ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

86、ニューイヤー・カウントダウン

2007年12月31日 | Weblog
毎年12月31日の夜、ニューヨークのタイムズスクエアーで新年のカウントダウンが行われます。
夕方6時頃から人が集まってきますが、良い場所を確保するため朝から並ぶ人もいます。
何十万人もの人が集まるので早めに行かないと通行規制が始まり、警察官にブロックされてタイムズスクエアーの中心部には入れなくなってしまいます。
警察官だけでも1万人以上が動員されます。
この時期のニューヨークはとても寒くマイナス10度以下になることもあります。
人々は寒さに耐えながらひたすら12時が来るのを待ち、12時が近づくにつれ人々のテンションも高まってきて「Ten、Nine、・・・・・・・・・Three、Tow、One、Zero、Happy New Year!」 で新年を迎えます。
1分前からかカウントを始める気の早い人もいます。「Sixty、Fifty Nine、・・・・・」
この瞬間、クリスタルのボールが降りてきて花火が打ち上げられ、大きな音と大量の紙吹雪、そして人々の歓声が上がります。
「ハッピーニューイヤー! ハッピーニューイヤー!」と言いながら近くの人に声をかけ、知らない人達と抱き合いながら喜び、新年を祝います。
この模様は世界中にテレビ中継されるので見た人もいると思います。
ニューイヤーズ・イブのカウントダウンは1904年に始まり100年以上続いています。
31日の夜はサブウエイは一晩中動いていて、パーティーなどをして夜遅くまで騒ぐ人も多く、タイムズスクエアーは朝まで賑やかです。

写真はタイムズスクエアーで42丁目とブロードウエイ、7番街が交差しています。

85、ディズニー・ワールドへ

2007年12月25日 | Weblog
1990年のクリスマス休暇に家族でディズニー・ワールドへ行きました。
車でハイウエイのI-95をひたすら南に走り、ニューヨークからフロリダのオーランドまで約1000マイル(約1600キロ)です。
(その後マイアミまで行ったので片道1120マイルの旅でした)

ニューヨークを朝5時に出発し、サウスカロライナの友人宅に着いたのが夜の8時ごろでした。
翌朝友人宅を7時に出発し、オーランドに夕方5時頃着きました。
モーテルを探してチェックインし、すぐにディズニー・ワールドへ向かいました。
クリスマスシーズンなのでクリスマスツリーやイルミネーションが飾られ、アトラクションも華やかなものでした。
 *アメリカでは車で長距離を移動する人が多く、国道や幹線道路には駐車場付のモーテルがたくさんあり、値段も手頃で便利です。

I-95は州間高速道路(インターステート・ハイウェイ、Interstate Highway)でアメリカ合衆国東海岸を、最北にあるメイン州のカナダ国境付近から、最南端のフロリダ州マイアミまで走っています。
この間ボストン ニューヨーク フィラデルフィア ワシントンDC アトランタ近郊 オーランド、マイアミなどの大都市を結んでいる大動脈で、総延長は約1400マイル(約2240キロ)になります。
日本で言うと北海道の知床から九州の宮崎県日南まで太平洋側を1本の高速道路で繋がっているようものです。
この間高速料金はほとんど無料です。(橋やトンネルは有料のところもある)

ディズニー・ワールドはウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート(Walt Disney World Resort、略称:WDW)と言い、フロリダ州・オーランドの南西に位置するウォルト・ディズニー・カンパニーが経営する世界最大のテーマパークです。
エプコットのシンボル、スペースシップ・アース館4つのテーマパーク、2つのウォーターパーク、6つのゴルフコース、レースサーキット、多くのリゾートホテル等を内包する世界最大のアミューズメントリゾートです。
約122km?という広大な敷地は東京の山手線の内側の2倍もあります。
建売住宅もあり、テーマパークというより、超大型総合リゾート地です。

ユニバーサルスタジオ・フロリダやシーワールド等も隣接し賑わっています。
また、車で1時間半ほど先のケープ・カナベラルにはNASAのケネディー・スペースセンターもあります。
日本人宇宙飛行士もここから宇宙に旅立ちました。(ケネディー・スペースセンターはアメリカに行ったら必ず行きたいと思っていたところで、1985年に実現し、この時は飛行機で行きました)

