ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

62.ハロウイーン

2007年10月31日 | Weblog
10月31日はハロウィン(Halloween)です。
“55、かぼちゃ狩り”で書いたように、この日、子供たちは魔女やお化けに仮装し「トリック・オア・トリート(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と言いながら近くの家を1軒ずつ訪ねて歩きます。
家庭では、カボチャのお菓子を作り、子供達は貰ったお菓子を持ち寄って、ハロウィン・パーティーを開いたりします。

写真は息子のハロウイーンの仮装で、スパイダーマンに変身しました。
左端のお面をかぶっているのが息子で、衣装やお面は手作りです。

61、キンシャシャの奇跡(モハメッド・アリ)

2007年10月30日 | Weblog
1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式、病気のため震える手で聖火台に点火するモハメッド・アリの姿に世界中の人が感動しました。
そのときまで点火者は秘密にされていました。
聖火を運んできたジャネット・エバンス(女子水泳選手:オリンピックで4つの金メダルを獲得している)から聖火を受け取ったその手はパーキンソン病で震えていました。
何とか火を点け、聖火が燃え上がるとアリに向けて満場の観衆から割れんばかりの拍手が送られました。
(日本のテレビは「感動で手が震えている」と間違ってアナウンしていましたが、この演出を知らなかったので無理もありません。)
モハメド・アリはケンタッキー州ルイビル出身、身長188cm、リーチ203cmで本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアですが、後にイスラム教へ改宗し「モハメド・アリ」と改名しました。
1960年のローマ・オリンピックでライト・ヘビー級の金メダリストを獲得し、プロに転向するや無敗でヘビー級世界チャンピオンになっています。
その後は様々な困難を乗り越えて、3度タイトル奪取に成功し、通算19度の防衛を果たしました。
ボクシング史上屈指の偉大なチャンピオンの一人で、その歴史は伝説となっています。

アリは3度奇跡を起こしています。
1度目はソニー・リストンに挑戦して、初めて世界チャンピョンになったとき(1964年2月25日)
リストンは最強のチャンピョンと言われ、リストンの圧倒的有利とみられていました。
アリはプロ転向後、無敗でリストンに挑戦しましたが、まだリストンには敵わないだろう、と見られていました。
身体も細く、ローマ・オリンピックで金メダルを取ったときもヘビー級ではなく1階級軽いライト・ヘビー級でした。
しかし、大方の予想に反してリストンを7ラウンドTKOで倒し、世界ヘビー級タイトルを獲得しました。
世界チャンピオンになってからのアリは破竹の勢いでタイトルを防衛していきます。
その頃のアリはまさに無敵でした。

ヘビー級のボクサーは丸太のような腕で重いパンチを叩き込むのが普通でしたが、アリのパンチはスピードと切れがありました。
それ以上に人々を驚かせたのはヘビー級の常識を破る軽快なフットワークでした。

しかし、1967年に兵役拒否のため、世界ヘビー級タイトルを剥奪され、ボクサーライセンスも失い、その後3年間試合を禁止されます。
絶頂期でタイトルを剥奪され、3年間のブランクはボクサーにとって致命的で再起は不可能だと思われました。
しかし、1970年10月26日に世界ヘビー級1位のジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3ラウンドTKO勝ちして再起を果たしますが、その身体は太くなり以前の「蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly, sting like a bee)」と形容された華麗なフットワークは影を潜めてしまいました。
1971年3月8日にジョー・フレージャーのもつ世界ヘビー級タイトルに挑戦しますが、15ラウンドに左フックでダウンを奪われるなど、判定負けし初めての敗北を喫しています。
終生のライバルとなった、ジョー・フレージャーとは3度対戦し、2勝1敗でした。
特に、"Thriller in Manila"と命名された3度目のフィリピンでの対戦は、両者死力を尽くし、形勢が何度も逆転した名試合で、ボクシング史上最高の試合の一つと言われています。

2度目の奇跡はいわゆる「キンシャサの奇跡」と呼ばれる伝説の試合です。
1974年10月30日、アフリカのザイールでジョージ・フォアマンを8ラウンドKOで倒し、1967年に剥奪された世界ヘビー級タイトルを7年振りに獲得しました。
ジョージ・フォアマンは史上最強のハードパンチャーといわれていました。
このときもフォアマン有利とみられ、アリは倒されるだろうと見られていました。
全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最強のハードパンチャー、フォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」と呼ばれています。
この試合でアリはたくみに相手のパンチをかわし、空振りさせることでフォアマンの体力と精神を消耗させる一方、ロープを利用して自らの体力は温存するという作戦をとり、見事な勝利をおさめました。
相手に打たせるだけ打たせて疲れを待ち、一瞬の隙を突いて倒しました。
アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけていました。
以降の試合でもこの戦法を多用する一方、相手のパンチを被弾することも多くなり、後年のパーキンソン病の遠因ではないかと言われています。

