ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

141、アルカトラズ島

2008年05月31日 | Weblog
アルカトラズ島(Alcatraz Island)はサンフランシスコ湾内にあり、1934年から63年までの29年間連邦政府刑務所がありました。
更生の可能性がない凶悪犯を留置する刑務所で、マフィアのボス、アル・カポネが服役していた刑務所として知られています。
断崖絶壁の島で周りは潮流が速く水も冷たく、脱獄不可能といわれていました。
それでも34人(一説では39人)が脱獄を試みましたが成功した人はいません。
射殺、溺死、行方不明、再逮捕されています。
映画にも度々登場し、クリント・イーストウッド主演の「アルカトラズからの脱出」は、この難攻不落な島からの脱出劇を描いた映画で、実話をもとにしています。
また、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジの共演が話題になった「ザ・ロック」の舞台にもなりました。
1963年に当時の司法長官ロバート・ケネディによって刑務所の閉鎖が決定され、1973年から一般公開されるようになりました。
現在はサンフランシスコの観光名所となっていています。
フィッシャーマンズワーフの沖3kmのところにありツアーの船が出ています。
刑務所内部が見学でき、当時の様子を伺うことができます。
私は1980年頃、湾を一周する船に乗ってゴールデンゲート・ブリッジ、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、サンフランシスコのダウンタウンなどを船上から見ました。
アルカトラズ島はすぐ近くを通りましたが上陸しなかったのが残念です。

140、アメリカの地震

2008年05月29日 | Weblog
四川省大地震は死者数6万8000人を超え、2万5000人がいまだに行方不明になっています。
想像を絶する被害をもたらしたこの地震で家族や家を失った人は何百万人にも及び、今も余震が続いています。
このニュースを聞くたびに胸が痛みます。

私はニューヨークに20年住んでいましたが地震の記憶はありません。
マンハッタンは岩盤なので地震は起きないといわれていました?
アメリカでも西海岸では大地震が時々発生します。
特に1906年のサンフランシスコ地震は3000人が死亡し、20万人以上の人が家を失いました。
地震直後に発生した火災は3日間燃え続けダウンタウン全域と住宅地域のほとんどが壊滅しました。
1989年に再び大地震に見舞われ、大きな被害を受けました。
この地震でサンフランシスコとオークランドを結ぶ、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの一部が崩壊し1ヶ月間使えなくなり、高速道路が崩壊するなどの被害がありました。
この橋は瀬戸大橋が開通するまでは世界一長い吊り橋でした。
橋の下を船で通過したことがありますが、水面から見上げる橋は高くて大きい銀色に輝いていました。
その後の復興はめざましく、サンフランシスコは全米の大都市の中でも治安のよい、優れた計画都市として知られ、常に住みたい都市の上位にランクされています。
サンフランシスコと言えばケーブルカーが有名です。
坂の多い地形を背景に1873年に営業を開始し、今も市民の重要な足となっていて、観光客を惹き付ける魅力の一つにもなっています。
1994年にはサンフランシスコの南、ロスアンジェルス・ノースリッジ地震が発生しています。

139、マス・トランジット

2008年05月25日 | Weblog
22日のニューヨーク商業取引所の原油先物相場で前日に続き1バレル=135ドル台を付けて史上最高値を更新しました。
1年前は65ドルで、初の100ドル台を付けたのが今年1月2日でした。
1年で2倍以上に跳ね上がり、年内に150ドルを突破するとの観測が強まっています。
こうなるとガソリン価格もうなぎ上りです。
125、ガソリン価格」でも書きましたが、アメリカは車社会で安いガソリンを惜しげもなく使って大型車でハイウエイをぶっ飛ばすのがあたりまえでした。
しかし、ガソリン価格の高騰で燃費の良い日本車が売れるようになり、大型車中心のアメリカのメーカーは苦戦しています。
それでもガソリン価格は市民の対応を超えていて、最近はMass Transit Systems(公共交通機関)を利用する人が増えているようです。
マス・トランジットには電車、地下鉄、バス、などがあります。
朝の通勤時間には橋やトンネルはマンハッタンに向かう車で溢れます。

ニューヨークというと地下鉄が有名ですが、バス路線も充実していてニューヨーク市を網の目のように走っています。
本数も多く地下鉄が通っていない場所にもバスで行くことができます。
私の家は地下鉄7ラインの終点“フラッシング”からバスで15分くらいで、よく利用しました。
バス網はニューヨークだけではなくアメリカ全土をカバーしていて、シアトルの田舎に引っ越した友人をバスで訪ねたことがあります。

