ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

98、テレビの売り上げ好調

2008年01月31日 | Weblog
今、アメリカで大型テレビが飛ぶように売れています。
8月の北京オリンピックを見るため?
ノー、スーパーボウルを見るためです。
2月3日(日本時間4日)、スーパーボウルが行われます。
アメリカンフットボールの最高の試合で、アメリカ最大のスポーツイベントです。
レギュラーシーズンですらNFLの入場券は手に入れるのが難しく、ましてスーパーボウルのチケットはほとんど入手不可能です。
そのチッケットには高額なプレミアムがつきます。

それなら大型テレビでじっくりゲームを楽しもうというものです。
アメリカでのスーパーボウル人気は想像を絶しています。
テレビの視聴率は毎年40%を越え1億3千万人以上の人がテレビで観戦します。
国民の2人に1人がテレビに釘付けです。
アメリカでの歴代視聴率トップ15の半分以上(8)をスーパーボウルが占めています。
全米が熱狂するスポーツイベント!
スーパーボウルが行われる週は“スーパーボウル・ウィーク”と呼ばれ、アメリカ全土がスーパーボウル一色になり、
単なるスポーツイベントの枠を越え国民的行事になっています。
ゲーム当日は“スーパー・サンデー”と呼ばれ,テレビでは朝からスーパーボウル関連の話題や試合の予想で盛り上がります。
人々はこの日、家族や友人が集まりパーティーを開き、アメリカ最大のスポーツイベントを楽しみます。

今年のスーパーボウルは特に注目度が高くなっています。
圧倒的な強さで勝ち上がってきたニューイングランド・ペイトリオッツ(ボストン)とワイルドカードから勝ち上がったニューヨーク・ジャイアンツが対戦します。
ボストンとニューヨークの対戦で、ペイトリオッツのブレイディとジャイアンツのマニング、2人のエースQB(クオーターバック)の対戦が楽しみです。
ジャイアンツが1990シーズン以来17年ぶりにスーパーボウル制覇するか、ペイトリオッツがレギュラーシーズンから無敗で完全制覇を達成するか、注目されています。
  “50、フットボール未亡人”を参照

97、チャレンジャー爆発事故

2008年01月28日 | Weblog
“7、三大から四大へ“でも書きましたが、私がニューヨークにいた頃、アメリカ人が「その出来事」を何処でどのように知ったか、鮮明に覚えていることが三つあると言われていました。
1つはケネディー大統領の暗殺
2つめはアポロ11号の月着陸とアームストロング船長の月面への第1歩
3つめはスペースシャトルのチャレンジャー爆発事故
その後起きた同時多発テロでの「トレードセンター崩壊」を加え“四大ニュース”と私は呼んでいますが。

そのうちの一つチャレンジャー爆発事故が起きたのは1986年1月28日でした。
私は東京の妹のマンションでテレビを見ているときに知りました。
1973年に渡米し1985年の12月に一時帰国していました。
1月30日にアメリカに帰る直前のニュースでした。
12年ぶりの日本で、その間一度も日本に帰りませんでした。
出発したのは羽田で、帰ってきたときは成田でした。
成田から電車で家に帰りましたが、車窓から見える田園風景が懐かしく感慨に耽ったのを覚えています。

フロリダ州ケネディー宇宙センターから打ち上げられたチャレンジャーは、1分13秒(73秒)後にフロリダ沖合の上空で爆発し大西洋に落下しました。
フランシス・スコービー船長、女性高校教師のクリスタ・マコーリフさん、日系宇宙飛行士エリソン・オニズカ氏など7人のクルー全員が死亡しました。
打ち上げの瞬間、成功を祝った人々の歓喜の表情は一瞬言葉を失い凍りつきました。
チャレンジャーの爆発事故はその後のアメリカの宇宙開発計画の変更を余儀なくさせ、2年8カ月後の88年9月まで中止されました。