ディズニー・ワールドで3日間遊び、再びI-95を南下しマイアミに行きました。
オーランドからマイアミまで約120マイル(約190キロ)です。
マイアミの友人宅で新年を迎えました。
この友人はマイアミでジャパニーズ・レストランを経営しています。
アメリカ大陸最南端のマイアミは暖かく椰子の木などが多くて南国情緒があります。
学生時代に吹奏楽部の演奏会で「マイアミビーチ・ルンバ」を演奏したことがあり、その頃からマイアミビーチには行ってみたいと思っていました。
そこは海岸線の長い砂浜で、想像していた通りきれいなビーチが続いていました。

帰りは来た道を逆に走ります。
マイアミの友人宅を1月3日朝に発ちI-95をひたすら北上します。
途中サウスカロライナの友人宅で再び1泊し、4日夜にニューヨークに着きました。

写真はディズニー・ワールドのシンボル、マジックキングダムです。

84、サンタさんいらっしゃい!

2007年12月24日 | Weblog
12月24日はクリスマス・イブです。
子供たちはサンタのプレゼントを楽しみに待っています。
すばらしいプレゼントがあるでしょう。
大人にも素敵な贈り物があるでしょう。(きっと)

写真はニューヨークに住んでいたときの我が家で、屋根には煙突があります。
アメリカの一戸建ての家にはほとんどチムニ(煙突)があり、居間には暖炉があります。
昔は薪を燃やして暖を取っていました。
今は石油や電気で暖房をするので暖炉を使うことはほとんどありませんが、
クリスマス・シーズンには居間にツリーを飾って暖炉に火を灯し、その前で一家団らんの時を過ごします。
煙突からやってくるサンタは煤で真っ黒になってしまうだろうな!
我が家の子供たちもイブの夜は暖炉の前に大きな靴下を置いて寝ました。

ニューヨークにいるとき、大雨や台風のときにどうして煙突から雨が吹き込んでこないのか、
いつも不思議に思っていましたが上に登って構造を確かめることはありませんでした。

83、デパートも稼ぎどき

2007年12月23日 | Weblog
アメリカのデパートが一番にぎわうのがクリスマスシーズンです。
店内のあちこちにツリーが建てられ、きれいに飾り付けされモールにはクリスマスソングが1日中流れています。
11月末のサンクスギビングデイからクリスマス迄の1ヶ月は買い物客でごった返し、この期間だけで年間売り上げの3割を売り上げると言われています。

写真は去年のクリスマスシーズンにシアトルのショッピング・モールで撮ったものです。
大小さまざまな店が100軒以上入っている巨大なモールで、
写真に写っている「JCPenney」はアメリカでも有数の大手デパートです。
1902年に創業され、現在はハワイを除くアメリカの全州とプエルトリコに約1,000店舗を構えています。
「シアーズ」や「ウォルマート」などと共にアメリカの代表的なデパートメントストアです。

82、ピルグリム・ファーザーズ

2007年12月21日 | Weblog
1620年12月21日、イギリス南西部プリマスから新天地アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)がアメリカ北東端のプリマス港に上陸しました。
出発地と到着地が同じプリマスなので出航地プリマスに因んで、ニュー・プリマスと名づけられたと言われていますが、1614頃のニューイングランドの地図にその名があるので偶然同じ名の地に到着したことになります。

当初目指していたのは現在のニューヨーク付近でしたが、到着したのはずっと北のニューイングランド地方でした。
メイフラワー号( the Mayflower)は全長27.5m、180t、3本マストの小型の帆船です。
大西洋には秋から冬にかけて季節風が吹き荒れ、エンジンも無い小さな船は木の葉のように揺れ、波に飲まれそうになりました。
雨や風は船室にも容赦なく吹き込み人々を苦しめました。
それは死と隣り合わせの、命がけの航海でした。
同じように新大陸を目指した船の中には海に沈んだ船もあったことと思います。
当時スペイン人やフランス人、オランダ人なども新大陸を目指しました。

9月16日にイギリスのプリマス(Plymouth)を出港したメイフラワー号は、大西洋1,400kmを66日かけて航海し、11月21日にケープコッド(Cape Cod)(コッド岬)沖に到着し、錨を下ろしました。
船客102名の中に妊娠中の女性が3名いて、うち2名が下船前にそれぞれ男子を出産しています。
また航海中に乗員1名、船客1名が亡くなったことも記録されています。

