッキリと分からないが、基本的な図式は変わらないと思われる。

 リチャード・ピアースの演出は地味だが、ドラマ運びに破綻は見られない。主演のジェシカ・ラングとサム・シェパードは力演で、当時2人は私生活でもパートナーだった。デイヴィッド・M・ウォルシュのカメラがとらえた中西部の風景は素晴らしく、チャールズ・グロスの音楽も効果的。特にサントラ盤は、当時トレンディ(?)だったウインダム・ヒルレーベルのミュージシャンを多数動員していたことを思い出す。
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「カツベン!」

2019-12-27 06:52:00 | 映画の感想(か行)
 まったく面白くない。それどころか、神経を逆撫でされて愉快ならざる気分になる。いくら周防正行監督がここ約10年間不調だったとはいえ、今回は題材が映画そのものであり、映画人としてはまさかこのネタでスベるはずがないと予想していたのだが、甘かった。もはやこの監督に多くを期待するのは、無理な注文であると確信した次第。

 大正初期。関西の小さな町に住む俊太郎は、子供の頃から活動弁士になることを夢見ていたが、大人になってやっていることといえば、映画興行の一座を装った窃盗団のニセ弁士だった。警察に追われた際に一味が奪った大金と共に逃げ出した俊太郎だが、彼が流れ着いた先は隣町のライバル映画館に押されて閑古鳥が鳴いている青木館だった。そこで住み込みで雑用を任される彼に、専任弁士のピンチヒッターとして観客の前に立つチャンスがめぐってくる。



 けっこうな額の金を手にしていながら、主人公は高飛びすることもなく、この地域をウロウロしているのがまず納得出来ない。一味のボスをはじめ、それを追う警部も近くにいるにも関わらずである。しかも青木館には伝説の名弁士がいて、若手女優は専任弁士と交際しており、映画監督も当地に滞在しているという、この超御都合主義には呆れるばかりだ。

 後半は金をめぐる追っかけ劇になるが、これが緊張感のカケラも無い。繰り出されるギャグも、滑ったの転んだのという低レベルなものばかりで、弛緩した段取りも相まってクスリとも笑えない。だいたい、弁士に憧れていながら長じて平然と泥棒の片棒を担いでいた俊太郎に、感情移入出来る余地などありはしない。

 そして最大の不満点は、活動弁士というシステムに対するハッキリとした批判精神が見当たらないことだ。劇中で弁士が“駄作でもカツベン次第で傑作になるのさ”とか“映画はそれ自体で完成されたもので、カツベンは余計なものだ”とかいう意味のセリフを吐くことでも分かる通り、活動弁士を擁した上映は本来の映画興行とは違う“演芸”なのだ。事実、主人公も嬉々として映画の本筋とは関係ない解説を客の前で敢行する。ある意味、これは映画をバカにしていると思う。

 その不遜な姿勢は中盤に悪者によってバラバラにされたフィルムを繋ぎ合わせ、支離滅裂な内容の“映画もどき”を堂々と劇場で公開するくだりで最高潮に達する。いったいこれは何の茶番なのだろうか。ズタズタにされた映画を上映してウケを狙うという、映画作家として最もやってはいけないことを堂々と実行した時点で、本作のワーストテン入りは決定したようなものだ。

 主演の成田凌をはじめ、井上真央に渡辺えり、黒島結菜、小日向文世、永瀬正敏、竹野内豊、高良健吾、竹中直人と悪くない面子揃えていながら、いずれも精彩を欠く。それにしても、劇中で登場人物達がフィルムのことを“ふいるむ”と発音していたのが気になった。当時はそう読んでいたのかもしれないが、いずれにしても気分が悪い。
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「家族を想うとき」

2019-12-22 06:59:02 | 映画の感想(か行)

 (原題:SORRY WE MISSED YOU )引退宣言を撤回したケン・ローチ監督が「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)に続いて撮った本作は、前作よりも切迫度が増している。もはやダニエル・ブレイクのようなヒーロー的な振る舞いをする者はおらず、一般の小市民が窮地に陥ってゆく様子を定点観測するのみだ。それだけに、インパクトが高い。

 ニューカッスルに住む中年男リッキーは、マイホーム購入の夢を叶えるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立することを決める。しかし、自営業者とは名ばかりで、実際は本部からコキ使われる毎日だ。

