ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

50、フットボール未亡人

2007年09月30日 | Weblog
アメリカでFootball Widow(フットボール未亡人)という言葉があります。
フットボールシーズンになると男たちは試合観戦に夢中になり家庭のことは一切顧みず、ひたすらテレビを見続けます。
ほったらかされた奥さんはまるで未亡人状態という意味です。
普段は恋人や妻に気を使いまくっていて、日本人男性から見ると痛々しいほどのアメリカ人男性も、恋人や奥さんを気遣う余裕などどこかに行ってしまいます。
フットボール観戦中は彼女たちの存在さえも頭から抜けてしまうようです。
普段はまめに手伝う食事の準備や後片づけもしません。
奥さんが「今日はこんな事があったんだけど。」と話しかけても聞いてくれません。
特に年末のホリデーシーズンは優勝争いが激しくなり盛り上がってきます。
「遊びに行きたい、買い物に行きたい、子供と一緒に出かけましょう。」という希望は、「フットボールの中継があるから。」の一言で全部却下されます。
主人が自分を忘れてフットボールに熱狂し、自分はまるで取り残された未亡人のよう……。そう嘆く奥様たちが後を絶ちません。
それが原因で離婚する夫婦もあるほどです。
まれに逆もあって夫が未亡人状態の家もあります。
widowの男版は、widowerで「男やもめ」とでも言うのでしょう。

何しろ、週末のテレビはフットボール一色です。
金曜にはハイスクールの試合があります。

土曜日はカレッジフットボール(NCAA)があります。
日本の大学野球が東京六大学や関西六大学などのリーグに分かれているように全米の大学が幾つかのリーグに分かれていて、その人気はプロに匹敵します。
9月初めに開幕するシーズンでは毎週土曜日に試合が行われます。
12月初旬までレギュラーシーズン(リーグ戦)を戦います。
年末年始には成績の良いチーム間でボウル・チャンピオンシップ・シリーズ(BCS)と称せられる一連のボウル・ゲームが繰り広げられ、全米大学NO,1が選ばれます。
(各リーグのチャンピョンが直接対決するのではなくスポーツ記者の投票による)

年末年始の楽しみはなんといっても、カレッジ・フットボールのテレビ観戦です。
ロサンゼルス郊外のパセディナ市で行われるローズボウルは最大のもので全米に生放送されます。
試合前に行われるローズ・パレードも有名で、1日中お祭り騒ぎです。
他の主要なボウル・ゲームにはアリゾナのフィエスタボウル、マイアミのオレンジボウル、ニューオリンズのシュガーボウルなどがあります。
8万人収容できるスタジアムを校内に持つ大学もあり、切符と売店の収入、テレビの放映料、ファンからの寄付などで大変なお金が動きます。

日曜日はNFL(National Football League)です。
4大プロスポーツ(NFL、NBA、MLB、NHL)の中で最も人気がありアメリカの国技とも言われています。
平均8万人収容のスタジアムを各チームは持っていますがチケットはすぐに売り切れ、入手が困難です。
更に、月曜には「マンデーナイトフットボール」があり、その週に最も注目されるゲームが全米で生中継されます。

NFLはアメリカン・フットボール・カンファレンス(American Football Conference)とナショナル・フットボール・カンファレンス(National Football Conference)に分かれていています。
両カンファレンスの優勝チームが対戦するのがスーパーボウルで、アメリカ最大の祭典です。
スーパーボウルは毎年2月の第1日曜日に行われ、全米はもとより世界各地で放送されます。
視聴率は50%を超え、ほとんどの男性が見るといわれています。
その人気に目をつけて犯罪捜査に利用されることもあります。
逃亡中の犯人に「スーパーボウルのチケットが当たった」とメールを送ると何処でどう知ったか、スーパーボウル見たさにのこのこ現れ逮捕されるケースもあります。

フットボール万歳。ヽ(^o^)丿
私も週末はフットボール観戦が楽しみでした。
日本に帰って見られないと思っていたらBSで放送されていると聞きすぐに入りました。
さらにJ-COMでも放送されていることを知りJ-COMにも加入しました。