39、エルビス・プレスリー”で書きましたが、アメリカに行ったらぜひ見たいと思っていたことの1つがモハメッド・アリの試合でした。
1977年頃だったと思いますが、ニューヨークのマディソンスクェアー・ガーデンでの試合を見ることができました。
対戦相手は覚えていませんが、この試合でもアリは"rope a dope"を多用し、かつての「蝶のように舞い、蜂のように刺す」フットワークは見られませんでした。
判定で勝利しましたが、パンチの数は相手が圧倒していたので、私の印象では“?”という感じでした。

3度目の奇跡はレオン・スピンクスに判定勝ち(1978年9月15日)し、WBAタイトルを奪回し3度目の返り咲きを果たしました。(同じ年の2月にタイトルを失っていた)
全盛期を過ぎたアリの執念の世界タイトル獲得で、その後タイトル返上しています。
アリは史上初めて、3度ヘビー級の世界タイトルを獲得したチャンピョンです。
1981年引退。

そして今、自らの病との闘いに4度目の奇跡を起こそうとしています。

60、自由の女神

2007年10月28日 | Weblog
ニューヨークにある自由の女神像はアメリカ合衆国独立100周年を記念してフランスより贈呈されました。(1886年10月28日完成)
自由、民主主義の象徴であるとともに、19世紀末以来絶えることなく世界各地からやってくる移民にとって、新天地の象徴ともなっています。

最近は飛行機でアメリカに入国する人が多くなりましたが、以前は大西洋を船で渡ってきました。
その人たちの目に最初に飛び込むのがニューヨーク港に立つこの像です。
その姿ははるばる船でやってきた移民たちにとって、まるで自分たちを迎えてくれる希望の女神に見えたでしょう。
これからの生活に不安を抱えた人たちに勇気を与えたことと思います。

すぐ近くにはアメリカ合衆国の入国管理センター、エリス島があります。
世界各地からアメリカンドリームを夢見て集まった移民達はまずこの島で審査を受け、 移民局をパスしてやっとアメリカ入国ということになります。
現在は「エリス島移民博物館」として当時の様子を伝えています。

自由の女神像はマンハッタンの南、ニューヨーク港に浮かぶ小さな島ベドロー島(リバティ島)に立っています。
像の高さは46.05m(152フィート)、台座部分も含めると93m(305フィート)で重さは225トンです。
右手にたいまつ(a torch)を掲げ、左手にはアメリカ独立宣言の日「1776年7月4日」をローマ数字で刻印した銘板(a tablet)を持っています。
頭にかぶっている王冠の7つの突起 (spoke) は7つの大陸の7つの海に自由が広がるという意味があります。
足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、女神がこれを踏みつけています。
これは弾圧、暴政からの解放を象徴しています。
1984年に世界遺産(文化遺産)に登録されました。
マンハッタンの最南端にあるバッテリー公園、またはニュージャージー州のリバティー州立公園からフェリーに乗って自由の女神像のあるリバティー島に行きます。

以前は女神像の中を171段の螺旋階段を冠部分まで登ることができ、そこにある窓からニューヨークを眺めることができました。
北側にダウンタウンの摩天楼群、東にブルックリン、クイーンズ、西にニュージャージー州が見え南には大西洋が広がっています。
しかし、アメリカ同時多発テロ以降は閉鎖されてしまい女神像の中に入ることはできません。
観光客が上がることのできるのは台座頂上部の展望台までです。
女神像内部の見学は今後も再開しない方針になっています。
台座部分はアメリカの移民の歴史の博物館になっていてます。
また、女神像建築の様子を伺うことができます。

リバティー島には何十回も行きました。
リバティー島からマンハッタンを眺めると海に浮かぶ島、または巨艦のように見えます。
南端に2基のタワー(ワールド・トレード・センター)が美しくそびえていましたが、テロによって崩壊してしまいました。
私が働いていたそのトレード・センターのオフィスからは、真南に見え、キラキラ輝く水面に浮かぶ女神像が美しく、毎日眺めていました。

