ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

109、ロス疑惑

2008年02月26日 | Weblog
いわゆるロス疑惑の元輸入雑貨会社社長三浦和義容疑者が22日午後(現地時間)、サイパンで逮捕されたと聞いて、「え!、まだ捜査が続いていたの」という感じです。
1986年か87年に1時帰国していたときに日本中ロス疑惑のニュースで溢れていて、マスコミは連日そのニュースを流していました。
三浦被告の妻(その後離婚)が、しつこく取材するマスコミに対してホースの水をかけているテレビの映像が印象に残っています。

ニューヨークに帰ってすぐロスに飛びました。
ロスで旅行会社を経営していた友人に現場となった駐車場に連れて行ってもらいました。
そこは広い駐車場でサッカー・フィールド5枚分もあろうかと思える広さで、舗装されていない土の駐車場でした。
周りにはビルが並んでいました。
私が行ったのは何曜日だったか覚えていませんが、車の数は図よりも少なくガラーンとしていて広さばかりが印象に残っています。
その駐車場の端が銃撃の現場で、隣の敷地(駐車場?)が一段高くなっていて、現場は土手の下のようになっていていました。
土手の高さは2メートルくらいあり、草や木が生えていて死角になっていました。

アメリカでは殺人事件には公訴時効はありません。
未解決事件として捜査が続いていたようです。
管轄内で起こった殺人事件に対して、ロス市警の名誉にかけて解決するという執念を感じます。
銃撃事件があったのは1981年の11月で、同じ年の8月にも亡くなった一美さんがホテルでハンマーのようなもので頭を殴られ負傷しています。
殴打事件のあったホテル「ニューオータニ」も近くのリトル東京にありました。

図は20年以上前の記憶を基に描いてみました。


108、ワルキューレ

2008年02月24日 | Weblog
今日上野の東京文化会館大ホールで行われた、東京二期会のオペラ「ワルキューレ」を見に行ってきました。
ワーグナーの大作「ニーベルングの指輪」の中の一部です。
このオペラは音楽にして約15時間の作品で、4部に分かれています。
その中の1つが「ワルキューレ」で、2回の休憩を入れて3幕4時間でした。
「ワルキューレ」のテーマは兄と妹、父と娘、夫と妻の絆、すなわち「家族」です。
神々が中心の話ですが、私達にとって非常に身近で感動的な作品です。
特に第3幕は神々の長、ブータンが天界の掟故に最愛の娘を地上界に追放しなければならなくなった場面が1時間近く続き、
父と娘の心の葛藤が情感豊かに歌い上げられ涙を誘います。
4時間があっという間に過ぎてしまいました。

ニューヨークに住んでいたときはリンカーンセンターによく行きましたが、メトロポリタン・オペラを見たことはありませんでした。
その頃はオペラには全く関心が無く、オペラハウスはロービーに入っただけでした。
同じリンカーンセンターにあるエイヴリー・フィッシャー・ホールのニューヨーク・フィルのコンサートはよく聴きに行きました。
最近オペラに関心を持つようになって、時々見に行きます。

今朝起きたら吹雪で雪が積もっていました。
道はアイスバーン状態で駅に行く道には何台もの車が電柱にぶつかったり横向きになったりしていました。

107、アメリカ旅行の正道

2008年02月20日 | Weblog
私がアメリカを電車やバスで旅行していた1977年頃、オハイオ州のシンシナティで一人の日本人に出会いました。
23か24歳くらいの青年で、彼は自転車でアメリカ一周旅行をしていました。
私がバスで旅行していると言ったら、「アメリカ旅行の正道は自転車だ」と言って張り切っていました。
その時すでに1年くらい旅していて、あと1年は続けると言っていました。
その後、彼はニューヨークに来て定住し、アメリカ人の女性と結婚しました。
このように一人でアメリカ大陸を旅行している日本人は結構多く、当時はヒッチハイクもさかんに行われていました。
最近は危険も伴うのでヒッチハイクはあまり行われていません。

106、摩天楼

2008年02月17日 | Weblog
アメリカは世界の超高層ビル建設の先駆となり、シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルスなどの大都市では超高層ビルが密集しています。

摩天楼というとニューヨークのマンハッタンを思い出しますが、超高層ビルの発祥の地はシカゴです。
1885年に建てられたホーム・インシュランス・ビル(Home Insurance Building)は高さが54.9mで最初の高層ビルと言われています。
1871年10月8日夜シカゴ市内で発生した火災はミシガン湖からの強風で大火になり、死者250人以上、住居焼失者100,000人以上、17,400以上の建造物が全焼しました。
そのほとんどが木造建築でした。
それ以降シカゴ市は建築材料として耐火性の高い石や鋼鉄の素材を奨励し、シカゴのビル建設が始まりました。