彼らが北米大陸に最初に降り立ったのはプリマスにあるプリマス・ロック付近だと思われていますが、岬(ケープ・コッド)の先端プロビンスタウンでした。
新大陸への第一歩が印されたプロビンスタウンには「ピルグリム記念塔」(The Pilgrim Memorial Monument) が丘の上に建っています。
高さ77 メートル、一辺が9メートルの四角い柱状です。
丘の上にある塔の頂上は海抜167メートルになり東は大西洋の大海原を臨み、西はマサチューセッツ湾を挟んでプリマスを臨み、その先にはアメリカ大陸が続いています。
いかにも開拓の始祖たちに相応しいモニュメントと言ってよいでしょう。
 *イギリスから大西洋を西に向かってくると湾の内側にあるプリマスより湾の先端にあるプロビンスタウンに先に着きます。(地図を参照)



プロビンスタウンに到着したメイフラワー号は船の修理をしながら定住する場所を探しますが、辺りは荒涼とした砂丘が広がっていました。
プロビンスタウンへの入植を断念し、ケープコッド湾を渡って現在プリマス・ロックのある地点に上陸しました。
それはプロビンスタウンに到着した1ヶ月後の12月21日でした。

上陸に先立ち、政治の基礎は自由な個人の同意にあることを確認して、民主的な新社会の建設を誓約した「メイフラワー契約(Mayflower Compact)」が結ばれ、この宣誓書に全員が署名しました。
メイフラワー号の三つの約束(清教徒の実践)
1.自分の財の一部を、みんなのために使おう
2.自分の知恵と技術を、みんなのために使おう。
3.自分の時間を、みんなのために使おう。
これらはボランティア、寄付、助け合いなどの精神としてアメリカ人の中に育っていきました。
彼等の抱いた理想は米国精神の土台となって民主主義や自由主義思想として世界中に広がったのです。

入植の地として降り立ったプリマスの地も見渡す限りの荒野で、すぐに厳寒の冬を迎えることになります。
この辺りはアメリカ東海岸の最北端に位置しカナダ国境にも近く、冬は大西洋から冷たい風が吹きつけ、雪もかなり積ります。
寒さと病気に苦しんみ、さらに食糧不足も重なって春までに102人のうち半数以上が死亡し、生き残ったのはわずか50人ほどでした。
しかし、いかなる厳しい環境にあっても理想社会建設への情熱に燃え、彼らはひたすら働き努力しました。
苦難を乗り越えて、アメリカ建設の祖として歴史にその名を留めました。
互いに励ましあい病気の人を看病し、やがて春を迎えました。
苦しむ彼らを見て先住民(インディアン)が暖かい手をさしのべました。
トウモロコシの栽培や、タラ漁の方法、七面鳥の飼育などを学び入植地を広げていきました。
秋には神の恵と先住民に対して感謝の気持ちを表わし収穫祭を催しました。
これが、アメリカのサンクスギビング(感謝祭)の由来です。
今では、サンクスギビングはクリスマスと並ぶアメリカ最大の祝日です。(70、感謝祭を参照)
 *彼らが最初に到着したケープコッド(Cape Cod)は「コッド岬」と言い、その名の通りCod(鱈タラ)がたくさん獲れます。

プリマス・プランテーション(入植地)は今日「アメリカの故郷」(America's Hometown)と呼ばれ、歴史的遺産を数多く残す観光地となっています。
メイフラワー号の船員たちの上陸地点とされるプリマス・ロック。
入植当時の生活を再現したプリマス・プランテーション。
メイフラワー号のレプリカであるメイフラワー2世号(1957年製造)。
これらの場所はアメリカ人を始め、世界中からの観光客が絶えません。
プリマス(Plymouth)はアメリカ合衆国マサチューセッツ州東部に位置する町で、ボストンの南東約64kmに位置し、マサチューセッツ湾の一部プリマス湾に面しています。

写真は私が毎夏行っていたケープコッドのプロビンスタウン近郊で撮ったもので、荒涼とした砂丘が続いています。
メイフラワー号から降り立ったピルグリム・ファーザーズが見たのもこのような光景ではなかったかと思います。
左奥に見えるのはケープコッド湾で、その向こう側にプリマスがあります。