 介護福祉士である妻アビーの車を売り払って輸送用バンを買うが、それがアビーの仕事を圧迫することになり、働き詰めのまま高校生の長男セブと小学生の長女ライザ・ジェーンと話をする時間も無くなってしまう。やがてセブが学校で問題を起こすが、リッキーとアビーは多忙のためその対応も出来ない。ある日、リッキーが仕事中にトラブルに遭遇。しかし、本部はそんなことにお構いなしに彼に新たなノルマを課すのだった。

 観る者によっては、この家庭の有様は“甘い”あるいは“恵まれている”と感じるかもしれない。夫婦仲は良いし、長男は不祥事を起こすものの、子供たちは親思いだ。それどころか、リッキーはセブに対して今まで手を上げたことさえ無い。これが少しでも問題のある家庭だったら悲劇性はさらに大きくなるところだが、作者としては善良な庶民と理不尽な搾取のシステムとを対比する意味でこういう設定にしたのであろう。また、それは成功していると思う。

 グローバリズムが幅を利かせ、全てが効率一辺倒。しわ寄せはリッキーのような労働者に来るのだ。冷血に見える本部のスタッフだって、根っからの悪人ではない。彼らも職務に忠実に従っているだけだ。しかし、社会の根幹が人間性を阻害する構造に移行しているため、皆頑張れば頑張るほどスパイラル式に事態は悪化する。

 儲けているのは一部の“上級国民”だけで、落ちこぼれた者たちを“自己責任”という御題目で切り捨てるのみ。この構図はイギリスだけではなく、世界中を覆っている。特に我が国は酷いと思うのだが、映画作家たちはそんな事態に対し見て見ぬ振りを決め込んでいるようだ。

 ローチの演出は堅牢そのもので、一分の隙も無い。主役のクリス・ヒッチェンズとデビー・ハニーウッドは地味ながら、優れた演技を見せる。ジョージ・フェントンの音楽も効果的だ。そして、劇中ではこの原題の意味するところが示されるが、それが何とも切ない。観る価値十分の、英国の秀作だ。
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「ゴーストマスター」

2019-12-20 06:56:47 | 映画の感想(か行)

 お手軽なB級ホラー映画であり、脚本も演出も大したことはない。しかしながら、映画ファンおよび映画関係者にとってはちょっと無視出来ないネタを取り上げており、その点は評価したい。ブリュッセル・ファンタスティック国際映画祭をはじめ多数の海外映画祭に正式出品されたのも、何となく分かるような気がする。

 主人公の黒沢明は、その大それた名前とは裏腹に軽佻浮薄なラブコメ映画の製作現場で助監督としてこき使われる日々を送っている。しかし、彼は一途なホラー映画のファンでもあり、いつの日にか自分で監督しようと執筆中の脚本「ゴーストマスター」をいつも持ち歩いていた。山奥の廃校で「僕に今日、天使の君が舞い降りた」なるお子様向けラブコメ映画の撮影中、主演の勇也が製作側との“意見の相違”でドロップアウト。何とか仲を取りなそうとする黒沢だが、ひょんなことから自分には才能が無く、また映画を撮る機会など巡ってこないことを知る。

 絶望と悔しさで泣きながら走り出して転倒した黒沢だが、その際の血のしずくが「ゴーストマスター」の脚本に垂れると、なぜか悪霊が召喚されてしまう。その魔物は勇也に取り憑き、映画のスタッフとキャストを次々と血祭りに上げるのであった。

 どうして冴えない主人公の書いたシナリオに悪霊が降臨してくるのか分からないし、その後の展開も支離滅裂。似たような設定の中田秀夫監督「女優霊」(96年)のような、不条理な恐怖をジワジワと描き出そうという能動的な姿勢は見られず、他の映画からの(あまり効果的とは思えない)引用やら、笑えないギャグやらが目白押しで、観ていて脱力する。この手の映画に付き物の特殊効果はチープで、その見せ方にも工夫が足りない。

 だが、ドラマの前提を通じて、あろうことか現在の日本映画の問題点を焙り出しているあたりはアッパレだと思う。黒沢たちが関わっているのは、毒にも薬にもならない“壁ドン映画”だ。ウェルメイドに仕上げる必要は微塵も無く、人気若手タレントを並べて観る者に“胸をキュンキュン(?)”させればヨシという、きわめていい加減な姿勢が槍玉に挙げられている。

