ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

438、「サッポロ」

2009年05月31日 | Weblog
私がニューヨークに行った1973年頃はニューヨーク周辺に日本食レストランは30軒くらいしかありませんでした。
70年代後半になると日本食がブームになって、次々と日本食レストランができ、帰国する1993年頃には500件くらいあると言われていました。
料亭のような高級レストランから小さな店までさまざまで、しかも日本人以外が経営する自称ジャパニーズ・レストランも多く、さらに新しい店ができたり閉店する店も多く、はっきりした数字は把握できません。
私が良く利用した店に「サッポロ」があります。
ブロードウエイの劇場街にあって映画を見た後などにはここで食事をしました。
ラーメン、カレー、カツどんなど、レストランと言うより大衆食堂と言う感じで、学生時代に行った店のようでした。
トレードセンターで働いていたとき、日本から来たVIPが「ラーメンが食べたい」というのでここに連れて行ったことがあります。
他の同僚は「あまりきれいな店ではないので、やめたほうがいい。」と言いましたが、美味しいと言って喜んでいました。
今もあるのかな?

437、消防車がいっぱい

2009年05月30日 | Weblog
ブロードウエイの劇場街はミュージカルだけでなく映画館やライブハウスなど、いろんなエンターテイメントが楽しめ、レストラン、バーなどの店が並んでいて夜遅くまでにぎわいます。
1974年頃だったと思いますが7番街に面した44丁目辺りで映画を見て、夜9時頃外に出ると目の前に赤いランプを灯した消防車が10台くらい止まっていて、人がごった返していました。
火事か?と思って近くのアメリカ人に聞くと、映画の撮影だと教えてくれました。
それからしばらくして映画「タワーリング・インフェルノ」が公開されました。
この映画を見たとき、「あのとき撮影していた映画だ」と思いました。
しかし、この映画はサンフランシスコが舞台で、撮影もカリフォルニアで行われたはずです。(74年の映画なので時期的には合っていますが)
あのときの消防車は何だったのか、他の映画の撮影だったのか、いまだに疑問です。
写真左はニューヨーク・ファイアーデパートメント(NYFD)、右はタワーリング・インフェルノの場面。
この頃、パニック映画がブームでいろいろ作られました。
JAWS・ジョーズ、ポセイドン・アドベンチャー、カサンドラ・クロス、タワーリング・インフェルノ、その他飛行機、サブウエイ、バスなどが舞台となったパニック映画が多く作られました。

436、ブロードウェイ(Theater District)

2009年05月29日 | Weblog
ブロードウェイと言えば「ミュージカル」の代名詞になっています。
「ストリート」としてのブロードウェイはマンハッタンの最南端から最北端まで縦断する全長20km以上の通りです。
「劇場街」としてのブロードウェイは、東西は6番街~8番街、南北は40丁目~53丁目にかけて広がる地域で、Theater Districtと呼ばれています。
30以上の劇場が集中し、ロングランや新作物までバラエティに富んだミュージカルが上演されています。
「キャッツ」、「レ・ミゼラブル」、「コーラス・ライン」、「オー、カルカッタ」などのロングラン公演がありますが、最長記録は「オペラ座の怪人」で今も続いています。
写真はタイムズ・スクエアでブロードウェイと7番街が交差しています。
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サラ・ブライトマンオペラ座の怪人

435、3回忌

2009年05月28日 | Weblog
昨日27日は「ZARD」のボーカル坂井泉水(蒲池幸子)さんの3回忌でした。
突然の死にから2年経ちましたがその人気は衰えることはありません。
彼女の歌に励まされ勇気付けられた人は多く、世代を超えて高い支持を集め、「負けないで」、「揺れる想い」など、軽快なリズムと前向きな詩は多くの人の心を捉えました。
2007年5月27日、闘病中に病院の階段からの転落による脳挫傷が原因で死去しました。(享年40歳)
子宮頸癌の治療は順調で再起に向けて病気と戦っていたときの出来事で、残念です。
「負けないで」の歌詞のように人を励ます歌が多く、闘病中に病院で出会った一般の女性の体調が急変した際には枕元に行き、「負けないで」を歌ってあげたことがあったそうです。
私が「ZARD」を知ったのは帰国した1993年で、「負けないで」、「揺れる想い」が発売された年です。
爽やかな歌声の中に強いメッセージがあり、すぐファンになりました。
写真は1999年に発売された、「ZARD BEST The Single Collection 〜軌跡〜」のCDジャケットと、一緒についてきたARTIST FILE(坂井さんの写真が沢山載っている)の表紙です。
収録されている曲
01、負けないで
02、君がいない
03、揺れる想い
04、果てしない夢を
05、もう少し あと少し・・・
06、きっと忘れない
07、この愛に泳ぎ疲れても
08、こんなにそばに居るのに
09、Just believe in love
10、愛が見えない
11、マイ フレンド
12、心を開いて
13、永遠
14、運命のルーレット
You Tube
ZARD名曲集