59、レディオシティ・ミュージック・ホール

2007年10月27日 | Weblog
ロックフェラーセンター内、6th AveとW.50th Stの角に建つ娯楽の殿堂です。
コンサートやライブ、映画、テレビのイベントなど、あらゆるエンターテイメントが提供されています。
有名スターの公演も行われ、年間200万人を超える観客動員を誇っています。
5933席収容の世界最大のホールで、毎年6月のトニー賞の授賞式もここで行われます。
豪華なアール・デコ様式の内装やステージ周辺の美しさは一見の価値があります。
中を見学するツアーもあり楽屋や舞台裏を見るのも興味あります。

しかし、何といっても有名なのは1933年から続く「クリスマス・スペクタキュラー」で、ニューヨークの冬の風物詩になっています。
クリスマスシーズンに行われる有名なロケッツ・ダンス(ライン・ダンス)は、華やかで豪華なショーです。
このロケッツ・ダンスは夏にも行われ、公演ごとにオーディションでロケッツ・ガールが選ばれます。
“身長165~167cm、足が長く、連続20回、目の高さまで足を上げることができる女性”が受験資格です。
日劇、宝塚、SKDなどのライン・ダンスの本家です。
私も何度か見に行きましたが、スタイル抜群のダンサーが踊るライン・ダンスは足の高さも揃い、一糸乱れぬ踊りを見せてくれます。

写真はベッド・ミドラーのショーが行われていたときのものです。
ベッド・ミドラーは歌手で女優です。
エミー賞、ゴールデングローブ賞の受賞者で、歌手としてもグラミー賞を受賞しています。
1979年「ローズ」でジャニス・ジョプリン(27歳で夭逝した伝説のロックシンガー)をモデルにした映画で主人公を演じ、アカデミー賞にノミネートされました。
この映画はアメリカの映画館で見ましたがミドラーの熱演が印象的で、日本に帰ってからも何度かビデオで見ました。
映画の主題歌「The Rose」も好きでカラオケでよく歌います。

58、マンハッタンの真ん中でスケート

2007年10月26日 | Weblog
マンハッタンの真ん中にロックフェラーセンターがあります。
東西は5番街からと7番街にかけて、南北は48丁目から52丁目までの長方形のエリアで、21のビルで構成される巨大なビジネスコンプレックスです。
センター内で働く人は65,000人で、オフィスや銀行、レストラン、ショップなどが数多くあり、ビジネスマンばかりでなく、買い物客や観光客でいつも賑わっています。
その中心に立つ一番大きいGEビルディングは、高さ259m、70階建てで、その正面前の中庭には「ロウアー・プラザ Lower Plaza」があります。
ここは5番街から西にやや奥まったとこあり、ラッパを吹く天使像見ながら「チャネル・ガーデンChannel Garden」を通って行きます。
春はイースターのフラワーガーデン、夏はオープンカフェ、冬はスケートリンクとして訪れる人を楽しませてくれます。
ロウアー・プラザはその名のように1段低くなっているのでスケートをする人やカフェでお茶を飲む人を上から眺めることができます。
正面には国連加盟国の国旗がはためき、金色に輝くプロメテウス像があります。
12月のクリスマスのシーズンには巨大なクリスマス・ツリーが立てられ、冬のニューヨークの風物詩になっています。

万国旗のはためく中クリスマス・ツリーをバックにして、多くの人の注目を浴びながら滑るスケートは格別です。
スケート靴を貸してくれるので旅行の途中でも大丈夫です。
10月から4月までオープンしているのでニューヨークに行った時はトライしてみてください、良い思いでになると思います。(値段は8ドルくらい)
ロウアー・プラザのすぐ南には日本の紀伊國屋書店があります。

GEビルの65階にあるレインボウ・ルームは、マンハッタンの夜景が楽しめる人気レストランです。
6番街と50丁目にある「ラジオ・シティ・ミュージック・ホール」は全米最大の室内劇場で、夏とクリスマスシーズに行なわれるロケット・ダンスは有名で、映画のプレミアもよく行なわれます。

57、自転車がすずなり

2007年10月24日 | Weblog
ニューヨークでは自転車はよく利用されます。
仕事でオフィスtoオフィスの書類やファーストフードの配達などに使われたりします。
サイクリングを楽しむ人も多く、セントラルパークを走ったり、サブウエイに乗せて目的地に行く自転車をよく見ます。

しかし、うっかり停めておくと戻ったときに無くなっていることが多くあります。
自転車に付いている鍵では役に立ちません。
鎖の付いた鍵で木やフェンスなどに縛り付けておきます。

