ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

日輪の威光

2012-05-23 | 雑記
金環日蝕であった。タイムリーな話をタイムリーにやれないのは、偏に私の不徳の致す所でありまして・・・。

まあ、長く太くやっていこうかと考えている。短くても別に構わない。



キンカンキンカンというから、ミカンの仲間かと思ったのだが、日蝕というと怪奇な皆既だったり、これまた怪奇な部分だったりするのしか覚えがなかったせいである。キンカンについては冗談である。


「金環日蝕、あなたの地域ではこんな感じでしょう」とかいう気象庁だかなんだかのページを前の日に見たのだが、何が金環なのかそこで漸く腑に落ちた。



月が太陽の大きさより一回り小さく太陽を塞ぐので、月を丸く縁取った部分が金色になるから「金環」だと。その時そのページを見ながら「環の色がミカンのようだなぁ」とすっ呆けてたのはナイショである。



さて、テレビで日蝕の映像をごらんになっていた方もいらっしゃるはず。こちらとしてはテレビも仕事場でつけられた時しか見ない(見たくないが目に入る場所にある)ので、じっくり日蝕なんぞ観察することも叶わなかった。


それに、In Deepさんの言に従って、その日はカーテンを閉め切ってブログを書いていた。書き終わったら「そういえばそろそろ始るんだった」という程度の認識ではあったが。



テレビで日蝕を見ていたら月のように立ちはだかられた、という人はいるだろうかいないだろうか。そもそも、そのような方々はこちらと元の話をご覧になっていることはないであろうが、気にしない。


そこで敢えて、「月のように立ちはだかられた」もしくは、「度々立ちはだかられた。恐らくこれからも立ちはだかるであろう」という方々への打って付けの処方箋を案内したいと思う。



さて、あなたは金環日蝕の映像をご覧になっている。そこへあなたの骨肉が「月のように」立ちはだかる。


あなたがオットでその骨肉がツマなら、あなたはこう言うべきである。


「月がきれいですね」



今宵の月が真っ赤になれば成功である。真っ赤に燃えたのは太陽だが、我が家では月が真っ赤なのである、と。



そんな骨肉の著しい変化を気取るのなら、あなたはテレビなどという似非の金環に興味など持つ必要は無いのである。目の前に燃え上がるような輝く月を見るはずなのだから。



そして、テレビを消せば宴をするがよい。まだ望には遠いが(金環の日は朔である)、こう唱えるのだ。


「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」



続けて骨肉が「欠けたることも なしと思へば」と言うならば、この世はあなた方のものである。



さて、いくら今宵の次が見事な望を見せても、立ちはだかられた時に言うべきではないことがある。単純に順序の話だが。


サァ、今宵も月が上ったぞ!ええ、なんていうんだっけか。



「望月の欠けたることもなしと思へば」




これが小倉百人一首なら問題はないのだが、目の前の望月に言ってはならぬ。

日輪の逆鱗に忽ち触れることになるであろう。


「逆鱗に触れたのに襲い掛かってきたのは虎だった」などと言おうものなら、日の目を見られなくなるやもしれぬ。努々注意なされよ。



さて、骨肉が逆の場合も言っておく。


今宵も月が上ってきたぞ!なんだか立ちはだかっているようだ。ええっとこういう場合は・・・。



「月がきれいですね」




しかし、月は冬空で輝くかのように蒼ざめてしまった!



あなたは常々気にかけている、望月の欠けたることを不意に見てしまったのである。努々注意なされよ。



いやはや、わしも「月がきれいですね」と言う相手が欲しいところである。しかし、「望月」と相対してそう言えるかどうかは、今のところ判らない。では、また。