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趣味の優劣について

2017-05-31 | 雑記
先日、後輩とある話をしていた。長くない話だが、その何日か前にも同じテーマを話していた気がする。

それは、「ゲームは趣味といえるかどうか」であった。

この場合のゲームは、件の後輩は、スマホやらアイホンでやる、モバイルゲームというのか、あれをやりながら聞いてきたもので、広義に言えば、テレビゲームともいえようか。

かなり前にもそのテーマで話をした覚えがあったのだが、その時も同じように言ったものである。

その内容はというと、ずっと昔に、何かで読んだ趣味のことについてのエッセイだったと思われる。それに則って、見解を述べたのである。

「趣味というのが高じれば、創作に向かっていくものだ。ゲームなら作るようになったりしていく」と。

後輩がそれに対して言う。

「ならば、ゲームをプレイするのは趣味にはならないのか」と。

書いた発言はそのものを記したものではないことをお断りしておく。

趣味にならないわけではないが、例えばコレクションの趣味なら、ゲームのキャラの装備やらレベルを上げていくのもコレクションの趣味とはいえようが、何にせよ、無いところから作り上げていくのが究極なのだろうと、そういう風に伝えたものである。

それに続いて、後輩の知り合いだとか、モバイルゲームで伝え聞く話で、例えば何かを手に入れるのに20万円ほど使ったとかいう話があった。

今ではそのアイテムは使い物にならないのだとかいうが、課金に文句言う奴に限って、ビタ一文払わなかったりするのは、拙が以前やっていたゲームでもよく聞いたもので、どこも同じなのだなと、感想を述べたものである。

実は以前に、その後輩には、アイクが語っていた「意識」(普通の意味での意識と区別するために、とりあえずカッコをつける)と物質の話を軽くして、その引き合いに、マケヒコのおっさんの話をしておいたので、課金についての所見を、こう述べておいた。

「そもそも全部幻なんだから、何につぎ込もうが、好きでやっているんだから、それでいいんだ」と。

大体、手に入れいるのに20万円かかっただけで、一回目で引き当てたり、2000円分で引き当てる人もいる。

当たらなかったものの僻みか、金を一円も入れないが故にそもそも手に入れることが叶わないものの遠吠えといえようか。


さて、別に課金の話をしたいわけではない。運営も慈善事業ではないので、払いたくなったら、自分が払える分で払えばよろしい。

余談だが、税金が義務なのは日本ぐらい、という話を何かで聞いた。アメリカの憲法だかの規定でも、「気持ちで払うもの」と書かれているのだとか。まあ、消費税はあるが。
神社の賽銭も税金も、果ては基本無料ゲームの課金も、同じ意味になってしまうとは、驚きである。

余談は措くとして、話を進める。


後輩に、趣味についての見解を述べたが、そもそもがとあるコラムの話が気に入っていたからである。

今でもそうなのだろうと思うが、かといって、創作にあらずんば趣味にあらず、とは思っていない。


また例の「意識」の話に戻すが、人間とその精神及びそれらを取り囲んでいる物質や現象は、一つたる「意識」から立ち現れているのだという。

歪曲するくらい噛み砕いて言えば、人間をやっているということ自体が、「意識」とやらの趣味なのだといえる。

そして、それは実に悪趣味だという見解を述べているのが、例えば仏陀だったり、イエスだったり、名前しか聞いてないのでよく知らないが、クリシュナだったりする。


一つの「意識」があれやこれやと見ているのか見せかけているのかは判らないが、こういう話を聞いたことはないだろうか。

人は、ある対象を好きなのはもしくは嫌いなのは、こういう理由だと述べるが、実際は好悪の理由は本人も判らない、言語以前のものだったりするのだと。


以前に書いた例え話で、上手く書けなかったが、改めて下手なまま書く。

ある漫画だとかアニメのキャラがいて、ひどく気に入ったとする。

それを描いたのは、ある漫画家だとかアニメーターになるわけだが、時代の流行だとかで、その作家が思いついて描いたというのは間違いはない。

しかし。一つの「意識」から本来は出来上がっているのがこの世だというのなら、実際は作家が単独で思いついたのではなく、それを気に入ったあなたが作り上げたのだと言えるだろう、とこう書いた。前はこの様に、重々しくは書かなかったが。


人間は「意識」の悪趣味という話に戻る。

蓼食う虫も好き好きという。悪趣味なつくりの人間というものに、ひどく愛着を持つのが我々である。

例えばダイエットして、綺麗になったからと、悪趣味なのが本質の人間という己を、素晴らしいものかのように信じ込む。

例えば瞑想だとか精神修養をして、本質は悪趣味でしかないのに、高邁な存在になったとうぬぼれる。

例えばベジタリアンになって、肉を食う人は頭がおかしいと、本質の悪趣味な自身のことは顧みず、他者を非難しては悦に入る。

そういう人が例えば、テレビゲームやったりだとか、服買ったりだとか、所謂一般的な生活の趣味を非難する。

己の悪趣味を棚に上げて。


もう一ついえば、一般的な趣味も、人間という悪趣味からは逸脱してはいないことを弁えておいて貰いたい。

それなので、人間が悪趣味だという事を理解しないでは、どのような生活をしていようが、悪趣味の域を超えることはないのである。

「このような生活をしているから、我々は悪趣味ではない」と信じたがるのが、そもそも悪趣味なのである。


一つの「意識」からの、言ってしまえばオンライゲームの運営が配信しているゲーム内の複数のイベントのうちの一つに現を抜かしているに過ぎないのに、「わたしの趣味のほうが高邁だ、見習え」と、やっているのである。
笑って欲しいのかも知れないが、笑えるところがない。

いかに己が高邁か、を人に見せようとやっきになる姿は、人間という悪趣味を如実に現し、そして当人はそれを素晴らしいと勘違いする。

それならば、そんな固定観念を無視して好きなことをやっているほうが、余ほど高邁なのである。

ビンのふた集めであろうと、筋トレであろうと、はたまたテレビゲームであろうと。


少し話がずれたが、もう少し。

趣味は創作になっていくのが流れ、と書いた。

しかし、先ほど書いた例えに則れば、実はすでに創作していることになる。

というわけで、趣味が創作になろうがゲームのプレイになろうが、何の違いもないといえる。

繰言になるが、高邁ぶって悪趣味をひけらかすよりは、好きなことに没頭しているほうが余ほど高邁である。

どちらにしろ、一つの「意識」が作った悪趣味な人間の、手慰みである。
やたらと恥じ入る必要はそも、ないが、だからといって、偉大な物だと勘違いするのもまた、どうかしている。


趣味が高じて創作へといたるというのならば、人間を「意識」へと創作するのが究極の趣味だと、仏陀だとかイエスだとが言っているわけである。

噛み砕きすぎな話なので、余り当てにしないように。


では、よき終末を。