ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

42、私には夢がある(I have a dream.)

2007年08月28日 | Weblog
1963年8月28日、ワシントンDCのリンカーン記念堂前で黒人公民権運動の行進に参加した25万の人びとにむけてマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が演説しました。

1862年9月にエイブラハム・リンカーン大統領が行った奴隷解放宣言により、アメリカ合衆国での奴隷制は廃止されました。
しかし、奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、その後も人種差別は続きました。
学校やトイレ、プールなどの公共施設、バスなどでは白人と有色人種は異なる施設を用いることを余儀なくされていました。
このような制度は第二次大戦後も続いていました。
南部の州の多くが人種隔離制度を続け、黒人には選挙権もありませんでした。
そのような制度を廃止するための公民権運動に立ちあがったのがキング牧師です。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr、1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人でプロテスタントバプティスト派の牧師です。
父親と同じ名前なのでJrが付いています。
もともとの名前はマイケルでしたが父親が宗教改革を行ったマーティン・ルターの名前をとってマーティンに改名したのでJrのほうもマーティンになりました。

さまざまな困難や迫害を受け、時に投獄されながら自由と平等を実現するための運動を続けました。

その最大の集会がワシントン大行進で、“I have a dream.”演説です。
人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体と平易な言葉で訴え、広く共感を呼びました。
その内容は高く評価され、ジョン・F・ケネディ大統領の就任演説と並び、20世紀のアメリカを代表する名演説として有名です。

キング牧師の提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」です。
インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、また自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫きました。

ワシントン大行進などの成功により世論も盛り上がっていき、ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定されました。
これにより、建国以来200年近く続いてきた法の上での人種差別が終わりを告げることになりました。
ちなみに公民権法案を議会に提出したのはジョンソン大統領の前のジョン・F・ケネディ大統領です。
そのためケネディ大統領は黒人社会から絶大な支持を受け、一方で南部支配(白人の保守派)層からは敵意にも似た批判を浴びることになっていきます。
これもケネディ大統領暗殺の一因になったと見られています。
弟ロバート・ケネディも公民権運動には熱心でした。
私はアメリカにいた頃よく黒人(アフリカ系アメリカ人)の家を訪ねましたがその多くの家にはキング牧師とケネディ大統領の写真が飾ってありました。
キング牧師の写真は分かりましたが、なぜケネディ大統領の写真が飾ってあるのか最初の頃は分かりませんでした。
ケネディ大統領が公民権運動に対して多大な貢献をしたことを知り納得しました。
ケネディー大統領がテレビで訴えた言葉。
「リンカーン大統領が奴隷を解放してからすでに100年、いまだに彼らの子孫は完全に解放されていない。いまだに不公平のカセから解き離されておらず、いまだに社会的・経済的圧迫から開放されていない。そして、アメリカはどんなに希望や誇るべきものがあっても、そのあらゆる市民が自由になるまでは、完全に自由になることはできないのである」


1964年10月14日、公民権運動での業績が評価されノーベル平和賞受賞が決定しました。(受賞は12月10日)
これは史上最年少の受賞であり、黒人としては三人目の受賞でした。
1968年4月4日に、遊説活動中にテネシー州メンフィスで凶弾に倒れました。
"I'm over the Mountaintop"(私は山頂に達した)を遊説後、モーテルのバルコニーで白人男性ロイに撃たれ死亡しました。
39歳の若さでした。
現在、このモーテルはキング牧師が滞在した棟の外観だけを残し、全体が建て替えられ、The National Civil Rights Museum(公民権展示館)となっています。

