ここ数日、天気が悪かったですから。寒いシーズンだと富士山が良く見えるのですが、天候が温かくなっていくにつれ、富士山はなかなかお目にかかることができなくなってしまいます。
今、この時期が、富士山の「旬」なのかもしれません。
昨日、本学からアンケートが送付され、その内容を返信したのだが・・・
アンケートの2つ目に「特に興味を持てた科目を選択ください。(複数選択可)」というのがあった。で、興味のある科目を開講されているリストから選択するのだが、なんと、履修したすべての科目を選択してしまったのだ!
今までの私の学びからすれば、どの科目も、初めてのものばかり。「人間学」と標榜しつつも、私には、「宗教学」に近かったのかもしれない。でも、「宗教学」は、本学における「人間学」を構成する3つの柱の1つにすぎないのだが。
本学の学びは大きく分けて1年目に必須とされる「基礎5科目(人間学、死生学、老年学、グリーフケア、ターミナルケア」と「宗教系」「心理系」「福祉系」の3つで構成される(ターミナルケアのT先生退職によりカウンセリングに変更)。「心理系」や「福祉系」は既修得済スキルのはずだったのだが、学びが浅かった。
それに加え、「基礎5科目」と「宗教系」はまったくの手付かず分野だったので、とても新鮮であり、加えて、人間として生きていくために大切な基礎科目と、人間のアイデンティティを持つために大切な宗教というものを学べたことに対しては感謝してもし足りないくらいである。
死生学を中心に、人間とは死ぬために生きていることが十分理解できたし、生きることの終着点が死ぬことであり、死がなければ人間は解放されないということも理解できた。有限性があるからこそ、人は生きることを大切にし、故に、生涯学習というものも成立するのである。
命が無限であれば、別に、今日学ばなくても、明日に回してもいい。そう考えると、今、この瞬間、学ぶ理由が喪失してしまうのである。生きることは儚いことであり、だから、泥臭くても、無様でも、今、必死に学ぶ。そして、生まれてから死ぬまでのすべての学習が生涯学習であるから、死ぬことで、やっと、その原罪にも似た、学びの鎖から解き放たれるのである。
すべての人間が文明を捨て、文化を捨て、その英知を捨てたなら、それこそ、原罪を得る前のアダムとイブに戻ることができるかもしれない。しかし、そうなれば、既に人間は人間ではなくなり、一動物に成り下がってしまうだろう。故に、人間として生き、人間として死ぬために、学んでいるのだと、私は勝手に思っている。
それを確信し、確立できたのが武蔵野大学大学院での学びである。人間として生きる(人間学)、人間として生きそして死ぬ(死生学)、人間として死に向かう過程で老いる(老年学)、人間として死に直面する(ターミナルケア)、人間として死にゆく人と向き合う(グリーフケア)。これだけ、人間として必要にもかかわらず、通常、我々が目を背けがちな学びを、集中して学習できる大学院があるだろうか。
しかも、学びやすい通信制かつ、廉価な単位制の大学院。先生も一流。しかも人格者であり、他大学である「××先生、サイテー!」っていう人は一人もいない。
武蔵野大学大学院は、確かに、学びのシステムとしては納得のいかない点は複数ある。しかし、提供している学びの質たるや、この上なく高品質のもので、今ある社会人教育のなかではトップの水準にあると確信している。
自律心のある人にとっては、無双の学びのステージである。なんせ、やっただけ自分に跳ね返ってくるし、それを受け止めてくださる先生が存在するのだから。
故に、私は、武蔵野大学大学院が大好きであり、2年間の学びに感謝しているのだ。