ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

198、ショック、寺田屋が

2008年09月28日 | Weblog
京都・伏見にある寺田屋は慶長2年創業の船宿で現在も旅館として営業されています。
薩摩藩の定宿で坂本龍馬も京都での定宿にしていました。
文久2年(1862)、島津久光の命により薩摩藩の尊攘派9名が殺害された寺田屋事件は良く知れています。
しかし、私にとって「寺田屋」といえば幕末の英雄・坂本龍馬が襲撃された船宿です。
慶応2年(1866)、寺田屋に滞在中の龍馬が幕吏に襲われ、暗殺されかけました。
龍馬が応戦した部屋にはピストルの弾痕や刀傷が残り、飾ってある掛軸には血痕が飛び散っています。
入浴中だったお龍さんが裸のまま階段を駆け上がって2階の龍馬に知らせたエピソードは有名です。
寺田屋事件直後に二人は結婚し、龍馬の傷の療養に薩摩を旅しますが、これが日本初の新婚旅行と言われています。
このとき龍馬夫妻の世話をしたのが篤姫の幼馴染みの小松帯刀です。
(大河ドラマでは薩摩時代の篤姫と小松帯刀は頻繁に会っていたように描かれていますが、当時の身分制度では疑問です。)

私は学生時代、”龍馬命”という感じで、龍馬にあこがれ、龍馬に夢中でした。
司馬遼太郎の「竜馬が行く」は5~6回読み、龍馬に関する本を読み漁りました。
本を読んだらその舞台になっている場所に行きたくなります。
龍馬の銅像が建つ桂浜にも行きました。
ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」で“月の浜辺で焚き火を囲み”と歌われている所です。
寺田屋にも行き、龍馬が襲われた部屋に泊まりました。
(この部屋は他の部屋よりも値段が高い)
上述のように、弾痕、刀傷、血痕が残っていますが、龍馬ファンにとってはたまりません。
その寺田屋が鳥羽伏見の戦で焼失し、現存する寺田屋は明治後期に建てられたものだというのです。
建物東側の庭には寺田屋が過去にこの位置にあったことを示す「寺田屋遺址」と書かれた碑があり、専門家たちは「多くの資料から現在の建物は明治後期に建てられた」と指摘しています。
また、地元の人は祖父の話として「東側の庭に昔の寺田屋は建っていた」と語っています。
当時の建物だと信じきっていた龍馬ファンにとってはショックです。
京都市も事実関係の調査に乗り出しました。
私が寺田屋に泊まったのが1969年頃で龍馬が襲われてから100年以上経っていて、建てられてからは150年くらい経っていたと推測されます。
当時の旅館、池田屋(新撰組が勤皇の志士を襲撃)、近江屋(龍馬が暗殺された)などが、とっくの昔に取り壊されているのに寺田屋はきれいでした。
もちろん、メインテナンスはしっかりしていたと思いますが、150年経っているわりには新しい感じがしていました。

1973年12月、アメリカに行く前に京都の霊山護国神社にある龍馬の墓に「これから行ってきます」と挨拶に行きました。
(隣には一緒に襲われた中岡慎太郎の墓があります。)
帰国して15年経ちますが、行こう行こうと思いながらまだ帰国の挨拶に行っていないので、いつも気になっています。
写真は桂浜に建つ龍馬像(1969年頃行った時に撮ったもの)

197、驚き、篤姫の籠

2008年09月26日 | Weblog
天璋院篤姫が13代将軍、徳川家定に嫁ぐときに乗ったと見られる籠がアメリカ、ワシントンDCのスミソニアン博物館で見つかりました。
「篤姫の籠」が、どうしてアメリカにあったのか?
明治維新の混乱期に日本の美術品などが海外に流出したようです。

スミソニアン博物館には何度か行きましたが、博物館、美術館、動物園など16の施設があります。
月の石や原爆搭載機「エノラ・ゲイ」などが展示されていて、一般市民に無料で公開されています。
美術館には日本や中国、インドなどのアジアの古美術品も多く展示されています。
一番印象に残っているのはスミソニアン航空宇宙博物館で見た、ライト兄弟が初飛行を行った飛行機です。
その他、1927年にリンドバーグが初の単独大西洋横断を行った「"Spirit of St. Louis」、
初めて音の壁を突破した機体「X-1」など歴史的な機体が多く展示されています。

