ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

23、サマータイム

2007年05月29日 | Weblog
最近日本でサマータイム導入についての議論が行われていますが、
実施されることはまず無いでしょう。

サマータイムというと夏のことのようですが、アメリカでは夏だけではなく春から秋までの半年間以上サマータイムが実施されています。
これは昼間の長いこの時期に時計の針を1時間進め、夕方の時間を延ばして有効に利用しようとするものです。
この時期は夕方8時半頃まで明るく仕事が終わった後の時間を外で楽しむことができます。
また、照明用エネルギーを節約する目的もあります。

私がアメリカにいた頃は4月の第1日曜日から10月の最終日曜日の約6ヶ月半がサマータイムでしたが、
2007年からは期間が延長され3月の第2日曜日から11月の第1日曜日までの8ヶ月近くになりました。
これはそれだけの効果があると認めたからだと思います。
こうなると“サマータイム”という言い方も適当ではありません。
事実、アメリカではサマータイムとは言わず“Daylight Saving Time”と言います。
私も仕事が終わってからテニスや散歩などをして、長い昼を楽しみました。
ゴルフもハーフくらいなら回れました。

*当時ニューヨークで言われていたジョーク
“日本でゴルフをするバカ、アメリカでゴルフをしないバカ”
バブルの頃日本ではゴルフ代がものすごく高く、ゴルフ場の会員券が何百万円もしました。それでもゴルフをする人。
アメリカでは手頃な代金で気楽にプレイできました。それでもゴルフをしない人。

日本ではサマータイムを実施していないのでこの時期(これを書いている5月末)は朝4:30には明るくなります。
早朝4:30に起きているのは一部の人を除いてほとんどいません。
大多数の人は夢の中です。
太陽が燦々と輝いているのにもったいない!

時間を調整するのは日付が変わる12時ではなく、夜中の2時です。
これは時間調整による市民生活への影響を最小限に抑えるためです。
サマータイム実施の日は夜中の1時59分59秒の次が2時ではなく3時00分00秒になります。
(2時から3時までの1時間が抜けてしまいます。)
戻すのは夜中の1時59分59秒のあと2時ではなく1時00分00秒に戻ります。
(同じ日に1時から2時までが2回あることになります。)

実施の日は1時間早く起きないといけないのでたいへんです。
戻すときは1時間余計に寝られるので得をした気分になります。
ほぼ全米で実地されていますが一部に実施していない地域もあるのでややこしくなります。
アメリカ人も間違えることがありますがあんまり気にしないのがよいところです。
街の中でも時計の調整がバラバラ、というような光景を目にすることがあります。

私がいた頃は時計の針を進めたり戻したりする程度でしたが、今はいろいろな電化製品にタイマーがついているので、
家中のタイマーを合わせるのは大変だと思います。


22、リチャード・クレイダーマン

2007年05月26日 | Weblog
今日、リチャード・クレイダーマンを聴きに行ってきました。
1980年以来、毎年来日し全国ツアーを行っています。
今年は前橋に来るというので、すぐにチケットを購入しました。

リチャード・クレイダーマンの曲はニューヨークでよく聴いていました。
とてもポピュラーで、いろんなところでながれていました。
カセットテープ(CDではない)もよく聴いていました。
20年間のニューヨーク生活を終えて日本に帰る飛行機の中で12時間づーっと聴いていました。

今日、演奏を聴きながらニューヨークでのさまざまな情景が浮かんできて感傷に浸っていました。
渚のアデリーヌなど懐かしい曲に加え新しい曲も多く演奏していました。
アンコールで弾いたカッチーニのアベ・マリアは胸にジーンときました。
いろんな作曲家のアベ・マリアがあり、シューベルトやグノーのアベ・マリアが有名ですが、
私はカッチーニのアベ・マリアが一番好きです。
メロディーも綺麗ですが歌詞が印象的です。
出てくる言葉は“アベ・マリア”だけです。
私はクリスチャンではありませんがカッチーニの聖母“マリア”に対する信仰心が想像されます。

*「来日記念盤」のCDを買ってきました。
渚のアデリーヌなど19曲が収録されていて、「千の風になって」も入っています。
「千の風になって」は今日のコンサートでも弾いていました♪
買ってきたCDを聴きながら書いています。


21、サブウエイシリーズ

2007年05月22日 | Weblog
MLBのインターリーグ(日本のセ・パ交流戦のようなもの)が始まりました。
普段は対戦しないアメリカンリーグとナショナルリーグが対戦します。
その中でも注目を集めるのがアメリカンリーグのニューヨークヤンキース(ヤンキースタジアム)と
ナショナルリーグのニューヨークメッツ(シェイスタジアム)のニューヨークチーム同士の対戦です。