マス・トランジットの利用が促進されれば、交通の円滑化・渋滞解消につながり車が出す排気ガスが減少して大気汚染が改善されます。
マス・トランジットは大量輸送という意味があり、荷物も鉄道を利用すれば、トラックでの輸送に比べ二酸化炭素(CO2)の排出量を大幅に削減できます。
マス・トランジットの活用により、「渋滞解消による効果」と「二酸化炭素の排出量の削減」という相乗効果が得られ、地球温暖化防止にも効果があります。
近年ヨーロッパをはじめ世界各地で関心が高まり、エネルギーの効率化を図る動きが広がっています。

写真はクイーンズとブルックリンのバス・マップです。
中は細かすぎるので表紙を載せます。
マンハッタン、ブロンクス、スタッテン・アイランドのバス・マップもあり無料でもらえました。

138、燃え尽き症候群

2008年05月18日 | Weblog
女子テニス世界ランク1位のジュスティーヌ・エナンが突然引退を発表したニュースを聞いたとき「燃え尽き症候群」という言葉が浮かんできました。
本来の意味は一定の期間に過度の緊張とストレスの下に置かれた場合に発生し、意欲を無くして社会的に機能しなくなってしまう症状で、一種の外因性うつ病とも言われています。
しかし、私がアメリカでよく耳にしたのは、テニスの選手に対して使われていました。
特に天才少女たちに対して言われていました。

トレーシー・オースティンは早熟選手で、低年齢化の先駆けとなった選手です。
愛らしく人なつっこいキャラクターで人気がありました。
14歳のアマチュア時代にプロの大会で優勝するほどの天才少女でした。
1979年の全米オープンのシングルス決勝戦でエバートを 6-4, 6-3 で破り、同大会で「16歳9ヶ月」の最年少優勝記録を樹立しました。
1980年4月7日に「17歳3ヶ月26日」で当時の最年少世界ランキング1位に輝いています。
この記録は1991年3月11日にモニカ・セレシュが「17歳3ヶ月9日」で世界1位になり、オースチンの記録を17日更新するまで11年間破られずにいました。
エバート、ナブラチロワの全盛期にNO,1になったのはすごいことです。
しかし、1982年に入ると若いときに身体を酷使したのが原因で慢性的な背中の故障を抱えるようになり、21歳の誕生日を迎える前に競技生活が不可能になってしまいます。
彼女は「燃え尽き症候群」と言われようになった最初の選手です。
その後何度か現役復帰を試みますが、以前のような活躍はなりませんでした。

アンドレア・イェーガーは1980年1月に14歳でプロ転向し「14歳8ヶ月」の若さでプロ初優勝を飾っています。
同年のウィンブルドン選手権で大会史上最年少のシード選手になり、全米オープンでも史上最年少の15歳でベスト4に進出しています。
4大大会でも2度準優勝していて、どちらも決勝戦でマルチナ・ナブラチロワに敗れたものでした。
世界ランキングも3位に上り、すぐ1位になるだろうと思われていました。
しかし彼女も若すぎた身体の酷使により1984年に19歳で肩を故障し引退し「燃え尽き症候群」と言われました。
(引退後、大学で動物学や神学を学び慈善活動に携わり、現在はカトリック修道女として“シスター・アンドレア”になっているようです。)

ジェニファー・カプリアティも天才少女の名をほしいままにしました。
1990年3月、14歳の誕生日の2週間前にプロ転向を認められ、直後のデビュー戦でいきなり準優勝しています。
その後も天才ぶりを発揮し、1991年に15歳でウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でベスト4に進出しています。
ウィンブルドンでは、前年に9度目の優勝を果たし同大会の最多優勝記録を樹立したナブラチロワを準々決勝で破っています。
1992年のバルセロナ五輪でグラフを 3-6, 6-3, 6-4 で破り、16歳の若さで金メダルを獲得しました。
しかし、1993年全米オープンの1回戦敗退を最後に長期間テニスから遠ざかり万引きなどの問題を起こし、1994年にマリファナ所持容疑で逮捕されています。
彼女も「燃え尽き症候群」と言われました。
一時はテニス選手としての再起を危ぶまれていましたが1996年に復帰します。
復帰後のカプリアティは精神的にも肉体的にもたくましくなり、2001年の全豪オープン決勝でヒンギスを 6-4, 6-3 で破り、少女時代に果たせなかった4大大会初優勝を実現しました。
続く全仏オープンでも決勝でクライシュテルスを 1-6, 6-4, 12-10 で破って、4大大会2連続優勝をしています。
さらに翌年2002年の全豪オープンではヒンギスにマッチ・ポイント4本を握られながらも、そこから逆転して大会2連覇を飾っています。
復帰したカプリアティを見たとき、たくましくなった肉体に目をみはりました。
復帰するために相当ハードなトレーニングを積んだことが感じられ、たくましくなった精神力に感銘しました。
2001年10月15日には念願の世界ランキング1位になっています。
「燃え尽き症候群」を克服した彼女のテニスは少女時代よりもプレイの幅も広がってレベルアップしていました。
苦難を乗りこえ復帰したその姿は多くの観客に感動を与えました。
 (女子プロゴルフの天才少女ミシェル・ウイーは第二のカプリアティーと呼ばれることがあります。
  今ちょっと低迷していますが、必ず復帰することと思います。)