このときのチャレンジャーはスペースシャトル25回目の区切りの飛行で、初の一般市民が搭乗していました。
7名のうち2名が女性で、アフリカ系アメリカ人、日系アメリカ人など乗員の構成も多彩でした。
最も注目を集めたのは1万l000人の志顧者から選ばれた女性高校教師クリスタ・マコーリフさんで、幼い二人の子供を持つ普通の教師でした。
周回軌道上から生徒たちと交信し「宇宙授業」を行う予定でしたが事故によって実現することはありませんでした。

その宇宙授業が実現するのは21年後のエンデバー号でした。
同じく学校の先生をしていたバーバラ・モーガンさんは、死亡したマコーリフさんと同じく85年に「宇宙の先生」に選ばれていました。
86年のチャレンジャーではマコーリフさんのバックアップクルー(予備要員)でした。
宇宙からの授業はマコーリフさんの夢と同時にバーバラさんの夢も絶たせてしまいました。
しかし、バーバラ先生は夢をあきらめませんでした。
チャレンジャーの惨事の後、地元小学校の教師に戻っていたバーバラさんは、1998年に正規の宇宙飛行士(ミッション・スペシャリスト)としてNASAに復帰します。
(チャレンジャー爆発事故以後一般市民の搭乗は禁止されていました。)
2007年、エンデバーでバーバラ・モーガン飛行士はようやく宇宙へ飛び立つことができました。
チャレンジャーの悲劇から21年、85年の選抜から22年を経て夢だった「宇宙授業」を実現します。
国際宇宙ステーションにドッキングしている「エンデバー」から生徒たちの質問に答えました。
長年勤めた小学校があるアイダホ州の子どもたちに向け、宇宙の微小重力状態を理解してもらおうと、同僚飛行士2人を軽々と持ち上げて見せるなど、子どもたちの疑問に「実演付き」で答え、マコーリフさんが果たせなかった「宇宙授業」の夢を21年ぶりにかなえました。

私がケネディー宇宙センターを訪ねたのは1985年の夏でした。
広大な敷地の中にさまざまな施設がありバスで移動しました。
宇宙飛行士の訓練施設や大きなplant(組立施設)の中を見学しましたが、特に印象に残っているのはバスの窓から見た巨大なロケットと、スペースシャトルの発射台です。
それから半年後に起きた事故でした。


96、マンハッタンのストリートとアベニュー

2008年01月25日 | Weblog
マンハッタンの通りは縦(南北)に走るとアベニュー(Avenue)と横(東西)に走るストリート(Street)が「碁盤の目」になっていて、
「グリッドGrid(格子)」と呼ばれています。

これは人口が増加し街がバラバラに開発されてしまう前に、秩序だった都市計画をしようと1811年に始まりました。
しかし既に街ができ上がっていたロウアー・マンハッタンは通りが入り組んで複雑です。
規則正しく碁盤の目になっているのは14 STから上(北 )です。
ロウアー・マンハッタンの通りには番号ではなく固有の名前が付いています。
例えば金融街で有名なWall ST、チャイナタウンのあるCanal STなどです。

縦に走るアベニューは東から順に1、2、3、4、5、・・・・と番号がついています。
First Avenue 、Second Avenue 、Third Avenueとなっていて、有名な5番街はFifth Avenueです。
これはあくまでも基本で3と5の間は4ではなくレキシントン、パーク、マディソンの3つの通りがあります。

昔は4番街という呼び方もありましたが、3番街と5番街の間が広すぎるということで、
3と4の間に「レキシントン・アベニュー」を、4と5の間に「マディソン・アベニュ」を加えました。
その際4番街は整備され中央に緑地帯を設けて両面通行になり、その名も「パーク・アベニュー」になりました。
その分、他の道よりも広くなっていて緑地帯には桜や四季折々の花が咲きます。)
*基本的にアベニューは一方通行になっています。
(例えば、5番街は北から南に向けて一方通行です。)
さらに、マンハッタン島の東に膨らんでいる部分ではFirst Avenueの東にYork Avenueがあります。