56、ワシントン広場の夜は更けて

2007年10月19日 | Weblog
昔、「ワシントン広場の夜はふけて(Washington Square)」という曲がありました。
1964年頃ヒットした曲で、出だしのバンジョーが印象的な曲です。
ニューヨークに行くまで”Washington Square”はワシントンDCにあるものとばっかり思っていました。
この公園はニューヨーク、グリニッジ・ビレッジの中心にあり、入り口にはワシントン・アーチがそびえています。
1889年、ジョージ・ワシントン初代大統領の就任100周年を記念して木製のアーチが建てられ、すぐに現在の大理石に建て替えられました。
5番街を南下するとこのアーチに突き当たります。
と言うより、5番街の始まりといったほうが良いでしょう。(マンハッタンは南から北へ発展していったので)
公園の東側にはニューヨーク大学があり、すぐ西にはジャズのライブハウスで有名なブルー・ノートがあります。
いつも若者が集まり、いろんなパフォーマンスが行われています。
曲のように夜がふけてもにぎやかです。
グリニッジ・ビレッジはその昔、イギリス人が住み着き「緑の村」グリーンウィッチ(Greenwich)と呼ばれるようになりました。
今も緑豊かで芸術家の多い町です。
You Tube
ワシントン広場の夜は更けて」ヴィレッジ・ストンパーズ

55、かぼちゃ狩り(ハロウィン)

2007年10月16日 | Weblog
10月31日はハロウィン(Halloween)です。
キリスト教の諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる伝統行事で、
諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになりました。
この日、子供たちは魔女やお化けに仮装し「トリック・オア・トリート(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えて近くの家を1軒ずつ訪ねて歩きます。
家庭では、カボチャのお菓子を作り、子供達は貰ったお菓子を持ち寄って、ハロウィン・パーティーを開いたりします。

ハロウイィンと言えば、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てた「ジャック・オー・ランタン」(お化けかぼちゃ)を思い出します。
大きなかぼちゃに刻み目を入れ、内側からろうそくで照らします。
怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うためハロウィンの晩、家の戸口に置きます。
最もハロウィンらしいシンボルです。

写真はハロウィンの準備のためニューヨーク郊外の農場にかぼちゃを買いに行ったときのものです。

54、マフィア来たる

2007年10月15日 | Weblog
1977年頃友人がニューヨークで魚のビジネスを始めました。
まだ日本食があまりポピュラーではなく、アメリカ人は生の魚を食べるという習慣がありませんでした。
1970年代中頃までは日本食のレストランもそんなに多くはありませんでした。(30軒くらいだったと思います)
刺身や寿司はニューヨーク在住の日本人が食べに行くものでアメリカ人はほとんど食べませんでした。
そんな中、その友人は「これからはアメリカでも魚が多く食べられるようになるだろう」と言って始めました。
彼は日本食のレストランに魚を卸し、自らレストランをオープンし魚屋も開きました。
それから数年、ニューヨークで日本食がブームになりました。
それにつれ彼のビジネスも大きくなっていきました。
そうなるとマフィアも黙っていません。
ある日フルトンの魚市場近くにある彼のオフィスにやってきました。
「自分たちのUNION(組合)に入れ」というものでした。

ニューヨークのビジネスはその出身国によって支配されています。(この件については後で書きます)
たとえば八百屋の90%は韓国人です。
魚関係のビジネスはイタリア、ギリシャ系が支配していました。
その友人は「ニューヨークでビジネスをするにはマフィアに逆らったらできない。」と言って翌日マフィアのオフィスに行きました。
彼はビジネスセンスもありましたが、度胸もありました。
「どうだった?」と聞くと「留守で誰も居なかった」と言って拍子抜けしていました。
彼らも魚のビジネスを始めた日本人が気なって様子を見に来たようです。
しかし自分たちの縄張りを侵すものではないと思ったのでしょう、その後は何も言ってきませんでした。
私も彼の仕事を手伝っていましたが、そのときオフィスにいなかったのでマフィアに会えず残念。

写真は魚市場、フルトンマーケットです。
日本の築地のような市場でマンハッタンの金融街近くにありましたが2005年にブロンクスに引っ越しました。



53、ベストショット

2007年10月11日 | Weblog
この写真はニューヨーク北部の田舎町をドライブしていたときに撮った写真です。
直前にスコールのような激しい雨が降って真っ暗になりました。
その後、雨が止み前方に虹が架かりました。
すぐ前に見えたのでこのまま進めば虹の下をくぐれると思いましたが、行けども行けども追いつくことができず、やがて消えてしまいました。
この一枚はアメリカで何千枚も撮った写真の中でも最高の一枚だと自負しています。