このような少女たちの「燃え尽き症候群」は議論を呼び、プロの試合に出場できる年齢が制限されるようになりました。
エナンの場合はこれ等のケースとは違いますが、何年にも渡ってツアーに参加し、世界を転戦して世界のトップを維持してきたので相当ストレスがたまっていたのだと思います。
会見で語った「今は悲しいというよりホッとしている。」という言葉が心のうちを表しています。

私は15歳頃のイェーガーとカプリアティをUSオープン見ましたが、若さあふれる躍動感のあるプレーで、ストロークは力強くボレーもこなすオールラウンドな選手でした。

137、トッププロの相次ぐ引退

2008年05月16日 | Weblog
5月14日、女子テニスの世界ランキング1位、ジュスティーヌ・エナン(ベルギー)が現役引退を表明しました。
25歳でまだまだやれるのに残念。
エナンは1999年にプロデビューし、グランドスラム優勝7回を含めツアー通算41勝を飾っています。
2004年アテネ五輪でも金メダルを獲得しています。
世界ランク1位の選手が1位のままで引退するのは史上初めてです。
彼女は記者会見で「すべてやったので悔いはない。今回の決断に少しの後悔もない。」と語っています。
さらに「熟慮の末の判断で、引退については昨年末ごろから考えていた、今は悲しいというよりホッとしている」と胸のうちを話しています。
エナンは全仏オープンで2005年から昨年まで3連覇していて、今年は史上初の4連覇がかかっていました。
全仏オープンの女子シングルス3連覇は、1990年から1992年にかけて3連覇したモニカ・セレシュ以来の偉業でした。
その全仏オープン直前での引退表明は「なぜ?」という感じです。
身長167cm、57キロの小柄な身体で飛び上がるようにして全身を使ってボールを打っていました。
特に片手打ちのバックハンドは芸術的ともいえる華麗なフォームでした。
両手打ちが最近のバックハンドの主流の中でエナンのバックは正確で強烈でした。
どんなボールにも食らいついていくフットワークも彼女の特徴で、パワーテニス全盛の時代に小さな身体で挑んでいきました。
昨年(2007年)は全仏で3連覇を達成し、全米も勝つなどツアー10勝を挙げ無敵を誇っていて「誰がエナンを倒すのか」と言われるくらい強かったのに。
今年もすでに2大会に優勝していました。
しかし、今年のエナンは去年とは違ってみなぎる闘志が感じられず、どこか別のところに心があるみたいでした。
このときすでに引退を決意していたようです。
「エナンが引退するニュースを聞いて「残念だけど、気持ちもわかる気もするので複雑。」とクルム伊達公子選手は話しています。
伊達選手がエナンと同じ25歳で引退したときも「なぜ、まだ早い」と思いましたが。