1983年より、彼の誕生日(1月15日)に近い1月第3月曜日が「マーティン・ルーサー・キング・デー (Martin Luther King, Jr. Day)」として祝日になっています。
(これは3連休にして経済効果を上げようとしたもので、最近日本でも同様な休日があります。)
個人の名前が祝日となっているのはアメリカ大陸発見者のクリストファー・コロンブスとキング牧師の二人だけです。
偉大な大統領ジョージ・ワシントン(2月22日生れ)とアブラハム・リンカーン(2月12日生れ)は一緒にPresidents' Day (大統領の日)として2月第3月曜日に祝われています。
別々に祝日として祝われていましたが、二人の誕生日が近いことから制定されました。
(二人だけでなくアメリカの歴代大統領達を祝う日でもあります。)
キング牧師の運動がアメリカのみならず全世界に多大な影響を与えたことが分かります。

アメリカの祝祭日
1月1日      New Year's Day 元旦
1月第3月曜日 Martin Luther King Jr's Birthday キング牧師誕生日
2月第3月曜日 Presidents' Day 大統領の日
5月最終月曜日 Memorial Day 戦没者追悼記念日
7月4日 Independence Day 独立記念日
9月第1月曜日 Labor Day 労働感謝の日
10月第2月曜日 Columbus Day コロンブス・デー
11月11日 Veterans Day 退役軍人記念日
11月第4木曜日 Thanksgiving Day 感謝祭
12月25日 Christmas クリスマス
上記はアメリカ連邦政府が定めた休日で、ほとんどの州がこれらの祭日を休日にしています。
この他に各州の定めた祭日があり、ワシントンやリンカーンの誕生日を独自に祝日としている州もあります。

私には夢がある(I have a dream.)
私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢なのだ。つまり将来、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等である」というこの国の信条を真実にする日が来るという夢なのだ。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。

私には夢がある!
今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が。

私には今夢がある!
人種差別主義者や州知事が連邦政府の干渉排除主義を唱え、連邦法の実施を拒否しているアラバマ州にさえ、将来いつか、幼い黒人の子ども達が幼い白人の子ども達と手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が。

私には今夢がある!
いつの日にかすべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。「そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。」

これが私達の希望なのだ。この信仰をもって私は南部へ戻って行く。この信仰をもってこそ絶望の山からも希望の石を切り出すことが出来るのだ。この信仰をもってこそ私達は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしい交響曲に昇華することが出来るのだ。この信仰をもってこそ、自由がいつか来るのだということを信じながら、私達は共に働き、共に祈り、共に苦しみ、共に投獄され、共に自由のために立ちあがることが出来るのだ。そしてその日が来れば、その日が来れば神の民はみなおしなべて、新しい意味をこめて歌えるのだ。「我が祖国よ、美しい自由の国をたたえ私は歌う。父が骨を埋めた国、開拓者の誇りとする国。すべての山々から、自由よ鳴り響け」と。真にアメリカが偉大な国となるためには、これが実現しなければならない。

ニューハンプシャーの山々の偉大ないただきから自由の鐘を鳴らそう。ニューヨークの悠々しき山々からも、ペンシルヴァニアにそそり立つアレゲニーの山からも、自由の鐘を鳴らそう。雪を頂くコロラドのロッキー山脈からも、カリフォルニアのなだらかな山々からも、自由を鳴り響かせるのだ。それだけではない。ジョージアのストーンマウンテンからも、テネシーのルックアウトマウンテンからも、ミシシッピーのすべての丘やほんの小さな塚からも、「すべての山々から、自由の鐘を鳴らす」のだ。

そうすれば、私達が自由を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての町から、自由の鐘を鳴らせば、すべての神の民が、黒人も白人も、ユダヤ人も、非ユダヤ人も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取ってあの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。「やっと、やっと自由になれた。全能の神に感謝しよう。やっと自由になれたことを」と歌える日が。
木山ロリンダ・斎藤真由美訳

1982年頃アトランタに行きキング牧師が住んでいた家を訪ねました。
そこはアメリカ南部の典型的な住宅街でした。
キング牧師の家は大きな家で、中に入って見学できます。
ダウンタウンからそれほど遠くなく歩いて行ったような気がします?
リビングか執務室か覚えていませんが、ピアノがあったのを覚えています。
「日本から来た」と言ったらすごく歓迎されました。
近くにはキング牧師の業績をたたえる記念館もあります。