現在NFLの2007年シーズン真っ最中です。
NFLのレギュラーシーズンは1チーム16試合しか戦わないので1戦1戦が大事です。
特に開幕ダッシュは重要で勢いに乗りたいところです。
最近ニューヨークのチーム(NYジャイアンツ、NYジェツ)が低迷しているのが残念です。

48、ナイアガラの滝

2007年09月24日 | Weblog
ナイアガラの滝には何度か行きました。
ニューヨークからは飛行機、電車、バス、車などの交通手段があります。
ラガーディア空港からバッファロー国際空港まで飛行機で約1時間、そこからバスで1時間程です。
ニューヨークのグランド・セントラル駅からバッファロー駅まで電車で8時間、やはりそこからバスで1時間程です。
バスはグレイハウンドやコンチネンタルで約9時間です。
車だと10時間くらいかかりますがニューヨーク州の最南端に位置するニューヨーク市から最北端のカナダ国境までドライブするのも楽しいものです。
特に秋の紅葉シーズンは最高です。

ナイアガラの冬は寒さが厳しく雪も多く、冷たい風で滝からのしぶきが凍り、樹氷が見られることもあります。
春は長い冬を耐えて芽生えた新緑がまぶしく辺りを覆い、夏は日差しが強く滝の飛沫が涼しく感じられます。
秋はしのぎやすい気候となり9月下旬には紅葉も始まり絶好の行楽シーズンです。
10月に入ると気温が下がりコートが必要になり、長い冬への準備に入ります。

アメリカ五大湖の中のエリー湖とオンタリオ湖の間、約40kmを南北に流れるナイアガラ川にかかる幅1kmの大瀑布で、毎分50万トンの水が60mの落差で流れ落ちています。
滝のすぐ下流に架かるレインボー橋によってアメリカとカナダが結ばれています。
滝の眺めはカナダ側からのほうがすばらしく、アメリカ側は横から見るので迫力に欠けます。
モンローの映画「ナイアガラ」も滝の場面は全てカナダ側から撮られています。

私は飛行機でも行ったこともありますが、9月中旬に車で行ったときが印象に残っています。
この時は「30、マグロ釣り」でも書いたようにボストンでのマグロ釣りのシーズン(6月中旬~9月中旬)が終わったあとボストンから行きました。
国道90号線を西に走りましたが、色付き始めた紅葉がとてもきれいでした。

ナイアガラは原住民の「雷のように轟く水」を意味する言葉に由来しています。
およそ1万2,000年前、第4氷河期が終わり大陸を覆っていた氷河が融け、その水が流れ巨大な断層を作ってナイアガラの滝ができました。
誕生当時、ナイアガラの滝は現在よりも約11km下流にありましたが浸食により少しずつ後退し、現在の位置に移動しました。
以前は年間1m以上後退していましたが1950年に上流にダムと水門ができ、人工的に水量を調節することができるようになったため、後退する速度が年間3cm程度に抑えられています。
しかし、このまま侵食が進めば約2万5000年後には消滅すると言われています。

流れ落ちる水量は世界最大で、南米のイグアスの滝、アフリカのビクトリアの滝と並んで世界3大瀑布に数えられています。
カナダ滝とアメリカ滝の2つから成り、カナダ滝は高さ54m、幅670mの巨大な滝で、アメリカ滝の約10倍の水量を誇ります。

アメリカ側、カナダ側にそれぞれ展望塔が幾つかあり最高のものはカナダ側のスカイロン・タワー(Skylon Tower)で158mあります。

木で組まれた通路を進んでアメリカ滝の下にある風の洞穴(Cave of Winds)で滝壺近くまで行くことができます。
そこは水しぶきが激しくまるで暴風雨のようです。
エレベーターで行くこともできます。
カナダ滝を最も間近に見られるポイントはテーブル・ロック・ハウス(Table Rock House)からで、ここからもエレベーターで滝壺近くの展望台へ行くことができます。
両方とも滝の裏側から見ることができますが、水しぶきがすごくレインコートが必要です。(貸してくれる)