その後、ニューヨークのマンハッタン地区でも超高層ビルが相次いで建設されるようになりました。
マンハッタンを横(東か西)から見ると超高層ビル群が二箇所に分かれているのが分かります。
一つはマンハッタンの南部で、ウォール街などがあるロウワーマンハッタンで金融街として知られています。
もう一つはマンハッタンの中央部で、エンパーアステート・ビルやクライスラー・ビルなどがあるミッドタウンです。

シカゴは1910年代以降、ニューヨークにビルの高さ争いで世界一の座を奪われていましたが、シアーズ・タワー(Sears Tower:442.3m)が1974年に完成し、世界一の座をニューヨークから奪還しました。
現在、シアーズタワーは世界第3位ですがアメリカでは第1位の高さを誇っています。
その他、個性的な高層ビルが林立し、ニューヨークに勝るとも劣らない摩天楼を築いています。
摩天楼(スカイスクレパー・skyscraper)の名前も1889年、新聞などでシカゴの高層建築に対して最初に使われました。
また、シカゴはアメリカ大陸横断鉄道の始発(終着)駅、ユニオン・ステーションがあり、私もシカゴからサンフランシスコやロスアンゼルスへ向け出発しました。

写真はシカゴの摩天楼で、左端の高いビルがシアーズ・タワーです。

105、シアーズ・タワー

2008年02月13日 | Weblog
私が初めてシカゴを訪ねたのは1974年の秋でした。
シカゴの町を歩いていると突然巨大なビルが目に入りました。
とてつもなく高く、黒く光っていて圧倒されました。
近くの人に聞くと「シアーズ・タワー」と教えてくれました。
私はその時までシアーズ・タワーなるものを知りませんでした。
しかも、そのビルは世界一の高さだというのです。
それまでニューヨークの「ワールドトレード・センター」が世界一高いビルだと思っていました。

シカゴ周辺にはシアーズを中核とした巨大なショッピング・モールが沢山ありました。
最近は日本でも大型ショッピング・モールができてきましたが、私が渡米する以前の日本では見られませんでした。
モールはデパートのシアーズを中心に大小の店が100以上もあり、あまりの大きさに迷子になりそうでした。
「シアーズ」は当時世界最大の小売業グループでした。
1990年代に入って拡大した事業の不振、KマートやWallマートなどの競争相手の進出などもあって業績が落ちていきます。
繁栄のシンボルであった本社ビル、シアーズ・タワーも売却されましたが、その名前は今も残っています。

シアーズ・タワーはシアーズの本社ビルとして1974年に建設されました。
屋根部分の高さ442m(アンテナ含めると529m)、110階建ての威容で建設当時は世界一の高さを誇っていました。
1997年にマレーシアのペトロナストゥインタワーが完成するまで、「世界で一番高いビル」の座を23年間守りました。
現在は、台湾の台北101が世界一の高さです。
(台北101は屋根部分448m・尖塔含めて508mで、アンテナを含めるとシアーズ・タワーが21m高く、見方によっては世界一です。)
2008年に完成予定のUAEのバージュ・ドバイは台北101を遥かにしのぐ700メートル以上の高さになると言われています。
トレードセンター跡地に建設が予定されている「フリーダム・タワー」の高さは、アメリカ独立の年にちなみ1,776フィートで、本体が約415m、尖塔部分含め約541mになります。

シアーズ・タワーは現在もアメリカで一番高いビルで、シカゴの超高層ビル群のランドマークになっています。
103階のスカイデックは412メートルの高さにありエレベーターで1分足らず昇ります。
360度の大パノラマが開け、北側には五大湖の一つミシガン湖を望み、周辺にはシカゴの超高層ビル群がそびえています。
見晴らしの良い日にはイリノイ、インディアナ、ウイスコンシン、ミシガンの4州を見渡すことができ、60~80キロ先まで肉眼で見ることができます。
広がる大地の先に地平線を望むことができ、風が強い日にはビルが揺れているのを感ずることができます。

1973年の12月にアメリカに行って最初に観光したのがワールドトレード・センターでした。
同じ年の4月4日に落成式が行われたばかりで世界一の高さでした。
翌年の1974年に完成したシカゴのシアーズ・タワーに世界一の座はすぐに奪われましたが、
ニューヨークの新しい観光名所となりニューヨークのシンボルとしてそびえ、多くの映画やテレビドラマの舞台にもなりました。
シアーズ・タワーに昇ったのは1974年秋で、完成したばかりで世界一の高さでした。
エンパイアステート・ビルに昇ったのは1973年で、長い間世界一高いビルとして知られていましたが、このときは前年に完成したトレードセンターに世界一の座を譲っていました。