写真左はキング牧師の家、右は執務室でガンジーの写真が飾ってあります。

41、US OPEN 2007

2007年08月27日 | Weblog
テニスの4大大会最終戦US OPEN 2007が始まります。
8月27日から9月9日までの2週間の戦いです。
第1シードのロジャー・フェデラーのオープン化以降初の4連覇成るか?
2連覇を狙うマリア・シャラポワは優勝できるのか?
その他見どころがたくさんあり楽しみです。
杉山愛、中村藍子、森上亜希子、日本人3選手の活躍も期待されます。

35、ニューヨークでテニス”で書いたようにUSオープンは1980年から1992年まで13年間毎年見に行きました。
いろいろ書いていこうと思います。

写真は会場で買った1988年のオフィシャルプログラムの表紙です。

40、インディアナポリス

2007年08月23日 | Weblog
インディアナポリスはインディアナ州の中央部に位置し同州最大の都市です。
人口約90万人でアメリカ12番目に大きな都市です。
自動車工業を中心に電気、機械関連工業が発展し、周辺にはコーン畑や大豆畑が一面に広がっています。
インディアナポリスはアメリカでハイウエーが一番多く交差していて“アメリカの十字路”と呼ばれています。

スポーツも盛んでNFL(アメリカンフットボール)のインディアナ・コルツ、NBA(バスケットボール)のインディアナ・ペイサーズがあります。
全米大学体育協会(NCAA)の本部があり、「世界のアマチュア・スポーツの首都」と呼ばれています。
何といっても「インディ500」の開催地として有名で、レースの行われる5月には世界中のファンが集まってきます。

インディアナポリスにはアメリカ一周旅行をしている時に立ち寄りました。
この時は電車で行きました。
着いたのが夜10時頃だったと思います。ターミナルには20人ぐらいの人がいました。
今夜は何処で寝ようか迷っているうちに誰もいなくなってしまいました。
「ここで寝よう」と思っているとき駅長がターミナルに鍵をかけて出て行きました。
交通の要所ということもあり、大きなターミナルでした。
ガラーンとしたターミナルで一人で寝たことが印象的で今でもよく覚えています。
駅長が出て行くとき目が合ったような気がします。

インディアナポリスの地図です。
ハイウエーが四方から集中しています。


39、エルビス・プレスリー

2007年08月16日 | Weblog
今日8月16日はエルビス・プレスリーの命日です。
私がアメリカに行こうと思うようになった最大の影響を受けたのはプレスリーだったかも知れません。
エルビス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのミュージシャンです。
プレスリーイコールロックと言うイメージがありますが、ロックに止まらずあらゆるジャンルの音楽を歌っています。
子供の頃聖歌隊に所属していたので彼の歌う賛美歌やゴスペルは最高です。
カントリーも味のある独特の雰囲気があります。

“エルビス・オン・ステージ”とい映画を見て感動しました。
1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画『Elvis: That's the Way It Is(エルビス・オン・ステージ)』です。
そこにはスーパースターだけが持つオーラがありました。
プレスリーの歌はそれまでも聴いていましたが特別好きというわけではありませんでした。

学生の頃渋谷や新宿などには名画座があって2本立てや3本立てで安く見ることができました。
ある時、ふっと入った映画が“エルビス・オン・ステージ”でした。
それからというもの毎日朝から晩まで3回くらい見ました。
(そこでは入れ替えが無く何回も見ることができました。)
トータルすると30回くらい見たと思います。
何回見ても感動し飽きることがありませんでした。
“グレンミラー物語”や“5つの銅貨”などのアメリカ映画と一緒に上映していました。
5つの銅貨はエデンの東などと共に最も感動した映画の一つです。
ちなみに、ダイエーの王監督が現役時代のインタビューで、最も感動した映画に「5つの銅貨」を挙げていました。