196、空母イントレピッド

2008年09月25日 | Weblog
全長333メートルの世界最大の原子力空母「ジョージ・ワシントン」が、今日(9月25日)米海軍横須賀基地に入港しました。

ニューヨーク、マンハッタンの西端、ピア86(ウエスト46ストリートのハドソン川岸)に第2次世界大戦、ベトナム戦争などで作戦に従事した「航空母艦イントレピッド」が1982年から博物館として一般公開されています。
マンハッタンの名所の1つとなり、世界中から多くの訪問者を迎えています。
現役として作戦に参加したのは1941年から1970年までの30年間でした。
太平洋戦争ではレイテ沖海戦、硫黄島上陸作戦、沖縄戦などに参加し特攻機の体当たり攻撃により損傷を受けましたが、逆に多くの特攻機を撃墜し、大和の撃沈にも参加しています。
博物館では特攻機を撃墜する映像も見ることが出来ます。
また、マーキュリー計画やジェミニ計画で大気圏に突入したカプセルの回収船を務めています。

195、フラッシングホスピタルANDメディカルセンター

2008年09月24日 | Weblog
ニューヨーク市のクイーンズ区フラッシングにある病院です。
我が家から車で10分くらいのところにあり、お世話になりました。
3人の子供は皆ここで誕生しました。
私が結石になり、痛くてのた打ち回ったときもここに駆け込みました。

アメリカでは出産に父親が立ち会うのは当然で、私も3人の出産に立ち会いました。
出産後、日本では1週間ぐらい入院していると聞きましたが、アメリカでは翌々日には退院します。(1日に生まれたら3日に退院です。)
写真は長女が退院するとき病院の玄関で撮ったもので、日本人の友人が来てくれました。
日本での子育ては祖父母や両親が助けてくれますが、外国ではそれも期待できません。
友人や近所の人の助けが必要です。

194、完全なスフィアー

2008年09月23日 | Weblog
「174、歪んだスフィアー」で書きましたが、ワールドトレードセンター・プラザに建っていたスフィアーです、見比べてください。

写真は帰国する1年位前に撮ったものです。
1993年3月17日に帰国し、3人の子供の入学手続きに教育委員会に行きました。
4月の新学年が始まる3週間前に帰り、少し日本に慣れれば学校にも順応できるのではないかと思っていました。
教育委員会でその旨を話したら「明日から登校してください」と言われ、1週間だけ通いました。
この時、長女は5年生、次女は3年生で長男は4月に入学しました。
長女はすぐに6年になるので、カバンはアメリカの学校で使っていたものでよいか聞いたら「ランドセルを買ってください」との事でした。
1年しか使わないのに新しいランドセルを買うのも勿体ないな、と思っていたら近くに住む従姉妹が「娘が使っていたランドセルがある」と言うので借りて使いました。
アメリカはカバンも服装も自由なので「どうして?」とその融通のなさに驚いたものです。
写真に写っている長女は日本の中学を卒業したとき「アメリカに帰りたい」と言って、高校、大学はアメリカの学校に行き、今はシアトルに住んでいます。

193、グッバイ、ヤンキー・スタジアム

2008年09月22日 | Weblog
「127、ヤンキー・スタジアム」でも書きましたがその響きは私にとってアメリカの象徴のようなもので、ニューヨーク・ヤンキースの本拠地というだけでなく、MLBの「聖地」とも言うべき球場でした。

21日(日本時間22日)、現スタジアムでの最後の公式戦が行われました。(ボルティモア・オリオールズ戦)
昨年まで13年連続プレイオッフに進出していましたが、今年はその可能性もほとんど無くなり、今日の試合がここヤンキー・スタジアムでの最後になるでしょう。
1923年からヤンキースの本拠地として数々のドラマを演出してきましたが、86年の歴史に幕を下ろしました。
来季(2009年)からは、すぐ隣に建築中の新スタジアムが使用されます。
今年は最後の年ということで、オールスターゲームが7月15日に開催されました。
私はニューヨークに住んでいた20年間に、このスタジアムに100回くらい行ったと思いますが、シーズン終了後に取り壊されるのは寂しい限りです。
隣を走るハイウエイからスタジアムがすぐ近くに見え、いつも眺めていました。