ケープコッドの先端にある繁華街プロビンスタウンは夏には観光客でにぎわいます。
プリマスからプロビンスタウンにかけては砂浜が続き、彼らを苦しめた砂浜は現在アメリカで有数のビーチとなっています。
プリマスやプロビンスタウンの港から沖釣りやヨットが出航し、夏の避暑地として人気があります。

私はニューヨーク→ボストン→プリマス→プロビンスタウンを何度も車で往復しました。
ニューヨークからボストンまで4時間、ボストンからプリマスまで1時間、プリマスから
プロビンスタウンまで2時間のドライブです。

*メイフラワー号とプリマス・ロックの写真は「32、メイフラワー2世号」
プリマス・プランテーションの写真は「33、プリマス植民地」を見てください。

81、セントラル・パークに冬の到来

2007年12月16日 | Weblog
春は新緑、夏は太陽の光と緑に包まれ、秋は紅葉、冬は雪と四季を通して、セントラル・パークはニューヨーカーの憩いの場です。
12月も後半になるとセントラル・パークの木々も葉を落とし冬の顔になります。

写真はセントラル・パークから南のビルを撮ったもので、エセックス・ハウスが写っています。
エセックス・ハウスは世界大恐慌の最中、1931年にセントラル・パークを見下ろす高級ホテルとして開業しました。
内外装には当時流行していた建築様式であるアールデコ様式がちりばめられ、ウォルドルフ・アストリアやプラザ・ホテルと並ぶニューヨークを代表する高級ホテルとして人気がありました。

1984年10月、日本航空の系列会社、日航開発(ニッコーホテルズ)が買収し「ニッコー・エセックスハウス」に改名しました。
日本料理レストランなどを設け、全面改装してニッコーホテルズの旗艦ホテルとなりましたが1999年1月に売却されました。
59丁目(セントラルパーク・サウス)の6番街と7番街の間にあり、ロケーションの良さもあり現在も高級ホテルとして人気があります。
5番街へのショッピングや、カーネギー・ホール、リンカーンセンター、ブロードウエイなどの観劇に行くのにも近く、日本人もよく利用します。

80、近所のクリスマス

2007年12月13日 | Weblog
12月中旬になるとホリデーシーズンも最高に盛り上がり、町にはクリスマスの飾り付けやクリスマスソングが溢れています。
この時期、街角やショッピングセンターでは、もみの木を山積みにして販売する姿をよく見かけます。

多くの家がクリスマスツリーを建て飾り付けをしますが、豪華な飾り付けをする家もたくさんあります。
写真は近所の家で華やかな飾りつけが評判で、毎年多くの人が見に来ます。
テレビや新聞で紹介され、日本のテレビ局も取材に来ます。
この家は毎年少しずつ飾りを買い増していくそうです。
写真を撮ったのが1990年頃で、その時30年くらい続けていると言っていました。
あれから17年経っているので現在はもっと飾りが増えていると思います。

79、演奏会やパーティー

2007年12月12日 | Weblog
この時期はニューヨーク中がクリスマス気分で盛り上がります。
レディオシティ・ミュージック・ホールの「クリスマス・スペクタキュラー」の講演が行われます。
リンカーン・センターではオペラ、ニューヨーク・フィルのヘンデルのメサイアの演奏、ジョージ・バランシンのくるみ割り人形などの公演が行われます。
カーネギーホールやブロードウエイでも華やかな公演が行われクリスマスは最高潮に達します。

会社や個人の家ではパーティーが行われます。
私の働いていた会社では毎年クリスマスパーティーが盛大に行われました。
この日(金曜日)は仕事が終わると女性は華やかな衣装に着替えます。
ホテルのボウルルームを借り切って行われますが、プロのディスクジョッキーを呼んで盛り上がります。
この夜は食べて飲んで踊って12時頃までパーティーは続きます。
アメリカ人はダンスが好きで上手です。
私がいた頃は、映画「サタディーナイト・フィーバー」がヒットしていてディスコ・ダンスが流行っていました。
日本人はダンスは苦手の人が多かったです。(好きな人も何人かいましたが)