アメリカ側、カナダ側とも遊覧船、霧の乙女号(Maid of the Mist)で滝壺まで船が行きます。
乗客は青色の合羽(使い捨て)を着て船に乗り込みます。
より迫力を楽しむならば、1階よりも2階デッキがおすすめで、船が滝に近づくにつれ、はげしい水しぶきが降りかかります。
滝壺から上を見ると壮大で迫力満点です。
流れ落ちるその水量には圧倒されるものがあります。

写真は1980年頃に行ったときのもので、木で組まれた通路を進んで風の洞穴(Cave of Winds)に向かっているところです。

47、ロマンを求めて

2007年09月17日 | Weblog
今回はアメリカではなく日本の古代にロマンを求めてみました。
先日吉野ヶ里遺跡に行ってきました。
吉野ヶ里遺跡に行ったのは今回で5回目になります。
吉野ヶ里遺跡発見のニュースはアメリカでも報道されていたので、日本に帰ったらぜひ行きたいと思っていました。
1993年3月に帰国した夏、さっそく見に行きました。
その時は発掘が始まったばかりで一部分しか調査されていませんでした。
その後2~3年おきに行きましたが、行く度に姿が変わっていて今も発掘調査が行われています。
2回目に行ったときは福岡から自転車で山越をしました。
険しい山を自転車を押しながら登り、峠を越え佐賀へ入りました。
3時間くらいかかりました。
帰りは遠回りでしたが平地を自転車を漕ぎながら福岡まで帰りました。
途中足がつって何度も休みながらやっとの思いで辿り着きました。

今回は5年ぶりの訪問でしたがビジター・センターなどもでき見違えるようにりっぱになっていました。
発掘された遺跡も広がり、当時の「クニ」の全体像が見えてきたようです。
現在、国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっています。
以前はJR長崎本線の神崎駅で降りて歩いて20分くらいでしたが、今回は1駅鳥栖寄りの
吉野ヶ里駅で降りました。(新しい駅なのかな? 5年前にもあったのかな?)
駅を降りるとそこは古代の匂いがしていました。
遺跡まで歩いて10分くらいですが、途中に古代米を栽培しているところがあり、山並みを背に広がる遺跡が見えました。

位置的には北(背後)に山を抱え、南(前方)に有明海を臨みます。
最初に訪ねたとき小高くなっている遺跡から周りを見渡し、古代の「クニ」を創るには最高のロケーションだと感じました。
背後の山は敵の侵入を防ぎ、前方に広がる海は交易を盛んにします。
卑弥呼も中国や朝鮮と盛んに交易を行っていたようです。

邪馬台国は何処にあったのか?
多くの人がさまざまな説を唱えていますが、謎のままです。
同じ魏志倭人伝を研究して推理しても百人居れば百の意見があります。
邪馬台国についての多くの本を読みましたが、方位に関するものが多かったように思います。
人によって解釈がまちまちでした。
ある人は「当時の中国では東のことを南と言った」とか「当時の1里は今の半分だった」などと言ってその人なりの場所を推定しています。
これでは「百人居れば百の意見があるな」と思いました。

専門的なことは分かりませんが、私が最初に魏志倭人伝を読んだとき、気になったのは
「冬でも生野菜を食す」という箇所でした。
「へー、冬でも生野菜ができるんだったら、温暖なところなんだろうな」と思いました。
当時どんな野菜があったか分かりませんが、品種改良して耐寒性の作物を作ったとは思えません。
冷蔵庫もなかったと思います。(自然の貯蔵施設はあった。)
まして弥生時代は現在よりも寒かったようなのでなおさらそう思いました。
私が読んだ本で、この事に触れた本はあまりありませんでした。