一方、横に走るストリートはロウアー・マンハッタンのHouston Streetが「ゼロ」で、すぐ北の道が1st Streetで、
順次2nd Street 、3rd Streetと北へ向かって番号が増えて行き、最北端は220th STです。
  *ちなみに、Houston StreetのHoustonはヒューストンではなくハウストンと発音します。
   最近人気のおしゃれな町ソーホー(SOHO)はHouston Streetの南South Houston の意味です。

このように規則正しい「碁盤の目」を作っている中で1本だけ斜めに走っている変わり者がいます。
それはブロードウエイです。
マンハッタンの最北端から最南端のバッテリー・パークまで斜めに横切っています。
 *図はミッドタウンのストリートとアベニューです。
  アベニューとストリートには地域によって固有の名前が付いているところもあります。
  例えば、6 Avenueはアベニュー・オブ・アメリカ、
  8 Avenueのセントラル・パークに面している所はセントラル・パーク・ウエスト、
  11 Avenue はウエスト・エンド・アヴェニューなどの呼び名があります。

95、5th Avenue

2008年01月23日 | Weblog
マンハッタンと言えば「5番街」と言われるくらい有名で、ブランド店が並ぶ世界でも有数の高級ショッピング街です。
ショッピング、観光、ビジネスと活気に溢れています。
しかし、5番街はここだけではありません。

94、ティファニーで朝食を」でも書きましたが、通りとしての5番街はマンハッタン島の北東端のハーレム川から南はグリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場まで続いています。
ワシントン広場の北の道はWashington Square North(ワシントン広場北)と呼ばれ、ストリートとしては6th STになります。
北は143rd STでハーレムリバー・ドライブに入り、その間は137ブロックで、全長約12kmです。
南北に真っ直ぐにマンハッタンを縦断していて、北から南に向かっての一方通行です。
この間にはそれぞれの特徴があって、地域によって全く違う顔を見せます。

110丁目から北はハーレムで、以前は危険な地域でしたが再開発によって安全なりました。
110丁目から59丁目までのセントラル・パークに面した地域は超高級住宅街です。
ドアマン付の高級アパート(日本で言うマンション)が並んでいて街路樹も多く静かです。
セントラル・パークを望む高級アパートメントは最上のステータスとされています。
また、この辺りには美術館や博物館が多くあり、ミュージアム・マイルと呼ばれています。
グッゲンハイム美術館、メトロポリタン美術館、フリック・コレクション・・・・。
高級ホテルもたくさんあります。

59丁目から42丁目までがいわゆる「5番街」と呼ばれる高級ショッピング街です。
ブランド店が軒を連ねるマンハッタンの中心部で、ウインドーショッピングをしながら観光名所を訪ねるのも楽しいものです。
また、セント・パトリックデイ・パレードや独立記念日のパレードなどいろんなパレードが行われます。

42丁目から南の地域も商店街が続きますが上の地域に比べバラエティーに富んでいます。
店の種類も豊富でレストランやデリ(食料品店)などもあります。
34丁目南の角にはエンパイア・ステート・ビルが建っていて、昔(第二次世界大戦以前)はこの辺りがマンハッタンの中心でした。
マンハッタンはダウンタウン→14丁目→23丁目→34丁目→42丁目と南から北へ発展して行き、現在は57丁目辺りが中心と言われています。

5番街を境に西側をウェストサイド、東側をイーストサイドと呼び、住所も5番街で分かれます。
例えば50丁目の5番街のすぐ西は“1west 50th St New York NY 10020“となり、5番街から遠ざかるにつれて番地が大きくなっていきます。
(NYの後の10020は日本の郵便番号に当たります。)
東側も同じで、5番街は名実共にマンハッタンの中心です。

94、ティファニーで朝食を

2008年01月20日 | Weblog
今日1月20日はオードリー・ヘップバーンの命日です。
1993年1月20日、結腸ガンで亡くなりました(享年63)
死後10年以上経ってもその人気は衰えることはありません。
清楚で気品にあふれ世界中の映画ファンを魅了したオードリー、晩年は飢餓で苦しむ子供たちのためにユニセフの親善大使として情熱を傾注ました。
女優としても素敵でしたが晩年の生き方も魅力的な女性でした。