104、ニューヨークの灯台

2008年02月12日 | Weblog
1974年から1985年頃まではよく旅行に行きました。
特に独身時代の70年代は3ヶ月に1度くらいは旅に出ました。(まさに、寅さんです。)
私が良く利用したのはバスと電車で、車ではあまり遠出はしませんでした。
バスや電車は日本の周遊券のようなパスがあって1週間とか2週間乗り放題でした。
「グレイハウンド」や「コンチネンタル」のバス会社、「アームトラック」の鉄道会社が発行していて、1週間200ドル、2週間300ドル位だったと思います。

「今度は何処へ行こうか」と地図を見ながら計画を立てるのは楽しいものです。
アメリカは広大ですがバス路線はかなり細かく組まれていて、田舎の小さな町にも行くことができます。
不思議なもので、行く前はうきうきと楽しく計画を立てますが、1週間もするとニューヨークが恋しくなってきます。
あの雑踏が懐かしくなります。
そして、旅行を終えニューヨークに向かうバスの窓からマンハッタンのビル群が見えると「ああ、帰ってきたんだ」とほっとしたものです。
まさに“ふるさと”に帰って来たように感じました。(寅さんにとっての柴又のようです)

そのビル群の中でも真っ先に見えるのがマンハッタンの南端に建っていたワールド・トレード・センターでした。
マンハッタンはアメリカ大陸の東の端に浮かぶ島です。
大陸からマンハッタンに向かうバスはニュージャージー・ターンパイクを北上しリンカーン・トンネルを潜って42ndと8thAveの「ポートオーソリティー・バスターミナル」に着きます。
ニュージャージー・ターンパイクを北上するバスからは必然的にトレードセンターが最初に目に入ります。
それは、まさに灯台のようにそびえていました。
そのトレードセンターが今は無くなってしまい、マンハッタンの風景も変わってしまいました。

いつも私を迎えてくれたトレードセンターで、その後自分が働くことになるとは当時は思っても見ませんでした。
(トレードセンターでは1986年から帰国する1993年まで働きました。)
  *ニュージャージー・ターンパイクは州間高速道路I-95の一部でニュージャージー州での呼び名です。

103、エッグドロップ・スープ

2008年02月10日 | Weblog
102、チャイナタウンの正月”でも書きましたが、アメリカでは中国系アメリカ人が勢力を拡大し、いろんな分野で活躍しています。
目に付くのはテレビのキャスターで、各局で活躍しています。
特に女性キャスターはアンカー・ウーマン(総合司会・メインキャスター)もいます。
テレビニュース番組の彼女たちはアメリカで生まれアメリカ人として育ったので完璧な英語を話しますが、白人のキャスターに比べ英語が聞き取り易い気がしました。
言葉をはっきり、丁寧に話しているように私は感じました。(同じ東洋人ということで親しみやすいのかもしれません。)

中国系アメリカ人はチャイナタウンを作って一緒に住んでいる人が多くいますが、アメリカ全土に住んでいます。
私が全米を旅行していたとき(1974~85年頃)、とても助かったことがあります。
1週間、2週間と旅をしていると、食事はハンバーガー、ビザ、ホットドッグなどが続いて飽きてきます。
そんな時、どんな小さな町に行っても必ずチャイニーズ・レストランがありました。
テーブルのある綺麗なレストランもありましたが、私が利用したのはテイクアウト専用の小さな店です。
焼きそばやチャーハンなどが2~3ドルで腹いっぱい食べられました。
特に気に入っていたのが、エッグドロップ・スープです。
醤油味のスープに半熟卵を散らしたもので、ハンバーグに飽きたときには本当に美味しく感じました。
時々自分で作ってみますが、なかなかうまくいきません。
卵が固まったりやわらかすぎたりして、あの微妙な触感がでません。