吉野ヶ里遺跡は1986年から発掘調査が行われています。
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落跡です。
物見やぐらや二重の環濠などがあり、日本の城郭の始まりとも言えるもので、日本100名城に選出されています。
弥生時代前期(紀元前3~前2世紀) に吉野ヶ里の丘陵地帯のあちこちに「ムラ」ができ、南のほうの集落に環壕が出現します。
中期(紀元前2~紀元1世紀)になると 吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現し、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになっていきます。
集落が発展していくにつれ、防御も厳重になっていきます。
後期(紀元1~3世紀) になると建物も巨大化していきました。
環壕がさらに拡大し、二重になり北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、最盛期を迎えます。
これらは魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の記述に良く似ていて国の特別史跡も指定されています。
また、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されています。
卑弥呼が活躍したのはこの頃で、「邪馬台国」の時代を彷彿とさせます。

弥生時代は約600年間も続いた長い時代で、吉野ヶ里遺跡はこの長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されています。
しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように社会が変化していったかが分かる極めて学術的価値の高い遺跡です。
吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査成果や民族学などさまざまな専門分野の研究をもとに復元整備が行われています。

巨大な物見やぐらに立って周囲を見回すと「弥生時代の人たちもこのような光景を見ていたんだろうな」と感慨にふけりました。

46、USオープンテニス2007終了

2007年09月11日 | Weblog
ニューヨークのビリー・ジーン・キング・ナショナルテニスセンターで行われていた今年のUSオープンテニスが9月9日に終わりました。
男子シングルスはロジャー・フェデラー(スイス)が1968年のオープン化以降初めての4連覇を達成しましたが、これは1920年から1925年まで6連覇したビル・チルデン(米国)以来の快挙です。
4大大会通算12勝は、サンプラスの14勝に続き、エマーソンと並んで歴代2位の記録で、「史上最強のオールラウンドプレーヤー」の名をほしいままにしています。
サンプラスの記録を破るのは間違いないでしょう。
フェデラーは10回連続でグランドスラムの決勝に進出しましたが、これもすごい記録で自己の持つ記録を更新しました。

8日に行われた女子決勝では昨年決勝でマリア・シャラポワに敗れたジュスティーヌ・エナン(ベルギー)が4年ぶり2度目の優勝を果たしました。
エナンは今季4大大会では全仏に続く2勝目で、4大大会通算7勝目になります。
シャラポワは2連覇が期待されましたが3回戦で18歳のアニエスカ・ラドワンスカに敗れ連覇はなりませんでした。
終わってみれば男女とも第1シードのフェデラーとエナンの優勝でした。

日本勢は杉山愛、森上亜希子、中村藍子の3選手はシングルスでは早々と敗退しましたが、ダブルスでは頑張りました。
杉山/カテリーナ・シュレボトニック組はベスト8、森上は3回戦、中村は2回戦とそれぞれ勝利を手にしています。
世界に挑戦する日本人男子が現れるのを期待したいものです。

写真は20年前のUSオープン取材のメディアでその人気は年々高まっています。
今年は過去最高の72万1087人の観客を動員し、大盛況のうちに幕を閉じました。

45、カモシカの足

2007年09月06日 | Weblog
1980年から1992年まで毎年USオープンに行き多くの選手を見てきましたが、
シュテフィ・グラフを初めて見たときの驚きは忘れられません。
全身のバランスがすばらしく、その足はまさに「カモシカの足」の表現がぴったりでした。
フットワークが良く全身バネのような身体をしていました。

USオープンの会場はセンターコートとその周りにある20余りのコートでトーナメントが行われていました。
(現在はアーサー・アッシュ・スタジアムがあります。)
センターコートでの試合はその数が限られていて、トップ選手も隣のグランドスタンドや周りのコートで試合をすることがあります。
センターコートは大きくて間近で見ることができませんが、周りのコートはすぐそばで見ることができます。
また、試合に向かう選手と会場内ですれ違うこともあります。

シュテフィ・グラフ
身長 175cm 、体重 59kg
1987年8月16日から1991年3月11日まで186週連続で世界ランキング1位を維持し、女子テニスの最長記録として今でも残っていています。
通算で377週世界1位にランクされ、男女を通じての史上最長記録です。
1988年に19歳で女子テニス史上3人目の年間グランドスラム(同じ年に4大大会を制覇)を達成しました。
さらにこの年開催されたソウル五輪でも金メダルを獲得し、ゴールデン・スラムと称えらています。
ゴールデン・スラムは男女を通じてグラフしかいません。
4大大会優勝は22勝でマーガレット・コート夫人の24勝に続く女子歴代2位です。
クリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワは18勝です。