写真はセントラル・パークの中にあるレストランTavern on the Green(タバーン・オン・ザ・グリーン)です。
ここの飾りつけも綺麗でニューヨーク名物の1つです。

78、ジョン・レノン殺害される

2007年12月08日 | Weblog
1980年12月8日(現地時間)、ジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前で、狂信的なファンとされるマーク・チャップマンに殺害されました。
午後10時50分、レノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着しました。
前庭に隠れていたチャップマンはレノンが彼の前を通り過ぎたとき暗闇から「ミスター・レノン」と呼び止め、銃を発射しました。
撃たれたレノンは直ちにルーズベルト病院に搬送され、病院に着いたときはまだ意識はありましたが午後11時過ぎに死亡しました。

レノンが撃たれた時刻に私はダコタ・ハウスの近くにいましたが、そのことは知らず家に帰ってテレビで知りました。
レノンが搬送されたルーズベルト病院は「ダコタ・ハウス」から近い58st~59stと10~9Aveにあります。
私はルーズベルト病院には少なからぬ思い出があります。
渡米して1年くらい経った1974年頃でした。
事故で手を怪我したときに連れて行かれたのがルーズベルト病院でした。
何針も縫う怪我で、かなり出血しました。
その傷跡は今でも残っていて時々痛みます。
ルーズベルト病院のことはすっかり忘れていましたが、レノンが搬送されて死亡したのがルーズベルト病院だと知ったときは感慨深いものがありました。
何しろ、ジョン・レノンは我々の世代にとっては最高のヒーローです。
ビートルズについてはあまりに有名で、ここで書くまでもありませんが、音楽史に残した功績は計り知れないものがあります。

ストロベリー・フィールズ(Strawberry Fields) はダコタ・ハウスから通り(セントラルパーク・ウエスト)を渡った、セントラル・パークの中にあります。
レノンの死後、彼の歌「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」にちなんで名付けられた場所で、毎年12月8日の夜には多くのファンが彼を偲んでここに集まり、ろうそくを灯して彼の歌を歌います。

77、セントラル・パークの東と西

2007年12月04日 | Weblog
セントラル・パークを挟んだ東側と西側はニューヨークで最高級住宅地として知られています。
特にセントラル・パークに面した5番街やセントラルパーク・ウエストにはドアマン付の最高級のマンションや歴史を感じさせる格式ある建物が並んでいます。

アッパー・イーストはセントラル・パークの東南端59丁目から北は96丁目までの間で、街路樹も多く落ち着いた雰囲気です。
メトロポリタン美術館、グッゲンハイム美術館などの有名な美術館や大金持ちの豪邸を改造した個人の美術館もたくさんあります。
5番街の1つ東のマディソン・アベニュウは高級ブティックやブランド品の店が並ぶ「最高級ショッピング街」として知られています。
5番街には富裕層の中でも「超」が付く人達が住んでいます。
世界的に有名な俳優、作家、芸術家、実業家などが多く住んでいます。
メトロポリタン美術館の向かいのマンションにはジャックリーン・オナシス・ケネディーが住んでいました。

アッパー・イーストは国連にも近く外交官も多く住んでいます。
マディソン・アベニュウの東パーク・アベニュウは銀行や大使館の多いところで、日本総領事館もここにあります。
「在ニューヨーク日本国総領事公邸」は5番街とマディソン・アベニュウの間にあり、昭和天皇崩御の際には記帳台が設けられ多くの人が記帳しました。(領事館にも記帳台が置かれたと思います)
アッパー・イーストでもイースト・リバーに近い1st Aveや2nd Ave辺りには日本人駐在員が多く住んでいます。

アッパー・ウエストはセントラル・パークの西南端59丁目のコロンバス・サークルから96丁目までの間で、ここも高級住宅地として知られていています。
特にセントラル・パークに面したセントラルパーク・ウエストは東の5番街に匹敵する最高級住宅地です。
72 Stと73 Stの間にあるダコタ・アパートにはジョン・レノンとヨーコ・オノが住んでいました。
アッパー・ウエストはリンカーンセンターやカーネギーホール、ブロードウエイの劇場街に近く、俳優や演劇関係の人が多く住んでいます。
北にはコロンビア大学が、リンカーンセンターのすぐ北には名門、ジュリアード音楽院などがある若者の多い活気ある地域でもあります。