アメリカに中国人が来るようなったのは1784年頃です。
貿易商人やその船員たちで、数年で帰国し永住するひとはいませんでした。
アメリカ移住が本格化するのはアヘン戦争(1839-1842年)など、中国本土の荒廃が進んだ頃からです。
1848年頃から始まる西海岸のゴールドラッシュで金鉱採掘に従事するなどして、主に西海岸に住んでいました。
ゴールドラッシュの終りと共に仕事を失った彼らは、次に危険で過酷な大陸横断鉄道の建設工事に従事します。
安い賃金で過酷な労働に彼らは耐えました。
中国人労働者がいなければ大陸横断鉄道を始めとした、アメリカ大陸の鉄道網は大幅に遅れていたことでしょう。
しかし、その工事も1869年に終了し彼らは再び失業し、ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市に流入してチャイナタウンを作ります。
彼らの中には大都市に移住せずアメリカの隅々まで浸透して行く人もいました。
社会の底辺で手洗いの洗濯屋など英語が苦手でもできる仕事が中心でしたが、本国の料理を作って提供するチャイニーズ・レストランを始める人もいました。
これがアメリカ人に受け入れられ、アメリカ全土に広がっていきます。
今では誕生日や記念日などには家族でチャイニーズ・レストランに行くことも多く、アメリカ人に親しまれています。
チャイニーズ・レストランで必ずでるフォーチュン・クッキーも楽しみです。
日本のおみくじの様なものでクッキーを割ると中から出てきます。
フォーチュン(運勢)を占うものですが、深刻なものは無く当たり障りの無いことが書かれています。

102、チャイナタウンの正月

2008年02月07日 | Weblog
ニューヨークは人種のるつぼで世界中の移民やその子孫が住んでいます。
それぞれの移民は言葉の問題や生活習慣の違いなによって、どうしても同じ地区に住むようになります。
マンハッタン島の南部Canal St周辺にはアメリカ最大の中国人街があり一種独特な雰囲気があります。
ここでは新年を春節(旧正月)で祝います。
今年(2008年)のChinese New Yearは2月7日で、春節は一年で最大のイベントです。

アメリカのニューイヤーは元旦だけが休みで 2日から仕事ですが、Chinese New Yearのお祝いは2週間続きます。
昔は街中のいたるところで爆竹や花火でお祝いをする光景が見られましたが、最近は禁止されています。
パレードも行われドラゴンや山車が練り歩き、街には紙吹雪が舞います。

中国人移民がこの地に入植したのは1870年代後半で130年以上の歴史があります。
このチャイナタウンは現在も発展していて、すぐ北側の Little Italy や周辺に拡大しています。
第二次世界大戦で中国と米国は同盟国となり、中国系移民は「アメリカ市民」となることができるようになりました。
また、従軍した中国系移民は家族を呼び寄せることが可能となり、中国系移民が急増しました。
同じ様に朝鮮戦争後に韓国人移民が急増しました。

チャイナタウンの中心には孔子の像があり、周辺の建物や商店とマッチして中国本土に居るよう錯覚します。
写真はチャイナタウンを練り歩くドラゴンです。

101、凱旋パレード

2008年02月06日 | Weblog
ニューヨーク・ジャイアンツのスーパーボウル優勝パレードが5日行われました。
ニューヨークでは5番街やブロードウエイなど、いろんなところでパレードが行われます。
ほとんどのパレードがミッドタウンで行われるのに対し、ヒーローの凱旋パレードはダウンタウンのブロードウエイ(シティホールとバッテリーパークの間)で行われます。
映画「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名な、小型飛行機で大西洋無着陸横断したリンドバーグ、
人類初の月面着陸を果たしたアポロ宇宙船の飛行士アームストロング、オルドリン、コリンズ飛行士など。
第一次世界大戦、第二次世界大戦、湾岸戦争などの凱旋パレードもここで行われました。
リンドバーグの凱旋パレードでは1800トンという史上最大量の紙吹雪が撒かれました。
*万延元年(1860)の日米修好通商条約批准書交換のため渡米した、日本初の公式ミッション遣米使節団は、
アメリカの国賓として大歓迎を受け、ここブロードウエイでも盛大なパレードが行われました。 

この辺りはウオールストリートや証券取引所などがあるニューヨークと言うより、世界金融の中心街です。
沿道には高層ビルが並び、窓という窓からから紙吹雪が撒かれ空を舞い、英雄たちの頭や肩に降り注ぎます。
英雄たちがビルの窓の下を通過するときは人の波が歓声と共にヒーローを祝福します。
ビルで働く人達は仕事を抜け出して駆け付けます。
仕事をさぼって抜け出しても何も言いません、そんな野暮な上司はいません。
私は17年前(1991年)のジャイアンツのスーパーボウル制覇のパレードは沿道で英雄たちを迎えました。
このときはトレードセンター(グランドゼロ)で働いていたのでブロードウエイまで1ブロックです。
大リーグのヤンキースやメッツが優勝したときもここで祝賀パレードが行われます。