434、タイムズ・スクエア

2009年05月27日 | Weblog
ブロードウエイをさらに北上し42丁目まで来ました。
ブロードウエイと7番街、42nd Stが交差する一角は、かの有名なタイムズ・スクエアで、ニューヨークで最大の繁華街です。
1904年にニューヨーク・タイムスがオフィスビルを構え、こう呼ばれるようになりました。
同社は移転しましたがその名は残り世界一有名な交差点と呼ばれ、年間2000万人以上の観光客が訪れます。
1960年代~1980年代後半はポルノショップが並び、ドラッグの売人が昼間からたむろする危険で汚い地域でしたが、90年代に入ると再開発によって新しいビルが次々と建てられ、安全できれいな地域に生まれかわりました。
それを象徴するのが“ディズニー・ストア”や“トイザらス”で、子供も安心して楽しめる町になったことです。(私が帰国した1993年は無かった)
135、カラテ
287、カウントダウン」などを参照

433、ガーメント・ディストリクト

2009年05月26日 | Weblog
メイシーズの北35丁目~40丁目、ブロードウエイ~8番街にガーメント・ディストリクト(Garment District)と呼ばれる一角があります。
ここにはボタンやビーズなどの小さな小物から、洋服、生地などGarment(衣類)の裁縫工場や問屋が多くあります。
小売の店は少ないのですが1階にショールームを持ち、個人に売ってくれる店もあります。
この辺りのストリートには衣類を積んだり下ろしたりするトラックが沢山停まっていて、洋服を何十着も吊るした滑車付きの移動式ハンガー掛けが何台も行き来しています。
郊外の一戸建てに引っ越したとき、ここでカーテン生地を買いました。
また、衣類を扱ったビジネスをしていたときはよく行きました。
295、5番街&17St」を参照

432、マディソン・スクエア・ガーデン

2009年05月25日 | Weblog
マディソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden:略称MSG)は、8番街と33丁目にあるスポーツの殿堂で、エンターテイメント会場としても知られています。
NBA(プロバスケットボール)のニューヨーク・ニックス、NHL(プロアイスホッケー)のニューヨーク・レンジャースの本拠地で、ボクシング、プロレス、テニス、その他のスポーツが行われます。
スポーツ、コンサート、サーカスなど年間400以上のイベントが開催され、大統領選の党大会が開催されることもあります。
最初は5番街と23丁目のマディソン・スクエア公園にありましたが、1964年に現在の位置に移転しました。(過去に4度移築)
地下はペン・ステーションです。

いろんなイベントを見に行きましたが、印象に残っているのは。
モハメッド・アリのヘビー級タイトルマッチ。
WTA(女子テニス)ツアーの年間最終戦、バージニアスリム選手権は毎年11月に行われ何回か見に行きました。(現在は他の会場で行われています)
老舗サーカス、リングリングブラザースの公演も毎年行われ、子供たちを連れて何度か行きました。
1985年6月に行われた大相撲ニューヨーク公演。(これがアメリカにおける初の大相撲公演)
横綱千代の富士、隆の里などの力士が熱戦を披露しましたが、一番の人気者は小錦でした。
驚いたのは取り組みの前に行われた股割で、足が左右に180度開き、身体が前にぴったり付く柔らかさです。
多くの力士が股割には泣かされるようで、6月に日本相撲協会を定年退職(65歳)する元関脇高見山(現東関親方)も涙をこらえきれず、「目から汗が流れた」と言って耐えたようです。
写真はマディソン・スクエア・ガーデンで行われた大相撲公演で、満員御礼の垂幕が見えます。