オードリー・ヘップバーン主演の映画「ティファニーで朝食を」がありますが、長い間ティファニーの中にレストランがあるのかと思っていました。
昔、1度見ただけなので映画の内容もよく覚えていず、題名と主題歌「ムーン・リバー」だけが印象に残っていました。
その後、何回かビデオやテレビで見て題名の意味が分かってきました。
それは、主人公が映画の中で言う「ティファニーで朝食を食べるご身分」というたとえのようです。(ティファニーにはレストランはありません)
ニューヨークで自由奔放に生きるホリーにとってティファニーは憧れだったのだと思います。
高級コールガール、ホリーが仕事を終え、朝もやの中タクシーでアパートに帰る途中、高級宝石店「ティファニー」のショーウインドウを見ながら朝食のパン(クロワッサン)をかじる冒頭のシーンが印象的です。

この映画の中でオードリーが演じるホリーは彼女の本来の魅力、妖精的イメージとはかけ離れていると言う人もいますが、彼女の新しい魅力が発揮されています。
コールガールを演じてもキュートでエレガント、明るくかわいく、しかもコメディータッチな彼女の魅力が発揮され、それまでの純真な女優から役の幅を広げていきました。
彼女自身、この役が気に入っていたようです。

この映画でティファニー・ブランドは世界的に有名になりました。
特に日本でティファニーの名を有名にしました。
バブルの頃毎日ティファニーには大勢の日本人が押しかけ、五番街には店のバッグを持った日本人をたくさん見かけました。
映画「ティファニーで朝食を」の影響は大きかったと思います。

 *オードリー演じるホリーのような高級コールガールはニューヨークにはいるようです。
  アメリカ人の友人の話によるとニューヨークの高級アパート(日本で言うマンション)の部屋で仕事をしていて、外からは全く分かりません。
  私がニューヨークにいた頃、コールガールを取り仕切るマダムが摘発され、顧客リストが押収され問題になったことがあります。

5番街というと高級ショッピング街というイメージがありますが、北はハーレム・リバーから南はグリニッジビレッジのワシントン広場まで、マンハッタンの真ん中を縦に走っています。
5番街の中でも42丁目から59丁目までが、いわゆる世界でも有数の高級ショッピング街として知られていてティファニー、ルイ・ヴィトン、シャネル、グッチ、ロレックス、カルティエ、アルマーニ、・・・などの有名店が並んでいます。
また、ロックフェラー・センター、セント・パトリック教会、MoMA(ニューヨーク近代美術館)などの観光名所もたくさんあり、世界中からの観光客が絶えません。

93、マーチン・ルーサー・キング

2008年01月15日 | Weblog
今日、1月15日はマーチン・ルーサー・キング牧師の誕生日です。(1929年生)
キング牧師の誕生日はアメリカの祝日になっていますが15日とは決まっていません。
1月の第3月曜日を祝日として土、日、月の3連休とし、今年は21日です。
最近は日本でも月曜日を祝日とし3連休にすることが多くなっています。
昨日14日の「成人の日」も以前は15日と決まっていましたが今年は14日の月曜日でした。

1963年の「ワシントン大行進」でキング牧師が行った演説の一部(木山ロリンダ・斎藤真由美訳)
「私には夢がある(I have a dream.)
私は同胞達に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢なのだ。つまり将来、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等である」というこの国の信条を真実にする日が来るという夢なのだ。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷を所有した者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。

私には夢がある!
今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。私の四人の小さい子ども達が、肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住める日がいつか来るという夢が。

私には今夢がある!
人種差別主義者や州知事が連邦政府の干渉排除主義を唱え、連邦法の実施を拒否しているアラバマ州にさえ、将来いつか、幼い黒人の子ども達が幼い白人の子ども達と手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が。」

あれから40年、キング牧師の願った人種や肌の色によってではなく能力や人格によって評価される時代になってきました。
アメリカでは大統領の予備選が始まり、黒人のオバマ候補(母親は白人)が有力候補として民主党のトップ争いをしています。
さらにブッシュ大統領の補佐官、国務長官としてライス女史が活躍しています。
前任のコリン・パウエル氏に続いて黒人の国務長官です。
近い将来黒人の大統領が誕生することでしょう。
 *今は黒人とは言わず、アフリカ系アメリカ人と言います。