44、日本人パイオニア

2007年09月02日 | Weblog
私がUSオープンを見に行っていた頃の80年代に一人の日本人女子選手が毎年挑戦していました。
井上悦子選手です。(今は兼城悦子さん)
最近は多くの日本人選手が世界で活躍していますが、当時はほとんどいませんでした。
そんな中一人で頑張っている姿についつい応援したくなり彼女の試合は必ず見に行きました。
同じような気持ちの日本人もいて彼女が試合をするコートサイドにはいつも10人ぐらいの日本人が集まって応援していました。
井上選手の4大大会初出場は1983年の全仏オープンで1990年に引退するまで挑戦し続けました。
日本女子テニスを世界レベルに引き上げた先駆者で、スピード感のあるオールラウンド・プレーヤーでした。
彼女が切り開いた道を多くの後輩が続き、その後の日本人女子の活躍は目覚しいものがあります。
伊達公子選手は世界ランキング4位までのぼり、杉山愛選手は4大大会のダブルスで優勝するまで日本女子のレベルは向上しました。
そのきっかけを作ったのが井上選手で、その功績は大リーグの野茂英雄選手に匹敵すると思います。
伊達公子選手は世界で活躍する井上選手を目標に頑張ったそうです。

井上選手のシングルス世界ランキング最高は26位(1988年3月14日付)で、当時の日本女子テニス選手としては画期的でした。
1985年に全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を飾り1987年までの大会3連覇を含め4度優勝しています。
83〜89年まで全日本ランキング1位を維持しました。
1982年から1989年まで、女子国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在のフェドカップ)の日本代表選手として活躍し2001、2002年はフェドカッ日本代表監督も努めました。
現在も指導者として活躍しています。

写真は1988年のUSオープン会場で売っていた公式ガイドブックに載っている1988年7月18日現在の女子選手の世界トップ64です。
日本人は井上選手がただ一人29位にランクされています。

43、USオープン・テニス

2007年09月01日 | Weblog
USオープン テニスはニューヨーク市郊外のフラッシング・メドウで毎年8月の最終月曜日から2週間の日程で行われます。
世界4大大会(グランド・スラム)の一つで観客動員数、賞金総額等において世界最大のテニス・トーナメントです。
9月第1月曜日のLabor Day(労働感謝の日)を挟んで行われます。
Labor Dayはアメリカ人にとって夏のバケーション気分の終わりを意味し、新たな気持ちで仕事ムードに切り替わる日でもあります。
学校も夏休みが終り新学期が始まります。
しかし、テニスファンにとってはUSオープンが終わるまではこの切り替えも難しいものです。

会場はUSTAナショナルテニスセンターで、主催は全米テニス協会(United States Tennis Association)です。
2006年に会場名が「USTAビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニス・センター」になりました。 
マンハッタンの東に位置し、地下鉄7ラインに乗って終点フラッシングの一つ手前Willets Point-Shea Stadiumで降ります。
線路を挟んで北に大リーグメッツの本拠地シェイスタジアムがあります。
マンハッタンからフラッシングに向かって行くと左にシェイスタジアム右にUSTAナショナルテニスセンターが見えます。
ニューヨークの地下鉄はマンハッタンでは地下を走っていますがほとんどのラインはマンハッタンを出ると高架になります。
電車のロングアイランド・レイルロードでも行けます。
この辺りは大きな公園Flushing Meadows Corona Park(フラッシング・メドウ・コロナ・パーク)になっていて科学館、動物園、植物園、美術館など様々な施設があります。
ケネディー空港からマンハッタンに向かうときこの公園の近くを通りますが、巨大な地球儀が見えます。
これは1964年ニューヨーク世界博覧会の会場となったところでその名残です。