 しかも、予算は最低レベルでスタッフの疲弊度はブラック企業と同等。プロデューサーは黒沢みたいな(少なくとも)やる気はある者の努力を認めない。カメラマンに至っては、映画一筋に生きてきた自らのキャリアを後悔する有様だ。多少の誇張はあるとしても、これが映画製作の現状報告であることは間違いないだろう。冒頭に思いっ切り“壁ドン映画”をバカにするシークエンスを挿入させるなど、ヤケクソとも思える作者の開き直りが感じられる。

 監督はこれが長編デビュー作になるヤング・ポールだが、第一作目で堂々と内部告発に走るとは、ある意味爽快だ。主演の三浦貴大は頑張っている。ヒロイン役の成海璃子も(久々にお目にかかるような気がするが)魅力的。川瀬陽太や柴本幸、手塚とおる、麿赤兒といった脇の面子も悪くない。面白いと思ったのは勇也に扮する板垣瑞生で、見かけは“ラブコメ要員”そのものながら、頑張ってイロモノに徹しているあたり、なかなか見どころがある。
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「国家が破産する日」

2019-12-16 06:32:45 | 映画の感想(か行)

 (英題:DEFAULT )力作ぞろいの昨今の韓国製社会派ドラマの中では幾分軽量級に思われるが、それでも題材の取り上げ方やキャラクター設定、そして重大な問題提起など、見逃せない点が多い。特にアジアの経済情勢に対して少しでも関心のある向きは、絶対にチェックすべき作品だと思う。

 97年秋、韓国中央銀行の通貨政策チームのリーダーであるハン・シヒョンは、一見好調である韓国経済が実はバブルでしかなく、近いうちに破綻することを突き止める。シヒョンは早急に国民にこの危機を知らせるべきだと関係省庁に主張するが、財務官僚は激しく反対し、大統領府も耳を貸さない。一方、持ち前の“野生のカン”で危機を見抜いた若手銀行員のユン・ジョンハクは、早々に職を辞し独自に投資ファンドを立ち上げる。

 同じ頃、町工場の社長ガプスは大手百貨店から大量の発注を受けるが、決済が手形だと聞いて躊躇する。しかし、話を早めに進めたい共同経営者の要請により、うっかり契約してしまう。やがてムーディーズの韓国の格付けがA1からA3に下落。主要企業が次々に倒産し、不況の波が国中を覆う。97年に発生したアジア通貨危機を描いたチェ・グクヒ監督作。

 予算があまり掛けられていないのか、シヒョンが立ち回る場所は中央銀行の執務室や官公庁とは思えないほどチープだ。参加しているエキストラの数も少なく、大作感には欠ける。しかしながら、取り扱っているネタはすこぶる興味深い。

 シヒョンたちが必死になって訴えても、当局側はもちろんマスコミも黙殺する。それどころか、国家的危機が迫っていながら“これで構造改革の口実が出来た”と嘯く官僚や政治家もいる始末で、ついにはIMFの介入を招いて資本市場の全面開放を強要される。つまりはマネー資本主義とグローバリズムの暴走が一国の経済を侵食してゆく過程を容赦なく描いているわけで、素材の現実味は究極レベルである。

 そして主人公を女性に設定しているのもポイントが高い。シヒョンがいくら有能でも、女は軽く扱われてしまうのだ。対する財務次官はグローバル化による貧富の差の拡大を平然と受け入れる。こういう“非国民”の存在こそが諸悪の根源であるという作者の怒りが全編に漲っている。また、3つのエピソードがバラバラに展開しているように見えて、実は微妙なところで繋がっているという作劇も面白い。

 主役のキム・ヘスは本国では有名女優らしいが、スクリーン上でお目にかかるのは初めて。評判通りの達者な演技を見せる。ユ・アインやチョ・ウジン、そしてIMF専務理事に扮したヴァンサン・カッセルなど、他のキャストも万全だ。時制が現代に移る終盤はこの問題がいまだに尾を引いていることが如実に示されるが、翻って日本の状況はいったいどうなのか。政界も財界もマスコミ業界も、内実は“非国民”のオンパレードだ。映画界はそんな事実から目をそらし、毒にも薬にもならないシャシンを数多く垂れ流すのみ。こと社会派映画のレベルに関しては、韓国に大きく水をあけられてしまった。
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