写真は「ワシントン大行進」の様子で、キング牧師はリンカーン記念堂前で演説しました。
奥に見えるのはワシントンモニュメントで、その向こうには国会議事堂があります。
リンカーン記念堂、ワシントンモニュメント、国会議事堂は一直線に並んでいます。
41、私には夢がある(I have a dream.)を参照。

92、ハドソン川が凍結

2008年01月11日 | Weblog
私がウエストサイドに住んでいた1970年代は冬の寒さが厳しく、ハドソン川が完全に凍結することもありました。
華氏で0度(-17.8℃)以下になることもあり、時には-20℃位になることもありました。
華氏0度以下になると、まるで冷凍庫の中にいるようです。
外に出ると鼻の粘膜が凍ってパリパリします。
雪が降ると根雪が残りそれが凍ってしばらく溶けません。
アパートの屋上から凍結したハドソン川が白く光っているのが見えました。
最近は温暖化のせいか、ハドソン川が凍結することはありません。

マンハッタンとニュージャージー州は橋やトンネル、鉄道で繋がっています。(図)
①、ジョージ・ワシントン・ブリッジ
②、リンカーン・トンネル
③、ホランダ・トンネル
その他、アム・トラックやパス・トレインがあり、ジョージ・ワシントン・ブリッジ以外はハドソン川の下を通っています。


91、屋上からの眺め

2008年01月10日 | Weblog
マンハッタンではウエストサイド、イーストサイド、五番街近くの、3ヶ所に住みました。
写真はウエストサイドに住んでいたときアパートの屋上から撮った写真で、ハドソン川が見えます。
対岸はニュージャージー州です。

90、ハッピーバースデー、エルヴィス

2008年01月08日 | Weblog
今日1月8日はエルヴィス・プレスリーの誕生日です。
エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley)は1935年1月8日 に生まれました。
ミドルネームは墓石には「Aaron」と綴られていますが、サインや公文書では「Aron」になっています。
ミシシッピ州トゥーペロの小さな家で、ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー、グラディス・ラヴ・スミス・プレスリー夫妻の間に生まれました。
双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいましたが誕生時に死亡しています。
トゥーペロで幼年期を過ごし、13の時に一家はテネシー州メンフィスに移り、さらに1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居します。
11歳からギターを始め、ロウダーデール・コートの地下洗濯部屋で練習をし、そこに住むミュージシャン達と演奏していました。
高校卒業後に精密金型会社で働き、次にクラウン・エレクトリック社のトラック運転手になります。

1953年、18才で音楽活動を開始します。
エルヴィスというとロック歌手というイメージがありますが、いろんなジャンルの曲を歌っています。
ロックンロール、カントリー、ゴスペル、賛美歌、ブルース、他。
それぞれ味があってエルヴィスの音楽的才能の豊かさを感じます。
昔(50、60年代)は「プレスリー」と呼ばれていましたが、最近は「エルヴィス」とファーストネーム(名)で呼ばれることが多くなっています。

写真は10年ほど前に買ったカントリー曲のCDジャケットで、2歳のエルヴィスです。
このCDは1970年頃買ったLPレコードとジャケットも収録されている曲も全く同じものです。
39、エルビス・プレスリーを参照
You Tube「I Really Don't Want To Know
日本では「知りたくないの」という題で知られていて、上述のアルバムに入っています。

89、庭でソリ遊び

2008年01月05日 | Weblog
「1、出発と帰国」でも書きましたが、ニューヨークの冬は寒く、雪もかなり降ります。
30~50センチも積ることがあり、庭でもソリ遊びができます。

雪が降ると道路の滑り止めのため「塩撒き車」が来て塩を撒きます。
滑り止めにはなりますが、塩を撒いた道路を走ったあとは車がまっ白になってしまい、すぐに洗車しないと錆びてしまいます。