一方、ゴルフ界でも衝撃的な引退表明がありました。
米国女子ツアーで72勝を挙げているアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)が突然、今期限りでの引退を発表しました。
ソレンスタムはその席で「3月に引退表明した米プロフットボール(NFL)の名QBブレット・ファーブが“戦うことは大好きだが、毎日身を削ることに疲れた”と言ったのを引用し、わたしも同じ思い」と胸の内を吐露しました。
また「今後は様々なチャンスをくれたゴルフ界に、ツアープレーヤーとしてではなく、別の形で貢献していきたい。」とも語っています。
彼女のプレーが見られるのは今季限りです。
ソレンスタムは2001年からの5年連続を含めて通算8度の賞金女王に輝いています。
しかし2006年は賞金ランキング3位に終わり、5年間守り通した女王の座をロレーナ・オチョア(メキシコ)に明け渡しました。
さらに2007年4月、椎間板ヘルニアを発症して1ヶ月のツアー離脱を強いられ、賞金ランクも25位に低迷しました。
しかし、シーズン後半は復調の兆しも見え、37歳になった今年も好調を維持していたのに、彼女の場合も「なぜ?」という感じがします。
2003年の10月には世界殿堂入りを果たしています、
少女時代にはビヨルン・ボルグに憧れてテニスプレーヤーを目指し、国体にも出場した経験がありスポーツセンスは抜群です。
昨年4月にソレンスタムから世界一の座を奪ったオチョアは「アニカを目標に頑張ってきた。彼女がいたから、わたしはここまで来られた。言葉もありません。」と悲しみました。

2人のトッププロの相次ぐ引退表明は、プロの世界でトップを維持するのは精神的にも肉体的にも相当ハードなものがあったと思います。
しかし、2人の会見を見ていると、世界トップに上り詰め、完全燃焼した満足感、達成感が感じられます。

136、しぶとし、クリントン夫妻

2008年05月14日 | Weblog
大統領予備選が終盤を迎えています。
共和党は早々とマケイン候補が本選へと駒を進めましたが、民主党ではオバマ候補がリードしていて流れは完全にオバマ候補に傾いています。
普通の候補なら、とっくに撤退している状況ですが、クリントン候補は最後まで戦う決意をしていて撤退の意思は全く無いようです。
子供の頃から優秀でファースト・レディーにまでなった彼女は、その人生で負けというものを味わったことが無く、撤退したくてもできないのだと思います。
最近のヒラリーを見ていると痛々しいほどです。

1992年の予備選では夫のビル・クリントンがしぶとく戦って予備選を制し、第42代アメリカ合衆国大統領に就任しました。
このときクリントン候補は民主党の予備選最中に絶体絶命のピンチに立たされました。
女性スキャンダルが発覚し、マスコミで大々的に叩かれました。
この段階で普通の候補者は戦線離脱です。
このとき妻のヒラリーはテレビのインタビューで夫ビルの手を握りながら彼をかばっていました。
けなげに夫を支える彼女の姿が印象的でした。
ビル・クリントンは1回目の危機を乗り越え、不死鳥のようによみがえりました。
さらに、大統領任期中にも女性問題が発覚し窮地に立たされました。
2ヶ月ほど前ニューヨーク州知事が買春容疑で辞任しましたが、アメリカ国民はスキャンダルには敏感で政治家には潔癖を求めます。
しかもこのときのスキャンダルの現場が大統領の執務室でした。
神聖なホワイト・ハウスでの行為に、普通なら弾劾されるとこです。
しかしクリントン大統領はこのときも生き延び、任期中のアメリカ経済が好調だったこともあり名大統領として今も高い人気を誇っています。

135、カラテ

2008年05月11日 | Weblog
渡米した頃、初めて会うアメリカ人に「中国人か?」とよく聞かれました。
東洋人といえば、中国人と思われるくらいアメリカ全土に多く住んでいます。
日本人だ、と言うと「Do you know KARATE ?」と聞きながらカラテの格好をました。
カンフーでもテッコンドーでもなくカラテでした。
特に黒人はカラテに関心が高く、日本人は皆カラテをするものと思っていたようです。
これは日本の空手家がアメリカでカラテを広めていったからだと思います。
ニューヨークの町を歩いていると「KARATE」道場の看板を時々見ます。
私の友人も何人か極真空手をしていたので、ウエストチェスターの道場に見学に行きました。
この地区は白人が多く、大人の男性に混じって子供や女性も空手を習っていて、大会も行われていました。
ここから全米、世界大会へと繋がっていったのだと思います。

さらに、空手映画もKARATEを広めた一因だと思います。
再開発が始まる前のタイムズ・スクエアの安映画館ではブルース・リーなどのカンフー映画を毎日のように上映していて、
千葉真一の空手映画も一緒に上映していました。
(ちなみに、千葉真一はソニーチバ、Sonny Chibaとして知られていました。)
2~3本立てが3ドルくらでしたが中は汚く、小便、タバコ、マリファナなどの臭いが充満していて観客はほとんど黒人でした。
再開発されたタイムズ・スクエアからは、安く汚い異臭のする安映画館は姿を消したようです。
51、A列車で行こう」でも書きましたが今は黒人と呼ばずアフリカ系アメリカ人と呼びます。
ここでは、あえて黒人と呼ばせてもらいます。