アメリカに行ったら絶対行こうと思っていたところが5ヶ所ほどありました。
1、ケネディー大統領が暗殺されたダラス
2、ヤンキースタジアム
3、モハメッド・アリの試合
4、ケネディー宇宙センター
5、プレスリーのステージ
上の4つは実現することができましたがプレスリーのステージは彼の死によって、ついに見ることができませんでした。

そのニュースを聞いたのは車の中で、暑い日でした。
プレスリーの死もショックでしたが、もう彼のステージは永遠に見られないと思いがっかりしたことを覚えています。
その2~3年前から精神的に苦しみアルコールや薬物に溺れていると聞いていました。
死の直前にはむくんだ顔をし、太った姿を新聞やテレビなどで見ていましたが。
それから1週間ほどはプレスリーの特集をテレビやラジオでやっていました。

彼の死後2度グレースランドに行きました。
22歳から42歳で亡くなるまでの20年間を過ごした邸宅で、お墓があります。
アメリカのテネシー州メンフィス、エルビス・プレスリー街3764にあり、白い円柱が特徴的な建物です。
家の一部は一般公開されており、エルビスの命日には、世界中からファンが集まる「聖地」として知られています。
日本のファンクラブなどもツアーを組んでグレースランドに行きます。
(私もファンクラブに入っていたことがあります)
1982年以降は博物館として公開されていて、1991年11月7日に史跡(National Register of Historic Places)として登録されました。
2006年3月27日にはアメリカ国定歴史建造物(代表的なものにホワイトハウスやアラモ砦などがある)に認定されました。
2006年7月には、小泉純一郎首相がブッシュ大統領と共にグレースランドを訪問し、エルビスの元夫人プリシラ・プレスリーと娘のリサ・マリー・プレスリーの出迎えを受け、日米友好を国内外にアピールしました。

グレースランドの展示には、エルビスの出演した映画のポスターからステージ衣装、レコーディングにちなんだものなどが飾られています。
ゴールド・レコードがずらりと飾られている「トロフィー・ルーム」。
エルビスが映画で使った車や、彼のコレクションでもあったキャディラックが何台も置いてあります。(ピンクのキャディラックが印象的です)
専用の自家用大型飛行機もあり、中に入って見学できます。
ジェット機の中は座席を取り除き、ベッドルーム、ダイニングルーム、リビングルーム、キッチン、バスルームなど、家のようになっています。
この飛行機には“リサ・マリー号”と一人娘の名前が付けられています。
(リサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソンと結婚しましたが数年で離婚しました。)
リサ・マリーの顔は父エルビスによく似ています。

彼が徴兵検査を受けたときに世界中のファンから送られて来た、兵役の免除を願う手紙も多数展示されていて当時の人気を物語っています。
庭にはエルビスと彼の家族のお墓があります。
彼のお墓には新しい花が溢れ尽きることありません。

写真は映画を見た後すぐに購入したレコードのジャケットです。
Vol・1とVol・2があり、これはVol・1です。


38、アメリカで一番美しい町

2007年08月12日 | Weblog
これはあくまでも私個人の感想です。
1982年頃だったと思いますがアメリカ一周バス旅行をしていたときピッツバーグを訪ねました。
ピッツバーグに着いたのが夜の9時頃だったと思います。
その夜はバスターミナルで夜を明かしました。
アメリカ旅行はバスや電車で何度か行いましたがホテルには泊まらずバスターミナルや駅の待合室で寝ました。
3日に一度くらいシャワーを浴びるときだけ安ホテルに泊まりました。
 *グレイハウンドやコンチネンタルのバス会社、アームトラックの鉄道会社では  1週間や2週間の周遊券を発売していて、よく利用しました。
  1週間200ドル2週間300ドル位だったと思います。