USオープン・テニス1881年に始まり、米国の国内大会として出発しました。
以前はクイーンズ区の「フォレストヒルズ」(Forest Hills)で行われていました。
「フォレストヒルズ」はテニス選手たちのあこがれの地でした。
1968年からオープン化されプロのテニス選手も4大大会に出場できるようになり「USオープン」となりました。
1970年代後半に、全米オープンの会場はフォレストヒルズから同じクイーンズ区のフラッシング・メドウへ移転しました。
1997年に新しく「アーサー・アッシュ・スタジアム」が建設され、2万5千人以上を収容できる世界最大のテニス・コートが完成しました。
それ以前使われていたセンター・コートも2万人収容の大きなスタジアムで、現在は「ルイ・アーム・ストロング・スタジアム」の名が付けられています。
私が行っていた頃は「アーサー・アッシュ・スタジアム」はまだ無く、このセンター・コートとその周りにある30余りのコートでトーナメントが行われていました。
近くにラガーディア空港があり試合中に上空を通過する飛行機の騒音もUSオープンの名物です。
フォレストヒルズのスタジアムは地下鉄Eラインのフォレストヒルズ駅近くにあり、現在もいろんな大会が行われています。
客席2000人くらいの小さなスタジアムですがトッププロの試合も行われ、私も何度か見に行きました。

アーサー・アッシュは黒人テニス選手の先駆者として活躍しましたが、エイズのため49歳で死去しました。
オープン化された最初のUSオープンで優勝し、男子選手として初の黒人チャンピオンになりました。
1968年全米オープン、1970年全豪オープン、1975年ウィンブルドンで優勝し、4大大会男子シングルス「3勝」を挙げ、キャリア通算でシングルス33勝を記録しています。
シングルスの最高ランキングは2位です。
アッシュは幼少期から人種差別を受けジュニアのテニス・トーナメントに参加することができませんでしたが公民権運動の高まりとともに徐々に試合に出られるようになりました。
1960年と1961年に「全米室内テニス選手権」で2連覇を果たしています。
カリフォルニア大学に進学し「全米大学テニス選手権」のシングルス優勝も達成しています。
1963年から男子国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、黒人の選手として初めてデ杯でプレーするようになりました。
1981年から5年間、デビスカップのアメリカ・チーム代表監督を務めています。
現役引退後はアメリカ・テニス協会のジュニア育成委員として活動し、1985年に国際テニス殿堂入りを果たしました。
紳士的なマナーとスポーツマンシップで当時のテニス界から深い尊敬を受け、引退後も数多くの社会的活動を行っています。

アッシュは早くから心臓の病気に悩まされていました。
1988年に受けた心臓手術の際に施された輸血でエイズウイルスに感染しました。
1992年にエイズ感染を公表し、最晩年はエイズとの闘いでも前面に立っていましたが1993年2月6日に49歳の生涯を閉じました。
多くの選手から尊敬され指導者として期待されていたのに残念です。

アッシュの逝去から4年後、1997年にUSオープンの会場に新しいセンター・コートが建設され、彼の功績を称えて「アーサー・アッシュ・スタジアム」と命名されました。
その開場式典でジョン・マッケンローが「彼は偉大なテニス大使だった」とのスピーチを行いアッシュを称えました。

USTAナショナル・テニス・センターに名を冠されたビリー・ジーン・キング選手は1960年代から1980年代初頭までの四半世紀の長い間女子テニス界でトップ選手として活躍した偉大な選手です。
彼女は選手として活躍しただけでなく、女子テニス協会(Women's Tennis Association, 略称 WTA)を設立したり、女子テニス界のシステムを変革し、女子スポーツに革命的な影響を及ぼしました。
以前はUSオープンの優勝賞金も男女間で大きな差がありましたが彼女らの努力によって現在は同額になっています。
4大大会では女子シングルス 12勝、女子ダブルス 16勝、混合ダブルス 11勝を挙げています。

以前にも書きましたが、私は1980年から1992年まで毎年USオープンを見に行きましたが、その人気は年々高まって行きました。
85年ごろまではチケットも容易に手に入れることができましたが80年代後半になると難しくなっていきました。