134、メイド・イン・ジャパン

2008年05月09日 | Weblog
私が渡米した1973年ごろからすでに「メイド・イン・ジャパン」は品質が良いと知られていました。
特に電気製品は人気が高く、アメリカ人もほしがっていました。
この傾向はどんどん高まり、私が電気製品の仕事をしていた頃は「日本製=高品質」と言われていました。
日本製に押され、アメリカのメーカーはテレビの生産から完全に撤退してしまいました。
私が子供の頃は「テレビ=アメリカ」という感じだったのに。
車然り、更には寿司もアメリカ中に広まっていきました。

渡米した頃、日本製の腕時計をしていましたがアメリカ人に「いい時計をしているね、売ってくれないか。」とよく言われました。
日本製の腕時計では悲しい思い出もあります。
腕時計を奪われそうになった日本人の友人が、奪われまいと抵抗し頭を殴られ亡くなってしまいました。
抵抗せずすぐ渡してしまえばよかったに、と悔やまれます。

133、パスポートサイズから名刺サイズに

2008年05月07日 | Weblog
数日前の新聞にあるメーカーのビデオカメラの新製品が紹介されていました。
その大きさは手の中にすっぽり入る名刺サイズです。

我が家で初めてビデオカメラを買ったのは1981年頃でした。
このときのビデオカメラはビデオテープを入れる本体と映像を撮るカメラが分かれていて、ケーブルで繋いで使用しました。
VHSテープが入った本体をショルダーバッグのように肩に担ぎ、手に持ったカメラで撮りました。
両方ともかなり大きく重いものでした。
2台目は1985年ごろ買いました。
これは本体とカメラが一体となっていましたが、それでもかなり大きく重いものでした。テープもフルサイズでした。
1990年のクリスマス休暇にディズニー・ワールドに持って行きましたが、重かったのを覚えています。
私が買ったのはS-VHSだったので普通のVHSより大きく重い物でしたが、画質は良かったです。
子供が小さかった頃はよくビデオを撮りましたが、今見るのはカメラで撮ったアルバムの写真でビデオはほとんど見ません。

その後サイズが少しずつ小さくなっていき、パスポートサイズが発売されたときは話題になりました。
それが名刺サイズになってしまい「ついに、ここまで来たか」という感じです。
重さも300グラムと、軽量です。

132、ニューヨークのお店

2008年05月03日 | Weblog
ニューヨークではいろんなコンベンションが行われますが、「ジェイコブ・ジャビッツ・コンベンションセンター」ができるまでは会場は決まっていませんでした。
幾つかのコンベンションに行きましたが、印象に残っているのは電気製品のコンベンションが行われたときです。
1980年頃で、ホテルのボール・ルームが会場だったと思います。(?)
家庭用ビデオが発売された頃でVHSとBETAが熾烈な戦いをしていましたが、その後の経過についてはご存知の通りです。
会場にはビデオ以外にもいろんな新製品が展示されていました。

私はその頃電気製品の販売もしていました。
54、マフィア来たる」で、ニューヨークのビジネスはその出身国によって支配されている、と書きました。
(魚関係のビジネスはイタリアやギリシャ系、八百屋さんは韓国系など)
電気製品も同じです。
タイムズ・スクエアなどには電気製品を販売する店がたくさんありますが、その多くはスパニッシュ(南米出身でスペイン語を母国語とする人)が経営していました。
彼らが商品を仕入れに行く問屋(Wholesaler)はジューイッシュ(ユダヤ人)が支配していました。
広い倉庫に商品が山済みされていて、小売店(Retail store)はそこに仕入れに行きます。
看板も無いので一般の人には分かりません。
私はこの方法をマンハッタンで店を経営していたスパニッシュの友人に教えてもらいました。
仕入れするには免許のようなもの(Retail number)が必要で、最初は彼の店の名前で仕入れていました。
このような問屋が何軒もあり、値段も違っていて交渉によって値切ったりします。
支払いはチェックが一般的ですが、現金を持っていくと交渉し易かったです。

その他に食料品、日曜品、衣料品、ギフト、日本の食料品などいろんな商品を扱いましたが、基本的には電気製品と同じです。
小売店は問屋に行って必要な商品を仕入れるか、電話して配達してもらいます。
ニューヨークの町にはこの配達のトラックがたくさん走っています。