その夜は10人くらいが同じようにバス停で寝ていました。
バス停の椅子ではよく眠れず、明るくなるのを待って散歩に出かけました。
ダウンタウンのビル街を通り過ぎ小高い丘に登りました。
丘の上から見たピッツバーグの町が朝日を受けキラキラ輝いていました。
ピッツバーグの町は3つの川に囲まれていて水面に朝日が反射し、本当にきれいでした。
この時の感動はグランドキャニオンの雄大な風景やナイアガラの豪快な水しぶきにも増して忘れられないものです。
市街地は主に、アレゲニー川とモノンガヘラ川が合流する三角州に位置しています。
この三角州は、「黄金の三角地帯」と呼ばれ、世界的な大企業のオフィスビルやホテル、デパートなどの高層ビルが林立しています。
アレゲニー川とモノガンヒラ川が合流しオハイオ川となり、南下してミシシッピ川に合流しメキシコ湾に到達します。
このため早くからピッツバーグは川を通じて海までの交通路が開けていました。
川に囲まれた都市ピッツバーグ。

その日訪ねた鉄鋼会社USスチールと対照的でした。
当時アメリカの鉄鋼会社は日本や台頭してきた韓国、メキシコなどの鉄鋼会社に押されていました。
閉鎖された建物も多く広大な敷地内に敷かれた線路(製造された製品を運ぶ)には雑草が生えていました。
警備のおじさんに聞いたら「最近多くの人が解雇された」と言っていました。

ピッツバーグ(Pittsburgh)は、アメリカ合衆国ペンシルバニア州にあります。
州内ではフィラデルフィアに次ぐ大都市で、人口は約32万人(2004年)です。
かつては、鉄鋼業の町として煤煙問題のイメージがありました。
現在では都市の公害対策と再開発が奏効しハイテクの街として生まれ変わりました。
自然環境に恵まれていて住宅が安価なこと、などの条件から全米329都市において「最も住みやすい都市」として一位にランキングされました。
ピッツバーグ市の主要産業は、かつての鉄鋼とガラスを中心にした工業からバイオテクノロジー、医学、ソフトウエア産業などのハイテク産業に変化しています。

文化的には、アメリカ合衆国で最初の音楽家として知られるスティーブン・フォスターの出身地です。
「おおスザンナ」などの彼の作品の多くは、ピッツバーグでつくられました。

スポーツも盛んです。
かつては鉄鋼の町として栄えフットボールの強豪チームの名前にも使われています。
ピッツバーグ・スティーラーズ(Pittsburgh Steelers)はNFLに加盟しているアメリカン・フットボールチームです。
1970年代最強のチームとも言われ、1970年代だけで、4度のスーパーボウルを制しました(連覇を2度達成した唯一のチーム)。
ピッツバーグ・パイレーツ(Pittsburgh Pirates)は、メジャーリーグのベースボールチームで、ワールドシリーズを5回制覇しています。
ピッツバーグ・ペンギンズ(Pittsburg Penguins)はプロアイスホッケーリーグ(National Hockey League 略 NHL)のチームです。

私が行った頃は3つの川に挟まれていた、その名もスリー・リバーズ・スタジアムがあり、丘の上からよく見えました。
当時はMLBとNFLの兼用球場でした。
現在はそれぞれ別のスタジアムを建設しホームスタジアムとしています。
スリー・リバーズ・スタジアムは2001年に解体されました。

37、マリリン・モンロー

2007年08月05日 | Weblog
今日8月5日はマリリン・モンローの命日です。
その死因には自殺、他殺説など謎に包まれていて、彼女の人生のようです。
マリリン・モンロー(Marilyn Monroe・1926年6月1日~1962年8月5日)は、ロスアンゼルス出身の女優です。
本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jean Mortensen)、その後ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)に改名しました。
モンローという芸名は彼女の母親の姓です。
1950年代中頃から現在に至るまで「アメリカのセックス・シンボル」と称されています。
モンローについてはよく知られているので、私があれこれ書くまでもありませんが、彼女について私なりの感想を書いてみます。

評伝の多くが、モンローは孤児だったと書いていますが、母親がいたので孤児ではありません。
小さい頃孤児院に預けられていたのでそう思われているのだと思います。
母親が精神病を患っていたり生活が厳しいなどの理由で、孤児院へ入れられたり養子に出されたりしました。何軒もの養家へ次々と送られたようです。