この対戦はニューヨーカーが特に熱狂するカードで、チケットの入手が困難となります。
両スタジアムが地下鉄(サブウエイ)で繋がっていることから、名付けられました。
マンハッタンの北、ブロンクス地区にあるヤンキースタジアムには縦に走る緑色の4番線で北上します。
一方、クイーンズ地区にあるシェイスタジアムにはタイムズスクエアやグランドセントラル駅から7番線で東へ向かいます。
この2つの電車はマンハッタンのど真ん中にあるグランドセントラル駅で交差しているのでここで乗り換えます。

ニューヨーカーはヤンキースファンかメッツファンに2分され、この期間は野球ファンだけでなくニューヨーク全体が盛り上がります。
ニューヨーカーには両チームを応援している人もいてこの対戦にはどっちを応援するか困ってしまいます。
私も両チームのファンでした。
マンハッタンに住んでいた独身の頃はヤンキー・スタジアムによく行きました。
結婚して子供が生まれて郊外のロングアイランドに住むようになってからはシェイ・スタジアムによく行きました。
シェイスタジアムまで家から車で10分くらいでした。
バスでフラッシングまで行って1駅先のシェイスタジアムまで歩くのも楽しいものでした。
ダブルヘッターを見に行ってのんびり1日過ごしたこともあります。

線路を挟んで南側には、テニスの全米オープンが行われる「ナショナル・テニス・センター」があり、毎年見に行きました。
USオープンについては大会が行われる8月末頃に書こうと思います。

*今年のサブウエイシリーズの予定
シェイスタジアム: (5/19、5/20、5/21)
ヤンキースタジアム:(6/15、6/16、6/17)


20、車は右

2007年05月18日 | Weblog
アメリカでは車は右人は左、日本では車は左人は右です。
日本に帰って運転したとき、まっすぐ走るのは問題なかったのですが曲がったときどうしても右の車線に行きそうになってしまいました。
特に右折したときにこの傾向が強かったことを覚えています。

5月15日の沖縄本土復帰35周年のニュースを見ていて、35年前のこの日は大変だったろうなと思いました。
この日、沖縄では一斉に車線が右から左に変わって事故も多く発生したようです。

車線は1週間ほどで慣れましたが、帰国して14年たった今でも間違うことがあります。
車に乗るとき時々左側に行ってしまうことがあります。
アメリカの車は左ハンドルだったので、買い物などをして車に乗ろうとしたとき無意識のうちに左に行ってしまうことがあります。

19、ブロードウエイ

2007年05月06日 | Weblog
ブロードウエイはマンハッタンを斜めに縦断する通りの名前です。
マンハッタン最北端のハーレムリバーに架かるブロードウエイ橋からスタートし最南端のバッテリー・パークまでを言います。
マンハッタンは南から北へ発展していったのでバッテリー・パークからブロードウエイ橋までといったほうが良いでしょう。
この道はブロードウエイ橋を渡ってブロンクスを通りアッパーニューヨークまで続いています。
初期の頃はブロード・ワゴン・ウエイ(広い馬車道)と呼ばれていました。
 
マンハッタンは東西に走るストリートと南北に走るアベニューが碁盤の目のように整然と区切られています。(一部そうでない部分もある)
そのマンハッタンを斜めに横切っているのがブロードウエイです。
そうすると必然的に三角地帯が生じます。
42nd Stと7th Aveそしてブロードウエイが交差する所がタイムズ・スクゥエアーです。
この名前は1904年、ニューヨーク・タイムズの本社ビルが移転してきたことに由来します。
1907年の12月31日、ニューイヤーのカウントダウンが行われ現在も行われています。
私は、毎年行われるイベントなのでいつでも行けると思っていましたが結局一度も行きませんでした。

ブロードウエイというとミュージカルで有名ですが、ミュージカルが行われるところは、
ブロードウエイの42nd Stから53rd St辺りまでの地域です。
42nd St界隈は私がニューヨークに行った1973年頃は、治安の悪いごみが散乱する地帯で「犯罪の巣窟」、「怖くて危ない街」というイメージがあり、この状態は1980年代後半まで続きました。
しかし1984年に持ち上がった「タイムズスクエア42丁目再開発計画」が90年代に本格的に始動し、現在は見違えるほどきれいな"子供も大人も楽しめる地域"に生まれ変わりました。

またブロードウエイの南部、シティー・ホールからバッテリーパーク間ではスポーツなどのパレードが行われます。
大リーグのヤンキースやNFLのジャイアンツが優勝したときなどはここでパレードが行われ、ビルの窓という窓から紙ふぶきがまかれます。

万延元年(1860)の遣米使節団は日米修好通商条約批准書交換のため渡米した日本初の公式ミッションでした。
使節団はアメリカの国賓として至るところで大歓迎を受け、ブロードウエイでも盛大なパレードが行われようです。