431、ペン・ステーションの悲劇

2009年05月24日 | Weblog
ニューヨークの3大ターミナルといえばグランド・セントラル駅、ペンシルヴァニア駅、ポート・オーソリティの3つです。
グランド・セントラル駅は北に向かう通勤列車が多く毎日50万人が利用します。
ポート・オーソリティはバスターミナルで、近・長距離バスが全米に向けて発着しています。

ペンシルヴァニア駅(通称、ペン・ステーション)は北のボストン、南のフロリダ、東のロングアイランド、西のカリフォルニアなど、全米に向け1日に約700本の列車が発着している巨大な駅です。
地下鉄の要所でもあり、NO,1、2、3やA、C、Eラインが通り、ニュージャージーからの通勤客が多く利用するパストレインも発着しています。
私はこの近くに住んでいたことがあり、地下鉄は毎日のように利用していました。
また、大陸横断鉄道や全米旅行をしたときもここから出発しました。
110、大陸横断鉄道」を参照

かつてはギリシア神殿のように列柱の並ぶボザール様式の荘厳な駅舎でしたが、1962年に建て替えられました。
その際、反対運動も起こりましたが取り壊され現在の姿になりました。
マディソン・スクエア・ガーデンと共有の建物を使った駅舎なので、外観からは駅と分かりません。
今も昔の駅舎を懐かしむ人が多く、あの時ジャクリーン・ケネディー・オナシスのような人がいたら歴史的建造物は残されたかもしれません。
235、グランド・セントラル駅を救ったジャクリーン」を参照

写真はマディソン・スクエア・ガーデンで、この地下にペンステーションンのプラットフォームがあります。



430、34th Street

2009年05月23日 | Weblog
以前にも書きましたが、マンハッタンは南から北へ発展してきました。
最初の入植者がマンハッタン島の最南端に入植し、柵(ウオール)を作りました。
人口の増加に伴い町の中心もボウリング・グリーン、ウオール・ストリート、14丁目、23丁目、34丁目、42丁目と移動し、現在は57丁目が中心と言われています。
それぞれの通りにはその当時のニューヨークを代表する建物があります。
34ストリート周辺には中央郵便局、ペン・ステーション、マディソン・スクエア・ガーデン・、世界最大のデパート・メイシーズ、エンパイア・ステート・ビル、その他。
47年に公開された映画、「三十四丁目の奇蹟」はここが舞台になっています。(子役のナタリー・ウッドが可愛い)
94年に「34丁目の奇跡」としてリメイクされています。
原題は両方とも「(Miracle on 34th Street)
西のハドソン川近くは埠頭として発展していましたが、貨物の輸送が船から飛行機に変わり廃港となって荒廃していました。
1986年にジェイコブ・ジャビッツ・コンベンションセンターができ、ニューヨークで行われる大きなコンベンションの会場になっています。
131、ジェイコブ・ジャビッツ・コンベンションセンター
387、NY自動車ショー」を参照

429、ソーシャル・セキュリティー・ナンバー

2009年05月22日 | Weblog
Social Security Number (SSN)はアメリカで生活するのに不可欠な社会保障番号です。
アメリカ市民および正規のビザを持つ滞在者は全員持っていて、アメリカに住む人のID番号のようなものです。
運転免許の取得、銀行口座のオープン、就職、納税、各種契約(電話、電気、ケーブルテレビ、アパート契約、他)など、この9桁の番号が必要です。
逆に、この番号が無いとまっとうな市民生活はできません。
私の場合、ビザの無い状態がしばらく続いた(これって不法滞在)のでソーシャル・セキュリティー・ナンバーを取得するのに時間がかかりました。
銀行口座もオープンすることもできませんでしたが、どうしても必要になって銀行に行って「今、申請中だ」と言うと「番号を取得したらすぐ知らせるように」と言ってオープンしてもらいました。(実際には申請していななかった)
この銀行はしばらくしてから、ほとんど利用していませんでした。
日本に帰るとき口座をクローズしに行くと、「ソーシャル・セキュリティー・ナンバーが無いのにどうやってオープンしたのか?」と行員が驚いていました。
写真はソーシャル・セキュリティー・カードです。(運転免許書くらいの大きさ)