16歳で高校時代の先輩ジム・ドハティと最初の結婚をします。
航空機工場で働いているときモデルとしてスカウトされ、売れっ子ピンナップ・ガールとして数々の雑誌の表紙を飾りました。
有名なヌード写真はこの頃のものです。
彼女の夫はモデル業に理解を示さず、彼女自身も女優として成功する夢を持っていたので4年で離婚しました。
1954年2月1日に元ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオと結婚しますが結婚生活は9か月しか続きませんでした。
1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚します。
1957年、彼女は念願だった愛する人の子をお腹にやどしますが流産してしまいます。
この頃から精神的に不安定な状態が続き、大量の睡眠薬を飲み昏睡状態に陥ったり、精神病院に入ったりしました。
こうした自殺未遂はその後何度も繰り返されることになります。
結局62年にミラーと離婚しました。

彼女は「家庭」というものをほとんど知らずに育ちました。それどころか、里子に出された先の家で虐待もしくは性的虐待を受けていたようです。
両親がともに生きているにも関わらず自分を置き去りにしていった、という思いはその後も彼女を苦しませ続けることになります。
肉親の愛情を知らずに育ったマリリンの生い立ちはあまりにも哀しくつらいものでした。
それ故、彼女は生涯「父親」の代わりとなる「男性」を求め続け、平安な家庭を求め子供を産みたいと必死になるのです。
マリリンは多くの男たちを愛しましたがいつも心の中にあったのは、ついに会うことができなかった父スタンリ-・ギフォ-ドの面影でした。
一度電話をしたようですが、会うことを拒否され、冷たくあしらわれました。
そのことは大きな傷として生涯残ったようです。
愛を求め続けたが、いつも愛に飢えていました。

ヌード写真のモデルなどをして生活費を稼ぎながら女優になることを夢見ていました。
映画がヒットし人気が出てからも演技派女優として認められたいと思い、ハリウッドを離れてニューヨークに行きます。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ポール・ニューマンらを育てたリー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオで演技の基本から勉強をしなおし本格的に演技を学びました。
マリリンは熱心に勉強し、ストラスバーグは彼女の演技者としての才能を高く買っていたと言います。
また、トルストイやミルトンなどの本を読み漁って教養を深めていきました。
彼女は演技の勉強だけでなく、肉体の鍛錬にも気をつかっていたようです。
まだジョギングがそれほどポピュラーではなかった頃から早朝のジョギングを習慣にしていたといいます。
体型を維持するためにエクササイズを毎日欠かさなかったというエピソードも残っています。

ハリウッドに戻って 1年ぶりの主演作『バス停留所』(56)での演技はアクターズ・スタジオでの演技修行の甲斐あって批評家から絶賛されました。
しかし、大衆が彼女に望んだのは、あくまでもセックス・シンボルとしてのマリリン・モンローだったのです。
マリリンは、自尊心と劣等感の谷間で神経を病み、睡眠薬を手放せない生活になっていきます。
数々の映画がヒットしスターの座を手に入れたが愛らしい顔、抜群のプロポーション故にセックスアピールのみを求められ悩み苦しみ、そして、押し潰されてしまったようです。

マリリンが時折、見せる寂しげな表情。
『帰らざる河』でギターを弾きながら歌っている彼女の表情や歌声は哀しげで切なそうです。 
子供を生んで平和な家庭を築きたいという彼女の願いが叶うことはありませんでした。
マリリン最後の映画「女房は生きていた」(1962)では図らずも二人の子供の母親役でした。
庭のプールで再会した子供たちと戯れるシーンは生き生きしていてとても演技とは思えません。本当に楽しそうです。
しかしこの映画は彼女の死によって完成されることはありませんでした。