今回の凱旋パレードはニューヨークではワールドシリーズで優勝した2000年のヤンキース以来で、200万人が集まってスーパーボウル制覇を祝い、大フィーバーしました。

100、NYジャイアンツ\(^o^)/

2008年02月04日 | Weblog
それは奇跡としか言いようがありません。
形勢が何度も逆転する中、最後の4thクオーター残り35秒で逆転のタッチダウンを決めジャイアンツが17年ぶり3度目のスーパーボウルを制覇しました。
残り時間2分39秒で4点を追うジャイアンツの攻撃は信じられないようなプレイが何度も続きました。
その中でも極めつけは残り1分15秒QBマニングは自陣でペイトリオッツ守備陣に取り囲まれサックされそうになりました。
シャツを引っ張られながらも持ちこたえて投げたパスが32ヤードのロングパスとなり、逆転に繋げました。
自陣15ヤードからのこのドライブでは何度も絶対絶命のシーンがありました。
残り2分42秒でペイトリオッツのQBブレイデが逆転のタッチダウンを決め4点リードしたときは、今年もペイトリオッツの勝ちかな、と思いましたが。
ジャイアンツはチーム一丸となって逆転しました。

42回スーパーボウルはジャイアンツがペイトリオッツを17-14で降し、ペイトリオッツのレギュラー・シーズンからの連勝は18で止まり、72年シーズンのドルフィンズ以来となる史上2回目のシーズン全勝はなりませんでした。
それは歴史に残る好試合でした。
ジャイアンツのQB(クォーターバック)イーライ・マニングは昨季の兄ペイトン(コルツ)に続き兄弟でスーパーボウルを制覇し、最優秀選手(MVP)にも選ばれ、初の兄弟受賞となりました。

大リーグではヤンキースは2000年以降ワールド・シリーズの優勝が無く、メッツも低迷しているので、ジャイアンツの優勝でニューヨークは大フィーバーしていると思います。
明日(火曜日)、ニューヨークで凱旋パレードが行われます。

スーパーボウルに優勝したチームには、ヴィンス・ロンバルディ・トロフィーと呼ばれるトロフィーが与えられます。
名を冠されているヴィンス・ロンバルディはグリーンベイ・パッカーズの名コーチとして知られ、第1回、第2回のスーパーボウルを連覇しています。
ロンバルディ・トロフィーを高く掲げ喜ぶイーライの笑顔が輝いていました。
また、優勝チームのメンバーにはスーパーボウル・リングという指輪が与えられます。
この指輪をもつことはNFL選手にとって最高の名誉です

今季のジャイアンツはレギュラー・シーズンではもたつきワイルドカードでやっとプレイオフに出場できました。
しかし、プレイオフでのジャイアンツの戦いは目覚しく、次々と強敵を倒してスーパーボウル出場を果たしました。
スーパーボウルでもペイトリオッツ有利の予想を覆し劇的な勝利を収めました。

ペイトリオッツの司令塔のトム・ブレイディは今度勝てばQBとして4度目のスーパーボウル制覇となり、伝説のQBフォーティナイナーズのジョーモンタナ、スティーラーズのテリー・ブラッドショーに並ぶところでしたが、それは成りませんでした。
しかしブレイデはまだ30歳です。
そのチャンスはこれから何度もあるでしょう。

スーパーボウル (Super Bowl) は、ナショナルフットボール・リーグ(NFL)に所属するナショナルフットボール・カンファレンス(NFC)の優勝チームとアメリカンフットボール・カンファレンス(AFC)の優勝チームの間で争われます。
NFLの優勝決定戦で、アメリカンフットボールの最高の大会で、アメリカ最大のスポーツイベントです。
(日本のプロ野球がセ・リーグとパリーグに分かれていて、各リーグの優勝チームが日本シリーズで戦うのと同じ仕組みです。
アメリカのプロスポーツの多くはこの形式をとっています。
例えば大リーグはアメリカン・リーグとナショナル・リーグの2つに分かれていて、各リーグの優勝チームがワールド・シリーズで対戦します。
去年はこのワールド・シリーズでアメリカン・リーグは松坂大輔、岡島が所属するボストン・レッドソックスが優勝し、ナショナル・リーグは松井稼頭央が所属するコロラド・ロッキーズが優勝し、初の日本人対決が実現しました。)

ちなみにこの日(スーパーサンデー)は宅配ピザの注文が1年で最も多い日だと言われています。
ビールを飲み、ピザを食べながらスーパーボウルを見るのが多くのアメリカ人の楽しみ方です。
今年もピザ屋は大忙しだったことと思います。