ついにこの日が来ました。
現ヤンキー・スタジアムで行われる最後のゲーム。
試合前に開催されたセレモニーでは、スタジアムの開場時(1923年)に掲げられたペナントが持ち込まれ、かつての名選手が次々と紹介されました。
松井秀喜の名前をも呼び上げられ歓声を浴び、ヤンキー・スタジアムの歴史にその名を留めました。
セレモニーの最後を飾ったのは、ベーブ・ルースの娘ジュリアさんの始球式でした。

この日のヤンキースは序盤で2点をリードされますが3回、先頭の松井がチーム初ヒットをライト前に放って反撃の口火を切り、ジョニー・デーモン外野手の3ランで逆転します。
直後の4回表に先発のアンディ・ペティット投手が同点タイムリーを打たれますが、その裏にホセ・モリーナ捕手の2ランで勝ち越します。
7回にはジェーソン・ジアンビ一塁手の適時打などで2点を追加、最後は守護神のマリアノ・リベラ投手が締めくくって、7-3で勝利を収め「聖地」での最終戦を飾りました。
3時間5分のゲームが終わっても、スタジアムを立ち去る人はほとんどいませんでした。
選手たちはデレク・ジーターが先頭となってグラウンドを一周し、ファンの声援に応えましたが、その中に帽子を掲げる松井の姿もありました。
MLBの「聖地」での最後の試合に松井は「8番・指名打者」で9試合ぶりに先発出場し、3打数1安打、1得点を記録しました。
試合後ブライアン・キャッシュマンGMが、明日松井の手術が行われることを明らかにしました。
今季は怪我で不本意な1年でしたが、来季はヤンキースとの4年契約の最終年となるので松井にとっても正念場の年になります。

192、8年連続200本安打

2008年09月18日 | Weblog
17日マリナーズのイチロー選手がメジャー記録と並ぶ8年連続200安打を達成しました。
メジャーでの8年連続200安打は、ウィリー・キーラーが1894~1901年に記録して以来107年ぶりの偉業になります。
キーラーは身長5フィート4インチ(約163センチ)、体重140ポンド(約64キロ)の小柄な巧打者のようでした。
3バント失敗でアウトという野球のルールを作ったのはキーラーです。
小柄なキーラーが得意としていたのはセーフティーバントで、バットを短く持って執拗にバントヒットを狙っていました。
19世紀のメジャーリーグには“3バント失敗でアウト”のルールは無く、キーラーはラインぎりぎりにバントを転がし、投手に20~30も投げさせたこともあったようです。
キーラー1人に時間がかかりすぎるしゲーム時間も長くなってしまうので、1902年にルールが改正されました。
また、ボールをたたきつけるように打って内野安打を量産したそうです。
バットコントロールは天才的で俊足、強肩などイチローと共通するものがあったようですが、小柄なキーラーには長打力はほとんど無かったようです。
イチローは2塁打、3塁打が多く、時にホームランもあり、改めてイチローのすごさが分かります。
2004年にはシーズン262安打のメジャー記録を更新したイチロー、2009年には9年連続200本安打のメジャー記録を作ってもらいたいものです。

ロングアイランド(クイーンズ)からマンハッタンに向かってLIE(ロングアイランド・エクスプレス)を走っていると、ミッドタウン・トンネルに入る直前、左手に広い墓地が見えます。
ここを通るときいつも“広い墓地だなー”と思っていました。
ここ”カルバリー・セメタリー(Calvary Cemetery)”にキーラーのお墓があるそうです。
ケネディー空港からマンハッタンに向かうときもこのLIEを通ります。