マリリンは、決して演技者としての正当な評価を得ることはありませんでした。
それは、女優マリリン・モンローにとって大きな悲劇であったと言えるかも知れません。
実像とかけ離れていった分、マリリンは伝説として人々の中で生き続けているのかもしれません。

頭の空っぽなセックス・シンボルだけの女優と思われていますが、実際は知的で聡明、努力家で向上心にとんだ女性でした。
彼女の得意なことは皿洗いとバドミントン、動物や小鳥を愛し詩やエッセーを好んだようです。
お皿を洗ったり、バドミントンをして戯れるマリリン、小鳥の鳴き声を聞きながら詩やエッセーを書くマリリンは彼女の真の姿かもしれません。

エルトン・ジョンが歌う「Candle in the Wind」という曲があります。
これは亡くなったマリリンに捧げられた曲です。
私はエルトン・ジョンの曲はあまり聴かなかったのですが「Candle in the Wind」は好きでよく聴いていました。
それから十年以上たって突然この曲が世界中で大ヒットしました。
ダイアナ妃が不幸な死を遂げたとき、追悼式でエルトン・ジョンが感動的に歌った「Candle in the Wind」です。
CDが発売されたときすぐに購入しました。
歌いだしの“グッバイ・ノーマ・ジーン”が“グッバイ・イングランド・ローズ”になっています。歌詞もダイアナ妃の人生を歌っています。
両曲とも常にゴシップにさらされながら真剣に人生を駆け抜け、若くして逝った二人の女性に捧げられています。

マリリンの場合、本名のノーマ・ジーンもかなり有名で多くの人の記憶に残っています。
それは彼女の存在がマリリン・モンローという世界的な女優だけでなく、ノーマ・ジーンという一人の女性としても人々に愛され、理解されていたのかもしれません。

「Candle in the Wind」 (訳:柴山理香)
さようなら、ノーマ・ジーン
僕は君にめぐりあえなかったけれど
とりまき連中に囲まれていても
君は気品に満ち溢れていた
彼らはどこからともなく現れて
甘い言葉でそそのかしては
君を思いのままにあやつった
そして君の名前まで変えてしまった
君の生き方はまるで
風の中のキャンドルのようだった
辛いときすがりつく誰かに
めぐりあうことのなかった君
僕がまだ子供じゃなかったら
めぐりあっていたかった
君のキャンドルは燃え尽きてしまった
その輝きが消えるずっと前に
手に負えない孤独
君が演じた中でもっとも辛い役
ハリウッドのスーパースターの座と
ひきかえに君はたくさんの悲しみを背負った
君が逝ってしまった時でさえ
誰も君をそっとしておいてくれなかった
君が裸で死んでいたことを
新聞はこぞってかきたてた
さようなら、ノーマ・ジーン
僕は君にめぐりあえなかったけれど
とりまき連中に囲まれていても
君は気品に満ち溢れていた
さようなら、ノーマ・ジーン
22列目で観てたよ
君はただセクシーなだけじゃない
みんなのマリリン・モンローなんかじゃない

マリリンを愛する多くの人の気持ちを代弁しているように思えます。

 You Tube
Candle In The Wind(ノーマ・ジーン)
Candle In The Wind(ダイアナ妃)
「7年目の浮気」で撮られた有名な白いホルダードレスが地下鉄の風で大きく舞い上がるポーズがあります。
これはニューヨークのレキシントン・アヴェニューと53thストリートの角で撮られました。
私はここをよく通りましたが、この下には何本ものサブウエイが走っていて、電車が通過するたびに通風孔から風が吹き上げてきます。
しかし映画のようにきれいにドレスが舞い上がるのは難しく、何度も撮りなおしたがうまくいかず、結局スタジオで撮りなおしたようです。

写真は10年ほど前アメリカの友人が送ってきた荷物に貼ってあった切手です。
32セント切手が30枚以上びっしり貼ってありました。
郵便配達の人もびっくりしたのではないかと思います。
私は切手収集の趣味はないのですが、さすがにこの切手は捨てずにとっておきました。