ウヰスキーのある風景

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愛は面妖

2017-05-28 | 雑記
聞いたところによると、二十世紀の物理学が物質の本来の姿はなんなのかというのを見出したという。

二十世紀といっても間は百年あるが、その辺りはよろしい。前からずっと書いている話のことである。

波動といって、英語で書くとwave。波動で検索すると、科学用語としての波動と、オカルトとしての波動の二種類の説明が、Wikipediaに書かれていたりする。

その波動の動き方しだいで、肉になったり野菜になったり、犬になったり猫になったり、男になったり女になったり、昼になったり夜になったりしているわけである。
男がいきなり女になったり、その逆になったりというのは見たことがないので(性転換手術だとかそういう話でなく)、一応、現れたものは覆しきれないのだろうという約束の下で、世の中は動いているのだといえる。

これをどう説明するのか。三年くらい悩んでいた、というのは冗談だが、もっと詳しい人は判りやすく説明してようものだが、自分なりに噛み砕いてみようと。

その一端が、以前書いた、部屋のフィギュア眺めてたら口パクしてたり、腕やら身体が息をしているかのように上下しているという話である。

目がおかしくなった、薬でトリップした、と言うのならそれでも構わないが、精神に多大な影響を与える薬なんぞもってない。

目がおかしいというなら、ここで文章をまともに打てはしないと思う。

読みづらくて訳がわらかない、という評価なら、それはそれで仕方ないのだが、読める日本語の文章を書き込んでいるはず。


さて、しばらく前に、家の本棚にあった漫画を読んでいた。

なんという漫画か、というのは別に問題ではなく、そこにあった、よくある表現のことである。

敵の魔法使いだとかが、幻術で実体のない化け物を呼び出して襲わせるというものが、よくあるだろう。

それで、その化け物に噛み千切られたり、爪で切り裂かれたりと、襲われた人やら物がそうなる。

しかし、主人公だとか仲間だとかが幻覚だと見破って、「気をしっかり持て!」だとかやって、見事打ち払う、という展開は、見慣れたものかもしれない。

無論、切り裂かれてもないし、血も出ず、物も壊れていないのである。それで死んだと思い込んでいる脇役は、本当に死んでいたりするわけだが、見た目は壊されていないのである。


言ってしまうと、我々の日常もこれと同じ状態なのだと、物理学者の研究で発見されたというわけである。

嘘だ、指切ったら痛いだろうに。お前の先輩も心筋梗塞で死んだろうに、と言われるだろう。

無論、拙も指切ったら血が出て痛みを覚えるし、心筋梗塞になったら墓場に拘束されることになるだろう。

でも、これら全てが、幻覚の化け物なのだと。


波動というものの話に戻るが、以前、コメントで「記憶や感情も物質と変わらん」とやったものである。

野口晴哉もいうとおり、生物無生物問わず、気を発している。

気は物質以前の存在といっていたが、感情といったものですら、波動なのだというわけである。その波動の余波か何かかは知らねども、人間としての感覚で見聞きできる形として現れているのが、気だとかプラーナだとかいうわけなのだろう。


仏陀は、この世の有り様の根本は苦しみだと言っていた。

人が人たるというのは、苦しみの波動で作り上げられた悲劇の人形といえる。

苦しみでしかないものにすがりつくのが、そもそも間違いなのだという訳である。

いや、それはおかしい。世の中、人を喜ばせたりするものが色々あるではないかと、普通は思うだろう。

その喜ばしい物事自体が、苦しみの原因なのだと。愛するものをもつな、と言っていた。

愛するもの自体が、苦しみで出来ているのだと。その感情自体も、となる。


生の苦しみを抜けた先はつまり、人間を卒業するということになる。再び母の胎に入り込んで生まれることはない、と仏陀は述べていた。


以前に、「人間マイスター」とかいう妙なタイトルの記事を載せた。

なんたらマイスターは、昔放送していたガンダムのシリーズの用語から取った。パイロットの別称である。

つまり、我々は人間という名のモビルスーツに乗っているだけで、腕が千切れようが足がもげようが、関係ない。

もっと言えば、ラジコンなので、木っ端微塵になっても問題ないとなる。


しかし、我々は木っ端微塵になったラジコンが本体だと思って、またラジコンを買ってくる。

書いていて意味が不明になったが、デカルトの命題をもじっていうと、こうなる。

「我動かす、ゆえに我あり」と。本来はラジコンを操作しているほうが本体なのに、勘違いを起こしていると。


拙もいきなり、腕を切り落とされたら、生きた心地がしない。場合によっては死ぬ。

こういう話は、俄かには信じられない。書いている拙としても、実証できるとかそういうレベルにはない。

では、すぐに人はそう考えがちであるということを、卑近なレベルで例える。


この世界はヒミツケッシャの陰謀で云々、というのはここで書いてきた。陰謀論、と十把一絡げに言われている奴である。

実際に陰謀の結社がいるかどうかは、本来は関係がないのである。いないと言っている訳でもない。

人の不安を煽る存在が名を変え品を変えて示されているだけだからだ。

国は税金集めることばかり考えてるとか、企業は目先の利益に囚われて人の暮らす環境を破壊しているとか、別に結社である必要はない。

今の例えだけでも、「そんなわけないよ」という人は普通にいる。

とある方は、そういう一般的な、言ってしまえば怠惰な思考回路の大衆に腹を立てていた。

ついでに言うと、自給自足の生活に舵を取ろうとしなかった拙にも腹を立てて、怒鳴り散らしてきたものである。

などと書くと、特定してしまうことになるが、我慢していただく。


さて、とある方は、物質世界の本質は幻で、幻の約束事のうちで人を操っているのがこの世の中だと言っている活動家の本を翻訳しておいて、なんといったか。

「そんなわけないよ」であった。そう言った訳ではないが、覆しようがないので(と決め付けて)、森の中での自給自足の生活が正しい、と述べた。

他人の怠惰な思考に腹を立てる前に、己が怠惰を見直さなくてはならなかったのである。

何にせよ、他人ばかり見て、自身の姿を顧みなかったといえる。


人の姿とその思考と感情に愛執を抱くと、こうなる。


我々も、とある方を笑うことなど出来ないほど、怠惰なのである。

愛ゆえに、人は苦しまねばならぬ、と、昔の人気漫画の台詞にあった。

苦しんでいるのに苦しんでいると判らぬのが、幻覚の幻覚たる所以であり、それを仏陀は言っていたのである。


では、よき終末を。