191、DOWNTOWN

2008年09月16日 | Weblog
直訳すると下町です。
日本で下町というと庶民的な町という感じですが、英語の“DOWNTOWN”は少し意味が違います。
アメリカの地方の都市に行くと“DOWNTOWN”と呼ばれる繁華街があります。
そこには市庁舎、裁判所、デパート、さまざまな店、しゃれたレストラン、映画館などがあり、町の中心で人々はそこへ行くのが楽しみです。
昔(1964年)イギリスの女性歌手ペトゥラ・クラークが歌った「恋のダウンタウン」という歌がありました。(原題は“DOWNTOWN”)
「あなたが一人で、寂しくなったら ダウンタウンに行ってみよう!
そこには音楽が溢れ、ネオンが煌き、嫌なこともみんな忘れてしまうよ、だからダウンタウンに行こう!」
ダウンタウンには楽しいことがたくさんあり、夢と希望に満ちていて、そこに行けば悩みも忘れてしまうという歌詞で、軽快なリズムで歌います。
最近は日本もアメリカも郊外型の店が増えてきましたが、昔は娯楽もショッピングも“DOWNTOWN”が中心でした。

マンハッタンの“DOWNTOWN”はローワーマンハッタンにあるウオール・ストリートを中心とした金融街を指します。
これは地理的な関係を言って、南(下)をダウンタウン、北(上)をアップタウンと言います。
マンハッタンは南から発展していったので、初期の頃はこの辺りが繁華街で名実共に“DOWNTOWN”でした。
事実、この地域にはニューヨーク市庁舎、裁判所、ウールワース・ビルディングなどがあり、ワールド・トレードセンターもこの地域にありました。
(ウールワースは全米に展開する小売業の老舗の大手で、58階建の本社ビルはクライスラービルが完成する1930年までは世界1の高さを誇っていました。)
世界経済の中心、ニューヨーク証券取引所もあります。

190、長ーい貨物列車

2008年09月14日 | Weblog
ロサンゼルス郊外で12日に発生した通勤列車と貨物列車の衝突事故で24人の死亡が確認され、重軽傷者は135人に上った様です。(13日現在)
通勤列車には225人が乗っていて、今も車内に閉じ込められている人もいるようです。

1974年の夏テキサスを旅行しているとき田舎道を歩いていると線路がありました。
遠くの方に貨物列車が見え、線路の前に立っているとすぐ前を通過して行きました。
すぐ通過するだろと思っていたら、待っても待っても終わりません。
1両、また1両と続き、いつまでたっても終わらず、永遠に続く感じでした。
100両以上続いていて、私の感覚では15分くらいは続いていたように感じました。
映画「エデンの東」でジェームズ・ディーン演じるキャルの父親がカリフォルニアのレタスを冬場に東海岸へ出荷する事業(コールドチェーン事業)を発案しますが事業は失敗してしまいます。
レタスを大量に貨物列車に詰め込み東部へ輸送するシーンがありましたが、あんな感じでした。
最近は貨物列車での荷物の輸送はトラックに押されていますが、以前は列車での大量輸送が盛んでした。
最近のガソリン価格の高騰で列車での荷物輸送が見直されているようです。

189、9.11から7年

2008年09月11日 | Weblog
2001年9月11の同時多発テロから7年がたちました。
このブログでも何度か書きましたが、ワールド・トレード・センターが崩落する映像は今も強烈な印象として残っています。
2007年にイギリスで行われた調査で、過去50年間で最も記憶に残るテレビ映像として、ワールド・トレード・センターのツインタワー崩落が1位に選ばれています。
(2位はダイアナ元皇太子妃の葬儀)
イギリスで1位になったので、アメリカで同じような調査が行われれば間違いなく1位に選ばれるでしょう。
トレードセンターはNO,1とNO,2のツインタワーが有名ですが、他に5つのビルがあり、7つのビルに囲まれた中心に大きなプラザ(広場)がありました。
「174、歪んだスフィアー 」でも書きましたが、トレードセンターで働く人たちの憩いの場で、昼休みにはランチを食べる人で賑わっていました。

写真はワールドトレードセンター・プラザで遊ぶ息子。